方源は水晶の長廊の中に立ち尽くしていた。
眼前には光華が流転し、四方の壁は透き通る水晶で出来ており、鏡の如く人影を映し出している。
方源が視線を巡らすと、後方及び(および)左右は壁に閉ざされ、前方のみが唯一の進路であった。
「遂に秘蔵閣へ辿り着いたか。」
方源の口元に微かな笑みが浮かんだ。彼は足を進め、前へと歩き出した。
水晶の長廊は細長く透徹しており、五歩も行かぬ内に、左右の水晶壁の中に無数の蛊虫や蛊方などが現われ始めた。恰かも琥珀の中に封じ込められた虫の如く、それらは静かに水晶の内側に存在している。
此れらは皆、秘蔵閣が収める奇珍異宝である。其れを手に入れんとすれば、相応しい価値の物と交換せねばならない。
「ふむ?此処に木道の天元宝王蓮がおるな。」
方源は徐ろに歩みを停め、眼前の水晶壁の中に、封印された見覚え有る蛊虫を認めた。
此の蛊は青と白の縞模様が入った満開の蓮華で、洗面器程の大きさがある。其の由来は非凡で、元蓮仙尊によって創り出された。
一連の組み合わせが存在し、三転の天元宝蓮、四転の天元宝君蓮、五転の天元宝王蓮、そして六転の天元宝皇蓮から成る。
中でも天元宝皇蓮は十大仙蛊の第六位に数えられ、其の価値は春秋蝉と互角である。現在は琅琊地霊の手中に在る。
方源は以前に天元宝蓮を一匹使用した事が有り、大きく彼の資質の欠陥を補い、非常に大きな助けと成った。然し此の蛊を更に昇進させ様とすれば、方源は対応する蛊方を欠くのみならず、合成練成の代償も高額で、一道の天然元泉を利用しなければならない。其の元泉は元力が飽満である必要で、長年使用されて底蕴の不足した元泉では役に立たない。成功した後は、其の元泉は完全に廢れてしまう。
ー四転元蓮に昇格するには、七基の元泉を廃てねばならぬ。五転に至っては更に九基、六転となれば十一基を要する。
此の数値は南疆等の地域の元泉に基づく。北原の元泉を利用する場合、少なくとも六割増しの消費となる。
方源が当時天元宝蓮を昇進させようとするのは、実に困難極まりなかった。況んや其の資質が大きく改善された為、彼は天元宝蓮蛊を断念したのである。
然し今、此の五转天元宝王蓮は、彼の心を惹き付けて止まない。
「天元宝蓮の系統は『移動元泉』と称される。一旦煉化すれば、天然の真元を産出する。三转天元宝蓮蛊は、最早我が用には合わぬ。然し五转天元宝王蓮は、正に現在の我が状態に適している。」
しかし此の天元宝王蓮を手にれるには、規矩に従い、方源は等価の宝物で交換せねばならない。
「其れでは暫く交えてみよう。」
方源は今、富に飽かし福地を擁する事、即ち蛊仙並みの資本を有すると言って過言ではない。
天元宝王蓮と交わんとすれば、他人にとっては身ぐるみ剥がされる大仕掛けなれど、方源に取っては、単に如何なる選択をするかという小問題に過ぎない。
「何を以て交わすべきか?」
方源は心神を二つの空竅に探り入れた。
空竅中の力道・奴道蛊は、無論交換に供することはできぬ。第一本命蛊である春秋蝉に至っては、取り出すことさえ叶わない。
しかし其れ以外にも、多種多様の蛊虫がごた混ぜに存在している。
此等の蛊虫の単独の価値は、無論天元宝王蓮には及ばない。然れど一匹で足りなければ、二匹、三匹と複数で交換に充てればよい。
「ふむ?此処に如何して十八顆の泉蛋蛊が?」
方源は第一空竅の中に、珍稀なる五転蛊が一団も増えていることに驚いて発見した。
しかし彼は直ちに其の理由を思い当たった。「我れも忘れる所だった。此れは上等突破の褒賞として、真陽楼が直接空竅に送り込んだものである。」
道理で言えば、蛊師の空竅は修行の根本たる最重要の秘所である。然し真陽楼は、流石が長毛老祖自らが煉製し、巨陽仙尊が布置しただけあって、蛊虫を直接蛊師の空竅に送り込むという途方もない威能を有するのだ。
斯くして、方源は納得したのであった。
泉蛋蛊は、天元宝王蓮には及ばないものの、同様に五转蛊である。
其の外観は白鳥の卵の如く、強力な蛋人皇を討伐して得られる。泉蛋蛊を地底深くに植え付けると、元水泉ノ眼が形成される。
元泉は蛊師の修行の根幹である為、大規模部族や家族は、不測の事態に備えて基盤を強化する為に泉蛋蛊を集める。例え蛊仙と雖も、自らの福地に元泉を設け万物を潤す為に、しばしば購入を求める。
方源は何の躊躇も無く、其の中から一匹の泉蛋蛊を取り出した。
然し此の蛊は出来が良くなく、卵の殻の表面には微かな裂割が広がっている。蛊の中には明らかな真元の痕跡が残っており、明らかに使用済みであった。
方源の双眸に鋭い光が一瞬走り、冷やかな笑い声が漏れた。「此の蛊は、飛手雪に掠奪された際に損傷を受けたようだな。八十八角真陽楼の突破報酬は、皆此の如き由来という訳か。」
巨陽仙尊は「家天下」という美夢を実現すべく、子孫の為の利益をも画策し、千古の大局を布置するに骨身を惜しまなかった。
先ずは王庭之争を以て他部族を弱体化させ、続いて十年雪災を利用し、北原各地の天材地宝を八十八角真陽楼に収奪した。
看官覚えよ、蛊師の修行は物資への依存度合が極めて大きい。
巨陽仙尊が八十八角真陽楼を設立したのは、正に釜底より薪を抽くが如き策である。物資を収奪して自家の血脈後裔に与え、他部族の台頭の希望を根絶やさんとするものだ。
方源が五百年の前世で経験した通り、中洲蛊仙たちが王庭福地を攻略した際には、正に此の真陽楼の特性を利用していた。
彼等は駒を派遣し王庭福地に潜り込ませると共に、意図的に蛊虫を撒き散らし、飛手雪に掠奪されるままに委ねた。最終的には真陽楼の内部から破壊を仕掛け、決定的な裂割を穿ったのである。
中洲蛊仙たちは王庭福地を破滅させた後、巨陽仙尊の邪悪な企みを曝け出し、広く世間に公表した。其れにより北原には大きな動揺が走り、民衆の怒りは天を焦がす程に沸騰した。
然し動揺は有れど、北原は依然として中洲に次ぐ第二の戦力を保っている。各超大勢力や黄金部族が連合して鎮圧に当たった為、北原の基盤は微動だにしなかった。
黄金部族による北原支配は長年に渡り、既に根を深く張り固められている。最早民衆の沸騰などでは揺るぎようも無いのである。
民意がどれほど大きくとも、武力の支えが無ければ塵芥同然である。
方源は手にした泉蛋蛊を水晶壁に近づけ、中に封印された天元宝王蓮に寄せた。
周辺の水晶壁は微かな赤光を放ち始め、続いて橙光が現れ、更には黄芒が輝いた。
赤・橙・黄の三光が交錯した後、動きは止んだ。方源は更に二匹の泉蛋蛊を取り出し、水晶壁に近づけた。
斯くして第四の緑色の光暈が煌いた。然し緑芒は他の三光に圧倒され、輝きを弱めていた。
水晶壁は実体から虚ろへと変容し、微かに震えた。中からは天元宝王蓮が悠々(ゆうゆう)と飛来し、一方方源の手の中の四匹の泉蛋蛊は制御を失い、水晶壁の中へ吸い込まれて天元宝王蓮の元の位置に納まった。
天元宝王蓮はゆるりと方源の掌中に落ち、彼は真元を吐いて瞬時くうちに煉化した。
八十八角真陽楼の威能は非凡で、楼中では蛊師が凡蛊を瞬間煉化できるのである。
「赤橙黄緑青藍紫黒……此の秘蔵閣には八種の基準が存在する。彩光が多ければ多い程、宝物の価値が高いことを示す。五转の天元宝王蓮が緑光に留まったということは、八基準の中では中程の位置に過ぎぬ。秘蔵閣は実に尋常ではない。収蔵されている宝物は極めて多いようだ。」
方源は心中で少し計算し、秘蔵閣の価値に対する認識を一層深めた。
彼は手を伸ばし、眼前の水晶壁を撫で回した。
掌からは、冷たい触感が伝わってくる。水晶壁の内側には、方源が払った代償——四匹の泉蛋蛊が収められている。
方源は試みにそれらを動かそうとしたが、微かな動きも見られない。
彼は心中で大きく感嘆した。
謙遜抜きに言えば、当今の天下において、方源の八十八角真陽楼への理解は、三本の指に数えられるほど深い。
其れは彼が琅琊地霊から得た詳細な情報を握っているからに他ならない。
方源は八十八角真陽楼を理知れば知るほど、此の楼閣の神業の如き技と絶妙な才情を肌で感じるのであった。
他は措いて、只だ眼前の水晶壁のみを語っても、其の来歴は大いなるものがある。
此の水晶壁は、当年長毛老祖が数万の蛊師を生剝ぎにし、秘法を以て彼等の空竅を抽き出し、其の空竅壁を主材とし、玄冰蛊・氷牆蛊・華玉蛊・緩更蛊・生機蛊など多種多様な蛊を合わせて煉製したものである。此の水晶壁は蛊虫を封蔵する絶好の場所であり、蛊虫は其中で自然休眠に落ち、数百年から千年もの間、毫も損なわずに保存される。
情報に記載されている所によれば、煉製された当初の水晶壁は、常に温潤とした水の如き揺らぎ光を放ち、人其中を歩けば夢幻の如き感じであったという。
今日に至っては、水晶壁は以前の風采こそ失ったが、未だ晶瑩剔透たるを保っている。
光陰は荏苒として流れ、水滴石を穿つ。
光陰の力こそ、最も宏大な天地偉力の一つである。
例え九転の尊き存在と雖も、時の流れには敗れる。真陽楼は仙蛊屋とはいえ、十年毎に頻繁に起動を繰り返すため、少なからぬ消耗を来している。
然るに、方源の前世において、八十八角真陽楼が中洲蛊仙たちに攻破される事も無かったであろう。
現在、水晶壁の輝きは失、壁際には薄らと水晶の粉が積もっている。
方源は先へ進み続けた。
水晶壁の中には、様々(さまざま)な蛊虫や蛊方、煉骨の奇材が封印されており、更には歴代の蛊師たちが遺した修行の心得が数多収められている。
此れら心得の経験は、誠に貴重である。秘蔵閣に到り得る者は皆、上等突破を成し遂げた人傑ばかりである。彼等が遺したものは、元より粗末な物など有り得ない。
更一きり歩き進んだ後、方源は足を停めた。
前方へと続く水晶の回廊は果てしなく遠く、其の先は見渡せない。然し一基の石碑が、方源の進路を阻んでいた。
石碑は四角四面で、方源の膝丈程の高さがある。其の表面には、北原文字で四文字が刻まれていた——「来客止歩」。
八十八角真陽楼は巨陽仙尊が設立したもの、其の子孫の為を思っての事である。然し秘蔵閣に進入する者が、皆巨陽の血脈を持つ蛊師とは限らない。
巨陽仙尊は此の点を考慮し、一層貴重な物資を石碑の彼方に布置した。常山陰の如き外者は、只だ宝物を眺めて嘆息する事しか出来ないのである。
然れども、方源は常山陰では無かった。
「来客止歩?ふん。」
方源は嘲るように冷笑した。
彼は先ず試みに石碑を越えようとしたが、無形の壁に阻まれて進路を遮られた。
「此れ程の歳月が流れても、八十八角真陽楼に消耗が有るとは雖ど、来客止歩碑の効能は未だ健在か。強行突破は叶わぬな。」
方源は一連の试探を終えると、石碑を正視して端坐した。
此度の行動は、長い時間を掛けて練り上げたものだ。当然、万全の準備は既に整えてある。
瞬くうちに、彼は一匹の蛊虫を取り出し、石碑の中へ射込んだ。
八十八角真陽楼を煉化する第一歩が、今、幕を開けた!