方源は全身が瞬間に緊張するのを感じた。塔楼に飛び込む刹那、一つの圧力が彼の身心を圧迫した。
しかし瞬くうちに、その圧力は消え去った。
彼は完全に真陽楼の内部へと入り、眼前に広がるのは一湖の水であった。
空は湛藍とし、湖面はきらめく波の光に満ち、周囲には朦朧とした青山の墨影が広がっている。
手に持っていた来客令は、冷たい鉄鋼の水と化わり、彼の指の間から零れ落ちていった。
来客令は一度限りの使用である。
方源は手を振って、鉄鋼の水を完全に振り払った。
彼は周囲を見回し、自らが湖の中心にある小島に立っていることに気づいた。傍には一人の人物が立っている。それこそが黒楼蘭であった。
「此処が第五十四の関だ。」
黒楼蘭は振り向きもせず、真っ直ぐ前方を見据えて言った。
「見よ、山陰老弟が突破せねばならぬ難題が彼方にある。」
方源が其の視線の先を見やれば、遥か遠くない所に、もう一つの小島が浮かんでいた。
其の島には、水蛇獅の群れが棲息している。
水蛇獅は、亮藍色の艶やかな体毛に包まれ、四肢には鋭い爪ではなく蛙の水掻きが付いている。尾は猛毒を持つ(つ)蛇と化わっており、或るいは獅子の背中に絡み付き、或るいは蛇体を反らせて真紅の舌を震わせている。
黒楼蘭が改めて説明するまでもなく、方源の脳裏には直ちに一股の情報が流れ込んだ──
「島に棲息する山椒魚を駆使し、水蛇獅の群れの防備を打ち破り、対岸の島を占領せよ。」
方源は視線を収め、改めて自身の立つ小島の縁を見渡した。
島を取り囲む碧藍の海の中に、果たして無数の山椒魚の影が揺れているのを認めた。
其の時、黒家の族員たちが次々(つぎつぎ)と現われ、黒楼蘭の傍に陣取った。
「水蛇獅にせよ山椒魚にせよ、皆中古時代の野生の生物よ。現今では東海の深淵にのみ棲むと聞く。」
或る家老が感懐深げに述べた。
「僭越ながら、此の関は極めて不公正と申さねばなるまい。水蛇獅は元来強力で、一頭だけで五・六匹の山椒魚に匹敵する。然るに我方の山椒魚の数は、獅の群れの二倍程に過ぎぬ。」
一人の黒家の族員が小島を凝視し、方源に難易度を説いて聞かせた。
「山陰老弟、ご心配無用。本次は腕試しが主だ。」
黒楼蘭は方源の肩を軽く叩きながら言った。
何しろ方源が統率するのは狼群である。然るに今回の相手は魚群、それも現世では稀で、北原では絶滅した山椒魚である。
黒旗勝は既に六、七度も失敗し、最良の戦績とて水蛇獅の三割を討ち倒したに過ぎない。此れにより黒家の蛊師たちは、此の関の難しさを骨身に徹して悟ったのであった。
常山陰は確かに奴道の大家ではあるが、此処は巨陽仙尊が設けた真陽楼なのである。
方源は暫し凝視した後、眉をひそめた。
内心で彼は冷静に見積もった。自らの実力のみで此れ等の山椒魚を操り、水蛇獅の群れを殲滅するのは難しくなかろう。寧ろ、板に釘を打つ如く確実なことと言って過言ではない。
しかし関を突破するのが容易に見えても、実は大いなる工夫が要る。
当初、巨陽仙尊が八十八角真陽楼を設立したのは、後世の為に伝承を遺し、才華に恵まれた後輩を褒賞する為であった。故に、真陽楼の各関における褒賞は、上中下三つの等階に分かれている。
下等突破は、最も少ない褒賞を得て、直ちに次の関へ進む。
中等突破は、下等より一倍余り多い褒賞を得、次関へ進む際には此の関に関する提示情報も得られる。
而上等突破に至っては、褒賞は中等の基礎に更に倍増するのみならず、闖関者を真陽楼深奥の「秘蔵閣」へと伝送するのである。
此の秘蔵閣の中には、無数の奇珍異宝が眠り、更には巨陽仙尊直伝の数多なる真仙伝承さえ蔵されている。
但し秘蔵閣内の品々(しなじな)は、無条件で持ち出せる訳では無い。闖関者は必ず交換の儀を行わねばならない。
蛊虫を以て交換するも良し、蛊方を以て換えるも可なり。例え自らの修行体悟や経験でさえも、交換品として用いることが出来る。
闖関者が交換を完うした後、初めて次の関へ進むことが許される。
黒楼蘭は下等突破で満足していた。第五十五関へ進むことが出来さえすれば良いのである。然し方源の要求は異なる。
彼は上等突破を必要としている。秘蔵閣に入り、其処で初めて孤独の身と化り、前以て準備していた手段を駆って最大の利益を獲るのである!
「下等突破は我が輩にとって易きこと反掌の如し。然れど中等・上等突破の基準は未だ知るところでは無い。今は唯力を尽くして試みるのみ!」
斯く悟り、方源は深く息を吸い込み、黒楼蘭に向かって微かに頷き、開始の合図を送った。
黒楼蘭は懐から一枚の令牌を取り出し、天空に向かって揺るがした。
此の令牌は来客令とは異なり、楼閣主令と称される。黒楼蘭が最初に王庭福地に入った時、突然天より授かったもので、其の尊貴な身分を表している。
楼閣主令が揺らめくや、空中に波紋が蕩ように広がり、数十匹の馭魚蛊が閃光と共に現われた。其れらは壱転・弐転・参転と、各階級のものが混じり合っている。
方源が此れ等の蛊虫を受け取り、軽く煉化した瞬間、他の者たちは無形の柔らかな力に束縛され、援護する事が出来なかった。
唯一人、黒楼蘭のみが尚も語ることができ、彼は助言した。「山陰老弟、時間に気を付けるが良い。此の関には茶一服分の時間しか与えられておらぬ。」
方源は軽く肯くと、掌を翻した。手中の馭魚蛊は、数十本の奇光と化って飛翔した。
其の無造作な動作に、衆人は心中驚呼した。
仮し此れが黒旗勝であれば、必ず一匹一匹選び抜き、慎重無比に指揮する事であろう。馭魚蛊を種付ける際には、蛊師は必ず魚群の反抗に遭い、少しでも気を緩めれば、飼い馴らすのに失敗する。最悪の場合、魂魄に迄反噬を受ける事さえ有り得るのだ。
「狼王は少し過信過ぎやしないか?」
「此ような獣馭しは未だ見たことが無い!」
「最悪だ……」
一同の胸は不安に掴れた。
然し瞬く間に、彼等の瞳は見開かれた。魚群は蛊虫を植え付け(つけ)られるや、静寂から躍動へと転じ、次々(つぎつぎ)と島の外れへ泳ぎ出して行った。恰かも初めから方源の下に属していたが如く、一匹として馴獸に失敗する様子は無かった。
水蛇獅の群れも此の異変に警戒を強め、懈怠した態度を一変させた。坐臥していた者は瞬く間に起立し、獅子頭は吼え、蛇頭は牙を鳴らして威嚇した。
数多の水蛇獅が水中へ躍り込み、水中防衛線を築き上げた。
其れに対し、方源は傲然と佇み、両手を背後に組んで微動だにしなかった。其の姿に表れた奴道の造詣と魂魄の深みは、見守る者全員をして暗嘆せしめた。
「只だ此の一幕を見ただけでも、眼が開かれる思いだ。」
「流石が狼王、奴道の大家と称されるだけのことはある。」
「大家たる所以、今回こそ一挙に成功するかもしれぬな。」
衆人の瞳には、期待の色が煌めいた。黒楼蘭さえも、満面の期待を浮かべて見守っている。
しかし魚群は、人々(ひとびと)が予想したように、真っ直ぐ対岸の水蛇獅の群れへ突っ走ることはなかった。其れより四方八方へ散り散りに泳ぎ巡り、絶え間なく警戒行動を続けている。
「此れは……狼王は何を企んでいるのだ?」
「狼王は慎重だ。魚群の習性を把握している最中と見える。」
しかし時は刻一刻と過ぎ去り、魚群は相変わらず悠々(ゆうゆう)と泳ぎ回っている。衆人は待ち焦がれながらも、一向に魚群と獅群の交戦は始まらない。
斯くしては、黒楼蘭でさえ、不安を募らせて促した。「山陰老弟、時間を急かれた方が良いのでは?」
「急がぬ。」
方源は平静な面持ちで、悠長に答えた。
水蛇獅の群れは、魚群が久久に襲来しないのを見て、何頭かが水中から這い上がり、島へ戻って行った。其れに伴い、水中防衛線は次第に緩み始めた。
少し時が経ち、黒楼蘭は再び催促した。「山陰老弟、既に半茶の時間が過ぎ去ったぞ!」
「慌てるには及ばぬ。」
方源は手を振り、瞼を少し垂れて、睡魔に襲われているかのようであった。
更なる水蛇獅の群れが続いて上陸し、老齢の獅王は地に臥して、目を閉じ仮寐すら始めた。
衆人は大きく失望し、各々(おのおの)心中で罵詈した。
「狼王とて只の空騒ぎか!先に期待していたのが馬鹿らしくなるわ!」
「大家と雖も、此処は真陽楼であるからな……」
「どうやら常山陰は今回、魚群に慣れることと経験を積むことのみを目的とし、次回の本番に備えているようだ。」
時間制限が迫る中、人々(ひとびと)の心に残された最後の望みも尽き果てようとしていた。
「惜しむらくは一枚の来客令が、此くも無為に費やされるとは。」
「不如ろ、今晩の膳の種を考えようか?」
「今回の失敗後、族長様が如何にして常山陰を対処するやら……」
衆人の心が散漫となる其の時、方源の高笑いが響き渡った。途端に魚群は猛然と突撃を開始し、四方八方から水蛇獅の群れへ襲い掛かった。
「果たして来った!」
黒楼蘭の双眸に鋭き光が走る。
彼は既に看破していた。「常山陰が真の決戦を次回に控える以上、此度は魚群の習性を掌握し、獅群の実力を探るための前哨戦と決め込んでおったのだ!」
魚群の不意を突いた突撃は、水蛇獅の群れに完全なる不意打ちを食わせた。
山椒魚群は、飢えた鮫の如く電光石火の勢いで水中の水蛇獅を殲滅した。
「悟った!常山陰は魚群を訓練すると共に、獅群を油断させていたのだ!」
「此の奇襲で獅群の三割を屠った。流石は大家というべきだ!」
「目を見張る馭獣の技よ。黒旗勝と常山陰の差は、嬰児と巨漢の如きものだ。」
衆人は瞠目し、方源が瞬時に成し遂げた戦果に驚嘆の声を上げた。
吼え!!!
配下が虐殺されるを見て、老獅王は怒濤の如く憤慨し、咆哮一声のもと自ら獅群を率いて水中に飛び込み、魚群に対し復讐の殺戮を開始した。
人々(ひとびと)を奇しませたのは、方源が先前の強硬な作風を一転させ、魚群を操って後退を重ねたことだった。
獅群が追撃を続けるうち、ある地点に差し掛かると、突如として隊列が混乱に陥った。
「何が起きたのだ?」
誰も(だれも)が首を傾げた。
「此処に暗流の渦が存在していたのか!」
黒楼蘭が低く叫んだ。
瞬くうちに、家老たちの目が輝いた。「解かった!狼王が広く魚群を配置したのは、訓練だけでなく地形の調査も目的だったのだ!」
「其の通り!獣群の戦いは両軍の交锋に等しい。敵味方だけでなく、地形の利も考慮せねばならぬ。」
多くの蛊師は膝を叩き、叫び出さんばかりの衝動を覚えた。水蛇獅の群れが暗渦に囚われた刹那、魚群は鋭く方向を転じ、逆襲に打って出た。
獅群は体躯が巨大な為、暗流の影響を強く受けた。一方、魚群は小柄である為、渦の影響は微々(びび)たるものだった。
目の前で繰り広げられたのは、精妙無比の攻防戦であった。
強靭な筈の水蛇獅の群れは、張り子の如く脆く崩れ去った。其れに対し、方源に操られる魚群は、百戦錬磨の精兵の如く、連携は呼吸合わせ、進退には節度が有り、分断包囲して速やかに蚕食していく。
魚群は時には猛然と集合し、強襲を仕掛ける。又時には散開して四方に逃げ惑い、獅群の反撃を空しくさせる。
「此れは誠に戯れの如きでは無いか!」
「実に見事、実に見事なり!!十数回の呼吸も経たぬ内に、狼王は大勝を収めた!」
「此の関は破れた、破れた!」
黒家の者一同は驚喜交じりの表情を浮かべ、方源を眺める眼差しには畏敬と嘆服、そして畏れさえも滲ませていた。
「良し、良きかな狼王よ!」
黒楼蘭は掌を打ち鳴らし、高笑いした。
方源もまた朗然たる笑い声を上げた。獅群を殲滅した其の瞬間、彼の脳裏に一つの情報が飛び込んできたからである――上等評価!
次の瞬間、方源の身影は突然として消失した。
「何が起きたのだ!?」
黒家の者たちは此の驚異の光景に目を見開り、眼球が飛び出さんばかりの衝撃を受けた。
「其れは上等突破であったのか!!」
黒楼蘭のみが、心底で驚嘆の叫びを上げた。