ドン!
黒楼蘭は足を抬げ、一族の黒旗勝を地面に蹴飛ばした。
「無能な役立たずめ!」
黒太りの男は怒号を浴びせ、顔面の横肉を痙攣させ、凶暴な目付きで睨み付けた。
広間内は水を打った如く静寂に包まれ、黒家の蛊師たちは息を殺して声も立てられない。
黒楼蘭は人々(ひとびと)から「黒暴君」と異名され、その残忍で苛烈な性格で有名だった。特に第五十四関で六度も続けて阻まれた今、その短気は火薬庫に火が付いた如く爆発しつつあった。
「族長様、何卒お許し下さい!此方の無能さ故、死罪に値します!」
黒旗勝は地面に這いずり回り、平身低頭して激しく許しを請い求めた。
「馬鹿者!我が黒家に何故此様な無能な愚か者がおるのだ!?」
黒楼蘭は歯軋りしな(が)ら、黒旗勝に対し何度も蹴りを入れた。彼が吐血する程蹴り付けると、漸く黒楼蘭の怒りも少し収まった。
周囲の家老たちは、誰一人として声も立てず、棒立ちに近い姿で居た。
先立って、或る家老が黒旗勝の為めに懸命した結果、黒楼蘭の逆鱗に触れ、重傷を負って床に就いたままなのである。
黒楼蘭の気性は、王庭之争の折には幾分か抑制されていた。然かし福地に来て以降、其の荒々(あら)しい気質と残酷な本性は、終に隠すところ無く露呈したのであった。
「貴様らも同様、無能な役立たず揃いだ! 突っ立ってぼんやりしている場合か? 五十四関を突破する方法を言ってみろ! 思いつかなければ、貴様らの俸禄を削るぞ。部族に役立たずは不要だ! 俺が貴様らに元石を与え、栄華を享けさせ、取り立てて育ててやったのは何の為だ? 今こそ貴様らの見せ所だ!」
黒楼蘭の怒号は窓枠を微かに震わすほどの激しさだった。
家老たちは心中で弱り果て、霜に打たれた茄子の如くうなだれ、こっそりと視線を交わすも、誰一人として率先して発言しようとする者はいない。
黒楼蘭は眼光鋭く睨み据え、場内をくまなく掃い、最終的に黒沛家老の上で視線が止まった。
最古参の大家老である黒沛は、已む無く進み出て恭しく一礼し申し上げた。「殿、此方の見解に拠りますれば、第五十四関は奴道を試す難関にて、大師級の域に達せざる者には突破不可能と存じます。黒旗勝家老は優れた奴道蛊師では御座いますが、未だ大師と申すまでには至っては御座いません。此の関を突破するには、狼王常山陰殿の御力を借りる外あるまいと……」
「ふん!其れは我れに他力を借りよと申すのか?黒家の無能さを天下に曝せと?」
黒楼蘭の双眸に凶光が爆ぜ、怒声が堂内に轟いた。
黒沛は心胆を寒からしめつつ、更に深く頭を垂れて慌てて述べた。「何卒御怒り鎮め下さいませ!族長様の御威光は天下に轟き、王庭の主とし(て)御座います。他力などと申すは言語道断、狼王と雖も、其は盟軍の一員に過ぎず、族長様の御命令を承るは当然の事。況んや真陽楼へ入る栄えを賜るとは、彼にとって此の上も無き光栄に御座います!」
黒楼蘭は此の言葉に、顔面の怒色が少し和らいだ。
周囲の家老たちは色を窺い、心中密かに黒沛の弁舌の巧みさを称賛した。流石が大家老だけ有って、一筋縄では行かぬ腕前である。
黒楼蘭は緩やかに歩き回り、内心強く無念がった。
現時点で、彼の手元には二枚の来客令しかない。其れは以前、第十二関と第四十六関を突破した際の真陽楼からの褒賞である。
彼は別に来客令を惜しんでいる訳ではない。問題は、狼王を招き入れた瞬間、第五十四関突破の褒賞が常山陰の手に渡ってしまう点にある。
若し此れが自族の者であれば、黒楼蘭は族長としての権威を以て、此等の良品を自らの物と為すことも出来た。然し伝統の規矩によれば、此の褒賞は外援に帰属するのが当然なのである。
八十八角真陽楼の褒賞は、一つ一つが並大抵ならぬ品々(しなじな)で、例え黒楼蘭と雖も胸を躍らさずには居られぬ。
蛊方であれ蛊虫であれ、其の他の何であれ、殆どの褒賞は一りの蛊師を凡庸の底から這い上がらせ得る力を有している。
黒楼蘭は五・六歩ほど歩き回り、かすかな嘆息を漏らした。
彼も心中で解っていた。黒旗勝を強いても無駄だと。黒家が育成した三人の奴道蛊師の内、王庭之争で一人が斃れ、黒旗勝は残る二人の中で最強であった。
然し彼は奴道大師ではない。如何なる大師も、十分な才情が無ければ成り得ぬ。単に育成だけで大師が生まれる訳が無いのである。
黒楼蘭は足を止めた。「黒書は何処に?」
「配下、此処に御座ります。」
大広間の戸口に控えていた黒書は、直ぐに進み出て恭しく跪いた。彼は黒楼蘭の側近蛊師として常に主君の側に仕えている。
「狼王を招いて参れ。」
黒楼蘭が命じるや、堂内の家老たちは一斉に胸を撫で下ろした。地面に倒れていた黒旗勝は、全身の力が抜けるように安堵した――遂に解放される!
「承りました。族長様。」
黒書は恭しく礼を取り、退出した。
ドン!
黒楼蘭は黒旗勝を強く蹴飛ばした。「役立たずめ! 其の場に転がって何をしている? 常山陰が来れば、我が黒家の無様な姿を見せびらかす気か?」
「大、旦那様、此方が悪う御座いました!」
黒旗勝は慌てて詫びを入れた。
「傷の手当てに失せろ!」
黒楼蘭が怒鳴り付けると、
「は、は、はっ、旦那様!」
黒旗勝は必死に体を起こし、よろめきながら慌てて退出した。
程なくして、黒書が恥ずかし気に俯きながら、独りで戻り報げた。「族長様、狼王様は聖宮にはおらせず、狼群を放牧に出ておられます。」
「何だと?」
黒楼蘭は声調を鋭く上げ、眉を吊り上げ、今しがた収まった顔に再び怒りの色が浮かんだ。
家老たちは内心で緊張し、大家老の黒沛が黒書を責めた。「此の小輩め、事の処し方も知らぬとは。狼王様が不在なら、空手で戻る訳が有るまい。伝令を飛ばして用向きを伝え、狼王様に這いずる様に駆け付けさせれば良いでは無いか!」
「旦那様、決して配下が不行き届きだった訳では!」
黒書は冤げさながらに訴えた。「既に伝令は送りましたが、狼王様も返信をよこされ、狼群を率いての狩りは既はや習慣となっております故、中座は御免被りたい、暫らくお待ち頂きたいとの事。若し急がれますれば、唐妙鳴らを楼内へ呼び入れられよし……」
瞬時く間に、場内は驚愕に包まれた。
大家老の黒沛は目を瞠り、未だ信じ難げに言った。「まさか此の様に淡々(たんたん)としている者がおろうとは!真に彼は其う申したのか?!」
「証拠は確かで御座います!族長様、此れが狼王常山陰よりの返信の伝書蛊で御座います!」
黒書は言い終えると、星信蛊を黒楼蘭に差し出した。
此れは星道の蛊虫にして、四転という高位に位置し、伝書の最速を誇る。只飛行中は光芒赫奕として目立つ為、敵に截ぎまれて捕まえられ易い。
但し王庭福地内では、其の憂い無し。
黒楼蘭は心神を星信蛊の中に探り入れ、冷やかに笑った。「奴は中々(なかなか)の性根の持ち主よのう、此れほど沈着して居るとは。」
「旦那様、狼王の孤高ぶりは世の知る所。配下の見るに、狼王は内心で哄笑しながらも、態と気位を高く見せているので御座いましょう。」
大家老黒沛の此の推量に、他の家老たちも肯き合った。
「ふん、其れも道理よ。奴は奴道の大家なら、飛行の達人でも有る。貴様らがもし大家なら、我れが他の者に頭を下げる必要が有ろうか!」
黒楼蘭の一喝に、大家老は瞬く口を噤み、他の家老たちも一層深く頭を垂れた。
方源は此の時、其れ以上真陽楼に注意を向けてはいなかった。
彼は足下の地丘を見下ろし、胸を衝かれる思いであった。「果たして此処には小塔楼が無い。周囲の小塔楼の配置から推し量れば、本来此処に一座の小塔楼が存在すべき地である。然るに今此処に在るのは、暗黒の洞窟の入口のみ……見事なり。此の伝承を設けた蛊師は、実に見事なり!」
王庭福地には八里毎に小塔楼が存在する。実は、其れらは皆八十八角真陽楼の一部を成している。
八十八角真陽楼は、当年長毛老祖が自ら煉製した仙蛊屋であり、其の位階は八转に達する。
後になって、巨陽仙尊自ら手を加え、北原全土に対応する布置が施された。小塔楼は王庭福地内に居り、殆ど至る所で見られるようになった。各塔楼には何千何万という野生蛊が生息しているが、誰一人として微かにでも触れようとする者は無く、手を出せば必ず死に至る。
然し今に見るに、地丘伝承を布置した蛊師は、単に小塔楼を動かしただけではなく、其れを利用して伝承を設置していた。此の様な手腕、此の様な才情、此の様な能力に、方源は直ちに此の神秘の蛊師が並大抵ではないと確信した。
「いや、蛊師と云うよりは、寧ろ蛊仙と称すべきだ!例え桑滄の歳月を経て、巨陽仙尊の布置が幾らか緩んだと雖も、凡人が揺るがし得るものでは無い。蛊仙級の人物にのみ、一角を揺るがし、此の如き布局を醸し出すことが出来るのだ。」方源の双眸には鋭い光が揺らめいていた。彼が予期せず得た地丘伝承は、驚くべき事に蛊仙伝承であったのだ!
「土中光を蘊み、芒は万丈高く、百里天に遊び、梅雪の香を詠う」
此の密語は、果い何を物語っているのか?
蛊仙の伝承の中には、如何なる秘宝が眠っているというのか?
「もしかすると、仙蛊が一匹潜んでいるのではあるまいか?」
方源は大きく推測を飛ばした。
若し仙蛊であれば、其れは真陽楼一層分に匹敵する価値がある。何故なら、例え八十八角真陽楼と雖も、各層の最終関に仙蛊が褒賞とし(て)備わっている訳では無いからである。
「假令え仙蛊が無くとも、地丘伝承が此も入念に布置されている以上、恐らくは仙蛊方一巻が備わっているであろう。」
仙蛊が無くとも、仙蛊方が有れば、それも巨大な収穫となる。完全な仙蛊方は、宝黄天にて販売されることさえ無いのである。
蛊仙たちは、せいぜい欠陥のある配方を売り捌く程度である。例え完全な仙蛊方を持っていたとしても、それを分割し、意図的に誤りを混ぜ込んで初めて販売に付する。
完全無欠の仙蛊方は、相互交換によってのみ手に入る。しかし此のような交換も、歴史を顧みれば、数える程しか例が無い。
方源は胸に膨らむ空想を抑え、再び冷静に思考を開始した。
手掛かりを掴んだ今、彼の推理は飛躍的に進展した。
様々(さまざま)な手掛かりを総合し、地丘伝承が布置された時代は、相当に古いと推測した。少なくとも楽土仙尊の時代には、既に此処に存在していたに違い無い。
しかし思考を深める程に、新しい謎が次々(つぎつぎ)と浮上してきた。
仮に此の布局者を「地丘蛊仙」と呼ぶとすれば、果たして其の者は何者なのか?何故此処に自らの伝承を布置したのか?蛊仙として、如何にして此処へ侵入したのか?更に重要な疑問は、如何にして此の地の布置を知り、八十八角真陽楼の原理を理解したのか?
若し其の者が太白云生の如く、王庭福地内で仙に昇ったのであれば、一切は新しい解釈が可能となる……
方源は思考に頭を悩ませ、遂に想いを馳せるのを止めた。
一隻の星信蛊が天を衝いて飛来し、彼の手に落ちた。
方源が其れを手に取って見れば、他ならぬ黒楼蘭からの催促状であった。
「然し、暫しく此れは措いて、先ず真陽楼へ赴くとする。地丘蛊仙は巨陽仙尊の布置の隙を衝いたと言えよう。真陽楼に入りて後、蔓を循って根に至る如く、間接的に此処の秘密を看破し得るかもしれぬ!」
斯く心に決めるや、方源は速やかに返信を出した。
黒楼蘭自ら書を認めて催促して来た以上、最早気位を高く構えておる場合では無い。潔く引き返すとしよう。
「此度は狼王の力を借りねばなるまい。」
方源と顔を合わせるや、黒楼蘭は高笑いした。本心は焦燥に駆られていたのだ。
王庭福地に滞在できる期間は、長いとも短いとも言えぬ。北原の外界で十年雪災が収まれば、王庭福地は閉鎖され、彼等は其処から出ねばならないのだ。
其れ以前、黒楼蘭は本家の蛊仙から委ねられた任務を背負っている上に、更に重要なこととして、自らの為の力道上の仙蛊を見つけ出さねばならない。
狼王の帰還を待ち侘びず、黒楼蘭は直ぐに隊を再編成した。
一同が楼前に到着するや、黒楼蘭は方源に一枚の古雅な令牌を手渡した。「此れが来客令である。狼王には先祖の血脈が無い。真陽楼にとっては余所者同然だ。一たび入楼する毎に、一枚の来客令が要る。」
方源は来客令を受け取ると、偽り無く軽く笑い、腕を鳴らさんばかりに言った。「ぜひ真陽楼の気象を此の目で確かめてみたいものだ!」
その後、黒楼蘭は一階の大扉を開けず、ずばりと頭から扉へ「飛び込んで」行った。
方源は其の跡に続き、輝く来客令を手に、黒楼蘭の做法に倣って真陽楼へ入った。