6章 初めての小夜
夜分遅くの十一時、水城の部屋には二枚の布団が並べられていた。
一つは部屋の主の為に敷かれた布団、もう一つはその幼馴染の為に敷かれたものだ。
高校生にもなって男女が同じ部屋で寝るのは風紀的にどうかと思われるが、楓が夜中トイレに行きたくなった時などに対応する為には必要なことだった。
部屋の中には水城の書いた絵や経年劣化した楽器が並び、部屋主の多趣味さをそのまま映し出したかのような景観になっていた。
その合間には大学教授でも首を捻りながら読むような学術論文が面並んでいるが、これは楓の所持物だ。
水城がそんな大層なものを読むわけがない。
「……ねー、そろそろ寝よ?」
ドイツ語で書かれたエンブリオロジストの学会抄録を読んでいた楓が、小さなあくびをしながらそう言った。
その隣でバングルから出力した空間ディスプレイを弄る水城は、一瞬だけ楓に視線を寄越してから、再びディスプレイ操作に戻る。
「ちょっと待ってー、まだ皆に返信返せてない。……最近さ、ほぼ絡んでない別クラのヤツからもちょくちょくメッセ来て返信タイムが大幅に伸びつつあるんだけど」
「初対面でも喜色満面に交流して、颯爽とアカウントIDを交換するからでしょ」
「だって一度話したらもう友達だし……なんか人と交流してないと落ち着かないんだよ、他人と関わることで安堵を得る生物なんだもの」
シベリアンハスキー並に人懐っこい水城はすぐ人と打ち解け、日に日に交流関係を増やしている。
バングルは常にメッセージの通知を受信していて、通知音をオフにしていなければずっと音が響き続ける有様だった。
水城はしばらく返信し続けていたが、やがてメッセージアプリを落とし、目覚ましをセットしてバングルを外す。
「とりあえず同クラには返したから寝よか、別クラの分は明日返す。遅くなってごめんね」
「……私とメッセ、どっちが大事なのとか面倒臭いこと言いたくて仕方ないんだけど」
「楓。楓が一番大事。誰よりも楓が大事。この世の何より楓が――」
「わ、わかった! わかったから寝よ! ばかたれ! おやすみ!」
言葉の羅列に耐え兼ねたのか、楓が慌てながらリモコンの消灯ボタンを押す。
蛍光灯の明度が下がり、橙色の豆電球だけが部屋を仄かに照らし始めた。
「……おやすみ」
もぞもぞと布団の中で体勢を変えながら水城はそう呟く。
中々寝心地の良い体勢が見つからず、彼は寝方の試行錯誤を繰り返す。
やがて楓に背を向ける体勢が今日のベストポジションだと気付き、ようやく体を落ち着かせた。
耳をすませば地鳴りのようないびきが遠くから聞こえてくる。
相当部屋は離れているはずなのに、還暦過ぎの誠二が放つ爆音はどこまでも響き渡っていた。
そしてしばしの静寂。
お互い言葉を交わすことなく、睡魔に身を委ねていく。
いつもどおりのルーチン、そうして二人はいつも眠りに落ちているのだが――。
今日だけは、少し違っていた。
「……ありがとね、九年間」
急にそんなことを言われて、水城は背を向けたまま返事を返す。
「どうしたの急に。主語の無い礼は困惑を引き起こすよ」
「いや、こうして泊まったりだとか……九年間甘えっぱなしだったなーって……。でも九年間じゃ足りないね、その前から幼馴染としていっぱい優しくしてもらったもんね……」
「そんな……礼を言われる筋合いなんてないよ。だって俺は……楓に悪いことしたし……」
「……まだ、九年前のこと気に病んでるんだ」
楓が手を伸ばして水城の背に触れる。
でも彼は振り向かなかった。
「水城のせいじゃないよ、私が勝手に飛び降りて勝手に傷を負っただけ。むしろ……水城が助けてくれなかったら、私、きっと怪我だけじゃ済まなかったから」
「でも、俺は何もすることができなかった。……親から虐待を受けているってもっと早く気づけたなら、あんなことは起きなかったはずなのに」
彼が虐待の事実を知ったのは、己の過去を綴りし楓の遺書を知った時だった。
それまではのうのうと、隣の部屋で虐待が行われていることすら知らずに生きてきたのだ。
そのことが、彼にとっては忘れられない後悔だった。
「一番近くにいたのに、……俺は傷ついていく楓に何もできなかったじゃないか」
「そんなことないよ……私のほうが悪いことしてるよ。あんなことをしたせいで水城も傷ついて、大好きな野球ができなくなって……学校が終わった後もいつも一緒にいてくれて、私の為に大切な学園生活を犠牲にして……」
「俺は悪いことされたって自覚ないよ」
「私だって、悪いことされた自覚なんてないもん」
……お互いがお互いを気に病んで、贖罪をし続ける。
その意味合いを、……きっと二人はまだ、自覚していない。
相手に赦された状態なのに終わらない禊。
きっとそれは永遠に続く二人の繋がりだ。
「あれから九年間。私たちは大人になろうとしてるのに、あの頃のままだね」
「そうかもしれないな……」
……水城の背に触れていた楓の手が、静かに離れていく。
そして一瞬、水城は背中に肌寒さを感じた。
それが布団を捲られたからだと気付くより早く、朧な温もりが背中に当たる。
伝わる鼓動は平静より早く、触れた体はいつもより熱い。
「……」
布団に潜りこまれて、後ろから抱きしめられて……動けるわけもない。
「……水城」
「なんだ……?」
そのまま数秒、意味を図りかねる沈黙が続いて……。
「…………する?」
察せる程度には、大人になったつもりだった。
でも真正面から受け答えできない程度には、子供のままだった。
「なに……言ってんだよ。……どうした、突然……」
「……今日しかないって思ったから」
「いつだって言えるチャンスくらいあるだろ……何も前振りもなしに、今の関係性で言う言葉じゃない……」
恋人ではない、幼馴染としての二人。
でもそれをしてしまえば、ただの幼馴染には戻れない。
幼馴染を超えるのか、それとも歪な関係になってしまうのか。
どちらにせよ、今の関係は終わりに向かうだろう。
「……悠長なことなんか言っていられる? 私は明星の一員なんだよ、水城も組織の存在を知ってしまったんだよ。水城だって国の転生システムに刃向かう反逆者になるかもしれない。……もし組織のことがバレたら明日にでも殺されるかもしれないんだよ……」
水城は息を呑んで――理解して――でも決めかねる。
「…………」
「…………」
時の流れを歪ませるような静寂が続く。
この一瞬が永遠にも思えるような、この一瞬が刹那にも思えるような、時間感覚の狂った静閑がただただ続いていく。
乾いて張り付く喉を、体の奥底で繰り返される心音を、首筋を伝う汗の一滴を、こんなにも顕著に感じたことなどなかった。
体中の感覚が研ぎ澄まされているような感覚、クオリアが敏感になる稀有な非現実感――。
ぎこちない閑寂の中、楓は小さく――そしてわざとらしく笑った。
「……冗談」
そしてその言葉を、それこそ冗談めかした口調で言う。
その言葉自体が嘘であることを隠しきれていないような語調で――。
「ごめんね、変なこと言って。……でも、あのね、一つだけわがまま言わせて」
「……」
「このまま……一緒に寝てもいい?」
「……いいよ」
ありがとう、楓はそう呟いた。
そしてこの夜が終わってしまうことに名残惜しさを含んだ語調でおやすみと囁く。
でも、水城はおやすみと返すことができなくて。
今度こそ、永い静寂が続く。
誰も言葉を発さず、誠二のいびきだけが聞こえる夜の世界。
それでも水城の鼓動は治まらなくて、彼女の言葉を何度もリフレインするばかり。
後悔と安堵が渦巻く心中は、抑えようとしても抑えきれない混沌の坩堝だ。
彼が楓に抱く感情が、愛情なのだと言われれば否定材料はなかった。
友情なのだと言われても、家族愛なのだと言われても否定材料はない。
抱いた想いは万華鏡、きっと観測者によって解釈の異なる感情なのだろう。
いつかその答えを知る日は来るのだろうか?
そう己に問いかけた言葉は、心の中で反芻されて消えていく。
幼き頃から傍にいたせいで、その感情に綴られた名称が視えなくなっていた。
……だとしたら、離別をしなければ理解できない感情なのだろうか。
本当の別れを経験しなければ、己の抱いた本当の感情を知ることはできないのだろうか――。
『…………水城には、生きてほしいから』
彼女が今日囁いた言葉が、水城の意識で色濃く浮かび続けていた。
やがて、小さな呼吸音が後ろから聞こえてきた。
睡魔に負けた楓の断続的な呼吸が、なによりも明確に水城の鼓膜を揺らす。
「……」
水城は少しだけ躊躇ってから、起こさないよう優しく、彼女の腕を振り解いた。
そして楓のほうを向いて……小さな体を包み込むように抱きしめる。
寝息を立てながら、無意識的な動作で、楓は水城を抱きしめ返した。
小さな布団だけれども、二つの体ははみ出ない。
それくらい密着している。
それだけ密着しても――彼女の寝息が本当か嘘なのか、判別できなかった。




