4章 地獄の日々のその後で
バッシュの音が響く体育館、白球が空高く飛ぶ校庭、薄汚れた黄色のボール飛び交うテニスコート、夏季の解禁を前にして静かに水面を揺らすプール、掛け声を発しながら生徒がランニングしていく校舎の周囲。
放課後を迎えれば部活動が始まり、学校からは威勢のいい声が響き渡る。
もうすぐ転生を控えた子供たちは人生最後の取り組みとして部活に勤しみ、心行くまま汗と涙を流して青春を謳歌していく。
……尤も、水城はそんな青春を味わったことが無い。
厳密に言えば少しくらいはある、小学三年生までは野球クラブに入っていたのだから。
……子供の頃から野球が大好きでずっと続けていて……甲子園に出場するのが夢で、そのままプロ野球選手になって……そんな未来を描いていた時期もあった。
けど楓が自殺未遂を起こしてから、夢は現実にならないと知ったのだ。
「……後悔してるの?」
校門を抜けて下校道を歩いている途中、楓が不意にそんなことを尋ねた。
校舎から聞こえる賑々しい声に耳を傾けていたのがバレていたのだろう。
水城は誤魔化すように彼女の頭を撫でる。
「後悔なんてしてないよ。部活なんかしなくても楓と一緒にいられるからな、これも青春だぞ青春! 可愛い女の子と毎日一緒なんて同年代の中じゃ恵まれてるほうなんじゃないかなー!」
彼女の不安を払拭するように笑いながらそう言ったが、楓は表情を曇らせたままだった。
そして彼女は振り返り、聳え立つ校舎を眺めて――忸怩たる想いを、表情に浮かばせる。
「ほんとは、野球を続けたかったんだよね」
「……」
どれだけ明るい語調で誤魔化そうとしても、慰めにさえならないのだろう。
水城が野球を諦めたその時から、彼女は自責の念に駆られ続けている。
きっとどんな言葉も救いにはならない。
「私があんなことをしたから水城は部活動を続けられなくなった。……放課後の自由もなくなった。恋愛だってできなくなった。……そして……」
水城以外の誰にも聞こえないよう、か細い声で囁く。
「私があんなことをしたから、私は明星に出会って……水城も巻き込むことになった」
……全ては九年前に始まった。
いや九年前に終わったと言うべきだろうか。
楓の両親は長年の不妊治療を経て、ようやく授かった一人娘を溺愛していた。
溺愛していた理由は、念願の愛児だからという理由以外にもう一つある。
それは、幼少期から異質な才能を発揮していたこと。
周囲の子供と比較すれば一目瞭然な程に、彼女の知性は急激な成長速度を見せていた。
その症名はギフテッド。
同年代の人間より知性と精神力に長けた存在、神からの贈り物を意味する天才児だった。
だから、親が彼女に期待を寄せるのも当然だ。
しかしそこには期待と呼ぶにはあまりにも重すぎる願望が込められていた。
愛情と期待の入り混じったその様相は、……溺愛という一言で呼ぶには相応しくないかもしれない。
でも、それ以外の言葉では形容し難いものだった。
必死に立派な子供を育てたくて、テストで百点以外を取ると厳しい罰があった。
どんな小さな競い事でも一位にならなければ罰があった。
授業終了後は十五分以内に家に帰ってこないと罰があった。
ロクに習ってもいない習い事のコンクールに無理矢理出させて、賞が取れなければ罰があった。
テレビを点けて同年代の子役がいたら、お前はいつになったら名を馳せるのだと罰があった。
無理矢理大学生レベルの問題をやらせて、解けないのは当たり前なのに罰があった。
親の知っていることを知らないと罰があった。
罰に笑顔で応じなければもっと酷い罰があった。
泣いたら罰、苦しんだら罰、元気がなければ罰、罰、罰、罰、罰……。
時には三日も食事を抜かれ、首を絞められ、殴られ、何時間も地面に頭を擦り付けて謝らせ、真冬に冷水をかけ、真っ暗な部屋に閉じ込め続け、布団で簀巻きにして竹刀で殴り続け、縛り付けてベランダに放り出し……あまりにいきすぎた罰は、全部が全部『教育』の為だった。
ようやく授かった子供なんだから素晴らしい子供に決まっている、天才児なのだから何もかもができるに決まっている!
……そんな妄想に取りつかれて、彼女に過度な要求をし続けて、罰を与え続けて、彼女のせいにし続けて、そんな毎日が続いて、続いて、続いてしまって……。
だから、楓が転生というものに依り縋るのも必然で。
マンションの七階から飛び降りたのも必然で。
ただ、落ちていく姿を水城が目撃したのは偶然だった。
窓から飛び出して空中で彼女を抱えることができたのも偶然だった。
そして木がクッションになったのも偶然、落ちた先に車があって衝撃が和らいだのも偶然。
でも……数多の偶然が彼女を生かそうとしても、七階から飛び降りた事実を帳消しにすることなんかできやしない。
彼女の脊髄は損傷して下半身が動かなくなり、そして眼球破裂で左目を失った。
水城は左腕が動かなくなり、中二の終わりまでリハビリを要してようやく人並みに動かせるレベルになった。
……落下した瞬間は思い出したくなくても思い出せる。
あの一瞬を想起するたび、水城の体に生々しい苦痛が蘇っていく。
肺が潰れて酸素が全て吐き出されたような感覚、全身の骨が軋む音、広がる鮮血で真っ赤に染まる視界。
抱き寄せた彼女が動かないことが何よりも怖くて……声を上げようとして……でも言葉の代わりに口からは血が溢れて……世界が暗転する。
……再び目覚めた時、あれほど真っ赤だった世界は純白に染まっていた。
消毒液の香りと揺れる点滴。
病院の一室だと気付くまでには長い時間を要した。
胡乱な目で隣を見れば――変わり果てた楓の姿。
左目を包帯で隠し、車椅子に乗る彼女。
目覚めるまでずっと傍にいたのだろう、彼女の傍に積まれた本は十を超えていた。
そう、憶えている。
消毒液の香りに交じって、ささやかなオーデコロンの香りが漂うのを。
「……アルビレオとは、その時病院で出会ったのか?」
「うん……私が目覚めた時に、隣にいたの。最初は信用しちゃいけないって思ってたけど……転生の真実を教えられて……逃げ場なんてどこにもないって思って……でもそんな私に、協力するなら何でも願いを一つ叶えてくれるって言ってくれたんだよ」
「何を……」
何を願ったんだと聞こうとして、水城は口を閉ざす。
楓の両親は、彼女の自殺未遂の直後に失踪した。
娘の自殺未遂で己の行いが間違いだと気付いたと、家に遺書を残して。
そして数日後、娘と同じようにマンションの七階から飛び降りて……今度は偶然なんて起こらなくて、遺体は原型を留めてなくて……。
当時はその遺書を信じ、自責の念から飛び降り自殺したのだろうと水城は思っていた。
……でもきっと、それは真実じゃない。
楓の願いは叶ったのだ。
どこか大きな団体から手紙を書かされて、自殺に見せかけ殺された。
国への反逆を行う組織にとって、それは容易い犯行だったのだろう。
「その日から私は、明星に属すことになったの。……悪いこともいっぱいしたよ、……水城に言えないことだって、いっぱいしてきたよ……」
楓の声が僅かに震える。
水城は何かを言おうとして、でも、言葉なんて見つからなかった。
大人二人を平然と殺せる組織に属して……真っ当な仕事だけで済むわけがない。
きっと叶えられた自分の願いを――今度は別の誰かの願いとして、再現することもあっただろう。
そんなの誰かに言えるわけがない。
そんなことをしているなんて、特に幼馴染には言える道理がない。
九年間隠し続ける以外の選択肢など、あるはずもない……。
「……ねえ、水城」
涙の溜まった瞳を幼馴染に向けて、楓は懇願するように言う。
「こんな私でも、……一緒にいてくれるの?」
「……」
楓はもう誰にも頼れないと思ったから自殺を図った。
そんな彼女の支えになろうと決めて、水城は今まで生きてきたのだ。
もう二度と、彼女が死を望まないような日常を作りながら。
だから、彼の答えは決まっていた。
「……当たり前だよ。俺は楓の傍に居続けるって決めたんだから」
その想いが水城の生きる理由、大人になっていく訳柄。
「最後まで、楓の傍に居続けるよ」
「……」
縋るような視線を向けていた楓が、不意に水城から顔を逸らした。
まるで、その表情を見られたくないかのように。
……彼女の抱く感情が伝わるのを恐れているかのように。
数秒間、彼女は言葉を発しようとして、声にならない音を出すことしかできなかった。
それでも数度の深呼吸で声の震えを抑えて、彼女は小さな声で言う。
「……明星の活動内容は、まだ正式加入してない水城には言えないの。だから組織を疑う気持ちはよく分かる。……でも、私の本音を言えば……仲間になってほしい」
一度は背けた顔を、今度はしっかりと水城に向けて言う。
「…………水城には、生きてほしいから」
それは話の流れが繋がっていないように思える言葉。
……でも、きっと、彼女が言える範囲で本音を喋ってくれたのだと水城は思う。
だって彼はまだ明星の仲間になったわけじゃない、言えないことだってたくさんあるに決まっている。
抽象的な言葉で誤魔化さなければならないことばかりだろう。
それでも水城は知る。
言葉の裏に隠された彼女の本音を。
「……もし明星の語ることが本当ならば、俺は楓と共にやり遂げるよ」
「水城……」
「俺も……楓には、生きてほしいから」
その瞬間――楓の瞳は、今にでも泣きだしそうに見開かれる。
そんな彼女に、水城は優しい微笑みを返して――心の中で、静かに呟いた。
分かっているよ、楓。
何年も一緒にいるから、分かるよ。
『水城には、生きてほしいから』
……きっと、こう言いたいんだろう。
私はもうすぐ死ぬのだから、あなただけには生きていてほしい。
でも、そんな未来望むものか。
この転生を止めて、楓と共に生き抜いてやる。
楓も、クラスメートの皆も。
全員が生き残る未来以外、俺はいらない。




