18章 卒業
学校へ到着したのは夜十九時過ぎのことだった。
校門前に車が止まりなり水城は車外に出て、仄かな明かりが灯された屋上を目にする。
学校全体が夜闇に昏く染められているのに、屋上だけは目立つほど明るく、そして生徒たちの喧騒が校門前にまで響き渡っていた。
仲間たちはそこにいた。
誰が居るか何をしているかは目視できない、けれども予想くらいは簡単にできる。
この世の終わりを楽しく過ごすべく、菓子やら飲み物やらゲームやらを持ち込んで、笑い合いながら盛大な『卒業式』をしているに違いない。
「皆……ッ」
校門を飛び越えて、全速力で校庭を横断していく。
鍵の壊された昇降口を抜けて、階段を二段飛ばしで駆け上がっていった。
騒音が近づいてくる、懐かしき仲間たちの声が大きくなる。
……クラスメートたちだってデザイナーベビー、やがて死にゆく存在だ。
しかし、確実な死を迎えるのは先の話。
今の彼らが駆られているのは死を是とする心だけで、確実に死ぬわけではない。
考えを変えてくれる可能性は少なからずあるのだ。
水城は今日までに彼らの心を変えることはできなかった。
しかし最期の最期で間に合った、死ぬ前に一言でも言葉をかける機会を得ることができた。
何を話せばいいのか、どんな説得が彼らに響くのかは分からない。
けれども伝えるしかない。
例え頭がおかしいと思われても心の病気なのだと思われても構わなかった。
ほんの僅かなチャンスを得た、ここから先どう転ぶかは彼次第。
そして水城は、屋上への扉に辿り着く。
彼は息を切らしながら扉を開け放ち、仲間たちのいる屋上へと突入する――。
――そこは狂乱の宴、華々しく彩られた狂気と狂喜の坩堝。
誰もが笑い、誰もが手を叩き、誰もが肩を組んで歌う理想郷。
何百人もいる生徒たちが犇めいて狭苦しいというのに、一様に狂気的な笑いを上げ続ける。
体がぶつかることなんて誰も気にしない、それどころか隣人を抱いて共に騒ぐ狂喜乱舞の卒業式。
誰もが服を脱ぎ捨て、産まれたままの姿になって踊る空間。
彼らの口から上がる朗笑は人を捨てたかのような、獣の如き鳴き声。
白目を剥いて涎を垂らし、目には見えない何かを信仰し、泣いて笑って排泄物を零し、時には誰かを襲ってそれでも愉快そうに捧腹絶倒する――。
「みん……な……?」
その光景は異様なものだった。
……今まで見たことが無いような表情で笑う仲間たち、今まで聞いたことが無いような声を上げるクラスメート、今まで感じたことが無いような雰囲気に染まる異様な世界。
一歩だけ後ずさった水城が何かを踏んだ。
その拍子にガラスの炸裂音が小さく響く。
……彼の足元には数多の注射器とピルケースが投棄されていた。
数本単位のものではなく何百本もの注射器が転がり、その中に僅かな薬剤残滓を残している。
目の前で踊る彼らの肘窩には注射痕が残っていた。
……きっとそれが、この宴を作り出している根源。
彼らの理性を破壊した諸悪の薬物。
「水城君! クラスメートたち……は……」
遅れて到着したアルビレオたちがこの惨状を見て絶句する。
そしてすぐに全てを悟った。
……不正薬物の水溶液を静脈注射したのだ。
恐らくアッパー系とトランス系を混ぜた化合薬物。
理性を完全に捨てきったその様子からして、オーバードーズラインを超過した分量の薬が打ち込まれているのだろう。
誰が彼らに薬物を横流ししたのかは分からない。
一介の子供にこれほどの分量を分け与えるプッシャーなどいるはずもないし、法外な値段が取られるだろう。
……そんなことができるのは誰と問われて、挙げられる心当たりなど僅かしか該当しない……。
水城は――変わり果てた仲間の姿に瞳を揺らしながらも、叫ぶ。
「皆……皆ッ! 俺だ、柊水城だッ! ……落ち着いて俺の話を聞いてくれ! おい、横島! 成田! 薄葉! 闇倉! 四里神! ……篤ッ!」
水城の叫びは届かない、欣喜雀躍の闇に吸い込まれて無に還る――。
何故なら皆の見ている世界はサイケデリック。
目の前が極彩色の幾何学模様に支配されて、万華鏡の如き流動体となって蠢いていた。
光だけがさざ波のように寄せては返すシャングリラ、綾なすペイズリー柄だけが彼らの視界を塗り潰す。
それはまるで天国に来たかのよう。
人として生きて死にゆく生涯では決して到達しえない極楽と、終わりのないオーガズムのような多幸感。
もはや彼らには雑音など届かない、変性意識状態下では水城の言葉など届かない。
同じトランスに耽る同胞しか認識できない……。
「なあッ、聞いてくれッ! お前たちを失いたくないんだ、お前たちと離れたくないんだッ! ……どこにもいかないでくれよ、俺の傍にいてくれよ……! 異世界転生をしたらどうなるか教えるからッ! お前たちの行く先は地獄なんだ、永遠の苦しみなんだよッ!」
水城が彼らの腕を掴んで止めようとする。
一瞬遅れてアルビレオたちもそれに続き、エンセオジェンに心奪われた子供たちを引き留めようとした。
しかし、薬によって力の抑制を失った彼らを止めることは叶わない。
何度も振り払われて、突き飛ばされて、その度に立ち上がって再度止めようと挑むも、徒労に終わる空虚な抑制――。
そんな中、電動工具の駆動音が響いた。
水城が顔を上げれば、生徒の誰かがチェーンソーを金網に突き立てている。
……その金網の向こうには屋上の縁、彼らの死を止めてくれる最終防壁などありはしない。
彼らはそれを歓待した。
死へと続く道が切り開かれているその様に喜び、拍手し、口笛を鳴らす。
まるでその金網の向こうがユートピアに続いているかのように。
「止めろッ! 死後の世界にユートピアなんて……皆が望む希望なんてない! だから皆止めろッ、この世界で俺と一緒に生きてくれッ!」
そして……屋上のフェンスの一部が、チェーンソーで切り開かれる。
これでもう、生と死を隔てる壁は存在しない。
時間が来たのだ。
本当の卒業を行い、魂を異世界に送る時間が。
誰かが歩み出て、屋上の縁に立つ。
あと一歩足を前に踏み出せば、重力に抗うこともなく地上へ堕ちていくだろう。
それが彼らの夢を叶える儀式。
死を以て、彼らの物語は始まる。
彼らは願っているだろう、渇望しているだろう。
自分こそが主人公である世界を、自分こそが一番に成り得る異世界を。
しかしそこに待ち受ける物語は彼らの望むものなんかではない、記すにはあまりにも陰惨すぎるストーリーがそこにある。
しかし、彼らはそれを知る由もない。
だから希望を胸に異世界へ行くのだ。
縁に立つ男が――鬼瓦篤が、遥か下の景色を見つめている。
その後ろでは仲間たちが大声をあげて騒ぎ、篤にエールを投げかけている。
歌う者もいる、笑う者もいる、一様に同じなのは誰もが悲観の色を見せていないこと。
彼らにとって死は悲しむべきものじゃない。
だから死の淵に立つ篤は、まるで観光地に旅にでも出る時のように、清々しい表情を浮かべている。
「篤……篤ッ! 戻れッ、思い直せッ! お前は死ぬために産まれてきたんじゃない! お前は祝福されて……生きる為に産まれたんだろ! 篤ッ!!!」
水城たちは彼を止めようとするが――人波に阻まれて近寄れない。
屋上の縁に立つ篤の後ろ姿を見ていることしかできない――。
そして――ふわりと、篤の右足が前に踏み出された。
それは死に向かうにはあまりにも軽やかな動作。
そのまま体がゆっくりと前に倒れて行って……生徒たちの歓声が大きくなって……篤の体は頭から、地面へ堕ちていく……。
そして、彼は肉になった。
頭が割れて脳漿が飛び散って、四肢がもげて吹っ飛んで、人間らしい痕跡はまるで残っていない。
あまりにも呆気なく、惜しむ暇もなく彼はこの世から生を剥奪された。
それを見た生徒たちは歓喜の叫びを上げる。
幾重にも重なる拍手、口笛を鳴らす者もいる。
そして……何人もの生徒が屋上から飛び降りていく。
皆に礼を言いながら落ちていく者。
叫びながら落ちていく者。
笑いながら落ちていく者。
皆落ちていく様はバラバラなのに……死の末路だけは変わらない。
屋上で皆が歌う、卒業式の予行練習で聞き飽きた卒業ソングを合唱する。
そして歌いながらも足を踏み出して、もう歌う事のない屑肉になり果てていく……。
飛び降りているのは一ヵ所だけではなかった。
誰かの死骸がクッションになって万が一にも生き延びてしまうことが無いよう、生徒たちは思い思いの場所から飛び降りていく。
だから気づけば学校の周辺は挽肉だらけ、校舎も真っ赤に染め上がっていった。
少しずつ少しずつ、屋上から聞こえる歌声が小さくなっていく。
水城は何度だって叫んだ。
涙を流しながら、血の味混じりの咳を何度も繰り返しながら。
それでもその言葉が彼らに届くことはない。
水城の言葉は最期まで彼らの心を変えられない。
いつしか……水城の口から零れる言葉は彼らの死を止めようとする言葉ではなくなっていた。
何度も何度も、彼は謝罪の言葉を口にする。
愛する仲間を止められなかった事実を、その罪を。
今まで一度も信仰したことのない神に祈り、懺悔する。
しかしそれが禊ぎになるのかは、きっと本人すら知り得ないことだろう。
「……………………………………………………………………………………………………」
水城は、もう謝罪の言葉すら失って、ただ涙を流す。
心の中で彼らへの別れを告げながら。
さようなら、俺の愛した仲間たち。
今までありがとう。
「……さよなら……皆……」
もう彼の心には、楓しかいない。
今の水城が生きる理由は、ただ一人の幼馴染だけ。
……きっとそれが失われれば、彼は……。
「…………………………」
全ての転生希望者が死に去って、屋上に静寂が訪れる。
そんな中……水城は、涙を流し続けた。
……そしてそんな彼に、誰も言葉がかけられないまま……清閑は続く。
三月八日、十九時三十四分。
水城の友人たちは、皆、死んだ。




