十五品目
新システム導入初日、活気づく「はいから亭」。店長不在の中、副店長の絵恋は個性豊かなバイトたちに振り回されつつも店を回す。新メニューの試食やトラブル予報が渦巻く、忙しくも賑やかな夜の幕開けを描く。
営業を再開する早朝。
通学の時間が終わり、工場や会社に通勤する人の波が路地に溢れている開店前のはいから亭。事務室で悠馬がパート従業員向けに作った資料をまとめていた。
各テーブルにはタブレットが置かれ、客自身のスマホからも注文ができるようにQRコードのステッカーも貼られていた。レジもセルフ方式になった。
「ようやくこれで私の担当エリアも全店舗切り替え完了ですね」
「導入が遅いんだよ。でもこれでだいぶ注文は楽になるか」
悠馬の後ろでは絵恋が化粧を直しながら横槍を入れる。プリンターが文書を印刷する音だけが響く事務室の中、微かに漂う香水の香りが室内の空気を支配していた。
「問題なく運用できるのか?」
「今のところ、他店舗でも特に大きなトラブルはありませんから、大丈夫かと思いますよ」
「だといいな」
絵恋はそっけなく答える。
「そう言えば、松本さん……」
「何か言ってきたか?」
高校生バイトでギャルの松本渚。同性にしか興味がないのか、最近よく絵恋にまとわりついている。その度に絵恋の実力行使を受けているので、絵恋には身に覚えがありすぎるのだ。
「いえ。何も言ってきませんよ。むしろ相川君みたいに、絵恋さんに殴られるのが嬉しいのでしょうかね?」
「ふざけるな」
絵恋が少し切れ気味に返事した。
「あいつは人の胸ばかり見るんだよ」
「……みたいですね」
悠馬は軽く笑いながら応じる。
「おい悠馬」
不意に絵恋が悠馬を呼んだ。
「?……なんですか?……わっ!」
振り向いた悠馬の顔面に、絵恋の見事に整った柔らかい胸が押しつけられた。顔面を覆う感触と香水の香りが悠馬の鼻腔を刺激する。突然のことに椅子から転げ落ちそうになる悠馬を見て、絵恋が笑った。
「オッサンのくせにウブだなぁ。サービスだ」
「まったく……」
ずれたメガネを直し、椅子に座り直す。
「さて……」
卓上時計を見て立ち上がる。「今日は新システムの説明もありますから、早番のパートさん達に早出してもらっています。説明の用意をしましょうか」
「わかったよ」
絵恋も立ち上がった。
ランチタイム。
付近の会社や工場から昼休みのサラリーマンが一斉にはいから亭に押し寄せる。
今まで紙に名前を書いていた順番待ちがタブレット入力になり、戸惑う客もいたが、大きな混乱もなく怒涛の忙しさが流れていく。
客席のタブレットやQRコードからの注文により、ウェイトレスが注文を取りに行く必要はなくなったが……。
「ご注文はそちらのタブレットかQRコードからお願いします」「システムが変わりました」「使い方はですね……」
初日ということもあり、注文を取る代わりに「注文の仕方を教える」ためにウェイトレスがホール内を忙しく行き来していた。
「ま……初日だからな」
カウンター口でカレーライスの伝票を確認しながら、絵恋が大きく息を吐いた。
「佐伯さん、ちょっと東店に行ってきます」
バックヤードから悠馬が顔を出した。
「夕方の便でセントラルキッチンから今度のフェアのサンプルが届きます。夜休憩の賄いで出して、感想を書いてもらってください。それと、月見里さんは二人とも追試のために遅刻すると連絡がありました」
「二人とも追試か。了解だ。……確か今度は中華フェアだったな?」
「ええ。キッチンの練習も兼ねています。何かあればすぐに連絡をください」
「分かった」
絵恋が短く返す。
「十二番卓さんのナポリタンとミートソース上がりました!」
キッチン担当の河野悠太が、カウンター口に湯気の立つ皿を置いた。
「持っていきます!」
ウェイトレスが伝票を確認し、タバスコや粉チーズを載せてホールへと向かう。絵恋もカレーライスのお盆を持って後に続いた。
夕方……。
夕陽に照らされた朱色の雲が空を染める頃、学生バイトの面々が出勤してきた。
着替えを終えた伊吹が、テーブルの上の新システム説明書に目を留めた。
「新システムって今日から? マジ遅くない?」
不満げに愚痴をこぼす。
「この地区じゃウチが最後らしいよ。東店はとっくに導入されてるのに」
「気安く話しかけるな!」
更衣室から出てきた相川林太郎が言うや否や、伊吹の右ストレートが鈍い音と共に林太郎の顔面にクリーンヒットした。
「伊吹先輩、またですか?」と、翠。
「マジ懲りないよねー。ドMの極みっしょ……」と、渚。
制服姿の二人が休憩室に入ると、澄まし顔の伊吹と、頬を赤くしながらも悦びに浸る林太郎がいた。
「気安く話しかけるこいつが悪いのよ!」
伊吹が林太郎を指差す。
「ハイハイ、りょーかい。もー今日は殴んないであげて。相川先輩、マじで壊れちゃうからさー」
渚が冗談めかして言い、二人は更衣室へ消えた。
「お疲れ様です。本部便です!」
裏口からドライバーが顔を出す。
「副店長! 本部便です!」
備品チェックをしていたパートが声を上げた。
「ああ、男共に搬入させな!」
ホールから絵恋の指示が飛ぶ。
「そうだ河野」
キッチンから出てきた丸刈りの悠太を絵恋が呼び止めた。
「俺、何もしてねぇっスよ!」
「何かしたのか?」
「あ……いや、特に何も」
反射的に答えつつ、悠太の顔に焦りが浮かぶ。
「この便でフェアのサンプル食材が届くから、夜の賄いで出して感想を書いておけ」
「了解っス。メニューは何ですか?」
悠太が聞き返すと、絵恋の表情が曇った。
「そう言えば、あいつ……そこまで言ってなかったな」
「そこは副店長も確認してくださいよー」
「あぁ? 私の責任だとでも言いたいのか?」
絵恋の目が吊り上がり、鬼の形相で睨みつける。
「あ……何でもないです!」
蛇に睨まれたカエル状態の悠太は、大人しく搬入作業に戻った。
「ああ、そうだ」
絵恋が再び呼び止める。
「次つまみ食いしたら半殺しだからな」
悠太の顔が青ざめた。他の男性スタッフがやれやれと肩をすくめる。
「あ、時間だし」
テキストを見ていた渚が時計を確認し、夜の部一同が立ち上がった。
「それぞれ今日のシフトを確認しろよ」
絵恋が素早く指示を出す。
「了解しました!」
翠が応じ、各自の持ち場へ散った。
はいから亭の夜が始まる。
「河野、メニューは何だった?」
一同を見届けた絵恋がキッチンへ向かう。
「中華丼、海鮮中華丼、エビチリと五目春巻きですね」
悠太が食材を確認しながら答えた。
「つまみ食いするなよ」
「しねぇっスよ」
即答する悠太をよそに、絵恋は作業台の食材を見つめて腕を組む。
「春巻きは冷凍か。他はこちらで調理するんだな」
「そうっスね。野菜も肉もカット済みで届くんで、特に難しいことはないと思います」
「じゃあ、賄いで出して感想をまとめさせろ」
「うぃっす」
絵恋がキッチンを出て廊下に向かうと、裏口が開き、サイドテールを右側に結った春歌が顔を出した。
「早かったな。桜花だけか?」
「ヒッィ!」
絵恋の声に、春歌が短く悲鳴を上げた。
「店長から聞いてるよ。揃って追試だろ?」
春歌がコクコクと頷く。
「春歌はまだ追試か?」
「あの……私が春歌です」
「……すまない」
双子の見分けに失敗し、絵恋の顔色が変わる。
「で、桜花はまだか?」
「一緒です。今来ました」
扉の陰から答える。
「顔だけ出してないで入ってこい。着替えたらすぐにフロアと交代だ」
「「分かりました!」」
二人は礼儀正しく遅刻を詫び、更衣室へ駆け込んだ。
「副店長、賄い作り始めていいっスか?」
キッチンから悠太が顔を出す。
「もう少し経ってからだ。その時に声をかける」
「了解しました」
入れ違いに、絵恋のスマホが震えた。悠馬からのLINEだ。
『東店で欠員が出ました。少し手伝ってから戻ります』
「あの野郎……こっちだって欠伸する暇もないってのに」
絵恋は毒づきながら返信を打つ。
『こっちも修羅場だ。終わったら光の速さで戻ってこい』
既読はつくが、返信はない。
「副店長~!」
背後から渚の声。振り向きざまに拳を繰り出すと、胸を目掛けて手を伸ばしていた翠の脳天に命中した。
「?……長宗我部か。お前まで松本に汚染されたのか?」
「ちょっ、汚染とかマジ失礼だし!」
すかさず渚が突っ込む。
「で、用件は何だ?」
絵恋は抗議を無視して聞き返す。
「あ、コーヒー豆が切れそうなんすけど、高すぎて届かないんすよねー」
頭を抱えて悶絶していた翠が答え、絵恋が棚を見上げた。
「取りづらいな。いくつ必要だ?」
「三つでお願いしまーす」
絵恋が手を伸ばした瞬間、渚の手がその胸を鷲掴みにした。
「やっぱ最高……マジ癒やされるわ~」
「このまま肘鉄を喰らうか、今すぐ手を離すか、選べ」
渚が慌てて手を引くと、絵恋はその手にコーヒー豆の袋を乱雑に押し付けた。
「他には?」
「ないです!」と、翠。
「不便なら下に移すぞ?」
「大丈夫っス。踏み台とか置いといてくれると超助かるかも」
「踏み台か……店長に買わせよう」
「あざっす!」
二人がホールへ戻っていく。
「あ……あのぅ」
再び悠太が顔を出した。
「ああ、賄いを作れ。後で休憩を回す」
「了解っス。……あと、ホールが立て込んできました!」
「分かった。すぐ行く」
絵恋は腕時計を確認し、肺の空気をすべて吐き出すようにため息をついた。
「悠馬の奴……さっさと戻ってこいよ」
はいから亭の夜は、さらに激しさを増しそうだった。




