十四品目
梅雨の晴れ間、臨時休業中のはいから亭を訪れる和影。酪農の夢と大学進学の間で揺れる彼に、店長の悠馬は温かい助言をする。そこへ成績不振の春歌と桜花が乱入し、物語は賑やかな勉強会へ。
梅雨の合間の晴れ。
何日ぶりかに晴れ渡った空には雲ひとつなく、もう夏と言わんばかりの陽光が湖面をキラキラと照らしていた。
『誠に勝手ながら、工事のため臨時休業とさせていただきます』
「はいから亭」の入り口には、そんな張り紙が掲げられていた。
普段は客が利用する駐車場には業者の車が停まっており、休業を知らずに訪れた客が、張り紙を見ては残念そうに店内を覗き込んでいく。
作業員が慌ただしく動く中、悠馬は一人、事務室で書類を整理していた。
「失礼します」
そんな中、和影が事務所の扉を叩いた。
「おや、上総君。今日は臨時休業ですよ」
悠馬は驚いた様子で顔を上げた。
「分かっています。実は、相談がありまして……」
和影は控えめに返事をした。
「珍しいですね」
悠馬は意外そうな顔をしながらも、席を立った。
「ちょっと待っていてくださいね」
悠馬は和影を事務室に残して外へ出た。扉越しには作業員たちの会話に加え、電動工具の音が響いてくる。
「皆さん、コーヒーを淹れましたので、一服してください」
しばらくすると、悠馬の声が聞こえてきた。
「すいません」「いただきます」
作業員たちが礼を言うと、工具の音が止み、足音が遠ざかっていった。
「お待たせしました」
悠馬がお盆に二つのカップとコーヒーサーバーを乗せて戻ってきた。
「普通のコーヒーですが、上総君もどうぞ」
サーバーから注がれた液体の香ばしい匂いが、狭い事務室を満たした。
「本当に普通のコーヒーですか?」
和影はカップを受け取りながら、怪訝な顔をした。
「コピ・ルアクではありませんよ。残念ながら、セントラルキッチンで挽いて袋詰めされた普通の豆です」
「それを聞いて安心しました」
和影はホッとしたように、コーヒーを一口含んだ。
濃いめに淹れられたそれは苦みが強いが、温度が絶妙で、嫌な後味もなく、どこか甘みさえ感じられた。
「店長が淹れると、味そのものが違う気がします」
「まあ、私の趣味ですから」
悠馬はいつものようにニコニコと笑いながら、自分も一口飲んだ。
「それにしても、この店ではコピ・ルアクは不評ですね」
「飲んだ時は確かに美味しかったんですけど……豆の正体を知ってしまうと……」
和影の言葉に、悠馬は薄く笑った。
「いまだに信じられないですよ。百グラムで五千円以上の価値があるなんて」
「初めて聞くと驚きますよね。それだけ希少価値が高いということですよ」
二人は顔を見合わせて、小さく肩をすくめた。
「さてと……」
悠馬はカップを机に置き、背筋を伸ばした。
「相談とは何ですか?」
和影は両手でカップを持ったまま、少しの間、沈黙した。
「店長は、東京の大学を卒業されていますよね?」
言葉を選ぶように、慎重に切り出す。
「大学に進学して、後悔したことは……ありますか?」
悠馬は意外そうな表情を浮かべた。
「それはまた、どうしたんですか?」
「従兄弟に、東京の大学へ行った人がいるんです。でも、半年もしないうちに通わなくなって、今年から休学していて。なのに、その大学の学生であることを鼻にかけて、自慢ばかりしているんです。正直、鬱陶しくて……」
「『自分はこの大学の人間なんだぞ』というプライドだけが残ってしまったんですね」
「そんな感じです。別の親戚の子が今年大学生になったんですけど、この前の集まりで『俺より格下の大学じゃん。俺は滑り止めで受けたけどね』なんて言って、大顰蹙を買っていました」
「それは……言ってはいけないことですね」
悠馬は腕を組み、深く息を吐いた。
「努力して良い大学に入ったのは知っています。でも、入った途端に気が抜けてしまったというか……。そんな従兄弟を見ていると、自分も進学して後悔しないか、従兄弟のように目標を見失わないか、不安になるんです」
悠馬が何かを言おうとした時、扉をノックする音が響いた。顔を出したのは、濃紺の作業服を着た責任者だった。
「店長さん、コーヒーごちそうさまでした。カップはどうしましょう?」
「こちらで片付けますので、そのままで大丈夫ですよ」
「分かりました。ありがとうございました」
責任者が扉を閉めると、再び電動ドリルの音が響き始めた。
「上総君、申し訳ありませんが、片付けを手伝ってもらえますか?」
「もちろんです」
二人はホールへ出た。和影は慣れた手つきでお盆を運び、悠馬はシンクにお湯を張ってカップを浸けた。
「さて、続きですが」
事務室に戻り、悠馬は残りのコーヒーを均等に注ぎ分けた。
「『大学に進学して後悔したか』という問いですが、私は全く後悔していません。学びたいことのために進んだ道ですから」
「店長は、大学で何を学んだんですか?」
「それは……そのうちお話ししますよ」
悠馬がはぐらかすと、和影は残念そうに肩を落とした。
「上総君は、将来どんな仕事に就きたいのですか?」
「酪農業に進みたいと思っています。親戚の牧場で働きたくて。そのために、農業系の大学へ行こうと考えているんですが……高卒ですぐ働くのと、何が違うのか分からなくなってしまって」
「それは大きな違いがありますよ」
悠馬は力強く否定した。
「現場で技術を学ぶのも大切ですが、大学ではより体系的で深い知識を得られます。それは将来、必ずあなたの武器になる」
和影は苦笑した。
「親も親戚も、同じことを言いました。でも、さっきの従兄弟みたいに目的を見失うのが怖くて……」
「結論から言いましょう。あなたは従兄弟と同じ轍は踏みません」
悠馬の目は真剣だった。
「迷っている時点で、答えは出ています。彼との違いは『ゴール』の場所です。従兄弟は『大学入学』をゴールにしたから燃え尽きて目標を失った。でも、あなたのゴールはその先にある『酪農』でしょう? ならば、大学はただの通過点に過ぎない。自分を見失うはずがありません」
和影の表情に、少しだけ光が差した。
「もう少しじっくり考えてみてください。私も、ご両親と同じく進学をお勧めします。あなたなら、そこで多くのものを得られると信じていますから」
「……ありがとうございます」
和影が少し安堵した表情を見せた、その時だった。
「お疲れさまでーす!」
「バイトの者です!」
休憩室から元気な声が響き、事務室の扉が勢いよく開いた。そこには春歌と桜花が立っていた。
「あの、店長……この二人、中間テストの結果が相当ヤバかったらしくて」
和影が苦笑いしながら追試の事情を話す。
「追試になってほんと最悪なんです! これ以上成績下がったら、バイト辞めさせられちゃうんですよ!」
春歌が泣きつかんばかりの勢いで言った。
「店長って全然そんな風に見えないですけど、一応大卒なんですよね? 本当に困ってるんです、なんとかしてください!」
桜花も必死な形相で訴える。悠馬はただ苦笑するしかなかった。
「……では、追試で挽回しましょうか。二人とも、まずは追試になった教科の答案を見せてください」
受け取った答案を見た瞬間、悠馬の動きが固まった。
「これは……本当に赤点寸前かよ……」
和影が横から覗き込み、思わず吹き出す。
臨時休業の午後は、賑やかな勉強会へと姿を変え、平和に過ぎていった。




