十三品目
梅雨時の「はいから亭」。キッチン担当の好青年・足立充が「体を整える」ために休暇を願い出る。その真意は、アマチュアボディビルダーとしての大会出場だった。秘密を知った女子高生バイト達は大騒ぎを始め……。
はいから亭のキッチン担当、足立充は人当たりの良い好青年である。ほっそりとした体格には似つかわしくない力持ちで、調理のほかに力仕事を任されることも多い。
どんな頼み事も嫌な顔一つせずに引き受けるため、常連客の中には「隠れファン」がいるという噂もあった。
梅雨入りが宣言されたある日。灰色の雲が空を覆い、湿り気を帯びたランチタイムが過ぎた昼下がり。
「副店長、今日の賄いです」
充は皿に盛ったライスにカレールーを注ぎ、カウンターに置いた。
「ああ、助かる。私は休憩に入るが、何かあったらすぐに声をかけろよ」
絵恋がカレーに福神漬けを添え、サラダをお盆に乗せる。
「了解です」
充が短く応じた。
「そうだ」
休憩に向かおうとした絵恋が足を止めた。
「来週から二週間の休み、間違いなかったな?」
「はい。そろそろ『整えたい』ので」
「分かった。私からも店長に伝えておく」
絵恋は頷き、事務室へ向かった。
「そろそろか?」
やりとりを見ていた悠太が、手を休めずに充へ話しかけた。
「うん。少し太ったから、脂肪を落とそうと思ってね」
「そうには見えねえけどな」
悠太が横目で見るが、充はどこからどう見ても標準的な体格だ。
「悠太だって、そろそろじゃないのか?」
プリンターから吐き出される伝票を確認しながら充が聞いた。
「そうだな。そろそろキスもバスもいけそうだし……。たまには大会を気にせず、一人でのんびり釣るのもいいかなって思ってたけど、やっぱり考えてみるか」
「いいと思うよ」
冷凍庫から食材を出しながら、充は微笑んだ。
一方、絵恋は休憩室ではなく事務室で賄いを食べていた。
悠馬の几帳面さを映すように、机には書類が整然と並んでいる。その中の一枚に、絵恋の目が止まった。
「……新POSへの切り替え工事に三日? その間は店を閉めるのか?」
書類を手に取り、詳細を確認する。
「工事そのものは二日間……一日はシステム説明……対象は……」
そこまで読んだ時、開け放たれた扉の向こうから足音が近づいてきた。
「あ、あのぅ……佐伯さん?」
「どこで休憩しようが私の勝手だ」
足音の主は店長の悠馬だった。入り口で戸惑いながらも、彼はいつものようにニコニコしている。
「それよりこれだ。新POSの切り替え工事は一日で終わるはずだったろ?」
絵恋は書類を突きつけた。
「そうなんですけど……業者の機材都合で、二日に分けることになりまして」
「急に決めて、元からシフトに入っていたパート達はどうするんだ?」
「今、本社と掛け合っています。こちらの不手際ですから、当日出勤予定だった方には何らかの休業補償をしてほしいと」
「ダメならお前が身銭を切れよ」
苦笑いする悠馬を尻目に、絵恋はカレーの最後の一口を運んだ。
「そういえば足立が二週間休むと言っていたぞ。そろそろ『整えたい』そうだ」
「そうですか。今年もいい成績を残せるといいですね」
その時、一人のパートが顔を出した。
「店長、戻られていたんですね! トルココーヒーの注文が入りましたが、淹れられる者がいなくて」
「すぐ行きます。佐伯さんは休んでいてください」
悠馬は「よっこらせ」と声を漏らして立ち上がる。
「オヤジくさいぞ」
絵恋は呆れながら口元を拭った。
ホールに入った悠馬は、慣れた手付きで銅製のジェズヴェ(小鍋)に水、砂糖、コーヒー粉を入れた。
熱い砂の上でジェズヴェを回すと、瞬く間にコーヒーが沸き立つ。悠馬はそれを小さなカップに注ぎ、再び砂の上で回す。すると空のはずのジェズヴェから、再びコーヒーがモコモコと泡立ちながら溢れ出す。
それを三度繰り返す不思議な光景に、客は見入っていた。
「二卓さんのトルココーヒー、上がりました」
「ありがとうございます! 七卓さん、エスプレッソ三つ追加です」
お盆を受け取ったウェイトレスが、新しい注文を告げる。
「了解です」
悠馬はニコニコしながら今度はエスプレッソマシンの前に立った。豆を挽き、ホルダーをセットして抽出ボタンを押す。芳醇な香りが周囲に漂い始めた。
「店長、一卓さんからトルココーヒー四つです!」
別のウェイトレスが飛び込んでくる。
「私が代わる。店長、本社の影山常務から電話を欲しいそうだ」
賄いのお盆を片付けた絵恋がやってきた。
「すみません、お願いします。エスプレッソは七卓さんです」
悠馬は軽く会釈して事務室へ向かった。
「佐藤さん、手が空いたら来なさい。トルココーヒーの淹れ方を教える」
「はい!」
はいから亭は、俄かに活気づいていった。
西に傾いた陽が湖面に反射し、東の空が夜の色に染まり始める頃。
「とうちゃ〜く!」
駐輪場に一台の自転車が滑り込んだ。春歌と桜花の双子だ。
「おはようございまーす!」
「おはよーっす!」
二人が休憩室に飛び込むと、そこには神妙な面持ちでテキストを凝視する翠と渚がいた。
「あ、おはよう」
翠が顔を上げる。
「春歌っちと桜花っち、相変わらず元気だねぇ」
渚も視線を落としたまま応じるが、春歌がスマホを突き出した。
「見てください! マジですごいもん見つけちゃいました!」
画面を見た途端、翠と渚の耳まで真っ赤になった。
「ちょっ……! 何これ、ヤバっ!」
翠が悲鳴を上げる。
「うわっ、マジでありえないんだけど! 何見せてんの!」
渚も叫ぶが、春歌は容赦なく画面を近づける。
「よく見て、これ!」
二人は赤面しながらも、好奇心に抗えず画面を凝視した。
「これ、もしかして……」と翠。
「足立さんじゃん? マジうけるんだけど!」と渚。
「見つけたとき、マジでテンション上がりましたよ!」と桜花。
四人の少女は、画面の中の「足立充」に釘付けになった。
「めっちゃ硬そう!」
「なにが?」
「デカくない!?」
「だから、どこがよ!」
「触ってみたくないですか?」
「ピクピク動きそう!」
事務室の扉越しに響く騒ぎに、充と悠馬は引き攣った笑いを浮かべた。
「……何を想像しているのか分かりませんが、足立くんの話題で盛り上がっていますね」
悠馬は呆れたように息を吐いた。
一方ホールでは、休憩室から漏れる際どい会話を聞いてしまった客が、絵恋に不快な視線を投げた。絵恋の表情が般若のように強張っていく。
「……少し抜ける」
怒りの臨界点を超えた絵恋が、バックヤードへ踏み込んだ。
「お前ら!」
般若面の絵恋が休憩室に入った瞬間、四人の脳天に拳が炸裂した。
「大きな声で何を話してるんだ! ホールまで筒抜けだぞ!」
四人が頭を抱えて黙り込むと、絵恋の視線がテーブルのスマホに落ちた。
そこには、ボディビルパンツ一枚で、鍛え上げられた筋肉を誇示し、マッスルポーズを決める充の姿があった。
「……なんだ、この画像か」
驚く様子もなく、絵恋は淡々と言った。
「あいつは特に自分からは言わないが、足立はアマチュアのボディビルダーだ」
その言葉に、四人は唖然とした。
事務室から、笑うしかないといった表情の悠馬と、顔を真っ赤にした充が出てきた。
「あの……恥ずかしいので、あまり広めないでください……」
充が蚊の鳴くような声で頼む。
「すご! 上腕二頭筋の盛り上がり、マジハンパなくない?」と渚。
「腹筋もシックスパックで超硬そう!」と春歌。
「お腹パンチしても弾き返されそう!」と桜花。
「胸板ピクピク動かせますか?」と翠。
四人は一斉に充を質問攻めにした。
「ほら、お前らも早く着替えろ!」
困り果てた充を見かねて、絵恋が助け舟を出した。四人を更衣室へ押し込む。
「早くしないと就業時間だ! タイムカードを押してホールへ行け!」
ガン!と扉を蹴飛ばす絵恋の姿に、悠馬が呆れ笑いをもらす。
「来週から二週間ですね。大会、いい結果が出るよう頑張ってください」
充は「頑張ります」と深く一礼した。
「今日は上総が休みか。珍しいな」
「ええ。予備校に通い始めたと連絡がありました」
絵恋が壁に貼り付けてあるシフト表を見ながら言うと、隣でシフト表を確認しながら悠馬が答え、絵恋の前に立った。
「上総君は予備校を優先に予定を組むそうです。今日は忙しくなりそうです。ホールへ行きましょうか」
悠馬はふっと微笑んで付け加えた。
「絵恋さん、今日も綺麗ですよ」
一瞬、絵恋の血液が沸騰したようになったが、彼女はすぐに大きく息を吐いた。
「……たまには正直に褒められておくよ」
二人は柔らかな笑みを交わし、事務室を後にした。
その直後、更衣室の扉が少しだけ開き、四人が顔を出した。
「ねえ、店長と副店長って……マジでどういう関係?」
翠が誰にともなく聞いたが、誰も答えられなかった。




