4 温室
進められるままにエラムは椅子に腰を落とす。さっきからひと言も言わないのは、ルーデシアに見とれていたからだ。
待ち合わせ場所から移動距離ゼロの、ピクニックの要素はどこにも無いピクニックデートは今、エラムの妄想によって補填されている。
バスケットから次々と食器とサンドイッチが出てくる。デザートのリンゴもテーブルに置かれた。
白く細い指がこまめに動く。だが、右の人さし指をかばうような動きに気づいたエラムは、その手を取った。
「これはどうしたんだ?」
指先に血のにじんだ痕があった。
「あ、それはさっき割れた鉢を片付けていたら」
「切ったのか? 薬は?」
「洗いましたから」
ルーデシアはなんとか手を引っ込めたいが、エラムは離してくれない。
「それだけじゃだめだ」
エラムは片手でルーデシアの手をつかんだままもう片方の手でベルト鞄をゴソゴソと探る。
「土や植物を触るときは手袋をつけるのは鉄則だ。毒草に触れたり、虫に刺される危険だってある」
目当ての小さな薬瓶を取り出すと、口に咥えるようにして蓋を外す。
瓶を逆さにして振ると茶色の粉が傷のうえに振りかかる。
エラムの手がルーデシアの指先を包む。外に長くいたせいか少し冷たくて、それが徐々に熱を持ち始める。その熱はルーデシアの胸にまで届いた。
魔術師というと、髪を長く伸ばしたミステリアスなイメージがあるが、エラムは髪を襟足で切り、シャツの上から無造作にベルトを巻き付けただけの文字通り庭師にしか見えない。
ロイドもエラムの事を庭師と呼んでいる。それは何故なのだろうと思った。
作業に使う道具が入っているのか、革製のカバンがベルト通しで固定されている。だいぶくたびれていて留め具が外れかけていた。
エラムは手を離すと、今度はベルトに引っ掛けていた手ぬぐいで粉を取り除く。すると傷跡はきれいに消えていた。
すっかり傷の消えた指をエラムはなおも両手で包むように撫でる。その動作がいつまでも続く。
「あの」
さすがにルーデシアが不審に思って声をかける。
「あ、悪い」
己の所業に気が付いたエラムだったが、取り繕うように大袈裟にルーデシアの指先を確認しながら手を離した。
「これでいい。でも皮膚がまだ薄いから気をつけろよ」
「ふふふ」
柔らかい声がエラムの頭のうえで聞こえる。見上げるとルーデシアが笑っていた。
「昨日とは全然雰囲気が違う」
「え、あ、まあ」
「ありがとう。あとでお薬代を」
「いいよ、これくらい」
「エラムからは頂いてばかりです。今日はその話をしたかったのですけど、また昨日みたいな話し方をされたらどうしようかと思っていました」
「ああ、だって平民の俺が馴れ馴れしくしてたら変だろ」
「やっぱり気を使ってくれたんですね。でもちょっと寂しかった」
寂しかった? 寂しかった、寂しかった、・・・俺に会えなくて寂しかった・・・?
「エラム?」
ルーデシアが不思議そうに見つめている。
「あ、ああ」
「どうぞ。ちょっと苦くなってしまったかも」
エラムの治療でお茶を注ぐタイミングを逃してしまった。夕暮れ色の液体の漂うカップが目の前に置かれる。ミルクも何も入っていないストレートティーだった。
「いただきます」
確かにちょっと渋みがあるが、その分、香りがしっかりと出ている。
「俺はこれくらいが良いよ」
ルーデシアも自分のカップに手を伸ばす。
「ミルクも砂糖も入れないんだな」
一瞬ルーデシアはむせそうになった。
「あの時は、ごめんなさい」
薬を盛ろうとしていた事を謝っているのだろう。
「なあ、聞いてもいいか」
ルーデシアは少し身構えた。だが覚悟していたことだ。
「はい」
「なんであんな事をしたんだ?」
ルーデシアはカップをそっとソウサーに置く。どこから話そうか、そしてどこまで話せるか、考えを整理する。
エラムはそれを手伝うように一つずつ聞いた。
「自分の意思で娼館に行こうとしたのか?」
「いいえ、でも、決めたのは私」
「誘われたのか?」
ルーデシアは首を振った。
「薬を用意したのは誰」
自分以外の人物が関係している部分になるとルーデシアは言葉が止まってしまう。
お願いしますお嬢様――
ルーデシアの記憶の中でマーサの悲痛な声がこだまする。
その日は朝からマーサの姿が見えなかった。家の急用で出かけてそれっきりだと侍女長のリエットが言った。
そして夜になって憔悴しきった顔でマーサがルーデシアの部屋を訪れた。
「どうしたの? マーサ」
ルーデシアが訪ねると、堰を切ったようにマーサが泣き崩れてルーデシアの足にしがみ付いた。
「家の借金が膨らんで、もう私、ここにいられなくなります」
「まあ、お気の毒に。大丈夫、ロイドに言えばお給金の前借りだってできると思うわ。何なら私から話してみましょうか」
だが、マーサは首を振って泣き止まない。
「私の給金では足りません。借金は金貨50コルトもあるんです」
「そんなに?」
金銭感覚の疎いルーデシアでも、それが高額なのはわかる。
「だから私、今夜から娼館で働きます。それでも一年以上はかかるでしょうけれど、家族が生きられるなら、私の身体なんてどうでもいいんです」
「でも、一年もだなんて、マーサには無理よ」
「ええ、そうですよね。こんなメイドしかやった事のない私が娼婦だなんて、一晩でせいぜい銅貨数枚でしょうね。世の中不公平です。高級娼館ではたったの一晩で金貨50コルトももらえる人もいるっていうのに」
「まあ、そうなの」
「だから今夜からはお嬢様のお世話はできません。どうぞ祈っていてください。この薬が上手くいくことを」
そう言ってマーサは薬瓶を取り出して見せる。
「これはひと匙飲めば、牛が乗っても起きないと言われる即効性のある睡眠薬です。客にこれを飲ませて服を脱がせば、翌朝にはきっと、事が終わったものと思ってご機嫌で帰っていくに違いありません。私、これを買い付けに街へ行っていたのです」
「そんな薬が街で売られているの?」
「もぐりの魔術師はいくらでもいますから。ああでも」
マーサは薬瓶を握りしめて泣き崩れる。
「これを毎日客に飲ませるなんて、いつかはバレてしまうかもしれない。ああ、私が一晩金貨50コルトを稼げるような高級娼婦だったら」
「マーサ、泣かないで。他の方法を考えましょうよ」
「いいえ」
マーサは強く首を振る。
「もう娼館と契約してしまったんです。金貨50コルトを娼館に立替えてもらいました。だから私、返しきるまで客を取らないといけません。ああ、爵位があれば、高級娼婦として売り出せたのに」
「爵位?」
「そうです。高級娼婦というのは皆、爵位を持った令嬢なのです。お嬢様みたいな」
マーサの言葉にルーデシアはどきりとした。自分も娼婦になる可能性があると言われたような気がしたからだ。
「え、私と同じ人たちが娼婦をやっているの?」
「ええそうです。中には趣味でやっている方もいます。ルーデシアお嬢様でしたら一晩金貨50コルトなんて楽勝でしょうね」
ルーデシアはマーサの握りしめた薬瓶を見つめる。
「ねえマーサ。その薬はどうやってお客に飲ませるつもりなの?」
「え? お嬢様」
――そういうことか――
エラムの声がルーデシアを現実に戻した。
見るとエラムがこちらを見ている。少しのびた前髪の奥から、鋭いまなざしがルーデシアに向けられていた。
「悪い」
先程とは違う声のトーン。冷静にルーデシアを見据えて言う。
エラムはルーデシアの一つか二つ年下だろうが、何故か今は大人びて見えた。
「指の傷を治すときに、記憶を読む魔法をかけさせてもらった」
「え、記憶を?」
「あまり長くは持たないんだ、今、ルーが思い浮かべたものを見ただけだ」
ルーデシアが立ち上がって口を押える。
「そのマーサという侍女の代わりに身を売ろうとしたわけだ」
大丈夫、うまくいきます――
私の言う通りにすれば、お嬢様は決して傷つくことはありません――
マーサの真剣な顔が浮かぶ。
「うまくいくわけないだろ」
今の記憶もエラムは読んだのだろう。
「俺から見てもバレバレだったよ」
ルーデシアの記憶のマーサにエラムが鋭く指摘する。
エラムはもっと別の指摘もしたかったが、今はやめておいた。
「ひどい」
ルーデシアはそれだけ言うのがやっとだった。
その言葉にエラムは傷ついたような顔をする。傷ついているのはこっちなのに。
「お帰りください」
エラムは慌てて立ち上がる。
「すまない。本当に」
「もう二度となさらないで」
「わかった。しない。ルーが嫌がる事は絶対にしない」
エラムはルーデシアを見ながら温室の戸口に向かう。途中何度もプランターやバケツを蹴飛ばしてしまった。
戸口のドアノブに手をかけたとき、もうこれで彼女には会えないのだ、という絶望が襲った。
『何か言わなくては、でも何を言えばいい?』
「あの」
睨むルーデシアを見て、怒った顔も可愛いと、新たな感動が湧く。
「良かった。その、もっと厄介な、脅迫とか、マフィアとか、そんな事に巻き込まれていなくて」
「え?」
吊り上がっていた眉がふとゆるんだ。
「心配だったんだ」
ルーデシアの怒りが和らいだことに少し安堵したエラムはドアを空けて出ていく。
エラムはその後、急用を思い出したと言って仕事をきり上げた。帰りながら、せめて一口でもサンドイッチを食べたかったと後悔した。




