短編『死後の世界』
夕暮れ時、机に向かって、パソコン画面を眺めていた。
私は、机の上の封筒を見やり、頭をぼんやりさせた。
少し厚みのある封筒、祖母からの仕送りだ。貰いすぎだと思う。
祖母は株の運用が人一倍上手いけど、投資先を間違えていると言いたかった。私はどん底にいる人間で、お金の育て方を知らず、人の役に立たない。
祖母にバレないように、正しい人にお金を渡そう。
私の場合、どん底とは、お金がないことでなく、何をすべきかわからないことをいう。
暗闇でキーボードを叩きながら、キーボードが光るよう提案した人はすごいなと思う。叩き心地もいい。このパソコンを作ったひとは天才だ。
私はどうしたら、自分が社会から浮き出ている感覚をなくすことができるか考えていた。透明人間になるにはどうしたらいいか。
人の文面を真似すればいい。適切な声量で、相手の鼻の頭を見て話せばいい。インターネットには、私への助言で溢れている。
母の言葉が苦しい。私をいたわる言葉で溢れ、真意が見えづらく、返答に悩む。
要は私がこの世で邪魔者なのだ。
食事作りはいい。手順も材料の分量も決まっている。
ただ手順に沿って手を動かせば、美味しいご飯が生まれる。
レシピ帳は、私には何やら魔導書のように見えて、ワクワクした。
父も母も、私に関心がないことはわかる。
私に会いたがってくれるのは祖母だけだ。
私が亡くなって、葬式代で両親が右往左往しないように、生命保険には入っていた。葬式でお金がかかるのは日本だけかな?
透明人間になりたい。私の周りの人は、皆とても賢いし博識だ。
あんな風にはなれない。
家の外を出て、今日の食材を買いに出た。
なんとなく、いつもの買い出しのルートを変え、電車に乗り、降りた先を道に沿って歩いていたら、庵を見つけた。
庵の扉を開けると、カランと音が鳴った。
客がいない。
奥の部屋から女主人が一人現れた。
女主人は美しい人で、袖が長い、禅僧を思わせる黒い衣をゆったりと着て、簡素な帯をしている。
畳部屋に案内された。
メニュー表には数品のみ、杏酒、白玉しるこ、抹茶のアイス。
杏酒と白玉しるこを注文した。
「どうぞ」とすぐに主人が品を持ってきた。
抹茶の小杯までついてきた。
しるこは、遠くに塩気を感じる甘味で、美味しかった。
杏酒の甘味に救われる。
木製の小さな店内に、壁に古い禅僧の墨跡が掛けられている。
文字が読めなかったが、なんとなく見つめ、女主人の意図を知ろうとした。
「ここは、はじめてですね。私は小喬と申します、お寛ぎください」
小喬はゆったりと椅子に腰をかけ、抹茶の小杯を啜る。
小窓から、涼しい風が入ってくる。もうすぐで秋になる。
穏やかな時間、しるこを、大切に少しずついただく。身体が温まる。
やがて完食し、同時に、あることを直感した。
「小喬さん、私は亡くなったのでしょうか?」
小喬は手元の小杯を見つめ、やがて目線を静かに合わせた。
「はい、先ほど亡くなられました。」
ふっと笑ってしまった。死がこんなに穏やかとは思わなかった。
「私今っ…幸せで…もう一杯杏酒を頂いても?」
私は片手で胸を押さえた。どう喜びを表現したらいいだろうか?
小喬は困ったような微笑みで答えた。
「承知しました。」小喬はカウンターの裏手へ下がった。
少し興奮していた。これが死。
なぜだろう、なんでもできそうな気がしてきた。
私が死んで、祖母は悲しんだろうか。それだけが気になった。
葬式代、かなりの金額だったはず。生命保険からちゃんとお金は降りたのかな。
アパートの退去費用もすべて賄えていたらいいのに。
小喬は、酒の小瓶を持って戻ってきた。
何から聞けばいいだろうか。小喬が静かに、小杯に酒を継ぎ足す。
「貴方が亡くなったことで生まれる費用は、すべて、あなたの保険金で賄えました。ほかのことについて、貴方が口にした疑問にだけ、お応えします。私から口出しするのは無粋ですから。」
「…はい、わかりました。」
いざとなると聞きにくい。祖母が淡々としていたらどうしよう。
それは寂しいな。
結果を知っても辛くない質問をしよう。
「私の両親は、私の死をどう思ったのでしょう」
「『…金が、手がかかる。アパートの住所も教えてくれない。なんという親不孝。弟は違う。いつも比べてきた。弟に対しては、どうして同じように思えないのだろう。弟の方が図々しいのに腹が立たない』と考えています。」
ふーん、という感想しか出てこなかった。まあそんなもんか。
私を理解してくれるひとは、祖母だけだった。
亡くなる前、故郷の田舎から祖母の家に行き、数ヶ月生活を共にした思い出が、私の中で輝いていた。
幸せだった。
祖母は台湾出身で、品があり、好き嫌いがはっきりしていた。
嫌なことを嫌と言える祖母に気に入られることは、これ以上ない幸福だった。
最後に直接会って、話ができたらよかった。
「祖母が亡くなったら、私は祖母と再会できますか?」
小喬は抹茶を啜り、頷いた。「はい、この庵で再会し、お話ができます。」
もう十分、過去に未練はない。
「これから、私は何をしたらいいでしょう。」
振り返って小喬に聞いてみた。
さっきまで椅子に座っていた小喬の姿が消えていた。
代わりに、半透明の人々が、部屋中に立っており、静止していた。
よくみると、父、母、弟、中学以降会ってない友達が、庵のなかに半透明の姿で立っていたり、椅子にもたれかかったりしていた。大学の先生までいる。半透明の父に近づくと、「おやすみ、良い夢を見てください」と声が響いてきた。就寝前の父の定番セリフだ。この瞬間、父に感じていた理不尽さへの怒りが消えた。
「父さんは、私が独り立ちしてから変わった。昔は、悪口ばかり言われていたのに。私が独り立ちし、しばらくして病で入院し、支えてくれていた時の両親は、私の知ってる両親じゃなかった。子が独り立ちして、二人は変わったのかもしれない」
父の姿が消えた。こうやって、現世の未練を解消していくのか。
母の姿は、父と共に消えた。母は、父の付属品のようだったから仕方ないかもしれない。
収集する情報も、手料理も、父が好むものを追求していた。
私が中学で悪目立ちしていじめられるよう、皮の手提げバックを買ったことも、悲しかった。あれは悪意なのか、いいカバンを持たせたかっただけなのか、真意がわからない。ただ母はいじめ気質だった。
でも母の姿がないということは、私がこれを特に気にしていないということだ。ならいいか。
弟の姿まで薄くなり出した。一応触れてみると「玲ちゃん…」と言って静かに下を向いた。
「優秀で、私のことバカにしてたよね、うん、正しいよ、広いところで活躍してよ。それじゃあね。」と伝えても、半透明なまま。何かが足りない。「尊敬をしていたよ。幼い両親と荒んだ姉の間で、うまく立ち回って生きていた。友達もいて、最高にいい人生を生きていた。
羨ましかったよ。それじゃあまたね。」弟は消えた。
これで特に思い残すことは……ある。祖母だ。祖母の姿だけ消えていない。
でもこのままにしておきたい。
祖母だけは、私のことを想ってくれている、はず。
「未練、無くなりました」私は小喬に伝えた。
小喬さんは面白そうに私を見つめた。「おばあさんはいいんですか?」
「拠り所だから、真意を知りたくないんです。いいです、このままで。」
祖母は木の椅子にクッションを乗せて、座っていた。
「そう、ではあなたはここに留まることになります、転生できません」
小喬はそう言って、カウンターの奥へ消えて行った。
店内に残るのは、私と祖母の姿だけ。
ずっとここにいていいだろうか。現実の世界なら、2時間くらいまでは留まっても失礼に当たらない。もちろん店の状況によるけど。
そういえば、杏酒、白玉しるこ、値段が書いていない。
リュックサックを弄る。財布は…ない。PCしか見当たらない。
ここで数時間働いたら、チャラにしてくれるかな。
小喬が、今度はみたらし団子と抹茶を持って現れた。
私の目の前の机に並べ、また、カウンター横の椅子に座り、杏酒を口にした。
「あの、実はお金がなくて…360円しかもってなくて、払えそうにありません。ここで数時間働き、それを対価とすることはできますか?」
「わかりました。それではまず、あなたが受けたサービスのうち、未払いとなっている部分を明らかにしましょう」
「杏酒、白玉しるこ、みたらし団子と抹茶は…無償サービスですよね?
あとは、現世での未練の解消、頂いたサービスはこれくらいでしょうか?」
「総額、一ヶ月分の労働で釣り合いが取れます、みたらし団子と抹茶の分は無償サービスです。しかし、貴方の祖母の幻影、困りましたね。次に利用するお客が気にかけてしまう。」
私は、祖母の幻影が邪険にされるのが、悲しかった。
「わかりました、祖母と対話します。」
私は祖母に近づいた。
『私より先に……なんてこと。もっと話したかった。一緒に旅行にも行きたかった。話したいことがたくさんあった。私は、この子が一人ぼっちで理不尽を我慢してきたことを知っている。私も似たような境遇だから、私はこの子の理解者だったと思う。数ヶ月ともに過ごした時間は、宝物だった…』
祖母の姿が消えない。私が執着しているんだ。
「小喬さん、ごめんなさい。私が祖母に執着しています。」
小喬さんは静かに思案をしていた。そして、唐突に行った。
「わかりました、ここを貴方の仕事場にしてください、私はしばらく休みます。貴方のために、食事を作ります。貴方には、世界を作る仕事をして欲しいのです。」
キョトンと、小喬を見つめた。
何を言っているのか、わからなかった。小喬は話し続けた。
「私はここで、亡くなった方の未練を聞き、解消してもらい、
死後、美しい場所へ送る仕事をしていました。
私は仕事を一度辞めます。しばらく、この庵の主人は貴方です。」
「世界を作る仕事とは、なんですか?」
すると、小喬が店内の、天井まで届く本棚に向かい、一冊の本を取り出した。色は新緑で、美しく装丁されていて、適度な厚みがある。
「これから、お客さんがいらっしゃいます、その方がゆったりと過ごせる空間を、この本に書いて欲しいのです」開いてみせた本は、どのページも白紙だった。
「訪れる方は、皆名のある人々ばかり、中には神様もいます。目立つゆえ、何世紀にも渡り誹謗中傷に晒されるのが常なのです。一人になり、穏やかに自分と向き合う空間を欲しておられる、そんなお客様を相手に執筆していただきます」
信じがたい話だった。文字起こしだけで、世界が生まれるという。
「練習しますか?」小喬がいった。藁にもすがる思いで強く頷いた。
「それでは…私はどこにいますか?」小喬は目を閉じた。
改めて小喬の姿を見た。禅僧のような姿。
自然のなすがままに流される気風。
そんな印象を受けた。表情が静かで、声のトーンも心地良い低さ。
「…貴方は、4畳半の部屋にいます。畳の上の座布団に座っています。漆塗りのテーブルが部屋の中央に置かれている。卓上には、上等の玉露の缶があり、湯呑みと、程よい暖かさの湯が入ったポットが置かれている。小皿には生菓子が置かれている。」
小喬がクスリと微笑んだ。「…猫が欲しいです」と囁いた。
「テーブルに敷かれた2枚の座布団のうち、一枚の上に猫が寝転び、眠っている。」
「二段の背の低い本棚があり、薬草の研究資料の束が、麻紐でまとめられ、本棚に鎮座している。」
「部屋の窓は、天井から床に届く長さがあり、側壁一面はガラスでできていた。ガラス面からは、海が一望でき、陽光が差し込み、部屋中を照らした。」
「少し暗いと嬉しいです」
「ガラス面にはすだれがついていて、すだれを下ろすと、屋内の明るさはささやかなになった。屋内には、暖炉があり、暖炉の隣に、薪置き場がある。ガラス戸は開くようになっている」
「…素敵です、十分すぎるくらい。薪はどうやって入手すればいいですか?」
「建物のそばに貸し出し自由の薪置き場があります。建物のガラス戸に向かって反対側に、建物の出入り口があり、森が広がっています。付近に木こりの家があり、時々木を切り倒し、採光にムラが出ないよう森を管理しています。木こりたちは、切り取った木を扱いやすい長さに加工し、フリースペースに薪を置きます。ここから薪をいただき、薪割りをし、暖炉用とします。」
「家庭内ゴミは、乾燥させ粉々にする機械を、屋外に導入します。」
「畑を作り、堆肥、草木灰、落ち葉を混ぜ、種を植えます。どんな作物が欲しいですか?」
「そうですね…トマト、キャベツ、にんにく、玉ねぎです。」
「ではそれらの種を植えましょう。牛を一頭、畑をすくために用意します。」
「耕し、種を蒔きは一人でできます。除草、収穫を手伝ってくれる人が欲しいです」
「それでは先ほどの木こりをひとり、指南役兼手伝いとしてやってくることにしましょう」
「…すごいです。私が暮らせる家ができました、その本に、私の家の間取りと仕組みを清書してください。」
言われた通り、文字と斜線ばかりのページを破り取り、清書した。
「この庵に戻ってくる方法は?」
「文の末尾に、覗き穴を描いてください。内装と覗き穴の形をリンクさせてください。例えば万華鏡を書き、創造した部屋に万華鏡を置けば、それを覗くだけで、庵に帰ってこれます。」
「本は閉じておいても大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」
「不思議ですね、なんでこの世界より大変そうな世界を作らせたんですか?」
「私が生きることの大変さを知ることで、ここでより良い相談相手になれると思うからです。良い仕事をしたら、いつの間にか生まれ変わり、現実を生き始めます」
ここで仕事をする以外、抜け出す方法はないんだな。
なんだか窮屈な感覚がわいた。
「それではお達者で。最後に一つだけ、ここでは偽名をお使いください。」
「わかりました、礼と名乗ります。」
「礼様、またお会いしましょう」
小喬は机に向かい、本を開いた。そして、覗き窓を見つめ、消えた。
本の中に吸い込まれたり、透明になっていくといった前触れもなく。
私の力を使って鍛錬の場を作るなんて。不思議な人だ。
今後、私は訪れるお客さんと、新しい世界を作るんだろう。
その後、いろんな人が、庵ののれんをくぐった。
私は、客人の話をきき、質問をし、どんな世界で生きたいかを知り、
その世界を文字で描いた。客人は満足し、清書したページの覗き窓を覗き、消えた。
覗き窓の形はさまざまだ。小喬さんの場合は、梁の渦巻き模様だ。他には、バケツの中や、コンセントの穴、投函ポスト。
気づくと少年が立っていた。すでに依頼に答えた少年で、覗き穴は双眼鏡にした。覗き穴を介して、庵と行き来できると確認でき、ようやく心底ホッとした。他の人はみな、作った世界からなかなか抜け出したがらない。
「おかえり、体に異変はない?」
「うん」
そして間を置いて、少年は話し出した。
「すごいよ、理想郷さ。
僕、遊園地でホットドックを3つも食べたんだぜ。」
「向こうで友達ができてさ、遊園地の外に行ってみた。
案の定何もないから、みんなで遊園地の近くの資材置き場から
色々持ち寄って、家を作ることにしたんだ。河原でおおきな石と泥を
ブルーシートにありったけのせてさ。
それで家の土台を作ってから気づいたんだけどさ、」
少年はこちらを真っ直ぐ見つめ、
「一回庵に戻って、書き足してもらった方が楽じゃない?って。」
「気づいたか」
「俺たち、雨に打たれながら石を積んで、石と石の間の隙間を泥で埋めてさ。かなり本格的な基礎ができたんだよ。」
ごくろうさまです。
「こうなったらさ、資材置き場、作ってくれよ」
「わかった」
家を書いてくれと言わないところに、グッときた。是が非でも自力で建てるみたいだ。
一人で遊園地なんてつまんないだろうから、いろんな登場人物を書いた。そのうちの誰かが彼の友達になったんだろう。
木材を刻んで組み上げる丸太小屋を想定し、知りもしない丸太小屋の資材を調べながらサラサラと書いた。「へえー、丸太の隙間を苔や藁で埋めるんだ。」と、独り言を言いながら、組み立て手順、完成図を追記する。
死後PCが触れて、インターネットにつながるなんて、奇跡だ。
「どうだろう、これでもう一回この世界に入ってみて。」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
彼は本に書かれた双眼鏡を見つめ、消えた。
「ふう」と息をつき、椅子にだらりと寄りかかった。
小喬さんに会いたい。もし向かった先の世界で、以前と同じカウンセラーの仕事をしていたらどうしよう、もう会えないのかな。
それにしてもたくさん書いた、感慨深げに、本をぱらぱらめくる。
もう少しで一ヶ月経つ。僕はよく働いた。
一度、40代くらいの紳士を相手に仕事をしたことがある。
紳士曰く、このような仕事部屋はたくさんあるという。
部屋の表札に、家主の仕事内容がかいてあるという。
僕の部屋には「理想郷作ります」とあった。
扉を開くと、目の前には虚空が広がっている。しばらく眺めていると、たくさんの小さな灯りが煌めいていることがわかった。
僕のように、表札を下げ、仕事をしている人がたくさんいるみたい。
行ってみたいけど、その前に小喬さんに会いたい。
「あの…。」控えめな、鈴の音のような声が聞こえた。
小喬さんがいた。血まみれだ。よく見ると返り血だった。
僕は知っている。彼女は向こうで娶られたに違いなく、
彼女の旦那を殺したのが誰かも、僕は知っている。
彼女が消えて数十日、痺れを切らした僕は、彼女の世界にある箇所を書き加えた。戦、召集令状、平和で優しい世界を求める人には酷な脅威を創造した。
「あなたに会いたかった。」ただそう言った。
小喬は血染めの衣を見つめながら、ぽつりといった。
「追記したんですね。」
小喬は私を抱きしめ、頭を撫でた。
「私は、私を愛してくれる人が好き。」僕は呆然と、抱擁を受け入れていた。
「小喬さん、…すみません。」
「わたしこそ、不慣れな場所でひとりぼっちにして、すみません。」
「…あの世界で、縁談を受けました。素敵な人でした。
薬学の知識をほめられ、村人から重宝されました。戦がありました。
彼は、這うようにして私の元へ帰還し、亡くなりました。」
小喬は、手に腕章を持っていた。「これを忘形見に持っています、私はいつまでも彼を忘れません。
こんな私がそばにいるの、悲しいでしょう?」
「はい。」
僕は弁解した。
「…私心を働かせて、あなたを傷つけました。
…私は人を愛しても、幸せにすることができないみたいです。」
小喬は私を見つめた。
「大丈夫、あなたは、人をよい方向へ導くことができます。
「あなたは孤独に仕事に打ち込むことがお好きなよう、この子猫を、あなたに渡します」
小喬の手の中に、いつの間にか子猫がいた。
「どうぞ」手渡された子猫は、ここがどこかわからず、不安そうだった。
「交通事故で亡くなったみたいですね、きっとあなたの支えになります」
間を置いて、小喬は言った。
「あなたのくれた世界、素敵でした。幸せでした。恋愛も楽しみたいんです。追記箇所、削ってくれますね?」
「…はい。」僕は、小喬さんの世界を書き直した。
すると、小喬さんの服の返り血が消えた。
小喬さんは嬉しそうに、本を手に取り、ページを開いた。
「それで行ってきます。心配なので、度々帰ってきます。あなたは書き手としては、まだ精神的な未熟さを感じます。」
きっぱり言うと、小喬さんはまた本を見つめ、消えてしまった。
「…猫と一緒にいろとさ」猫がPCの隣で丸くなって眠っている。
猫が救いだった。コーヒー豆を挽き、フィルターにセットし、コーヒーの粉を入れ、蒸らし、お湯を注いだ。部屋中にコーヒーの香りが広がり、安心した。
そういえば祖母の家は、いつも線香の香りがしていた。仏壇に線香を焚き、お経を読み上げていた。欠かさず花を挿していた。
一度仕事を中断して、他の店に入っていみようかな。
扉を開け、看板を裏返し、虚空に足を踏み入れ、足の裏から反発を感じ、驚いた。歩ける。
「あ、そういえば映画が見たいな」
それらしい建物を見つけ、入ってみると、的中。映画のDVDがたくさん並んでいる。
「すみませーん、DVDを借りたいんですけど」
カウンターで声をかけても、誰も来ない。小銭を置いて、店を後にした。自分の部屋に戻ってみると、小喬がお茶を飲み、和菓子を頬張っていた。
「あ、おかえりなさい」小喬さんを見てホッとした。
小喬さんはDVDの束を見た、「お店、誰もいなかったでしょう」
「はい、対価として小銭を置いてきました」
「あそこには人はいません、対価は必要ないです。まあ、生前持っていたお金は、ここでは通用しないので、置いてきて良かったと思います。」
僕が席に座ると、小喬さんは奥の戸棚の方に向かい、小皿と湯のみをもち、小皿に和菓子と竹楊枝をのせ、僕の前に置いてくれた。お茶を注がれる。
「ありがとうございます…」楊枝を刺し入れるのが勿体無い、美しく意匠された和菓子だった。
「亡くなったのだから、食欲は無くなるだろうと思ったのですが…。
いざ目の前にすると、お腹が空きますね。」
「仕方ないです、生前の条件反射です。」
礼は部屋を見渡した。畳部屋に東南アジア風の仕切り、籐のソファ、
和の要素と東南アジアの要素が同居する、落ち着いた部屋だった。
「この部屋にあるもの、すべて他のお店の方から頂いたものです。
私が相談を受け、その対価として頂きました。」
小喬は、僕と向き合い「今日はどれぐらいお客さんが来られましたか?」
「えーと…8名ですね」名前を記録したメモを見返した。
「このお店の噂は広がっていますよ、私は端っこでコーヒーでも飲みながら、あなたの作った新しい世界を生きながら、あなたの仕事を見守ります。」
「はい。ただ…。話を聞いてくれるだけで解決する、という方がいらっしゃいます。あなたには仕事をやめてほしくありません。」
「うーん、この小さい空間を、二つに分けるとなると、窮屈ですね。」
そこで小喬がパッと手を叩いた。
「礼さん、私の診療所を作ってください。最低限の空間で大丈夫です」
早速本を開いて、小喬さんの仕事部屋を書いた。四畳半の和室。座布団、茶器、小皿と和菓子のストック、扇子。生け花。
窓辺から海とススキが見える、孤島の診療所。
小喬さんの職場の窓口になれるのはいい、危険そうな人は追い払える。まあ、僕含め皆死人なんだけど。
看板には「お話聞きます、別荘つくります」と書いた。
別荘というのは、僕が書く世界のことだ。
「死人は、ずっとここにいるんですか?」
小喬は首を横に振った。「心残りを解消したり、なにかに憧れたら、卒業です。気づいたら『誰か』になり、また人生を歩み始めます。」
「そうですか…」
祖母の幻影は静かに椅子に座っている。祖母の本音と向き合える気力が湧けば、この世界ともお別れ。
そんな感じがした。
「それでは、私はあなたのくださった世界に行ってきます。
また会いましょう、さようなら。」
「さようなら。」僕は小喬が消えるのを見守った。




