湖の怪
船を漕ぎ出してから30分、たいした景色の変化はない。
濃い霧に視界を遮られる、順路の手がかりは、湖面に浮かぶ赤い旗だけだ。
船の後方で、親父は白い球を緋色の布で包み、大事そうに抱える。
この白い玉は、塩だ。塩に水を少々加え、丸型で挟み固め、表面を磨いたものだ。
この世界には、異形の化け物がいる。ただ、滅多に姿を見せず、全体像の一部だけ目撃される場合が多く、その一部の像から、全体像を想像し、人から人へ口伝や絵、文章でその存在を認知してきた。
この、海につながる霧深いこの湖にも、そうした存在がいる。らしい。
近辺の村に目撃情報はない。ただ、好奇心から湖に近づいた者は、軒並み行方不明になっている。村長は確実に魔物が存在すると公に発言し、湖への立ち入りは禁じられている。
同時に、対策が講じられ始めた。まず、海につながる水路に土嚢を積み、湖と海とのつながりを切断した。
その上で、毎月こうして、高濃度の塩の玉を用意し、重い鎖で球を覆い、湖の底に落としていき、湖の塩分濃度をあげていった。しだいに、湖に小魚が浮かび上がるようになった。俺は湖の水をひと舐めしたことがあるが、あまりの塩辛さにその日一日頭痛に悩まされた。これでは到底魚は生きられない。化け物といえど、ここで暮らすことはできない。
「この追い込み方は、恨みを買います。」と村長に訴えようとした祭司がいたが、代案がないなら黙っていた方が良いと、付き合いの長い漁師が止めた。
鎖で巻き付けた塩の玉を湖に沈めながら、「これで一体何回目だろうか。」と親父に話しかけた。
「これで54回目だ。」湖の水は澱んでいた。
塩は高価なうえ、加工に手間をかけているから、相当の値段になる。
村は、資源をすり減らしながら、みたことのない怪魚を追い込んでいった。
「村長のやり方は好かん、素直に水を抜けばいい。」こう言ったのは、村の若者で、彼に多くの人が賛成した。
「村長は娘を湖で失ったから恨みが深いのだろう。」
村人は、村長に内緒で、湖の水を抜くことにした。ひどい匂いがし、この作業をするものは、顔半面を布で覆った。木桶で水をすくい、海に捨てる作業は、気の遠くなる、途方も無い作業に思えた。しかし実際は、三ヶ月で湖水の半分が除かれた。
「あともう少しだ…!」
湖の中心部の水面に、白い膨らみが見えるようになった。
作業中、ずっと同じ位置にいる。動く様子はない。
村人たちはぞっとした。あれの全容を見たくないと思った。
塩分過多で死んだ魚など見たことがない。村民はあまり中央を見ないようにして、水すくいを続けた。
怪魚はぶよぶよに太っていた。ところどころ骨が見える。随分前に亡くなり、小魚の餌になっていたのかもしれない。
薙刀で怪魚の腹を切ると、腹から髪の毛や革ベルトが見つかった。
皆、もう十分だった。もうこれ以上知りたくなかった。
怪魚の遺体を海へ放った。魚があらかた食い尽くしてくれるだろう。
湖底のところどころに塩の山があった。魚の遺体の山もできていた。
これらの塩を売り物にするわけにはいかず、この土地を埋め立てて広場や民家を建てるわけにはいかなかった。
そこで、海と湖を隔てていた土嚢を取り除き、海水を投入することにした。
塩の山は何回かに分けて海に捨て、お祓いの儀を行った。こうして、村人は水すくいや、塩を買う必要がなくなった。
みな、湖に対して恐怖と忌避の念が強く、だれも立ち寄らなくなった。
こういう場所に好んで居座るのは、異国のはぐれものだった。彼はここに家を建て、釣りをして暮らした。彼はこの湖についての逸話を旅人に話し、飯の種にしていた。
ある日、湖の際で水面をみつめている少女を見つけた。
少女は長いこと湖のそばで過ごし、日が傾くと消えた。体は細く、何かを口にするところを見たことがない。
ある日、男は少女に焼き魚を渡してみた。少女は串を手にし、手で白身をちぎって2、3口食べた。美味しさを表情が物語っていたが、遠慮がちで、すぐに焼き魚の串を、男に返した。男はなおも食べるよう串を突きつけたが、少女は「食べられない」と身振りで示し、去っていった。
あくる日、彼女がいた。男は焼き魚を持って、彼女に近づいた。
彼女は「食べられないの」と言った。男の故郷の方言で。
「同郷?」男は問うた。少女は首を振った。「あなたが話しているのを聞いて、あなたの故郷を知った。旅をしたことがあるの、何語でも話せる。」
「すごいな」男はその場であぐらをかいて座った。
「どうやって旅をしたの?」と聞くと、「海水に乗って」と返ってきた。
少女はいった。「いろんなところを旅した。この湖に入り込んでしまって、身動きできなくなって、困っていたの。時々海からやってくる小魚を食べていたんだけど、それでは凌げなくて、人間を食べるようになった。」
男は何も答えない。
「そうこうするうちに、塩の玉が次々、この湖に投げ込まれた。どんどん苦しくなっていって、周りの魚もみんな死んじゃった。水がなくなりはじめて、苦しみながら私も死んだ。」
「そうして気づいたら、ここの草はらで眠り込んでいたの。走馬灯を見た。旅先でのいろんな場面を見て、いろんな国の言葉が入ってきて、それらは整頓されて私の中にしまい込まれて、いつでも引き出せるようになった。」
男は答えない。
「これから私、どうしたらいいんだろう。」
しばらく黙って聞いていた男がぽつりと言った。
「村の男衆、みんな刺し殺せ、手伝う」
少女はきょとんと男を眺めた。
「一撃で決めれば、恨みは残らない」
少女は下を向き、水面を流れる若葉を眺めた。
男は少女の手にナイフを握らせ、力を込めて、彼女の手を握った。
「きみは、恨みが深すぎる。軽く流せるものじゃない。
早くそれを捨てて、僕と旅をしよう。」
そういって、少女の頭を撫でた。少女はボロボロ泣いた。
「僕は君が気に入った。」
少女の嗚咽が止まらない。泣き止むまで、男はずっと彼女の肩をさすった。
「そんちょうだけころす」
彼女はこの一点張りだった。
「村長は、塩の買い占めをさせて、村人も苦しめていた。」
大変な目にあったのに、元凶とそれに付随する事象を見事に切り分ける冷静さに驚いた。
「わかった、深夜に実行しよう」
村が寝静まった頃、村長の自宅の門前を男が見張り、少女は村長を殺した。
ナイフで一突きだった。即死だった。
少女が家から顔を出し、青年は少女の手を取ってすみやかに村を後にした。
湖まで駆け抜け、少女は湖に飛び込み、泳ぎ始めた。表情が明るい。
青年は、念のため、今夜中に居所を変えたかった。
それで少女に早く陸に上がるよう伝えた。
少女は全身の水気を布で拭き取り、しばらく焚き火に当たった。
そしてランタンに火をつけ、焚き火を消し、日が昇る前に、隣町に向けて二人は旅立っていった。




