+天の川の夜+
その晩、紬はなかなか寝つけずにいた――普段なら、布団に入った途端に眠りに落ちてしまうのに。
薬草を練り込んだ布を貼った足首が腫れ、熱を持っているのがわかる。夢中で走ったために、治りかけていた足をまた悪化させてしまったのだ。
ことの顛末を兄の凪沙にすべて打ち明け、散々呆れられたついでに毎度おなじみの長々としたお説教の後、過保護なほどに紬の足の手当を施した凪沙は、織部の寄り合いの席に戻って行った。
――いいか! 足が治ったら、きちんと御礼の御挨拶に伺っておくんだぞ!?
「……はい」
兄に言われた言葉に、布団に潜り込んだままの紬はちいさく呟いて、枕元に置いたかざぐるまに手を伸ばした。
このかざぐるまを持っているのは、あの牛飼いの青年だけのはずなのに、兄の凪沙の話では、今日あの荷を運んで来たのは、この郷を治める領主、鳴海柾鷹様の甥にあたられる拓陸様だったという。紬はかざぐるまを眺めながらしばらく考え、あ。と声をあげて、むくりと布団から起きあがった。
「牛飼いさんの知り合いが、拓陸様……?」
それならばわかる。鳴海の領館に知り合いがいると言っていたのは、その“拓陸様”のことなのではないか? 領主の甥御という立場にあるのなら、ご領主様に頼みごとをするにしても、紬が自分で頼みに行くよりは、遙かに聞き入れてもらえる可能性が高いのだ。
昼間、荷車に積まれた白絹の反物を目にした時は、ただ驚くばかりだったが、紬に説教を垂れながらも親切にしてくれた牛飼いが、きっと領館で働いているという知り合いに、口添えをして頼んでくれたのだろう。
紬は身を起こして布団から立ち上がると、奥の部屋の様子を窺った後、かざぐるまを手に戸口から外に出た。
闇に眠る家々は静まりかえり、広い集落の敷地の地面には手に取ることの叶わない星たちが、静かに光を放っている。
紬はその中のひとつに近づくと、明滅を繰り返す星のひとつを覗き込んだ。
――星の瞬きの奥底には、今の宵闇よりも更に深く暗い闇で覆われている。
この地に瞬く星々の下には分厚い雲の層があり、その下には広くぽっかりとした雲もなにもない空気の層があるという。さらにその下には“下界”と呼ばれる別の世界が広がっていた。
“天界”で、この鳴海郷で生まれ育った紬は、まだ一度もその世界を見たことがなかったが、この世界の川が流れ込む先の“雲海”から、その地上世界は透けて見えるのだと言う。
大きな罪を犯して天上を追われた罪人が流される下界――ごくたまに、気流の乱れに飲まれ、下界に落ちてしまう者もいると聞くが、落ちたら最後、二度と天界には戻れないと言われていた。行く道はあっても戻る道のない下界からみたこの星々は、下界では“天の川”と呼ばれている。
「あまのがわ……天を流れる川だなんて、そのままね」
自分もこの地を追われる身になるところだったのかも知れないし、もしやこれから、鳴海の領館より沙汰がくだるのかもわからなかった――天帝に献げる白絹を、自らの不注意ですべて駄目にしたのだ。それを牛飼いの青年と“拓陸様”に助けて貰った。
「足が、治ったら……」
“拓陸様”に会いに行こう。
本当にお礼を言わなければならないのは、あの牛飼いの青年にだが、きちんと互いに名乗り合うこともなく別れてしまった。この世界で牛飼いを生業とする者はとても多く、顔と声しかわからないたったひとりを探し出すのは、とても難しそうだった。それに彼が鳴海郷の者なのかどうかさえ、わからないのだ。
それならご領主様か、その甥御様だという拓陸様に頼んで、知り合いだというあの牛飼いの青年に、お礼を伝えて貰ったほうが良い。
紬はひとつ頷くと、立ち上がって自分の家へと戻って行った。
その数日後。まだ宵闇も深い頃、わずかな手荷物を持ったひとりの娘が織部の集落を発ち、徒歩で鳴海郷の領館へと旅立って行った。