+かざぐるまの雨+
山道を抜け、別の峠に差し掛かる手前で、とうとう雨が降り始めた。
ぽつりぽつりと道端に点を打っていた雫は、やがてパラパラと連続した粒に変わり、街道の土を黒く染めるほどの雨に変わった。
「ついてないな。……どこかでしばらく雨を凌ぐか」
雨に霞む景色に目を眇めて見渡せば、視界の果てに一際群を抜いてそびえ立つ巨木が目に留まった。街道を行く者達も皆、そちらへ駆け込んでいくのが見える。
あの位の大きさなら、自分ひとりが混ざろうと文句は言われないだろう。そう考えた彼は、皆と同じようにその巨木を目指し、牛車を引いて歩き始めた。
近づけば近づくほど、その木が圧倒的な大きさを誇るものであることに、彼は目を見張った。子どものころにこの街道を通った時には、速駆けの馬上で側付きの者の背に掴まっていたため、辺りを見ている余裕もなかったのだが、こんなに立派な木があったとは。
大人が数人がかりでようやく抱えられる程の逞しい幹周りと、子どもが簡単にくぐり抜けられそうに張り出した太い根を持つ巨木の下には、雨を避けて逃げ込んだ旅人達が方々に座り込み、葉陰の隙間からわずかに覗く暗い空を見上げていた。
近くの低木に牛の手綱を繋ぎ、巨木の下へと踏み込んでみれば、頭上を幾重にもびっしりと覆う枝葉に守られた乾いた地面が広がっていた。
彼も他の旅人と同じように、土から張り出した根の上に腰を下ろすと、懐から取り出した手拭いで、雨露に濡れた髪や衣を拭い始めた。
雨は止む様子もなく、目先に広がる草地をしとどに濡らし、葉を揺らしている。
彼はちいさく溜息をつくと、見るともなく頭上にそびえる巨木の枝先を仰いだ。
「クスノキか……」
呟いた途端、頭上からの水滴がぽつりと彼の顔を打った。
まるで問いかけに答えるようなその絶妙な間合いに彼は微かに苦笑すると、雫が濡らした頬を拭い、もたれていた幹から身を起こした。
「このまま止まなければ、今日はここで寝るしかないな」
連れ立つ牛のことが気に掛かり、繋いだ低木に目を遣ると、牛は繋いだ時と変わらずに雨の中を立ち尽くしていた。
「まぁ、あいつのおかげで都を出られただけでも、ありがたいってことか……」
――もう少し、下草の多い木に繋いだ方がいいんだろうか?
そう思い、彼は腰を上げると雨の中に踏み出して牛を荷車から外し、下草の多い別の木に手綱を括りつけた。
先ほどのねぎらいも兼ね、牛の首筋を軽く叩き撫でながら地面から引き抜いた下草をひと掴み、鼻面に差し出すと、牛は彼の手から直接下草を食み始めた。
「そういえば……腹が減った」
街道筋の宿場を頼るつもりで何も持たずに都を出たことを少し悔やみながら、仕方ないか。と彼は再び巨木の下に戻って行った。
腰を落ち着け辺りを見渡すと、少し離れた場所に、ふと目が留まった。
子どもひとり分ほどもある大きさの布包みに、一本のかざぐるまが挿してあったのだ。
空も暗く木陰にいるせいか、その荷に挿したちいさなかざぐるまの淡い色が、ひときわ浮き立って見える。
荷の傍らには、ひとりの少年が皆と同様に根の上に座り込み、じっと空を見上げていた。
あんな子どもが旅支度なんて、珍しいな……しかも、あんなに大きな荷を。
何気なく目をそらそうとした時、少年は傍らの荷物の中から、ごそごそと何かを取り出した。
膝上に布を広げ、さらに竹の皮を開いた様子に、あぁ、飯か。と心の中で呟く。
――親らしき連れはいない、か。……ずいぶん落ち着いているな。よほど旅慣れているのか?
握り飯を口にする少年の姿は、空きっ腹を抱えた身には目の毒だと、彼は再び遠くの景色に目を遣った。
少し明るくなってきたか。この分ならもうしばらくは行けそうだな。
しばらくぼんやりと雨に煙る景色を眺めるうちに、上空の暗い雲が風を受けて流れ、降りしきる雨の勢いが弱まっていくのを感じた。
雨宿りをしていた旅人達も、先を急ぐ者は早々に旅路へと戻り始めている。
それでもまだ、これからの旅路に備えて木陰で休息を取る者は数多く、彼も懐の煙草を探りながら、見通しのよくなった街道へと目を遣った。
せっかくだし、止むまでもう少し待ってみるか。
雨の中を出ていく旅人を見送っているなかで、ふと先ほどのかざぐるまの少年に目が留まった。
少年は握り飯を七つ、八つと次々に指先についた米粒まですべて平らげ、意気揚々と傍らの荷物に手を伸ばした。
楽しげに荷の中に腕を差し入れた少年は、再び竹の皮に包まれた握り飯の山を取り出し、膝の上に広げている。
――おい、まだ食うのか!?
いや、他人が飯をどう食おうが構わないけど、それにしたって食い過ぎだろう。とその少年の旺盛な食欲に、内心冷や汗を浮かべながら眺めていると、突然、頬を一杯に膨らませ、モゴモゴと口元を動かしながらこちらに顔を向けた少年と視線が合った。
「……?」
「あ――いや。なんでもない」
いかにも物欲しそうな顔をしていたかも知れない。と、鳴き出した腹の虫に顔を赤くして目をそらすと、少年は膝に乗せた握り飯をひとつ手に取り、彼に差し出した。
「牛飼いさんも、食べる?」
「――は?」
牛飼い?
「あの牛。牛飼いさんのでしょ?」
彼の牛を指差して尋ねた少年に、彼は一瞬口を開け、牛と連れ立つ己の事情を説明しようとしたが、たまたま居合わせた子どもに、いちいち説明する必要もないだろう。としばらく沈黙した後に、ひとつ溜息をついた。
「……見てたのか?」
「さっきのどしゃぶりの時、あの牛を草がたくさんある場所に繋げ直してたでしょ? こんな雨じゃ、ひとも牛も食べて元気出さないと、疲れるもんね」
これで、足りる?
少年は立ち上がり、近づいてくると握り飯を四つ乗せた竹の皮を彼に差し出した。
「こんなに分けて貰って、この先は大丈夫なのか?」
「うん。どうせもうすぐ雨も止むし、近道すれば夕方までには帰れるから」
「ふーん……じゃあ、遠慮無くもらう。ありがとう」
――あれ? こいつ……?
間近に少年の顔を仰いだ彼は、握り飯を受け取ると、おとなしく食べ始めた。
少年は竹筒から茶を注ぎ、彼の傍らに置くと、自分用に塩むすびをひとつ取り出して、彼の牛を眺めながら尋ねた。
「牛飼いさんは、これからどこに行くの?」
「――都から家に戻るところだ。もうずいぶん長いあいだ帰ってなかったし、道が悪い上にあいつを連れてるから、たぶん戻れるのは夜も深くなってからじゃないかな」
「あ、道かぁ……この雨で、きっと泥だらけだね」
チラリと荷物を気にした様子の少年に、彼は辺りを見回した。
「おまえ、たったひとりでそんな大きな荷を運んでいるのか?」
「うん。これはちょっと特別だから」
少年はそう言うと、自分の荷まで戻り、布包みの結びを解いた。
「……反物?」
「そう。まだ染めてないものばかり。全部で四十反あるから、ちょっと重いんだ」
だから、運ぶのにもお腹が空いちゃって。
口をへの字にして溜息をつく幼い顔に、彼は驚いて問い返した。
「四十!? なんで、染めてもいない布をそんなに……?」
「これはまだ下織りの状態。一度見せてからじゃないと、本織りに入れないんだ。だからこれでいいの。織部に戻ったら、これを手分けして織り始めるってわけ」
包みを軽く手で叩く少年の言葉に、彼は茶をすする手を止めた。
「織部? ……おまえ、織部の者なのか。出身の集落は?」
下織りの白絹の反物をこんなに……次の織女の選出が始まっているのか……?
「鳴海郷だけど。牛飼いさんは?」
「――え? あ、俺も……知り合いが鳴海にいるんだ」
「そのひとも、織部のひと?」
「いや……鳴海の領館で働いてる」
「領館かぁ。じゃあ、たぶん知らないなあ」
織部とは、この世界に広がる数ある領国の中でも、ごく数カ所にのみ設けられた天帝の直轄地である。とはいえ、特別な法などで厳しく囲われているわけでもなく、その暮らしぶりは他の領民と変わりない。ただ、この集落に生まれた者は他の領民とは異なり、農作物を奉納するのではなく、そこに住まう民のみに許された、天帝を含めた都人たちの衣を織り、仕立てるという役目を担っていた。
一年を通じて身を粉にして働き、農作物を年貢として納める小作農民とは違い、日々機を織り、衣として仕立てる作業のほうがはるかに安楽かとも思えるが、糸の材料となる桑や蚕の世話から、都の貴族達から寄せられる何百種類もの絵柄の図案を織り物として仕立てる術も、すべてこの織部の者達の手によるものでなければならない。そして、そういった日ごろ身に着ける衣のほか、天帝が政の式典の際に身に付ける衣に於いては、その織部の中から特別に三人の娘が、織り姫――“織女”として選ばれ、三年の月日のあいだ都に上がり、天帝“竜王”の纏う装束すべてを担う決まりとなっていた。
“竜王”の名の通り、天界の王はひとではないと言われている。しかし政の席に、王は必ず人形を取って現れた。そのため、選ばれた織り姫達が竜王みずからから指南を受け織り上げた衣には、竜から人へと変わる力を持つ秘呪が織り込まれているのだと、まことしやかな噂が囁かれていた。
また、織女として選ばれた娘も任期を終える三年後には、ただびととどこか異なる気を持つ者に生まれ変わるのだと言う。そんな不確かな噂の影響か、織女として宮中で過ごした者の中には、噂の真偽に関わらず世の風説を疎んじて竜王宮に留まり、生涯を過ごす者が多いのだとも言われていた。
「今年は少し早めに反物が仕上がったから、都にも早めに持って行けたんだ。でも、一緒に行った兄さまが中秋節の舞を最後まで見てから帰るから、荷物と一緒に先に帰れって。ねえ! そんなの酷くない!?」
くやしい! 絶対見ようって決めていたのに!!
悔しさが甦って来たのか、反物を振り回して叫ぶ目の前の少年の細腕を、彼は慌てて止めに入った。
「お、おい!! 汚れたらどうするんだ!?」
「平気平気。今年は糸の出来が良くて、ご領主様のお家にはいつもの倍の反物を納めることが出来たんだ。織部にもまだ少しだけ余裕があるし」
もう数は納めたんだし、ちょっとくらい竜王様も怒らないって。
連れの者から都を先に追い出された恨みをブツブツと口にしていた少年は、明るさを取り戻してきた空を見上げ、衣の裾についた土を払って立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行かなくちゃ。牛飼いさんもお元気で!」
「あ、あぁ。飯、どうもな。おかげで助かった」
よいっしょ! と気合を入れ、四十の反物が入った大包みを背負いあげた少年は、木陰から足を踏み出すと振り返りながら笑顔で手を振り、街道に向かって草地の斜面をくだり始めた。
見送る彼の視界には、荷の頂きで微かに揺れるちいさなかざぐるまだけが残り、やがてそれも緑に紛れて見えなくなった。
あいつ、織部の者だったのか――それにしたって、なんであんな格好……?
鳴海郷なら行き先は同じだった。握り飯のお礼に荷車の隙間にでも荷を乗せて行ってやれば良かったと気づいたのは、姿が見えなくなってから。
牛を荷車に繋ぎ、手綱を引いて雨露に濡れた草地をくだりながら街道を見渡しても、既にどこにもそれらしき姿はなかった。
「まぁ急いでいたみたいだったし、この調子じゃ夜までかかっても、鳴海の口まで辿り着けるのかどうか……」
荷車を引いた牛と連れ立つ彼は、雨上がりの澄み切った空気を懐かしく思いながら、のんびり鳴海郷へと続く街道をくだって行った。