『油断しないで』8
『じゃあ早く帰りな。悪い事は言わない。黒い影はすぐそこまで来ているよ』
怖いと思えば、経験がそれを助長する。
前に会ったハンチング帽の男の言った言葉を思い出した。
「うぅ……。早くいこ」
独り言で不安を紛らわせてみる。オカルトは苦手っ……!
びくびく道を歩く私は、まるで罰ゲームでお化け屋敷を行く人みたいだった。他の人から見たらなんだか不審者っぽい。
人っ子一人いない細い道に、遠くから聞こえる賑やかな笑い声。アンバランスな空気が余計に怖くて。早く早くと急いた気持ちでお店へ向かいかけた……その時だ。
(く、靴音……!?)
コツコツと音が響いてきた。奥の道から一人分。
結城さんがさせる上品な音ではなく、ゴツゴツと言った方がいいような、ちょっと乱暴な音だ。
石畳を歩くせいか、時々地面を擦る「ガツッ」という音も混ざる。
闇から聞こえてくる音は確実に私の背後から、段々と近づいてきていた。
『悪い事は言わない。黒い影はすぐそこまで来ているよ』
また思い出してしまった。ついでに、あの男の不気味な姿まで思い出してしまう。
そうなると私の足は可笑しいほど動かなくなった。
ザワッ、と。
ひんやりした空気の流れが足元から這い上がってくる。……でもそれは多分気のせいなのだ。風なんてさっきから一度も吹いていないもの。
(え……どうしよう? とりあえず会っちゃったら「こんばんは」とか? いやいやいや……違う?)
恐怖が勝ると、何から何までパニックの原因になるらしい。
もう、ただの通行人すら怪しい人物にしか思えない。
不審者? 痴漢?
ぐるぐると巡る最悪事態のイメージ。
相変わらず足は棒で、全く動かなかった。
どうにかこうにか足を動かそうと、大きく息を吸った私。
そうそう深呼吸して落ち着きを……。
――と、思った時だった。
「こっち!」
左腕を強く引っ張られ、潜められた声の方へ大きく身体が揺すぶられる。
勢い余って、あんなに動かなかった足が大袈裟にステップを踏んだ位だ。
戸惑ってる暇も無く、私は声の主に真っ暗な空間――店と店の間の僅かな隙間へ押し込められた。
「こんな時間にこんな所で何やってんの! 花音ちゃんッ」
「……っあ!? 零さ」
「シッ!」
サッと口を押えられ、むぐ、と私の声はくぐもる。最後まで言わせてもらえなかった。
大きな、少し冷たい零さんの掌。
「………っ、」
彼も歩いてくる人物を気にしているせいか、視線は通りへ向いていて。緊張もあるのだろうか、指先にちょっと力が籠ってる。
そのせいで……
そのせいで、鼻っ! 鼻も一緒に塞がれてるんですがっ!? 息出来ないってば!
「~~~! っ! っ!」
苦しいくるしい! と零さんの胸元を叩いた。
むがむが、と騒ぐ私に、零さんの視線はやっとこちらに向いた。
うるさいと言わんばかりだった目が、一瞬で驚きに変わる。
「あ、ごめん」
「……死ぬかと思った……!」
「いや。見つかったら下手したら死ぬよ」
「は?」
「待って! 説明は後でするから、今は黙って我慢して!」
早口で言う零さんの声が耳元で響いた。声を潜めている分吐息まじりになって、それが私の耳をくすぐりまとわりついてくる。
ぞくっ、と背中に走る衝撃。変な声が出ない様必死に堪えた。
「ごめんね花音ちゃん」
零さんが囁く。
「はい?」
何が? と聞きたかった。でも、そうする間もなく、私は彼に抱きしめられて。
「えっ!?」
(ちょっ……、あれっ!?)
思わず出てしまった声を隠したかったのか、零さんは腕に力を入れる。ギュッと腰と後頭部を押さえつけられたせいで、私達の身体は必要以上に密着した。
(な、な……なにっ! なんなの!?)
この一連の展開の速さに追いついてこい、というのはかなり難しいと思う。
恐怖から驚き、そこからすぐに恥ずかしさ。
いくら結城さんのおかげで男性に抱きしめられる事に少し慣れてきたとはいえ、他の男の人にまでこういう事をされるのは……。困る。
――いや。そういう事では無く。
「……誰かいるのか?」
窺う声音が近づいてきた。
零さんの身体がピクリと反応するのが、腕から伝わってくる。フラフラ思考が彷徨っていた私も、そこで一気に現実に戻った気がした。




