18―離れても守りたいもの
戦争と反乱から恋人を遠ざけようと、女王は騒ぎの間中、彼をアルテンブルク王国の西の森に隠していた。
彼を人質にでも取られては、泣く子も黙る魔族の女王がただの愚か者になりかねないので、慎重を期したのである。
例の陰陽師のいた離宮を去った後、女王はすぐに恋人の無事を確かめに行った。
女王が護衛や世話係としてイヅノメ皇国に連れて行っていた他の面子は、それぞれにまだ役目があり戻らない。
反乱勢力を鎮圧し、退魔連合軍も一旦引き上げた今、問題はその騒ぎより、これと同時に皇国全土に現れた屍の群れとなっていた。
どこの村でも街でも、墓土を押し上げて骸が這い上がり、歩き回っているのである。
襲われるだとか、触れられるとどうにかなるだとか、そういった報告はまだ無い。
警備隊を含め、この不気味な現象に恐怖した人々は皆、屋内に閉じこもることを選んでいる。
当然、トシツネの故郷の村とて、例外ではない。
家族の無事を確かめたいという彼の願いを受けて、エルフリーデは彼をその村へ連れて様子を見に行くことにした。
他にすべきことは山のようにあるというのに、やはりトシツネは彼女の弱点なのである。
季節柄寒さが増したため、戸口が閉め切られていることは当たり前に感じられる。
しかし、その美しい農村もまた、屍の行軍による脅威に晒され、怯えの色が濃く漂っているために、昼夜を問わず不気味な静けさに支配されていた。
トシツネを固有空間へ入れた状態で、エルフリーデは彼の故郷へ転移した。
固有空間から出されたトシツネは、伯母の家の玄関前にいた。
「訪ねてくるといい。私は外を見張っている。何かあれば私を呼べ」
スカーフで軽く顔を隠しただけのエルフリーデは、上がることを遠慮した。
「そんな、陛下をこんな寒い戸口に一人立たせたままでは行けません」
焦げ茶色の瞳を潤ませ、トシツネは寒さのせいか悲痛とも取れる表情を浮かべていた。
エルフリーデは、そっと彼の髪を撫でて優しく微笑みかける。
「こんな時だ。私が魔族と知れたら、お前の家族は心配事が増えて辛い思いをするかもしれない。私のことはいいから、行ってこい」
それでも、トシツネはエルフリーデの白い手を片方取って、ぎゅっと握って離さない。
「せめて…今だけでもお傍にいさせてください」
泣き出しそうな表情のトシツネが、既にどこかおかしかったとエルフリーデが気づくのは、もっと後のことである。
この時のエルフリーデは、トシツネは故郷そして母国の危機に心細くなっているのだとばかり思っていた。
「わかった。では、上がって良いと言って頂けたらお邪魔しよう」
その手を両手で包み込んで、エルフリーデはそっとトシツネの頬に唇を寄せた。
ほんの一瞬、あやすように慈しむ柔らかな熱が、トシツネの頬に触れる。
まるでこれきりになるかのように、彼はぐしゃりと笑んで涙を一筋こぼした。
「大丈夫だ、トシツネ。私が全部守ってやる」
あなたのご無事が一番です、という言葉を飲み込んで、トシツネは涙を抑え込んだ。
「ありがとうございます」
どこか儚いような脆さをトシツネに感じながら、全てを守り切って早く彼を笑顔にしたいと、エルフリーデはそれだけを願っていた。
トシツネが戸を叩いて伯母に呼びかけると、二人は急いで中へ招かれた。
屍が徘徊する外は危ないという認識であり、一刻も早く身内を中へ入れて戸口を締め切りたいようであった。
そそくさと客間に案内されると、エルフリーデの座る場所には座布団が何枚も積み重ねられていた。
前回の訪問で彼女がどこぞの王であることが露呈してしまったので、最上級のもてなしのつもりであろうと思われた。
「伯父さんも伯母さんもコジロウも、皆無事?」
「そりゃ、籠りっぱなしだからね。それにしても、こんな訳のわからないことになっているのに、どこを通って来たんだい?」
「それは…」
伯母の質問に、トシツネは困ってエルフリーデのほうを見ると、出された茶を上品に啜っていたエルフリーデが、湯飲みを置いて彼の伯母に向き直る。
「トシツネのことは、必ずお守り致します」
それ以上詳しいことを問えない雰囲気を、伯母は感じ取った。
しかしこの伯母は、トシツネの母親代わりとなって彼を育ててきた女性である。
伯父が奥でコジロウの相手をしていて会話が聞こえていないのを確認してから、彼女は美貌の女王に真摯な眼差しを向けて口を開いた。
「女王陛下がお供も連れず、うちのトシちゃんだけを連れて、こんな距離を度々移動していらっしゃるところを見ると、ただの人間だとは思えません。ひょっとすると…」
トシツネの度胸はこの伯母譲りなのだろう。
「もし、私が人間でなかったら。彼を快く任せては、頂けないでしょうか?」
絶世の美貌に緊張が走っているのを、隣のトシツネは確かに見た。
彼女がこんな表情を見せることは滅多にないことを思うと、トシツネの胸は切なさに痛んだ。
「いいえ。トシちゃんが選んだ女性に、文句なんてつけませんよ。ただ、この子の兄は…」
「恥ずかしながら、兄上殿の理解を得るには至りませんでしたが、時間をかけてわかって頂きたいと思っております」
「面識がおありで?」
魔王相手に怖じもせず会話を続けられる伯母のことを、トシツネは自分のことは棚に上げて、随分大物だと思った。
「ええ、皇城と皇都で少し。全て落ち着いたら、新しい刀でも贈って差し上げようと思っているのです。一戦交えた際に、私が粉々にしてしまったもので」
「へ、陛下、兄さんは無事なんですか!?」
反乱軍鎮圧の際の事情を知らなかったトシツネは、慌てて口を挟む。
エルフリーデと本気で殺り合っていたなら、兄のハルツネなど一瞬でミンチになっていてもおかしくない。
「安心しろ。五体満足で縛って、死ねないように見張りと世話係をつけてある」
トシツネのほうを振り返って、エルフリーデは微笑みかける。
彼はそれに安心したが、伯母のほうは面食らったようである。
「それは…ハルちゃんはこの先、どうなるんですね?」
反乱勢力は鎮圧された。
普通に考えれば、ハルツネは反逆罪で処されるであろう。
「私は、兄上殿の命を守るとトシツネに約束しました。立場までは守れずとも、少々強引な手を使っても死なせはしないとお約束します」
暴君は横暴な笑みを浮かべて、真っ直ぐに青い瞳をトシツネの伯母に向けた。
その時、初めてこの伯母は恐れの色を滲ませてごくりと唾を呑み込んだ。
「悪いが、トシツネ。そろそろ伯父上殿と従兄弟殿へ挨拶を済ませてきてくれないか」
「はい、少し行って参ります」
トシツネが席を立ち、伯父と従兄弟のほうへ歩んでいく。
「すみません、伯母上殿。あまり時間が無いのです」
「いえいえ。どうせトシちゃんが我儘を言ったので、ここへ連れてきてくださったんでしょう?」
「…もっと我儘を言わせてやれる世の中に、早くしたいと思っております」
「大事にしてもらって、トシちゃんは幸せ者ですね。全部落ち着いたら、またゆっくりいらしてくださいな」
「ありがとうございます、伯母上殿」
この伯母の暖かな物言いに、エルフリーデはほんのひと時、立場を忘れるほどに穏やかな心持になった。
女王と知っても、人間ではないと知っても、トシツネの大切な女性として扱ってくれるこの伯母に、エルフリーデは心からの微笑みを浮かべて感謝した。
この時だけは、どこにでもいる、ただの恋する乙女のように。
帰り際、二人は玄関から外へ出て行こうとしたところを、伯母に引き留められた。
外は危険なのだから、必要が無いのなら出なくても良いと。
魔法に怯えもせず二人を気遣うこの伯母に、エルフリーデは感動と尊敬を抱いた。
厚意に甘えて、エルフリーデはその場でトシツネを固有空間に入れて、転移していくことにした。
流石にそれを見届ける伯母は始終驚いていたのだが、それでもいってらっしゃいと手を振ってくれた。
皇城の東の離れに、女王は転移してきた。
続けて固有空間からトシツネを出してやる。
反乱勢力の手から解放された例の女官が、そこで二人を出迎えた。
「あなたが無事でよかった。他の皆はまだのようだな」
「女王陛下もご無事で…!」
心から喜んで、女官は笑みを浮かべた。
「陛下、少し、お話したいことが」
真剣な面持ちで、トシツネが意を決したようにエルフリーデに声をかける。
「わかった」
頷いたエルフリーデは、女官を振り返る。
「すまない、しばらく二人きりにしておいてくれるか」
「はい、承知致しました」
お茶の用意をしようと思っていた女官は、それも取りやめて二人をそっとしておくことにする。
そうして二人きりになると、トシツネは胸に何か詰まってでもいるように、何度も深呼吸を繰り返した。
焦げ茶色の瞳をそわそわとあちらこちらへ泳がせ、ちらちらとエルフリーデを見てはまた視線を逸らす。
急かすでもなく、エルフリーデは彼が話し始めるのを黙って待っていた。
やがて、焦げ茶色の睫毛が生え揃った瞼が一度下ろされ、その目を閉ざして、トシツネは何度目かの大きな深呼吸をする。
もう一度瞼を開いた時、彼の瞳は真っ直ぐにエルフリーデの青い瞳に向けられていた。
「陛下。わたしと、別れて頂けませんか」
勢い良く発せられたその言葉に、美貌の女王はしばし瞠目した。
しかし、そのままどんなに待っていても、目の前の愛しい人の焦げ茶色の瞳は、真っ直ぐに彼女を見据えていた。
冗談でも、幻聴でもない。
「理由を、訊いてもいいか」
弱々しい声を、エルフリーデは絞り出す。
「…故郷が、恋しくなってしまいました」
そこで初めて、トシツネの視線が逸れる。
「今の皇帝陛下なら、わたしをこの国に受け入れてくださるのではないかと思いますし…。わたしはもともと、人間です。そのほうが、自然だと思うんです」
焦げ茶色の瞳を揺らしながら、トシツネはおずおずと視線を戻そうとして、それもできずにもう一度視線を逸らす。
「どんなに陛下のお傍にいたいと願っても、いずれわたしのほうが先に老いて死んでしまいます。辛いんです。同じ時間を生きられないと思うと」
エルフリーデがどんな表情をしているのか、トシツネは怖くて見られなかった。
そこに涙でも浮かんでいては、決心が揺らいでしまうと彼は思った。
「故郷の人々と接して、わたしの居場所はここだと思ったんです。だから、帰りたいんです」
矢継ぎ早に紡いでいく言葉は、棘を持ってトシツネの喉を傷つけながら外へ出て行くように、彼自身を痛めつけた。
それを聞いているエルフリーデは、どれほど酷く傷ついているか――今だけは、それを考えないようにしながら、トシツネは続ける。
「陛下に命を救って頂いて、ご厚意で良くして頂いて、なのにこんなこと、裏切りだとわかっています。けれど…お願いします。わたしには――」
喉だけではない。
胸も腹も、もっと身体の奥底も、わけのわからないくらいに痛んだ。
トシツネはそれでも、止まらない。
「わたしのような、ただの人間には重過ぎたんです。一国の君主の、魔族の女王の特別でいることは」
震えそうになる声を、真っ直ぐに戻そうとトシツネは自分を叱咤する。
傍に置いてほしいと、特別にしてほしいと望んだのはトシツネのほうであるのに、酷く勝手なことを言っているのはわかっている。
けれど、そう伝えると決めたからには、こんな中途半端なところで止めてはいけない。
「ごめんなさい。お慕いしていたのは嘘ではありません。ですが、どうかわたしをお捨て置きください」
そう言い切ったところで、彼は懸命にエルフリーデと視線を合わせた。
これでは、捨てられているのはエルフリーデのほうである。
白い瞼を静かに下ろし、エルフリーデは長い瞬きをひとつする。
再びその瞼が開いた時、その顔は毅然とした女王のものであった。
「それが、お前が自ら選んだ答えなら。私はそれを叶えてやろう。たった今から、お前は私の恋人でも臣下でもない」
自ら言い出したことであるのに、トシツネの胸は捩じ切れそうに痛んだ。
それを悟られたくなくて、彼はまた視線を俯ける。
「だが、最後にひとつだけ、頼まれてほしいことがある。これはお前の故郷を守るためにも必要なことだ」
最後、という言葉にまた、トシツネのそこかしこが痛む。
「ミカゲは私にお前を連れて来るよう要求した。もう少しだけ我々に協力していてほしい」
我々、という言葉の中に、もうトシツネは含まれていない。
トシツネは、この女王の何でもない、他人になってしまった。
「全てが終わって平和が戻ったら、故郷での安全な暮らしを保証しよう。皇帝には私から話を通しておく」
不意にくるりと背を向けて、エルフリーデは凛とした気配を僅かに崩す。
「…今までありがとう。私は、幸せだった」
その声色は紛れもなく、トシツネを溺愛し尽してきた、甘く優しい時間の中で美しく微笑むエルフリーデのものだった。
自分で書いておきながら変な話ですが、振られるのキツいですね。
いえ、私が振られているわけではないのですが…。
それに、理由を伝えて向き合ってくれるなら、何も言わず消えられるよりは何億倍もいいのですが。
もう早くハッピーエンドにたどり着きたいです。




