19―無力な愛の願い事
地脈や、魔水脈と呼ばれる魔力の流れを調査しに向かったヨハネスの帰りを、彼らは東の離れ棟で待っていた。
ヨハネスが戻ったら、その調査結果を見合わせ、今後の方針を話し合うことになっている。
先に戻って来たアルベルト、ミリヤム、ギュンターの三名に、事が片付いたらトシツネをイヅノメ皇国へ帰すとエルフリーデが話すと、何とも重くおかしな空気が流れた。
トシツネは俯いたまま何も言えず、誰とも視線を合わせられなかった。
その後すぐ、一度宰相と話をすると言って、エルフリーデはアルテンブルクへ転移していった。
彼女が戻って来てみると、ヨハネスの姿はまだなく、トシツネの頬が赤く腫れている。
「トシツネ、ちょっと来い」
そう言ってエルフリーデは、トシツネを皆から遠ざけて縁側の隅に呼び寄せた。
「その、頬」
僅かに赤く腫れたトシツネの左頬に、エルフリーデは手を伸ばした。
けれど、白くたおやかな手はその頬に触れることはない。
青白い光を宿し、手のひらをそこへ翳すだけである。
「アルベルトか」
トシツネは気まずそうに視線を逸らし、答えない。
腫れた頬は癒えていくが、彼の胸はそれ以上に痛んだ。
「ミリヤムならばそんなもので済まない。叔父上はそのような手段は取らない」
エルフリーデが転移していってすぐ、常ならば考えられないほどの勢いで、アルベルトはトシツネを問い詰めた。
自分から別れを告げ、人間らしくこの国で生涯を終えたいと伝えたと言ったところで、トシツネの頬に痛みが走った。
それからアルベルトは、二度とトシツネと目を合わせようとせず、口も利かない。
ミリヤムは、トシツネの目をしばらく見据えた後、今は様子見をしてやると呟いてどこかへ行った。
ギュンターは考え込む仕草をした後、これは仕方がありませんねと独り言ちた。
「申し訳ありません」
それは、アルベルトに伝えられない行き場のなくなった謝罪が、口を突いて出てきたものだったかもしれない。
女王の従者は、決してトシツネを許さないだろう。
怒りに任せて不義理な弟子を赤い炎で燃やし尽くしてしまわなかったのは、おそらく女王への忠誠心故なのだ。
「謝ることはない。私は充分満足している」
俯いていた顔をゆっくり上げると、エルフリーデは美しく微笑んでいた。
「お前は私に、他人を愛するということを教えてくれた」
トシツネは彼女が、裏切られて傷ついているだろうと思っていたのに。
その青い瞳は、彼を溺愛していた日々と変わらぬ慈しみを湛えて、優しくトシツネを見つめていた。
「出会った頃の私なら、力づくで従わせることしか考えられなかっただろう。でも、今は違う」
その言葉を紡ぐ薄紅色の唇は、花が綻ぶように柔らかな笑みを浮かべている。
トシツネはそんな彼女を、世界で一番美しいと思う。
「お前は、自分の意思で生き方を選べるようになった。私は、それが嬉しい」
責められたほうが、トシツネにはまだ楽だったのかもしれない。
こうして穏やかに接するエルフリーデを前にして、余計に心臓を抉られるような痛みが強くなる。
「陛下」
掠れた声で呼びかけても、それ以上何も言えず口を噤んでしまう。
ただ、あまりに美しいエルフリーデの微笑が愛おしくて泣きたいのを、堪えるだけで精いっぱいだった。
「今の私はお前が幸せでいてくれるなら、それが一番いい」
そう言うとエルフリーデは、背を向けて振り返らず室内へ戻っていく。
その姿を目で追いながら立ち尽くすトシツネの、彼女に癒されたばかりの頬に一筋、涙が伝い落ちた。
トシツネは、エルフリーデを熱愛している。
彼女の傍で静かに暮らせるなら、他の全てを捨てられるくらいに。
そして、彼女を守るためなら、世界だって滅ぼすくらいに。
自分のせいで彼女を危険に晒しているのだと初めて気づいたのは、いつだったろうか。
それはかの精霊が彼女の身を狙ってきたことと、その理由を知った時だったかもしれない。
もう随分前のことのように思えた。
あれから、女王の命を守ったなどと褒めそやされているうち、そもそも自分がいなければ彼女は危険と無縁でいられたということから、いつしか目を逸らしきっていた。
トシツネと出会う前、エルフリーデの身に最後に危険が迫ったのはいつであっただろうか。
それは、彼が垣間見た彼女の最も忌まわしい記憶であるという、あの恐ろしい父親に組み敷かれていた時かもしれないし。
そうでなく、別の何かの時かもしれない。
そこまでのことを、トシツネは知らない。
しかし、アルテンブルク王国は平和な国であると彼は聞いている。
現に、一国の君主たる女王に、換気のために窓や扉を開け放つ癖があるくらいである。
もともと、それこそ世界を滅ぼせるくらいの力と、治癒魔法という有用な属性を持つエルフリーデに、挑んだところで敵う者がどれだけいるであろうか。
彼女を狙ってくる者がいればそれは、余程の愚か者か、彼女以上の強者でしか有り得ないはずだった。
だから、彼女の身に危険が及ぶことなど、そうそう起こるはずがなかった。
それを覆してしまったのがトシツネである。
か弱い人間である彼を、エルフリーデは愛してしまった。
泣く子も黙る辣腕女王が、彼のこととなると冷静でいられなくなる。
彼を人質に取られでもすれば、王としての正しささえ崩れかねない。
彼の存在そのものが、彼女の弱点となってしまったのだ。
トシツネが傍にいる限り、そこにつけ込もうとするエルフリーデの敵は現れ続けるのかもしれない。
その度に、彼女とその周囲を危ない目に遭わせることになる。
今だって、彼女がかの精霊に乗っ取られかけたのも、その陰で糸を引いていた呪術師に危険な呪術を用いられそうになったのも、これから陰陽師の罠に自ら身を投じなければならないのも、全て彼がいなければ起こらなかったことなのだ。
更には皇国と連合軍との戦争も、兄を含む反乱軍の蜂起も、人間の自分が魔族の女王にとっての特別でなければ、起こり得なかったことだ。
全て自分のせいだと言っても過言ではないと、彼は思っている。
トシツネがいる限り、エルフリーデに安らぎは訪れないのかもしれない。
彼らは愛し合えば愛し合うほどに、周囲を巻き込んでお互いを憂き目に遭わせる運命にあるのではないか。
ならば、彼女の傍にいることを望むことこそが、彼の最も大きな罪なのではないか。
そこに思い至ってしまったのは、皆が戦いに赴いて役目を果たす間、トシツネだけがアルテンブルクの西の森に隠されて守られていた時である。
トシツネは無力である。
彼には、愛するエルフリーデを守れるような力は本来備わっていない。
彼女を守りたいなら、少しでも危険から遠ざけたいなら。
そのためにできる唯一のことは、彼という弱点を取り除くことしかないのではないかと、彼は考えた。
エルフリーデはトシツネを愛していると言った。
彼はそれを疑ったことは無い。
彼女のその気持ちを一番に考えるならば、その愛に応えることこそ重要なのかもしれない。
しかしそれは同時に、彼女の身の安全を犠牲にすることのように思えた。
死んでも貫き通す愛のかたちというものも、世の中にはあるだろう。
だが命を脅かすくらいなら、彼女をこの世から失ってしまうくらいなら、彼は彼女からの愛情を捨てるほうを選ぶ。
陰陽師ミカゲの言った青い瞳にかけられた呪いというものを、真に受けて気にし続けているつもりはなかった。
仮に、人間を愛する呪いのせいでトシツネがエルフリーデに愛されたのだとしても、結果として確かに彼女が彼に愛情を注いでくれた事実は動かない。
自分でなければならない理由が欲しいと少しも思わないと言えば嘘になるが、どんな理由であれ想い人の愛を勝ち得たことこそ奇跡と、彼は思ってもいる。
ただ、自分でなくとも彼女が愛せるのなら。
足手纏いにしかなれない、ただの平凡な自分を捨てて、もっとマシな誰かを見つけてほしいと。
そのために少しでも早く彼女の傍を離れ、彼女の心の中から消えることが最善なのだと。
それが、無力なトシツネからエルフリーデに捧げられる、愛のかたちなのではないかと。
彼はそう思って、別れを決断したのである。
エルフリーデに告げた別れの理由は、ほとんど嘘である。
自分を大切にしてくれる故郷の人々と離れて生きることや、人間の寿命ではいつか彼女を遺して逝かねばならぬことは、確かに気にかからないわけではなかった。
それでも、叶うならばエルフリーデの傍で幸福に生きたいというのが、そんなことのためには抑えようのないトシツネの一番の強い願いだった。
けれどもトシツネは臆病だった。
追い詰められれば驚くほどの度胸を発揮するというのに、こうして考えれば考えるほど、彼は臆病になる。
彼は何より怖かった。
自分のせいで、エルフリーデを失うことが。
あるいは、エルフリーデが誰かを失って、彼女の幸福もまた失われていくことが。
彼女に伝えた言葉の中で最も真実に近かったのは、彼にはそれらが重すぎたということなのかもしれない。
今更と、彼自身思っている。
それでも、気づいたのなら少しでも早い方がいいと。
願わくば、あの陰陽師の前で、エルフリーデがトシツネのために自らを危険に晒すことが無いようにと。
どうかもう、自分のために彼女の世界を壊すようなことが無いようにと。
世界を失うより深い恐怖に苛まれて、彼は願ってしまった。
毎話ご愛読いただきまして感謝申し上げます。
話がごちゃごちゃしてきましたが、今後ともお付き合い頂けますととっても幸いです。




