4―船上の好敵手
ギュンターは苦戦していた。
好きな女性を振り向かせるということに。
彼は、有り体に言えばモテる男である。
その見目の麗しさに物腰の柔らかさは、女性がこぞって憧れる王子様の姿そのものである上、本物の元王子で王位継承権を放棄した公爵という身分つき、更に独身で恋人無しというお買い得物件なのだ。
ちょっと拗らせていて、そのまま歳を取りつつあるという点を除けば、文句をつける方が難しい。
決まった相手もいないのに、彼に口説かれて落ちない女性は、そういないだろう。
そんな、絵に描いたような貴公子ギュンターは、たった一人の意中の女性には男として興味を抱かれず、悪戦苦闘の日々を過ごしていた。
船内の談話室で、彼らはお茶を楽しんでいる。
女王の優秀な従者が焼いた菓子は相も変わらず美味で、それを嬉しそうに頬張るギュンターの想い人――ミリヤムは、琥珀色の瞳を輝かせて美味い美味いと連呼している。
そんな様子を好まし気に見ている男は、この場に二人。
「総帥、よろしければ僕の分もどうぞ」
ごく自然に、隣に座るギュンターが自分の分の菓子をミリヤムの皿へ乗せてやる。
「さんきゅ!これほんと美味いわ」
ギュンターは、ミリヤムの喜ぶ顔が見たくてそうするのである。
彼女の心からの笑顔は、眩しい程に彼の全てを照らしてくれる。
「食べ過ぎだろ。太るぞ」
ぐいと、反対隣からその皿をテーブルの奥へ押しやって遠ざけたこの男こそ、美貌の貴公子ギュンター・グスタフ・シュレンドルフの好敵手。
ミリヤムの幼馴染、地理学者のヨハネス・デューラーである。
その姿勢からヨハネスの若々しく刈り上げた墨色の髪が目に入り、彼の小麦色に輝く肌と相まって、男らしさに自信がないというギュンターの唯一の劣等感が刺激される。
「大丈夫ですよ。総帥は今まで太ったことがありませんから」
少し棘のある声で言いながら、ギュンターは皿をミリヤムの手元に引き戻す。
「三十歳くらいの頃は少し太っていましたから。気を付けてやったほうがいいですよ」
平民のヨハネスは、公爵であるギュンターには丁寧な言葉を遣う。
同じく公爵夫人という位を持つミリヤムには、昔のままのくだけた言葉遣いなのであるが。
「気のせいなのではありませんか?もう何十年も、総帥は変わりませんので」
いつも隣にいる自分よりもミリヤムのことを良く知っていると言いたげな、このヨハネスの言が不快なのか、ギュンターは珍しく不機嫌を隠せない。
「いいえ。一緒に風呂に入っていた頃の話ですから」
淡々と告げるヨハネスのこの台詞に、ギュンターは紅茶を噎せた。
いくら子供とはいえ、同世代の男女が一緒に風呂だなどとは、王宮で大切に育てられたギュンターには考えられない。
それが田舎の村ではよくあることだとしても、そんな過去があるということも、それをこの男の口から平然と告げられることも、ギュンターには度し難かった。
「女性の知られたくない過去を暴露するなんて、無粋極まりありませんよ」
ついに、涼し気な目元に敵意を滲ませ、常は柔和なこの貴公子は横目でヨハネスを睨んだ。
「別にそんなこと、気にしないぞ」
ミリヤム本人はそう言いつつ、二人のほうには視線を遣りもせず菓子に手を伸ばし続けている。
「だ、そうですよ」
ヨハネスも、丁寧に接してこそいるが、売られた喧嘩はなんとやらといった雰囲気を漂わせて、ギュンターを見返した。
虎を彷彿とさせる力強い目を持つヨハネスがそうするだけで、山吹色の瞳が威嚇しているように見える。
二人の男が、彼女を巡って視線で火花を散らしている。
そんな様子に少しは何か感じるものがあったのか、琥珀色の瞳が交互に彼らに視線を送る。
「二人に挟まれてこうしてるとさ、なんていうか――」
ごくりと、二人の男は唾を呑み込んだ。
ようやく彼女が彼らの想いに気づいたのかもしれない、と、緊張しながら彼女の次の言葉を待ったのだが――。
「海賊の親玉みたいな気分になるな!」
ニカッと歯を剥き出して、ミリヤムは太陽のように笑う。
その歯の隙間には、焼き菓子にトッピングされていたナッツが、少しだけ挟まっていた。
二人の一番の敵は、好敵手ではなく、彼女自身のこの底知れぬ鈍さなのかもしれなかった。
「海の上っていうのもたまにはいいな!菓子もいいけど、ほら、肉とか酒とか持ってきたら、もっとそれっぽくなると思わないか?」
愉快気に、ミリヤムは一人で盛り上がっている。
左右の男たちは、大きなため息を吐いた。
「では、夕飯のメニューとしてアルベルト殿にリクエストしましょうか」
ミリヤムに甘いギュンターは、苦笑しながらも提案する。
「それこそ太るでしょう。それに、あまりこいつを調子に乗らせてもいいことありませんよ」
ヨハネスはあくまでギュンターとは反対の意見を言う。
これはどうやら、ミリヤムに対して言いたいことを言える仲であるということを言外に匂わせたいのだと、ギュンターは既に気づいている。
気づいているので、この温和な貴公子の闘志がいつになっても収まらないのである。
「いいことならあります。総帥が幸せそうに笑うと、場が明るくなりますから。ね、総帥?」
すっと、前触れもなくミリヤムの肩にかかる白銀の長髪を一房掬い上げて、ギュンターは上目遣いに熱を込めてミリヤムを見上げた。
もう会話の内容関係なく、強硬手段に出たのである。
この仕草、この角度で、美貌の貴公子にそのライトグレーの視線を注がれて、落ちない女性はいないはずなのである。
――ミリヤムを除いては。
「ん?髪に何かついてたか?ちょっと菓子を食べ散らかしてる気はしてたけど」
ギュンターの渾身の一手に対するミリヤムの反応は、これである。
「ええ、まあ」
落胆の溜め息を吐いて、ギュンターは肩を落とす。
気配も無く紅茶を注ぎ足しに来たアルベルトは、赤い瞳から僅かに憐れむような視線を向けていた。
「お前は食べ方が汚いんだよ。ほら、付いてるぞ」
ぐりぐりと、ヨハネスがミリヤムの口の端をナプキンで拭った。
確かに少しは汚れていたが、こんな少量ならミリヤムは後でぺろりと舐めてしまうことを知っていたので、ギュンターは何も言わなかったのだ。
やられた、と思った。
「そんな強く擦るなよ、乙女の玉肌が傷つくだろうが!」
言葉とは裏腹に、ミリヤムはさほど嫌がっている様子もなく、くすぐったそうに笑いながら楽し気に逃げようとする。
ギュンターのライトグレーの瞳は、いよいよめらめらと燃えそうに揺れている。
「もし傷がついていたら…そちらのヨハネス殿の代わりに、僕が責任を取ってあなたをお嫁にもらって差し上げますから、心配いりませんよ」
ギュンターはするりとミリヤムの片手を取り、反対の手で彼女の顎に指をかけて自分のほうへ顔を向けさせた。
いきなりのことに、ミリヤムはパチパチと不思議そうに瞬く。
「俺の代わりにシュレンドルフ公がなんて、とんでもありません。きちんと責任を取って俺が引き取りますので、お気遣い無用です」
残っているほうのミリヤムの腕を掴み、ヨハネスがぐいと引き寄せる。
彼女の姿勢がおかしなことになっている。
「左右から引っ張るな!何の嫌がらせだよ、痛いだろ!」
ぶわっと腕を振って、ミリヤムは二人とも振りほどいた。
「お前ら、いつの間に仲良くなったのか知らないけど、二人してあたしを玩具にするな」
琥珀色の瞳が、左右の男たちを交互に睨めつけた。
諦めたように、二人の男は肩を落とし、静かに紅茶に口をつけた。
その様子を少し離れた席から熱心に見ている、焦げ茶色の瞳があった。
瞳の持ち主であるトシツネは、何やら手元でメモを取っているようである。
彼の手から、ひょいとアルベルトが小さな手帳を取り上げる。
「“陛下の口説き方参考帳”…?何ですか、これは」
「ああ、先生!見ないでください!」
取り戻そうと手を伸ばすが、アルベルトがその手の届かないところへ持ち上げて、中身を覗いてしまう。
「おやおや、あのお二人を参考にしても、あなたには使えませんよ」
「ど、どうしてですか!?」
「シュレンドルフ公はその容姿が武器として、ヨハネス殿は幼馴染という立場が武器としてあるから、あれが成り立つのです。…まあ、成り立ってもいませんでしたが」
「わ、わたしには何があるでしょうか…」
真剣な表情でアルベルトを必死に見上げるトシツネを、アルベルトもまた真摯に見返す。
「度胸ですかね」
その答えに、落胆したようにトシツネは俯いた。
しかし、彼が今更エルフリーデを一生懸命口説く必要のないことは、明白である。
その肩に、寝たふりをした彼女の頭が、幸せそうに乗っているのだから。
そう、寝たふりである。
長年仕えてきたアルベルトには一目瞭然。
この女王は、素直にすり寄って身を預けることも、暴君らしく寄りかからせろと命じることも照れくさくて、寝たふりなどという手段に出てまで、トシツネに甘えているのである。
全く羨ましいことだと思いながら、アルベルトは“陛下の口説き方参考帳”なる無駄の塊を返してやる。
「こんな無駄なものを書いている時間があるなら、今から勉強にしましょうか?」
「そ、それは…」
肩の上のエルフリーデの秀麗な眉が、ぴくりと動いた。
だからこの従者は、ここで授業を始めたりはしないのである。
ようやく主君が手に入れた幸せを誰よりも喜び、ようやく見せてくれるようになったその笑顔を誰よりも大切に想っている自信が、彼にはあるのだ。
「冗談ですよ。陛下を起こしてしまっては申し訳ありませんからね」
静かに微笑みを浮かべて、赤い瞳はこの仲睦まじい恋人たちを見守る。
そしてまた、気配を消して給仕をする完璧な従者となって、皆の世話を焼くのである。
ギュンターにはゆくゆくは思い切り甘い言葉を吐かせてやりたいのですが、なかなかそこまで進展せず…。




