3―ローゼンシュトラウス子爵
エルフリーデが先に転移し、水晶を使って全員一瞬で転移してしまう案もあった。
しかし、人間たちを驚かせたり、警戒させるのは本意ではないということで、その案は却下になった。
十一月も終わる頃、まだまだこれから本格的な寒さが訪れるとはいっても、充分に寒い季節である。
それを考慮しても、訪問先に対し極力友好的に見せることを優先した彼らは、船旅を選んだ。
彼らが乗り込んだのは、寝室や食堂など何一つ生活に不自由しない施設が完備された、王家の紋章入の豪華な船である。
複雑に組み合わされた魔道具が自動操縦しており、万一不測の事態が起こった場合は、エルフリーデの魔法でなんとかするという大雑把な心積りである。
魔法の効果で異様に速度が速いのは、言うまでもない。
女王の護衛や世話係という名目のもと、暴君は好きな友人たちを旅の供に選んで連れて行こうとしていた。
船に乗っているのは、エルフリーデ、トシツネ、アルベルト、ミリヤム、ギュンター、そしてヨハネス・デューラーという地理学者である。
ここにヨハネスがいることに違和感を感じているのは、彼をミリヤムを巡る好敵手と捉えているギュンターだけではないだろう。
ヨハネスを連れて行こうと言い出したのは、その幼馴染であるミリヤムではなく、暴君エルフリーデである。
実は彼に爵位を与えようとして断られた過去もあるのだが、優秀な人材を自分の周りに取り込むのが好きな暴君は、彼を女王一味に加えることを諦めてはいないようだ。
目的地であるイヅノメ皇国は、自然災害が多いことで有名である。
そして、ヨハネスはアルテンブルク国内において、地理や地質を多角的な視点で分析することで、自然災害の予想を的中させたことがあり、その功績に以前からこの女王は目を付けていた。
今回の旅に彼の知識と分析力は役立つかもしれず、そして彼にとってもアルテンブルクの島の外の地質を研究できるかもしれない好機となる。
そう言って半ば強引に、この暴君は彼を連れ出した。
「ローゼンシュトラウス子爵」
昼間の太陽で暖かなうちに景色を楽しもうと、船の甲板から海を見下ろしていたトシツネは、誰かが誰かを呼ぶ声を聞いた。
「ローゼンシュトラウス子爵」
潮風が強くて聞き取りづらいが、これはギュンターの声だとわかった。
しかし、いったい誰を呼んでいるのだろうか。
そんな人物がこの船に乗っていただろうか――と、トシツネは、重要なことに気づいてはっとする。
「はい!」
振り返ると、涼しげな目元を細めて美貌の貴公子がクスクスと笑っていた。
「また忘れていましたね。ご自分のお名前ですよ」
「す、すみません!」
そう、これはトシツネの姓なのだ。
件の精霊と、二千年以上生きながらえた呪術師との戦いにおいて、トシツネは大きな功績を上げたとされ、女王から爵位を賜ることになった。
その際、もともと姓を持たなかったトシツネは、薔薇の花束の礼にと、女王直々に命名された。
トシツネの母国であるイヅノメ皇国では、貴族以上の身分の者しか姓を持たない。
アルテンブルクでは、基本的には身分問わず誰もが姓を持つのであるが、それだけでも国によって随分違うのだとトシツネは知った。
しかしこの、トシツネ・ローゼンシュトラウスという名前、本人にはあまりしっくり来ていない。
響きのアンバランスさもさることながら、意味までが兎に角こっぱずかしいのである。
ローゼンシュトラウスとは、薔薇の花束という意味を持つ。
こんな名前になってしまったのは、トシツネがエルフリーデに一生懸命贈った薔薇の花束と、その時捧げた気持ちを、彼女が泣いて喜んでくれたからなのであるが。
呼び名にされてしまうのは、流石にいたたまれないのである。
「僕は、シュトラウスだけで充分だと申し上げたのですがね。陛下は、それではありきたりだと言って、譲らなくて」
一応は、トシツネの姓を決めるにあたって、他の臣下とも相談してくれていたようである。
しかし結局、愛する恋人のこととなると譲れなくなり、エルフリーデの一存で決まるのだがら、あまり意味がなかったとも言えそうだ。
「あの、恥ずかしいですし、やはり以前のようにトシツネと呼んで頂けませんか?」
ほんのりと頬を染めて、トシツネは照れながらお願いをする。
姪であるエルフリーデが唯一の親戚であり、そのエルフリーデと歳の近いギュンターにとって、トシツネはもう義理の弟のように見えており、随分とかわいいと思っていたりする。
「ええ、いいですよ。けれど、その姓がそんなに恥ずかしいのなら、早く結婚してアルテンブルクになってしまうことですね」
クスリと、ギュンターは上品に笑う。
しかしそのライトグレーの瞳は、冗談を言っているというわけでもない。
「け、結婚なんて、まだ早いです」
「まだ、ということは。いつかはする前提なのですよね?」
「そ、それは…!」
真っ赤になって照れながらおろおろとするトシツネは、虐めがいがある。
しかし、こういうことをしているといつも――。
「私のトシツネをあまり虐めないでくれないか」
ぎゅうっと、トシツネの身体を後ろから抱きしめながら、案の定エルフリーデが止めに入った。
「仲がよろしくて、羨ましいですね」
柔和に微笑むギュンターは、姪が恋人と幸せでいることを、心から祝福している。
「でも、陛下。恋人なんて言っていないで、早く婚約をとりつけないと、トシツネ殿の気が変わってしまうかもしれませんよ?」
ふんっと、照れ半分、不機嫌半分といったふうに鼻を鳴らして、エルフリーデがギュンターを軽く睨む。
「トシツネはまだ若いんだ。伴侶を決めるには早すぎる」
先程から抱きしめられてのぼせ上っているトシツネにしてみれば、エルフリーデ以外の誰かに決める選択肢など存在すらしないのであるが。
それを言い出す勇気もまだ、トシツネにはないのである。
「結婚を急かす重い年増女だと、嫌われたらどうしてくれる」
尚もギュンターを睨む青い瞳が不安げに揺れるので、ギュンターは姪が本当にそれを心配しているのだとわかる。
彼らであれば、もういつ結婚しても気持ちは覆らないと思っているギュンターにしてみれば、これは苦笑するしかない。
「陛下がそんな調子では、僕に皺寄せが来るではありませんか」
困ったように眉尻を下げて、ギュンターがちらとミリヤムを見遣る。
何やらヨハネスと親し気に話し込んでいるその様子に、ギュンターは胸の奥がチリチリと痛むのである。
「叔父上こそ急がないと、持っていかれそうではないか」
エルフリーデも同じ方向へ一瞬視線を遣って、ギュンターの焦りを誘おうとする。
エルフリーデが世継ぎに恵まれなければ、ギュンターの子が王位継承権を持つ。
これは、そもそもギュンターに子ができればの話である。
つまり二人ともお互いに、相手が結婚して子供を儲けてくれないから自分が急かされている、と思っているわけである。
「陛下はいいですよね。トシツネ殿は素直で真っ直ぐで陛下が大好きなのですから」
後ろからぎゅうと抱きしめられる感触を享受し始めてから、真っ赤になって舞い上がってどこか別の世界にいるニヤニヤ顔のトシツネを見ながら、ギュンターは溜め息を吐く。
「総帥は手強いんですよ。全く僕のことを男として見てくれないんです」
深刻な表情で俯くギュンターを見て、エルフリーデは一度トシツネを離して、考え込む素振りを見せた。
トシツネはまだ、先程まで背中に感じていた柔らかい感触の余韻で、にやけ顔のまま意識は天国におり、戻ってこない。
「ミリヤムと叔父上は、普段から一緒にいすぎて、空気のような存在になっているのかもしれないな。一度距離を置いてみるとか、相棒を変えてみるとかすれば、やはり叔父上が隣にいるのが一番だと思うのではないか?」
エルフリーデの言うことには、一理あるようにも思える。
しかし――。
「相棒を変えるというのは、彼に総帥の隣を譲れということですか?それでは、本当に持っていかれてしまいますよ」
彼、というのは、勿論ヨハネスのことである。
「ふむ。確かにあれは仲が良さそうだ」
そこで、甲板へ上がってくる規則正しい足音が響いた。
「皆様、談話室にお茶の準備ができております。よろしければどうぞ」
女王ご自慢の完璧な従者、アルベルトが皆を呼びに来た。
この船内では、彼が全員分の世話を担っている。
身の回りのことを日頃から召使に任せきりにする者はここにはおらず、皆がたいていのことは自分でやるから成り立つのであるが、それでも食事の準備や掃除に始まり、この豪華な船で皆が快適に過ごせるよう完璧に整える手腕といったら、流石の一言である。
「では参りましょうか」
階段を下りて行こうとするミリヤムの背を見つめながら、ギュンターがライトグレーの瞳に常には無い光を宿してその後を追う。
ミリヤムの隣の席を、絶対に取ろうとしている顔だと、エルフリーデは思った。
「トシツネ」
先に行くギュンターのことは放っておき、エルフリーデは最愛の恋人の名を呼ぶ。
しかし、トシツネの目は現実世界に戻って来ておらず、まだ先程の背後からの抱擁の余韻に浸っているようである。
「トシツネ!」
「は、はい!」
がっと肩を掴んでエルフリーデが自分のほうへ向かせると、やっとトシツネは戻って来た。
「今、二人きりだぞ。だから、その…」
ボッと、音が鳴りそうに急激に、エルフリーデが頬を赤らめた。
その意味を察して、トシツネも緊張しつつ頬を染める。
そっとエルフリーデは、瞼を下ろして待った。
艶やかな黒髪が潮風に捲られて、時折白いうなじをさらけ出している。
長い睫毛が白い頬に影を作り、その滑らかな肌が照れと緊張で薄く染まっている。
恋人が美しすぎて、トシツネは触れれば壊してしまいそうな錯覚を覚えた。
それでも彼女は、彼に触れられることを待ち望んでいる。
愛らしいふっくらとした薄紅色の唇に、トシツネはゆっくりと自分の唇を寄せていく。
ふわりと重なり合う薄い皮膚が、甘い痺れを分かち合う。
柔らかく蕩けていくその感触を、彼らはそのひととき、密やかに慈しんだ。
一際強く風が吹く。
彼らは名残惜しみながら唇を離し、手放したばかりの温もりの残滓を手繰り寄せるように、熱く見つめ合う。
「お前はどんな景色を見、どんな音を聞き、どんな匂いのする土地で育ってきたのか。その土地の人々は、何を思い、何を感じるのか。私は全てを知りたい」
青い瞳が潤みながら、焦げ茶色の瞳にうっとりと眼差しを注ぐ。
「けれど、例えお前の全てを知り尽くしても、私は果てもなくお前を追い求めるのだろう」
焦がれるように甘く視線を絡め合ったまま、トシツネは何を言っていいのかわからず、ただエルフリーデを愛おしいと感じていた。
「だから、傍にいてほしい」
懇願するような声色に、恍惚としてしまう。
世界で一番好きな女性に、まるで最も価値あるもののように求められ、トシツネの何もかもが満たされていく。
「はい、陛下。お傍に、置いてください」
その美しいかんばせが、幸福そのものが花を咲かせるように、静かな喜びにふわりと綻んだ。
年の差があると色々と気を遣いますよね。
彼らには幸せになってもらいたいです。




