拗らせ貴公子の初恋
ギュンター・グスタフ・シュレンドルフは、実は恋愛面で、見た目よりも色々と拗らせていた。
彼は間違いなく、女性から好かれやすい男である。
顎のあたりまで波打つダークブロンドの髪に、涼し気な目元、すっきりと整った鼻梁に、上品な薄い唇、そしてライトグレーの瞳の魅惑的な輝き。
その中性的な美貌に、物腰柔らかな気品ある立ち振る舞いは、深窓の令嬢がこぞって憧れる貴公子そのものである。
極めつけに、彼は正真正銘の元王子なのだ。
にもかかわらず彼は現在、百七十歳――人間でいうと三十四歳――独身で、恋人も作らず、清らかな身体を保っている。
どうしてそんなことになってしまったのかと言えば、話は彼の幼き日にまで遡ることになる。
彼が王子であったのはほんの十年程度で、まだ物心つく前のこと。
年の離れた兄が王位を継ぐものと誰もが疑っていなかった状況下で、彼の両親は思わぬタイミングで二人目の息子を授かった。
その高齢出産がもとで彼の母は命を落とし、その十年後に急激に老け込んだ父もまたこの世を去った。
すぐに彼の兄、エアハルト・グスタフ・アルテンブルクが第十二代国王として即位した。
こうしてギュンターは、若干十歳で王子から王弟殿下になった。
エアハルトには、即位時には既に美しい后がいた。
彼本人の評判はあまりふるわなかったのだが、この后は国中の憧れであった。
エアハルトの即位から十年、そんな后そっくりの娘が国王夫妻のもとに誕生し、国中が湧いた。
悲しいことに、后はこの娘を産んですぐに命を落としたのだが、この娘が申し分のない魔力を示して見せたことで、お世継ぎはこれで決まりと、民の心は安らいだ。
ギュンターは、国民からの期待を受けずに育った王族であった。
そのことを不満に思ったことはなかったが、親の顔も記憶にない彼には、何とも言えぬ寂しさがつき纏った。
子供心に、冷酷な目をした兄や、皆に期待されもてはやされるエルフリーデという姪に、近寄りがたさを感じていた。
寂しいと思いながらも、不思議なほどに彼は孤独を愛した。
少年時代の彼は、それはそれは見目麗しい美少年であった。
当時の彼は、美少女なのか美少年なのか、服装で判断しなければわからないほどに愛らしかった。
顔かたちの美しさに留まらず、この美少年は時折、影のある微笑を浮かべたり、愛らしい睫毛を伏しがちにして哀愁を漂せたりと、宮廷の女官たちを腰砕けにしてしまうような表情を見せた。
皆が恐怖を抱く国王エアハルトに関心を示されず、王女エルフリーデに注目が集まるほどに日陰の存在となっていく王弟殿下。
いくら王宮で守られて育てられているとはいえ、この幼気な美少年が無防備であるように錯覚する者は、少なくなかったのである。
悪い大人というのはどこにでもいる。
魔が差すということも、どこにでもある。
ギュンターは、エルフリーデのような近寄りがたさを持たなかったためにか、何度もそういう大人たちを撃退する必要に迫られた。
つまりは、頻繁に悪戯されそうになったのである。
そういう者たちは勿論解雇であるが、それでもまた同じことが起こるのだ。
そうして側仕えさえ信用できなくなっていき、少年はますます孤独になった。
この頃から既に、女性という生き物に対する不信感が芽生えていたのである。
五十歳――人間でいう十歳頃――のある日。
とある侯爵家の開く茶会の席で、彼は少し年上の少女に出会う。
彼はもともと器用で、大人たちに無難に愛想を振り撒き、社交の場は卒なくこなしてきたのだが、この日はいつもと雰囲気が違った。
後から思えば、大人たちは初めから、この少女とギュンターの仲を取り持つためにこの茶会をセッティングしたのであるが、まだ幼い少年はそんなこととは気づかない。
コンスタンツェと名乗ったその侯爵令嬢は、ふんわりと色素の薄い茶色い髪を揺らし、薔薇色の頬をして花が咲くように笑う、愛らしい少女だった。
茶会で偶然――を装って――隣の席になった彼女は、鈴の音のような可愛らしい声でギュンターに親し気に話しかけてきた。
始めこそギュンターは当たり障りのない対処をしていたのだが、年上のその少女は徐々にギュンターの知らない知識や教養を披露し始め、少年から尊敬の念を引き出しておきながら、時折深窓の令嬢らしい無知を垣間見せ、庇護欲までを掻き立てた。
これは、大人たちが少々入れ知恵したせいもあったのだが、この少女は天性そういうことに長けていたのだ。
気づいた時には、ギュンターはこの少女との会話に夢中になっていた。
そして、かつて感じたことのない胸の高鳴りと、憧れのような熱を抱いていた。
これが彼の初恋である。
その後も何度も、彼女と会って話す機会が巡って来た。
周囲がそれを故意に準備しているとは思いもしなかった純粋な少年は、運命すら感じていた。
ある日の舞踏会にて。
その整った顔立ちと完璧な所作に加え、品の良い正装を身に纏ったギュンターは、申し分のない麗しさに周囲を溜め息させていた。
コンスタンツェの姿を見つけた彼は、迷いなく彼女のほうへ歩み寄る。
跪いてダンスを乞えば、快くその手を取られ、幼い胸を甘く震わせて舞い上がった。
ゆっとりと奏でられるワルツのリズムに身を委ね、ふわりふわり、くるりくるりと夢のように世界が回る。
背後の景色は回転して変わっていくのに、薔薇色の頬の微笑みは彼だけに向けられている。
繋いだ片手を固く握り、もう片方の手は彼女を支えるように背後に回している。
そうして触れ合う場所の全てが熱かった。
「あなたと踊れて幸せです」
まだ女性の口説き方もわからぬ少年の、これは精一杯の口説き文句であった。
「ええ、あたくしもよ。だってあたくし、ギュンター様をお婿にもらいたいんですもの」
これには、幼い頬を真っ赤に染めて、少年の胸が幸福でいっぱいに膨らんだ。
それ以上何も言えないままに曲が終わると、名残惜し気にその手を離して、礼をする。
そこで彼女は誰かを見つけた様子で、視線をギュンターの遥か後方から離さなくなった。
「お知り合いを見つけましたの。ギュンター様、また後で」
そう言うと、可憐なドレスの裾をつまんで、コンスタンツェは視線の方向へ行ってしまった。
ギュンターは彼女が向かう先が知りたくて、一生懸命彼女を目で追った。
しかし、人の多い舞踏会のことである。
このままでは見失ってしまうと、不躾ではあると思いながらも、彼女の後を追いかけた。
その光景に彼は絶句した。
コンスタンツェは、彼女よりも少し年上の少年と仲睦まじげに何事かを語らっていた。
その相手はがっしりと体格が良く、男らしい力強さを感じる。
気づかれないよう少し距離を離して見ていると、彼らは開かれた大きな窓の外へと腕を組んで出て行こうとする。
いけないこととは思いつつも、ギュンターは後を追う。
その美しい庭の、星空の下。
東屋の陰に、彼らはいた。
人目に付かないその場所で、二人の影が重なる。
口づけを、交わしていた。
眩暈がする。
ワルツの音楽が急激に遠ざかっていく。
ギュンター様をお婿にもらいたいんですもの、という彼女の鈴の音のような声が、彼の中に蘇る。
その間にも、彼らは角度を変えてもう一度口づけ合った。
ギュンターは、その場から逃げ出した。
気分が悪いのだと言って、その日は帰らせてもらった。
そして本当に体調を崩し、三日三晩熱を出して寝込んだ。
コンスタンツェが見舞いに来たがっていると聞いたが、彼は断った。
もう二度と会いたくないと思った。
それでも、王弟として社交の場に全く出ないわけにもいかず。
体調が回復してしばらく、また茶会でコンスタンツェと出くわした。
「ギュンター様、もうお加減はよろしいの?」
コンスタンツェはいつものように、薔薇色の頬で無邪気に微笑む。
「あなたは、僕をからかったのですね」
思わず、そんな言葉が口をついて出ていた。
「あら、何のことですの?」
不思議そうに、コンスタンツェは首を傾ける。
傷ついた胸を押さえ、ぎゅっと唇を引き結んで、ギュンターはコンスタンツェを見上げる。
「僕をお婿にもらいたいなんて言っておいて、他の男性と口づけしていたではありませんか」
ぽっと頬を染めて、コンスタンツェは愛らしく恥じらう。
「まあ。見ていらしたの?いけない人」
悪びれもせず、彼女は純粋に照れている。
「あたくし、彼のことが好きなんですの」
夢見るように、コンスタンツェがうっとりとして言う。
「じゃあ、どうして僕をお婿になんて」
悲痛な掠れ声を、ギュンターは絞り出す。
「ギュンター様をお婿にもらいたいというのは、本当ですわ。だって、お父様もお母様も、それが一番幸せになれるっておっしゃるのですもの」
頭がおかしくなりそうだった。
目の前の少女が、異星人か何かに見えた。
「…僕は、あなたのお婿にはなれません」
それだけを必死に言葉にすると、ギュンターはふらふらとした足取りでコンスタンツェから離れて行った。
ギュンターは、礼儀正しく器用に、建前や愛想を上手く使いこなせる男だった。
だから周囲は気づいていなかったのだが、彼は長い間初恋の傷を癒えないまま抱えていた。
その後も縁談の類は色々と持ち込まれたのだが、何かと理由をつけて断った。
兄王も彼に対して何の干渉もしてこないので、誰にも咎められることはなかった。
社交界では、ひそひそ話に耳聡くなってしまった。
女性たちの囁き交わす恐ろしい本音を知って、もう無様な期待や勘違いをしないようにと予防線を張ろうとしたのだ。
「ギュンター様ってお噂通りの美しいお方ね」
「ええ、あんな麗しいお方と並んで歩けば、きっと皆に羨ましがられるでしょうね」
「それに王位を継ぐことのない王族だなんて、高貴な上に一緒になっても縛られることもなくて、魅力的よね」
見目にしか関心がない者にも、見栄のための道具とみなすような者にも、権威や立場などの付加価値だけで値踏みする狡猾な者にも、もううんざりだった。
そういう声を聞けば聞くほど、周囲の自分への評価とはそういった表面的なことのみなのだと、思い知っていく。
孤独を愛した彼は、実際に表面的な付き合いしかしてこなかった。
誰のせいでもない、自分の生き方が招いたことと、受け入れている。
ただもう、期待などしないだけなのだ。
成人してすぐ王国軍に就職したのは、この貴族界の鬱陶しさから少しでも遠ざかりたかったからだ。
軍には軍の階級があり、王族であろうが公爵であろうが、基本的にその中では階級が上の者が偉いのである。
生まれながらにして高貴な身分というものを与えられ、にもかかわらず身分相応の役割を持たないことが彼の不運だったと思い始めていたこの頃、実力のみで評価される場において、最も低い位置に身を置いてみたいと思ったのである。
二等兵から始めた。
無意味に傅かれることもなく、下っ端として上官に頭を下げるこの日々は、まさに爽快だった。
既にエルフリーデの治世となっていたこの時、王国軍は完全実力社会である。
そんな中、案外とこの職は彼に合っていたようで、きちんと正当な評価を受けて着実に階級が上がっていった。
二十年ほどが経ち、少尉の階級を得た頃。
太陽のように笑う二等兵の少女が王国軍に入って来た。
健康的に日焼けした肌、高く結い上げた白銀の長髪、琥珀色の瞳は明るく輝き、礼儀作法などまるで皆無のこの田舎娘は誰にでも人懐っこく、言葉遣いの悪さを窘められながらも皆に可愛がられていた。
少尉であるギュンターに対しても、彼女は臆することなく気さくに話しかけてきた。
彼が最も心地良く感じたのは、他の女性とは違い、この少女は彼の見た目の美しさにうっとりし始めたり、値踏みするような目で見たりしないところだ。
彼はすっかり、ミリヤム・クラナッハという名のこの少女にだけは、本音で会話をするようになっていた。
彼女の初陣にて。
この少女は驚くほどにセンスがあった。
一見、力技で攻めているように見えたが、その実、確実に魔核の位置を見抜いて無駄なく打ち抜いていた。
怯えも慌てもせず、常に冷静な様子は、風格さえ感じさせた。
ギュンターの空間魔法は、使い方によっては物を砕くこともでき、これまで自分の魔力量で確実に砕ける対象だけを選び取り、魔核ごと対象を粉砕するというスタイルをとってきた。
しかしこれでは、時々打ち漏らしがあって、追い打ちをかけたり他の仲間に委ねたりといったことが必要になっていた。
対してミリヤムは、近接攻撃を得意とし、瞬発力があり一度に発動できる魔力量は大きいのだが、少女と成人男性では体格差の不利は埋められないのか、動き回れる範囲が狭い。
対象の動きが速いと、魔核の位置がわかっていながら距離の問題で取り逃している。
涼しげな目元と、薄い唇に、ふっと笑みが浮かんだ。
「サポートします」
ミリヤムが逃した獲物を、その眼前へ空間魔法で引き戻す。
彼女は、期待通り一撃で確実にその魔核を打ち抜いた。
「さんきゅ」
そう言って振り返ったミリヤムが瞠目する。
尉官が二等兵に手柄を譲るかたちでサポートをするなど、彼女は考えもしなかったのだろう。
「あなたの補佐に回ろうと思います。僕たちは、相性が良いと思いませんか?」
琥珀色の瞳が、ほんの数舜、じっと彼を見据えた。
そしてニカッと白い歯を見せて、少女は太陽のように笑った。
「よろしくな、相棒」
イケメンがそこそこの歳なのに潔白というのに萌えるのって、特殊な嗜好でしょうか。
そしてちゃんと幸せになって、結婚後は妻を溺愛してほしいです。