脱ニートしたい恋人と、愛したいだけの女王(1)
トシツネの生活は、基本的には件の精霊のことが解決した後も以前と変わらなかった。
女王の側仕えという肩書きは名ばかりで、それは、かの暴君が恋人を何かと近くに置いておくための口実に過ぎない。
彼はアルベルトのもとで様々な教育を受け、学んだり自分を鍛えたりといったことを中心に日々の生活を送っているが、仕事らしい仕事をした覚えは無い。
大きく変わったことといえば、人生初の恋人ができたことであろう。
それもその相手が絶世の美貌を持つ魔族の女王なので、変わり映えしない毎日に退屈するということはない。
現時点では見た目も実質も歳の差カップルであるということを加味してさえ、彼にとって彼女以上の女性はどこの世界を探してもいないと、トシツネは思っている。
故に彼は、世界で一番幸せな男は誰かと問われれば、迷わず自分だと答えるくらいには、幸福そのものである。
だからこそ彼は思うのだ。
働かずして養われているこの環境を黙って享受していれば、いつか罰が当たるのではないか、と。
十月の始まりのこと。
エルフリーデはその日も、執務を終えてすぐトシツネを呼びつけた。
トシツネが行くと、女王の寝室の扉は開け放たれていた。
いくら平和だからと、これはいかがなものかと思いつつ室内を覗くと、書き物机に世界地図を広げ、女王は思案に耽っている。
「陛下。お呼びと伺って参りました」
声をかけながら、ついでに扉も閉めつつ、勝手知ったる室内へとトシツネは足を踏み入れる。
こうして呼ばれるのはいつものことだ。
眠る前のひととき、特にこれといった用事もなく、ただ共に過ごすためだけに呼んでもらえるこの時間は、トシツネにとって至福である。
「来てくれたか、トシツネ」
ふわりと麗しく微笑んで、エルフリーデは世界地図を小脇に抱え、ソファへ移動する。
「隣に来い」
言われるがままに、トシツネはエルフリーデの隣に腰を下ろした。
すると女王は、世界地図を目の前のテーブルに広げ直す。
「考え事をする間、傍にいてほしい」
それだけを言うと、青い瞳を地図に向けたままで、エルフリーデはトシツネの肩に腕を回して引き寄せ、優美な白い手指で焦げ茶色の髪を撫で始めた。
するすると髪の間を通り抜けて行く指の感触が心地好くて、トシツネはうっとりと瞼を閉じる。
視界を手放すと、身体の側面が触れ合っている感触が妙に浮き上がって感じられ、どきどきと鼓動が高鳴った。
恋人という関係になってから、エルフリーデは単にトシツネを傍に置いて、こうして触れていたがった。
普通の恋人たちのようにデートに出かけるようなことはなかったが、女王という立場とこの目立つ美貌を思えば仕方のないことと、トシツネは納得している。
それに、きちんと想いが通じ合って日の浅い彼らは、恋人として傍にいられるだけで充分に幸せだった。
こうして幸福を実感している時こそ、トシツネは贅沢な悩みに苛まれる。
すなわち、仕事らしい仕事を与えられないというこの生活が、何とも不安に感じられるのである。
彼は女王の婚約者でも愛人でもなく、恋人。
それが絶妙に甘やかされた立場のように感じるのだ。
「陛下」
考え事の邪魔になるかもしれないと思えば躊躇いもあったが、トシツネは遠慮がちに声をかけた。
「どうした、トシツネ」
すると青い瞳は愛おしげに、トシツネに眼差しを向けた。
「わたしは…このままでいいのでしょうか」
トシツネの言わんとすることを察せられず、エルフリーデはそのまま問うような視線を投げかける。
「側仕えという立場を頂いてはいますが、何の仕事もしていません」
「お前は、そんなことを気にしていたのだな」
優しい目でトシツネを見つめながら、エルフリーデはあやすように焦げ茶色の髪を撫で続けていた。
「私はお前が傍にいてくれさえすれば、それでいい。けれど、お前が働くことを望むなら、それを叶えてやらねばならないな」
髪を撫でる手を止めて、たおやかな指をすっとトシツネの顎にかけ、エルフリーデは真っ直ぐに焦げ茶色の瞳を見据えた。
トシツネの頬が、ほんのりと赤く染まる。
「働きたいのか?」
「はい」
「では、お前には何が出来る?」
「そ、うですね…」
何がと問われれば、トシツネは答えに詰まってしまった。
トシツネは本来、能力という意味ではほぼ全てにおいて凡の凡である。
取り柄といえば、ここぞという時に発揮される度胸くらいであろうか。
「力仕事とか、掃除とか、雑用なら何でも…」
「……」
エルフリーデは困惑したような表情でこの恋人を見つめた。
アルベルトの教育を受けた今であれば、トシツネにできることは他にもあるのが実際のところであろう。
しかし、本人の答えがこれでは、具体的に拾ってやるのは難しい。
「私の傍からあまり離れるような職につけてやるのは賛同しかねる」
あくまで、暴君エルフリーデはトシツネを私物化したいのである。
「私の護衛なんてどうだ?」
「…それはつまり、陛下のお側で控えているだけなのでは?」
「私に危険があれば私を守る仕事だ」
「危険が…わたしが生きている間にあるでしょうか」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「あったとしても、陛下がご自分で片付けてしまわれるのでは」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「………」
平和な国であるということを差し引いても、エルフリーデのほうが強いというのに、それを守る仕事というのは、トシツネには滑稽な気がしてならなかった。
結局お飾りの護衛では、今とあまり変わらないではないか。
「不満そうだな」
「わたしは、お役に立ちたいんです」
「お前は今でも役に立っている」
「養われているだけではありませんか」
「この国の女王に、幸福と安らぎを与えている」
そう言いながらエルフリーデは、うっとりと焦がれるような視線を愛しい恋人に注ぐ。
トシツネの頬が、ますます赤く染まっていく。
「…それは、仕事ではありません」
「ふむ」
トシツネから指を離し、エルフリーデはしばし逡巡する。
「では、仕事にしてしまえばいいのだ」
思いついたように、女王は絶世の美貌に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「例えば…」
エルフリーデは、まっさらな羊皮紙にサラサラと羽根ペンを走らせていく。
そこには、肩揉み何分いくら、膝枕何分いくらなどと、してやれば女王が喜びそうなことに時間と料金を設定した、料金表が出来上がっていた。
「こういうサービス業を自分で開業してみるというのはどうだ?勿論、顧客は私限定で」
「それは、なんというか…」
トシツネにしてみれば、それは仕事ではなくご褒美の部類なだけに、対価をもらうなんてとんでもなかった。
それに――。
「仕事としてしかそういうことが出来なくなるのは、悲しくありませんか?」
その言葉を聞いた女王は、一瞬で真顔になった。
「確かに」
そして腕を組み、長い睫毛を伏せがちにして、彼女は考えを巡らせる。
「しかし、どうすればお前を一秒でも長く私の傍に置いておけるのだろうな」
エルフリーデが独占欲も所有欲も思い切り強いことは、トシツネもこの頃にはよくわかっていた。
そしてそのことを彼のほうでも嬉しいと思っているのだから、お互いの溺愛ぶりが知れるというものだ。
「名実共に側仕えにすれば良いのかもしれないが、正直言ってアルベルトがいる限り他にその役目の者は必要ない」
「ですよね…」
正直すぎるエルフリーデの発言に、トシツネは項垂れる。
「むしろ、私にお前の着替えを手伝わせてくれるなら、やぶさかではないのだが」
「それでは、わたしが働いていることにはなりません」
「絵のモデルのようなものだと思えばいいではないか」
「絵と違って何も出来上がりません」
「私のご機嫌が出来上がる」
「そうだとしても…それは、仕事にしなくともいつもなさっていることではありませんか」
「まあ、そうだな」
この女王は、トシツネを着せ替え人形にするのが好きである。
恋人になる前も、なってからも、彼女は上等な服を湯水のように彼に与えては着せて、喜んでいる。
自分の容姿を平凡だと思っているトシツネにとっては、そんなことの何が楽しいのかさっぱりわからないのであるが、彼のことを世界で一番美しいと思っているらしいエルフリーデにしてみれば、それは至福の時間なのである。
「…将来的なことを考えれば、働くよりも今は、必要になりそうなことを学んでおいてほしいのだがな」
真面目と照れと遠慮とを綯い交ぜにしたような表情で、エルフリーデにしては珍しく、真っ直ぐではなく横顔から斜めにトシツネのほうへ視線を送った。
「働くという目標が無いと、何を学べばいいのかも…」
トシツネは、常ならぬその女王の仕草を解せず、まごつきながら言葉を発する。
するとエルフリーデが僅かに傷ついたように見えたので、彼は大いに慌てた。
「あ、あの、何かまずいことを申し上げてしまったでしょうか…?」
直後にごまかすように、絶世の美貌に不自然な作り笑いが浮かんだ。
「いや、その。お前にはそのつもりはなかったのかと思っただけだ。気にしないでくれ」
はっきりしない物言いは、この女王にしては明らかに奇妙だった。
トシツネは何も言えないままに、焦げ茶色の瞳を彼女から離すこともできず、戸惑いばかりが広がっていく。
「急かすつもりも責めるつもりもない。私が少し欲張っていただけで、その…」
白く滑らかな頬が僅かに赤く染まったかと思うと、美しい眦がほんの少し潤んでいる。
トシツネは余計に困惑して焦ったが、そうしてこんがらがった頭では彼女の言葉の意味なんて到底わからなかった。
「あの、陛下、申し訳ありません…。わたしには、陛下のおっしゃりたいことを察することができなくて、その…。恐縮ですが、教えて頂けませんでしょうか?」
複雑な表情のまま顔を上げたエルフリーデが、おそるおそるといった様子でトシツネに向き直る。
そんなことは普段無いだけに、トシツネのほうも緊張しながらおっかなびっくり視線を合わせた。
「もしお前に、その気があるなら。これは私の気が早かったというか、むしろ自惚れ過ぎていただけというか…だから気にしないでほしいのだが。つまり、その気があったならという、もしもの話なのだが――」
端正過ぎる眉尻を下げて、エルフリーデは潤んだ青い瞳をトシツネに向けたまま、一生懸命に覚悟を決めるように一度深呼吸をした。
「――もしも、お前が私と本気で最期まで命運を共にしてくれるつもりだったならば。つまりはその、祝言をだな…」
まごつくことしかできなかった少年が瞠目し、固まってしまう。
「もしもの話だ、もしも。そうであれば、外交だとか色々と、私の助けになってもらおうと…」
エルフリーデは、もう目を合わせているのが限界なのか、頬を赤くして泣きそうな表情のまま俯いてしまった。
「気にするな。お前はまだ若すぎる」
ぼそりと小さな声でそう言うと、ほったらかしになっていた世界地図を片付けるために、くるくると丸め始めた。
「あ、あの――」
「もういいから、今日は下がれ」
エルフリーデは、何か言おうとしたトシツネを振り切るようにして、立ち上がった。
そのまま世界地図を脇に抱えて、わざとトシツネを避けるようにその視線を合わせようとしない。
「すまないが、仕事のことはアルベルトにでも相談してくれ。そして…さっきの話は忘れてくれ」
傍若無人で自信たっぷりないつもの暴君は鳴りを潜めて、彼女の後ろ姿は細腰が折れそうに見えるほどに、トシツネの目には儚げに映った。
祝言――つまり結婚の話をエルフリーデのほうからされて、彼女にその気があることが彼は嬉しくて仕方がないのに。
自分もそれを望んでいると素直に口にするには、今の彼には勇気が足りなかった。
愛を告げる時こそ図々しいほどに気持ちをぶつけられた彼だが、エルフリーデという個人を越える“ 女王”の婿に相応しい自信が無いのだと、今更ながらに自覚したのである。
「おやすみ」
せっかくの取り柄である度胸を、トシツネはこういう時に発揮させることができない。
「…おやすみなさい」
その時のトシツネには、挨拶を返して、言われた通りに下がることしかできなかった。
九月から本編の続編連載を開始することを目指して準備しております。
需要の有無を気にせず書きたいことを書いているにも関わらず、読んでくださる方がいらっしゃることに感激しております。
またお付き合い頂けますと幸いです。




