52―孝行娘
事の後始末を宰相に委ねた女王は、朝からまた山奥の小屋を訪ねていた。
手土産の酒は、老職人の健康も心配なので十本のみ。
その代わりに、つまみになりそうなチーズだの干し肉だのを見繕って持参した。
それでも足りないと、今日一日は女王自ら家事全般を手伝うことを申し出、掃除に始まり、食事の世話をしたり、着古したあれこれの洗濯に至るまで、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
泣く子も黙る辣腕女王、そして今やその身体に宿した精霊の力のおかげで最強魔王となった彼女にそんなことをさせられるのは、この老人だけであろう。
この老人――水晶職人ローマンは、何せ本来は隠居中の身。
それを引っ張り出して馬車馬のように働かせたのだから、相応の礼なり報酬なり受け取ってもらわないわけにはいかない。
ところが彼はなかなかに偏屈で、金銭やら身分やらといった類は喜ばない。
彼が喜んで受け取るのは、唯一お気に入りの酒と、真心くらいなのである。
「お前さん、なかなか良い嫁になりそうじゃな」
しばらくは仕事をしないと決め込んだローマンは、酒を片手にエルフリーデの働きぶりを眺め、ご機嫌である。
「ありがとうございます」
満更でもない様子で礼を述べるエルフリーデであるが、彼女は女王。
家事全般など、この老人のためでもなければ自分ですることはないだろう。
「あー、肩が凝るわい」
大声でローマンが独り言ちれば、それは肩揉みの催促である。
「失礼します」
さっと背後に回って、エルフリーデは肩揉みを始める。
「うむうむ。もうちょっと右の方を強く頼むわい」
「はい。これでいかがですか?」
「ああ、ええ塩梅じゃわい」
一国の主がこんなことを――と、普通なら思うところであるが。
実はエルフリーデも、こうして過ごすことがなかなかに心地良いと感じていた。
彼女には、孝行すべき親も親戚もいない。
権力に頭を垂れないローマンといると、女王としてではなく、ただのエルフリーデでいられる気がして、いつしか実の祖父と過ごしているような気分にさえなっていた。
しかし、彼女の今日の目的は、孝行ごっこではない。
これだけ働かせた老職人に、まだ頼み事があるのだ。
「実はご隠居、お願いが――」
「あー聞こえんわーい!最近耳が遠くてのう」
しわがれかけた声で歌うように、ローマンが言う。
「エファの魂を私から分離する方法について、ご意見をうかがいたいのです」
めげる訳にはいかないエルフリーデは、そのまま続きを述べる。
「ふむ。その話なら聞いてやらんでもないぞい」
労働を求められたなら断ってやる気だったローマンだが、相談だけならばそれほど負担でもない。
その上、水晶を依り代として魔力を運用することが専門分野の彼にとって、肉体が宿す魂や魔力といったものは、興味の対象に入る。
「あの呪術に必要なのは、瞳の色が同じことと、相手の名前じゃったな」
「はい。エファによると、魂は光の形をとって存在し、同色の瞳は同色の光を受け入れるのだと。そして名前を呼ぶのは、相手の魂への呼びかけであり、呼びかけ先に魂がいることが重要だということです」
「なるほどな」
「しかし例外的に、私は違う色の瞳に入り込むことにも成功しましたから、条件はこの限りではないのかと」
「何じゃってえ!?!?」
ローマンは、歯の欠けた口を開け放って驚いている。
「その話、詳しくせんかい」
エルフリーデは全てを話した。
老職人は、信じられないといったふうに、豊かな白い眉を動かしていた。
「お前さん、何ちゅう無茶をするんじゃ。しかしまあ、とんだ惚気話じゃわい」
「ええ、まあ…」
頬を赤く染めながら、エルフリーデは肩揉みを続けている。
「それで、今の状態でも身体に負担は無いんじゃろ?なんで分離する必要があるんじゃ?力も強くなったなら、そのままでええんじゃないのか?」
このままでいれば、最強魔王でいられるのは確かである。
しかし、エルフリーデにとっては重大な問題がある。
「それでは、彼と二人きりになれません…」
照れながら言うエルフリーデの声は、恥じらいに萎んでいった。
「こりゃ笑い事じゃわい。噂じゃあ、冷血無比の暴君なんて言われとる癖に。若い男に骨抜きにされよったか」
「お恥ずかしい限りです」
ローマンは皺を深めて笑う。
「まあよいわい。ここまで首を突っ込んだよしみじゃ。世継ぎ問題の解決のためにも、知恵を貸してやろう」
「ありがとうございます」
世継ぎ云々は気が早いのだが、その段階を思うとますます、完全に二人きりになれるということが必要に思えた。
「わしが思うに、お前さんより知識のありそうなエファとわしが話すのがよさそうではないか?」
「そうですね。では、代わります」
ゆっくりと瞬いて、女王が精霊に身体の主導権を譲った。
「おい、肩揉みの手が止まっておるぞい」
「肩揉みなぞを申し出たのは、エルフリーデであってわらわではない」
「むむ。お前さん、この老体に憐れみはないんか」
「わらわのほうが歳上であるぞ」
ローマンは諦めて溜息をついた。
「わかったわい。婆さん、そこいらに座るがよい」
「この麗しきわらわに向かって婆さんとは、失礼な奴もいたものよ」
言いながらも、女王の身体を借りたエファは、ローマンの正面に腰を下ろした。
「して、お前さん。案はあるか?」
「知恵を貸すなどと豪語しておきながら、わらわに考えさせようというのか」
「ないっちゅうことじゃな。仕方あるまい…」
老職人は、顎に指を当てて考える。
「最も望ましいのは、元いた身体に戻ることじゃろう」
「理の中に還るならばそうであるな」
「お前さんの本体、石の身体の方には、魂は入っとるんじゃな?」
「ああ。意識もある」
「そっちも瞳の中におるのか?」
「そのはずだ」
「ならば――」
名案を思い付いたと言いたげに、得意げに胸を反らせたローマンは、ポンッと手を打った。
「その石の瞼を瞳と同じ青に塗って、例の呪術を行うんじゃ」
「ふむ。しかし、表面は青くとも下地は石であるからな。黒に近い部分を通り抜けるというのは無理があるのではないか?」
「そうかもしれん。が、どこぞの馬鹿娘は焦げ茶色にすんなり入りよったのじゃろう?もともとひとつじゃった本人の魂なら、戻ろうとするのが自然のはずじゃ。若い情熱的な男女より、躊躇いなく引き合わんとおかしいわい」
「それもそうであるな」
エファはあの時のことを思い出し、愉快そうに笑んだ。
「ま、試してみんか。失敗して戻れなくとも、困ることもないのじゃろう?」
「しかし…仮に、この身体から出た魂があちらに受け入れられず、さ迷ったとしたら。はて、どうなるか、わらわにはわからぬ」
「それはお前さん、幽霊というやつではないのか?」
「幽霊か。死後の魂ならばそうも呼べるかもしれぬが、わらわは死ねない身体でな。黄泉に回収されることはないであろうが」
「ほう、黄泉とな」
ふっさりと豊かな眉を持ち上げて、ローマンは暗灰色の瞳を好奇心に輝かせた。
「最近では地獄と呼ぶそうだな。あるいは天国と地獄に分けて考える者もいるようであるが」
「その言いぶりでは、魂の回収先は一箇所であるのが正しいようじゃな」
「無論よ。二箇所に分ける利がなかろう」
「ほほう。言われてみればな。二千年前の者達のほうが、理をよう知っておったようじゃな」
そう言うとローマンは、未開封の酒瓶を一本、エファの手に押し付けた。
「どうやらお前さんからは、まだまだ面白い話が出てきそうじゃ」
一緒に飲めということだと悟ったエファは、器用に指先で瓶を開ける。
「うむ。なかなかの酒である」
こうしてエファとローマンの語らいは夜遅くまで続くことになり、その日アルベルトは涙目で帰らぬ主君を探し回った。
―――――――――――――――
美しい色の塗料であった。
類稀な美貌の女王の瞳の色を真似たその深い青は、貴重な鉱石を原料に練られている。
石になりそこに佇んでいる少女もまた、可憐で美しい姿をしている。
だというのに。
その少女の瞼に青い塗料が塗られた様の、なんと無粋なことか。
まるで子供が教本の挿絵に施した落書きのごとくである。
「これはまた、前衛的な化粧であるな」
そう評したのは、エルフリーデの身体を借りたままのエファ本人である。
「これが済んだら、なるべく洗い落としてみます」
申し訳なさそうにそう言うのは、このために塗料を塗った本人であるギュンターだ。
彼らは、光る苔が淡く照らし出す洞窟の中にいる。
「気にすることはあるまいて。どうせここには王様しか来んのじゃろう?」
立ち合いを希望したローマンは、そんなことは些事だと言わんばかりである。
ローマンをはじめ、この場にいる者達のうち必要な者は、エルフリーデの血を飲んでここまで来た。
「あの、また会いに来てもいいですか…?」
控えめに尋ねたのはトシツネである。
皆が怪訝な顔でそちらを見るが、何かを察したエファはクスクスと笑っている。
「ああ。大事な報告ができれば、わらわに知らせにくるのだぞ」
初めてその姿を見た時からは考えられないほど穏やかに、エルフリーデの姿を借りたエファは微笑んだ。
「はい、お義母さま!」
そこで全員が察して、微笑ましいという目を向けた。
気の早いことである。
「幸せにしてやるのだぞ。さもなくば――」
がしっと、トシツネの肩にエファが手をかけた。
「わらわが縦に真っ二つに割ってやろう」
冗談めかして言うその美しい笑顔に、本気の色が混じっている。
それでもトシツネは怖じもせず、深く頷いた。
「孫の顔も見せにくるのだぞ?」
ギュンターのほうをチラと見ながら、エファが言う。
しかし彼は、肩を竦めるだけである。
子供どころか、思いが伝わるのはまだまだ先だと感じているのだから、無理もない。
エファを宿したエルフリーデの瞳には、既に呪術用の魔法陣が準備されている。
ミリヤムを玉ねぎで泣かせ、またあの液体を点眼してきたのである。
「エルフリーデ」
慈愛を込めて、エファが同じ身体の中にいるエルフリーデに呼びかける。
「いくつ世界を巡ろうと、お前ほどの孝行娘はなかなかおるまい」
それは穏やかで優しい声。
エルフリーデが夢見て得られなかった、母親そのもののようであった。
「二千年以上の苦しみから、わらわを救い出してくれた。わらわはお前を愛し、誇りに思うぞ」
聖母のように、絶世の美貌が笑む。
その美しさを、そこにいた全員が忘れ得ぬ光景として、胸に刻み込んだ。
「さあ、わらわはもう帰ろう」
石の少女に、女王の身体が近づいていく。
更にその顔が触れ合わんばかりに近づき、深い青の瞳が、同じ色に塗られた瞼を凝視した。
「エファ」
精霊は唱えるように、自分の名を口にする。
瞳から光が這い出し、向かい合う青の中に潜り込んでいく。
それは見ている者たちにとって、長いような短いような、不思議な時間だった。
光の流れが止まり、静寂が彼らを包み込む。
女王は石の少女から、すっと顔を離す。
「母上」
その微かな呟きが闇に溶ける前に、たおやかな腕が石の身体を抱きしめていた。
動くことのできないはずの少女の顔が、誰もの目に、慈愛に満ちて安らかに微笑んで見えた。
そのまま長い間、誰も何も言わずに、母娘のような彼女らを見守っていた。
結局悪役が寝返って大円団みたいな展開、もともとはあまり好みではないのですが…。
エルフリーデの内面を描くための一要素として、今回はエファにこういうかたちでの退場をしてもらいました。




