51―臆病な心
その手に触れて胸を高鳴らせていたのも、初めて与えられる柔らかな感触に夢見心地で浮かれていたのも、つい昨日のことである。
けれど今のトシツネは、最愛の主君に手を引かれながらも、その喜びよりも深い憂鬱に沈み込んで抜け出せないでいる。
王宮の廊下を歩いていく。
手を引かれるままに、ただついて行く。
どこをどう通ってきたか、トシツネにはもうわからなかった。
気づけば女王の寝室に通されており、一瞬どきりとする。
そのまま、ずいずいと大きな窓の向こう側へ手を引かれ、バルコニーに出た。
頭上には、雲一つない秋晴れの青い空が広がっている。
その青よりももっと深い青が、彼を優しく見つめていた。
ゆるやかに風が凪ぎ、艶やかな長い黒髪をふわりと揺らす。
「トシツネ」
その呼び声、その表情から、今向かい合っているのがエファではなくエルフリーデだとわかる。
「私はお前に、最も重いものを背負わせてしまったな」
その声は、麗しいかんばせは、慈愛に満ちていた。
「お前にそんな表情をさせているのは、私だ。お前ひとりで背負わなくていい」
ゆっくりと繊細に、しなやかな腕がトシツネを抱き寄せる。
この女王は、彼が何に怯え、何に押しつぶされそうになっているのか、全てを理解しているのだ。
「アルテンブルクは平和な国だ。単一種族のための唯一の国家であり、脅威となる種族が存在しないからだ。だから、余程のことがなければ、殺し合わずに済む」
そうして彼女が語り掛ける間にも、触れあっているところから体温が溶け合っていく。
「皆、平和ぼけしている。同族や人間を手にかける罪も恐怖も重責も、大半が知らずに生きられる。そんな国にお前を招き入れたというのに、私はお前を守ってやれなかったな」
包み込むように丁寧に力を込めて、エルフリーデはトシツネを抱きしめた。
衣服越しに身体が触れ合う柔らかい感触に、トシツネの意識は途端に火照りながら浮遊する。
自然と彼女の美貌を見上げ、その深く青い瞳に視線を合わせた。
「トシツネ。お前の罪は私の罪だ。その上で言う――」
そうして視線を重ねていれば、瞳の奥で触れ合った時の記憶が蘇る。
その心地良い感覚を手繰り寄せるように、彼らは真っ直ぐに見つめ合った。
「助けてくれて、ありがとう。私はお前に守られた。お前に生かされている」
じわりと、焦げ茶色の瞳に涙が滲んだ。
それが何故なのか、わからないくらいに突然に。
トシツネの視界が、目に溜まった涙と共に揺れている。
「お前は綺麗な目をしている。例え返り血塗れになっても、私の目にはお前は綺麗なままだ」
トシツネの目尻から流れ出た涙の一滴を、エルフリーデはそっと唇を寄せて吸った。
そんなことをされては、不安も、恐怖も、罪悪感も、何もかもがその甘い唇に溶かされてしまいそうだった。
「トシツネ、私は」
白く滑らかな頬をほんのりと染めて、青い瞳を揺らしながら、この世で最も愛しい女性がトシツネを見つめていた。
「私は――」
エルフリーデはそこで言い淀む。
端正な眉尻を下げて、苦し気に瞳を揺らし、それ以上言葉を紡げないでいる。
すっと腕が解かれ、視線が逸れていく。
エルフリーデは辛そうに、俯き加減で距離をとった。
「…陛下?」
ふっくらとした薄紅の、先程トシツネの涙を吸った優しい唇が、弱々しく開く。
「私は罪人だ。この身体ひとつを惜しむために、王を殺した罪人だ」
その声は、僅かに震えていた。
「贖罪のつもりはない。けれど、あの男より良い王になりたいと願ったのは、あの時の私のたったひとつの願いだった」
声の震えがおさまっていく。
そうしてエルフリーデは、顔を上げて真っ直ぐ前を見据える。
「だから私は王なのだ。私にあるのは、それだけだ」
そこにあるのは、女王としての彼女の顔だった。
「お前が捧げるのが忠誠である限り。私は王として、与えられるだけのものをお前に与えよう」
それは。
あの時のトシツネの愛の告白に対する、返事なのだろうか。
「今回のお前の功績は大きい。爵位を与えよう。褒美も取らせよう。何が、欲しい?」
欲しいのは、そんな言葉ではなかった。
褒美でもなかった。
それは我儘なのだろうか。
過ぎた願いなのだろうか。
トシツネは、痛む胸を押さえて顔を上げる。
「わたしが欲しいものは、欲しいと言って与えて頂けるようなものではありません。ですから、何もいりません」
トシツネには、情けない顔をしている自覚があった。
そしてエルフリーデの顔もまた、困惑しきっていた。
「そういうわけにはいかない。お前は最も危険な男を斃して王の命を守り、あの海の魔物を退けた。王として報いねばならない」
少年の瑞々しい心を抱えた胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。
「それは結果に過ぎません。わたしはただ…」
先程までとは違う、恋の涙が彼の視界を滲ませた。
「ただ、あなたが好きで。あなたが愛しくて。あなたを死なせたくない一心で、失いたくないという我儘で、身勝手に動いただけなんです」
みっともなく声が掠れる。
「だから、もう誓った忠誠にも自信がありません。わたしは、わたしは…」
臆病な自分を叱咤して、それでも彼は伝えずにはいられなかった。
「臣下、失格です」
ぼろぼろと、涙が頬を伝い落ちていく。
主君の求める臣下になれない。
彼の求める愛はもらえない。
すれ違っているのだ。
ずっとすれ違ってきたのだ。
例え、同じ身体に魂を宿せるほどに、その時お互いを信じていたとしても。
立っていられないほどに情けなくなって、トシツネはその場に膝をついて泣き崩れた。
「トシツネ…」
優しい声が呼ぶ。
エルフリーデもまた膝をついて、トシツネに寄り添おうとする。
「私は何も、お前を拒絶したいわけではないのだ。叶うものなら、お前の望むものを与えてやりたいと思っている」
嗚咽を漏らすトシツネの背に、しなやかな手をそっと沿わせる。
「けれど私の心は、お前のように美しくはない」
自嘲気味に、エルフリーデは視線を落とす。
その反対に、トシツネは顔を上げてエルフリーデを見た。
「お前は気づいていたか。私がお前に、どんな感情を抱いてきたか」
その肩が震えていた。
何者にも怖じないエルフリーデのそんな姿が、トシツネには信じられなかった。
声も出せず、ゆっくりと首を横に振ることしかできなかった。
「そうか。私はあんなにも浅ましく口説いていたというのに、お前は綺麗なままなのだな」
悲しい微笑みを浮かべて、エルフリーデはトシツネに焦がれるような視線を向けた。
トシツネにはわからない。この女性の心には、何がどう映っているのか。
「これは…この感情は…。軽蔑すべき、卑しい感情なのだ」
青い瞳が涙で潤んでいる。
「お前が欲しくて、攫ってきて閉じ込めた」
どきりと、トシツネの心臓が跳ねた。
「思い通りにしたくて泣いた。手に入らなくて子供のように癇癪を起して叩いた」
トシツネは、求められていたというのだろうか。
初めから、ずっと。
「傲慢な所有欲だ。醜い執着だ。こんなものは――」
エルフリーデは苦し気に胸を押さえて、透明に煌めく涙をぼろぼろとこぼした。
「お前には到底相応しくない。お前を、汚したくない」
長い睫毛が、薄く染まった滑らかな頬が、涙に濡れている。
こんなに苦しめたいわけでも、泣かせたいわけでもないはずなのに。
トシツネはそれを、嬉しいと思った。
「お前の言う愛の応えに、贈れるような心など、私には無いのだ」
ぐしゃりと美貌を歪めて、エルフリーデは泣いている。
「今だって、お前に触れたいと思うのは…穢らわしい劣情だ」
それは悲しい思い込みだ。
トシツネは言わなくてはならない。
「陛下」
彼は勇気を出して、エルフリーデの震える肩にそっと腕を回した。
「お、お前が、汚れる…。私などに、触れては」
そう口では言っても、エルフリーデは拒絶しなかった。
トシツネはそっと、彼女の涙に濡れた美しい頬に唇を寄せて、ほんの一瞬柔らかく口づけた。
「陛下」
そしてもう一度、甘く優しく呼びかける。
びくりと、エルフリーデの身体が跳ねた。
「陛下がもし、わたしを思い通りにしたかっただけなら、いつだってそうできたはずです。なのに、そうなさいませんでした」
「そ…れは…。心が無いまま無理強いするのは、私の思い通りでは、ないからだ」
「心を求めてくださっているなら、それは穢らわしい劣情なんかではありません」
「心だけで、済ませられない。だからこれは、穢らわしい劣情だ…!」
「だったら、わたしの想いだってそうです。陛下に振り向いてほしい。陛下に触れたい。陛下の全てが欲しい。わたしの言う愛は、劣情塗れです」
熱を孕んだ視線を、焦げ茶色の瞳が投げかける。
顔を上げたエルフリーデの、涙に濡れた青い瞳と目が合う。
そのまま二人、しばらく視線を絡め合った。
「陛下のその感情、全部わたしの欲しいものです。褒美をくださるというなら、どうかそのままの陛下をください」
くしゃりと、先程とは違うかたちに美貌を歪めて、エルフリーデは泣いた。
「お前が汚れる…。お前は綺麗だ。こんな私など――」
「陛下は、綺麗です。わたしの目には、どんなものより綺麗です。世界で一番、綺麗です」
触れるのも躊躇われる白い繊細な肌に、トシツネはそれでも覚悟を決めて指を伸ばし、そっと彼女の涙を拭った。
「綺麗です。好きです。愛しています。だから、欲しいです」
その頬を優しく包み込むように、躊躇いがちに手を添え、美しい青い瞳を覗き込む。
するとエルフリーデは、とろりと瞼を下ろした。
そして――。
「お前たち、それは二人きりでやれ。わらわがここにいることを、忘れるでないわ」
精霊エファが、その流れを粉砕した。
週末ですが、もう数話で封印編が完結するので、本日と明日は二回投稿に致します。
その後は番外編を不定期投下しつつ、続編の連載準備をしていきます。
ここまでお付き合いくださいまして、本当にありがとうございます。




