47―創造者
吹く風は、日に日に冷たさを増していく。
潮風もまたそうして、秋の訪れを告げていた。
夕刻から宵へと移り変わる時間。
浮世離れした美貌の貴婦人が、砂浜の上を歩く。
黒いドレスの裾を揺らし、優雅に一歩、また一歩。
魔法陣の上に転がる、青痣だらけの一人の男。
それを槍の石突で打つ、屈強な初老の将校。
その拷問現場へ、彼女は歩を進めていく。
「ヴィンフリート」
その名を呼ぶふっくらとした薄紅の唇の端が、嘲笑うように吊り上がる。
それを見た初老の将校は、表情を強張らせて一歩下がり、一切の動きを止めて事の次第を見守る。
「わらわはこの身体が気に入らぬ。出たい」
血に塗れたような鮮烈な赤い髪、そして蛇のように鋭い眼窩から覗く白い瞳を、深い青の瞳が尊大に見下ろす。
「エファ様――」
「ヴィンフリート。わらわは女王であるぞ?」
刹那の沈黙に、真っ直ぐに交わる青と白の視線。
「陛下。あなたを女王たらしめているのは、そのお身体ではございませんか?」
切れた口の端から血を滲ませながら、ヴィンフリートは表情を消して問いかける。
「ふっははははははははははっ!」
女は品も無く唇を開け放って哄笑する。
「ああ、そうだとも。成り代わってみてよくわかったが、王などとは縛られるばかりの立場で、実につまらぬ」
整った鼻梁から不満げな息を吐き、美しい造形の眼窩から足元の男へ責めるような視線を投げる。
「それにこの女、身体の中はぼろぼろであったぞ?長くは持たぬ。他の器へ移る必要がある。一時的にならば、移動先は人体でなくともよいわ」
この言葉で初めて、男が表情を動かした。
探るような視線を、美しい女の全身に這わせる。
「…エファ様。茶番はやめに致しましょう」
その声は、今まで以上に冷酷に、凍るような響きをしている。
「あなた様の目的はもはや、わたくしとは違う。そういうことでしょう?」
冷えた視線が互いを射竦めようと交わされるが、どちらも毅然としたまま微動だにしない。
「今のわらわに勝てるとでも?」
にやりと、薄い唇の端を吊り上げて、男が笑った。
その背で僅かに、両手の先が動いている。
「勝てないことと負けることとは、似て非なるものです」
男がふいに身体を捩った。
そうして女が気づいた時には、彼の下敷きになっていた魔法陣の上に、真新しい血で図形が描き加えられていた。
「エファ」
呪文のように男がその名を唱える。
すると、凍るような目で見据え合う二人の足元から、ぶわりと光の触手が伸び上がり、女の身体を捕らえた。
悲鳴も上げずに眉を顰め、女は不快げに男を見遣る。
ヴィンフリートが魔法陣の外へ転がり出ようとする。
初老の将校が動いた。
「お前を逃がすわけにはいかない」
敵か味方かわからなくなったエファの対処は置いておくとしても、ヴィンフリートの身柄は、彼――オットー・ジークムント・ミュラーが主君から任されたものである。
ヴィンフリートの身体を、魔法陣の端に押さえつけた。
「…ふっ」
薄い唇の端を引き上げて、ヴィンフリートは悪魔のような笑みを浮かべる。
彼の通ってきた道筋には、既に細長く奇怪な模様が血で描かれていた。
「オットー・ジークムント――」
唱えかけた唇を、押さえつける手があった。
男にしてはしなやかなに白い、しかし無駄なく鍛えられた筋肉が浮き上がる、力強い手。
「呪術に相手の名を唱えることが必要だというのなら、言わせなければいいのです」
ヴィンフリートの白い瞳がその手の先を辿ると、ダークブロンドの波打つ髪を潮風に煽らせながら、中性的な美貌からライトグレーの瞳が見下ろしていた。
「ご無事でしたか、シュレンドルフ中将!」
どうやってこの男が現れたのか。
瞳だけを動かして、白い視線を忙しなく動かす。
己の押さえつけられている頭から砂に垂れる、鮮血のような赤い髪のもっと向こう側。
頭の先に、青い水晶が転がっていた。
先程から不気味な沈黙を保つ、呪術で捕えた女を見遣る。
すると女は、ドレスに隠し持っていた青い水晶を、光の拘束に抗いながら、次々と魔法陣の外へ投げていた。
何故動けるのだ。
視線だけでそう問うと、女の青い瞳が彼の白い瞳を見た。
その顔は、彼が名を唱えた女のものではない。
そこにいるのは――。
「こんな甘い拘束で動きを封じたつもりとはな」
凛と気高く、何者にも怖じない、澄んだ声が響く。
その声に振り返ったのは、初老の将校である。
「陛下!ご無事でしたか!」
それに答えたのは、魔法陣の外側に増えた気配のうちのひとつ。
「ああ、皆無事だぞ、オットー」
高く結い上げた白銀の長髪を靡かせる、年若い彼の上官である。
その後ろには、淡い金髪に赤い瞳の従者と、焦げ茶色の髪と瞳を持つ少年。
「これだけの人数に囲まれて、もう逃げ出せはしないでしょう。さあ、陛下の呪縛を解いて下さい」
従者の言葉に、押さえつけられたままのヴィンフリートは、忌々しげに目を細める。
彼は後ろ手に拘束された手のひらの上で、忙しなく指先を動かしていた。
誰にも悟られぬように、次の一手を整える。
そうして、わかったと伝えるような動きで頷き、ギュンターの目を見る。
口を解放しろと言いたいのだ。
ギュンターは、判断を仰ぐように女王と上官のほうを見た。
しばらく迷ってから、このままでは埒が明かないと判断した女王が頷く。
ばっと、ヴィンフリートの口が解放される。
「レヴィアタン」
ヴィンフリートの手のひらと海面とを、紫色の鈍い光が繋いだ。
海からおぞましい獣の唸りが響き、凶悪な気配が漂う。
ギュンターが再び、ヴィンフリートの口を塞ぐ。
オットーがヴィンフリートの手を、これ以上動かせないよう最大限の力で押さえ込む。
ミリヤムは海に向かって槍を構え、アルベルトは思いついたように海に向かって走った。
「先生、どこへ!?」
今まさに得体の知れないものが現れようと唸りを上げる海に、飛び込みかねない勢いで淡い金髪が駆けていく。
そして彼は、取り出した革袋一杯に海水を汲み上げ、急いで戻って来た。
「魔法陣を、消すのです!」
そう言う時間も惜しむように、転がり込むような姿勢で主君の足元へ海水をぶちまける。
その海水は、優秀な従者の狙い通りヴィンフリートの血を洗い流し、エルフリーデの身体を縛っていた光が霧散した。
エルフリーデは素早く魔法陣の外へ走り出て、アルベルトを助け起こす。
「助かった、アルベルト」
赤い瞳が誇らしげに笑む。
それを見届けて、エルフリーデがミリヤムの隣へ立つ。
オットーはヴィンフリートの手のひらを力任せに擦り、そこに描かれた魔法陣を掻き消していく。
紫の光は手のひらから流れ出ることを止めた。
「手のひらの魔法陣は、屍を呼び出すものと似ていましたね」
ギュンターがそう口にすると、抑え込まれている男の白い瞳が笑む。
まるで、もう手遅れだとでも言うように。
海の底から、巨大な何かが這い上がって来た。
海面を突き破り、それは巻き上げた海水を飛び散らせながら咆哮した。
長く渦巻く体躯、光る鱗、尖った口。
その姿は、人間界の東方で語られる龍に似ていた。
それがじっくり確認する間もなく、真っ直ぐヴィンフリートのいる方向へ頭から突っ込んでくる。
ミリヤムが雷魔法を長槍に宿し、その生き物の大きく開いた口へ向かって躊躇いもせず飛び掛かる。
しかし得体の知れない魔物は、彼女も彼女の槍も通り抜けてしまう。
エルフリーデがその進行方向へ固有空間を開くが、それすらも光る体躯は通り抜けていく。
「霊体か」
エルフリーデから呟きが漏れる。
「こいつは任せてください」
そう言ったオットーがヴィンフリートの身体を抱え上げ、頷いたギュンターともども左右へ飛び退いた。
間一髪、今しがた彼らがいた場所に、長い体躯が頭から突っ込んで、砂浜を通り抜けて地下へとめり込んでいる。
その異様さに、その場の全員が眉を顰めた。
「ふふっ。あははっ!」
ひとり、オットーに身体を押さえ込まれているヴィンフリートだけが、愉快気な笑い声を上げる。
「創造力の欠如した現代魔族の皆さん。書物にある記録から真似ることしかできないあなたたちが、わたくしを呪術で縛ろうなどとは、万死に値しますよ」
全てを蔑むような酷薄な声が響く。
「オットー。そいつの口塞いでろ」
挑発に刺激された様子もなく、冷静なままのミリヤムが言う。
オットーはすぐに、押さえ込んでいる男の口を大きな手で覆った。
「来るぞ!」
再び頭をもたげた海から生える長い巨体が、地平線に埋もれた太陽が放つ夕焼けの残滓を背に、一際低く咆哮した。
呪術関係の伏線は、続編で回収していきたいと思っています。
そこまでお付き合いくださる方がもしいらっしゃったら、感謝感激です。




