46―離れがたい二人
牛脂、ヤドカリの煮汁、柘榴の果汁、レンギョウの花蜜、処女の涙。
これらを手順通りに調合して、その上に血で魔法陣を描くのだ。
「ミリヤム、玉ねぎを切ってくれ」
「なんであたしなんだよ」
厨房に集まった彼らが今問題にしているのは、“処女の涙”をどう用意するかである。
「私は今、トシツネの中にいる。トシツネの涙では、条件を満たさない」
「わらわは子を産んだこともある。この身体は純潔であろうと、呪術において今のわらわの流す涙がどう判定されるかわからぬ」
「総帥、どうぞ。玉ねぎ十玉をご用意しました。切り放題ですよ」
ギュンターは、ひとりご機嫌である。
好きな女性がまだ誰のものにもなっていないというのは、特に百七十年間清らかなままである彼にとっては、嬉しいことなのであろう。
「他人事だと思って楽しみやがって。目に染みるんだぞ」
文句を言いながらも、ミリヤムは包丁を握り、玉ねぎをまな板の上に置いた。
その間に、トシツネの身体を借りたエルフリーデは、他の材料を調合していく。
「急いでくれ。トシツネは、既に結構な時間、尿意を我慢している」
トントンと包丁を動かしながら、ミリヤムは涙と笑いを溢した。
その涙を受け取ろうと、ギュンターが小瓶を持って隣で構えている。
「陛下、ひどいです!皆さんの前で、そんなこと…」
久しぶりに現れたトシツネ本人が、抗議の声を上げる。
「本当のことだ。これは今や私にとっても尿意なのだ。なんとかしてくれ」
さっと入れ替わったエルフリーデが、追い打ちをかける。
「陛下がいったん眠ってくだされば、その間に…」
またトシツネが現れる。
「身体が眠っていないのに、意識だけ眠るなんて無理に決まっているだろう。お前はそんな器用なことができるのか?」
エルフリーデが現れて答える。
「む、無理です…」
そしてトシツネに入れ替わる。
「一人漫才かよ!」
ミリヤムの泣き笑いが響く。
「二人なのだがな」
生真面目に返したのは、エルフリーデである。
「トシツネ殿。ここは覚悟を決めて、陛下にお見せになってはいかがですか?」
何をとは言わぬのは、アルベルトである。
「そ、そんな!心の準備が!」
トシツネが泣きそうな声で訴えるが、この言い方からすると、いつかは心の準備を整えるつもりなのであろうか。
「これで私が自分の身体へ戻れなかったら、諦めて覚悟を決めるのだな」
トシツネの身体ひとつの中で、彼らはくるくると入れ替わる。
その様子を、エファは興味深げに眺めていた。
「お前たち、本当におかしな奴らじゃ。そんな芸当ができるほどに互いを受け入れておきながら、自然に催すものに対して恥があるとはな」
エファにとっては、この魂の状態こそが奇跡であり興味の対象なのである。
「私はどんな姿でも受け入れてやろうと言っているのに。トシツネが意地を張るのだ」
「意地の問題ではありません!逆の立場を想像してみてください!」
「ふむ。確かにな」
同じ口から言葉の応酬を繰り返す。
事情を知らない者が見れば、乱心したとでも思うであろう。
「玉ねぎ切り終わったぞ」
ボトボトと涙を溢しながら、それをギュンターに受け止められているミリヤムが報告する。
「よし、それくらいの量で足りるだろう。ミリヤム、礼を言うぞ」
「礼ならアルベルトの菓子で手を打ってやるから、何か焼かせとけよ」
「ああ、わかった」
自分のことを女性らしくないと言うミリヤムであるが、甘いものが好物であるところは実に女性らしいと、ギュンターは焦がれるような視線を彼女に送りながら思う。
トシツネの表に出てきたエルフリーデは、先に調合し終えた液体にミリヤムの涙を加えていく。
そして指先を少し切って、その液体の上に魔法陣を描く。
「エファ。トシツネの指を治療してくれないか」
「ああ。この魔力を使うのは初めてじゃが、やってみよう」
青白い光が必要以上に大きく満ちたが、無事に傷は塞がった。
「よし、では熱にかける」
この液体を、かき混ぜながら沸騰させ、さらに冷ましてから点眼するのだ。
「こんなもん目に入れて、医学的には安全なのか?」
ミリヤムの危惧するところは、他の皆も思っていたことである。
「魂が呪術の過程としてこれを受け取った瞬間、物質的な結果は生じぬ」
エファが答える。
しかしなんとも、すぐには理解しがたい理論だった。
間もなくそれは完成した。
エルフリーデは、迷いもなくそれをトシツネの目にさした。
見た目には何も起こっていないように見えたが、満足気に頷いた様子から、上手くいったようである。
「さあ、エファ」
がしりと、エルフリーデはトシツネの手で自分の肩を掴んだ。
トシツネの頬が上気しているのは、中にいるトシツネの緊張のせいであろう。
「トシツネよ。お前は、エルフリーデを受け入れるとき、何を思った?」
エファが問いかけると、入れ替わってトシツネが出てくる。
「全てを受け入れようと、陛下とひとつになれるのだと、それが嬉しいと、思っていました」
幸せそうに頬を染めながら、そう答える。
「ふむ。同じように考えるよう、努めてみよう」
エファがそう答えると、トシツネの中身がまた入れ替わった。
「準備はいいか、エファ」
「ああ、いつでもよいぞ」
そうして、触れ合わないギリギリの距離まで顔を近づけて、二人の瞳は視線を捻じ込むようにしっかりと見あった。
「エファ」
呪文のように、その名を唱える。
焦げ茶色の瞳の奥で、光が動いた。しかし、それは一つではない。
「おい、トシツネ。エルフリーデを離せ」
エルフリーデの身体を借りたエファの口から、呆れたような声がする。
瞳の中で、まだ光が動いている。
踊るようにくるくると。
エファからはどうも、出ようとする光を、もう一方が引き留めているように見えるのだ。
「お前たち、瞳の中で睦み合うのもいい加減にしろ」
叱りつけるようにエファが言う。
ミリヤムの笑い声がする。
光の動きは、徐々に緩慢になって、おさまってしまった。
「失敗か」
溜息を吐きながら、二つの顔は距離を離した。
「私は出ようとしていたのだが、トシツネが――」
「すみません、ごめんなさい!名残惜しくて…」
「馬鹿者!このままではお前…あの続きもできないぞ?」
同じ口から言葉の応酬が続く。
最後の意味深な言葉の後に、トシツネの頬が赤く染まる。
エファはそれを、微笑ましく見守っていた。
「もう一度だ」
先程の液体を、もう一度点眼する。
あと二回分くらいはありそうだ。
もう一度顔を近づけていく。
視線が繋がり、その瞳の奥を見合う。
「エファ」
トシツネの口から、呼びかけるように唱える声がする。
焦げ茶色の瞳の中で、光が動き出す。
出ようとするそれを、追って来ようとする光がある。
「こら、お前はそこにいろ!」
エファが叱りつける。
ミリヤムの笑い声がする。
「用を足したいのでしょう?」
遠慮がちにアルベルトが声をかけると、追い縋ろうとしていた光が、シュンと奥に戻っていく。
ミリヤムの笑い声が大きくなる。
焦げ茶色の瞳から光が這い出してきた。
そして真っ直ぐ青い瞳に向かっていく。
「母上」
微かな呟き声が、少年の口からこぼれ落ちる。
「エルフリーデ」
優しい微笑みの深く青い瞳に、確かに光は受け止められていった。
二つの顔が離れる。
白い瞼が閉じて、また開く。
深い青の瞳が、臣下たちを順に見据える。
「戻れたようだな」
呪術は成功していた。
「エファ様に代われますか?」
アルベルトが問う。
頷いて、エルフリーデは一度瞼を下ろす。
そしてもう一度開いた時には、
「今、わらわに代わった。意識すれば入れ替わることは可能のようであるな。トシツネのようにくるくるととはいかんが。この状態であれば、身体への負担も気にせずともよいであろう」
エファが表に出てくることができていた。
皆が安堵に息をつく。
白い瞼が、幕を下ろしては上げるように、ゆっくりと瞬く。
「トシツネ。行ってこい」
それはエルフリーデが発した声だった。
「はい!」
トシツネはその場から、元気よく走り去った。
尿意が限界近かったのである。
「まったく、トシツネは」
そう独り言ちた声は甘く、白く滑らかな頬はうっすらと上気していた。
出て行こうとするエルフリーデの魂を、抱きしめるように離さなかったトシツネの魂の感触を、瞳の中の不思議な器官が覚えている。
愛しているのだと叫んだ彼の声が、耳の中に蘇る。
実はまだほんの少し、あれは切迫した状況下で勢いからきた出任せではないか、などと。
愛を信じて来なかったエルフリーデは疑っているのであるが。
嬉しそうに彼女の魂をその身に受け入れ、全てを差し出そうとしたトシツネのことが、エルフリーデは愛おしくてしかたなかった。
本当は、彼の中から出て行きたくなかったと思うほどに。
もっとおどろおどろしい材料にしてもよかったのですが、蜘蛛だとかムカデだとかを点眼したくない…。




