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42―奪われた身体

トシツネは長い廊下を歩いている。

女王陛下がお呼びなのだ、と聞かされた。

王座の間になど、彼は初めて呼ばれた。


女王の優秀な従者は、そこへ行ったきり姿が見えない。

女王の最も親しい二人の友人も、彼女に呼ばれて行ったきりいなくなってしまった。


おかしいということはわかっている。

けれど、彼は確かめずにはいられない。

女王は、エルフリーデは、彼の全てなのだ。


暗い洞窟の中、苔の淡い光に浮かび上がる麗しいかんばせから与えられた、あの優しく柔らかい感触が夢のように思い出される。

そうしているうち、本当に夢だったのではないかと思えてくる。

ポケットに入れた小瓶を握りしめた。

それは全てが現実だった証拠、彼女の血の入った小瓶である。


自分の足音が急き立てるように響く。

天井の高いその場所の緊迫した空気に、恐怖さえ覚える。

それでも決して逃げることはない。


やがて豪奢に装飾された両開きの大扉に辿り着く。

衛兵に名乗ると扉は開かれ、通された。


真紅の絨毯の上を、真っ直ぐに進む。

王座に腰掛けるのは、遠目には彼の慕う女王に見えた。

しかし近づいていくほどに、何かが違うと心が訴える。


足がすくみそうになる。

ここで起こっていることを知るのが怖い。

それでも一歩一歩と踏み出していく。


そうして王座の前に跪き、頭を垂れた。


(おもて)を上げよ」


凛と透き通ったその声に、少年は途轍もない違和感を覚えた。

顔を上げ、王座を見上げる。

そして彼は、絶望的な事実を確信してしまった。


「あなたは…陛下では、ありませんね」


掠れる声を弱々しく、彼は絞り出す。

それは問いではなく、確認ですらなく、確信を持った独り言だった。


「ほお、人間の分際でわかるのか?」


眩暈がした。

このまま気を失って倒れてしまえたら、どれだけいいだろうかと。

彼はここで初めて逃げたくなった。

わなわなと震える唇からは、言葉を発することもできない。


青い瞳から向けられる視線には、好奇と侮蔑が入り混じっている。

ふっくらとした薄紅色の唇が、可笑しそうに歪められている。

あの唇は、数刻前には優しく彼の肌に触れていたというのに。


「ふっ…。はははっ!」


王座から品の無い哄笑が響く。


「何をそう絶望することがある?エルフリーデ・ジルヴィア・アルテンブルクはここにおる。お前ごとき人間にも慈悲をくれてやろう。仕えることを許してやるぞ?」


絶世の美貌を歪めて笑うその目と唇に、明らかに冷酷な色が浮かんでいる。


「わたしが忠誠を誓ったのも、全てを捧げるのも、あなたではない」


震える声で、けれど少年はきっぱりとそう言い放ち、青い瞳を強く見据えた。


「強がるな。震えておるぞ。何を(こだわ)っておる?お前が慕ったのはこの見目であろう?この身体がわらわのものである以上、中身が何であろうとお前にとっては同じことではないか」


こんな時なのに、彼の中にエルフリーデとの思い出が蘇る。

好きな女性のタイプを問われて、彼女の見た目ばかりを褒めたこと。

それに傷ついていた彼女。

今ならわかる。同じ身体なら良いなんてわけは、絶対にない。


「触れさせてやってもよいぞ?確かめたいであろう、この身体がいかに愛しいものかをな」


確かに一目惚れで始まった恋だった。

けれど彼が恋をしたのは、こんなふうに他人を蔑むような視線を投げ、愉快気に嘲笑う女ではない。


「意地を張らずに、こちらへ来い。お前の心を暴いてやろう」


例えこの場で命を落とすことになっても、どんな惨い殺されかたをするのだとしても、彼は彼女への想いをこんなふうに侮辱されることは許せなかった。

だから、口を開いてはっきりと拒絶してやろうと思った。

そうして、焦げ茶色の瞳から意思を乗せて真っ直ぐに、青い瞳の奥を目掛けて射るような視線を向けた。


「わたしが好きなのは――」

『トシツネ』


その時、声が聞こえた。


『従う振りをして近づけ』


それは、彼の主君の声だった。

頭の中に直接呼びかけてくる。


口を閉じて、歩を進めた。

王座に向かって、一歩、また一歩。


「あっはははは!それでよい!素直になればよいのだ!」


哄笑が響く。

けれどそんなものは、少年にはもうどうでもよかった。

彼が耳を傾けるのは、主君の声だけだ。


「そうだ、良い子だ。もっと近くへ寄れ」


馬鹿にしたように歪められた微笑みが、芸術的なまでの美貌を台無しにしている。


女王の血で描かれた魔法陣の上に立ち、呪術というものを初めてその身に受けたのは、昨日のことである。

大仰な模様をわざわざ本人の血で描いたわりに、近距離なら念じれば声が届く、それだけのものだった。

それだけ、と思っていたことが、どれだけ愚かだったか。

今ならわかる。


「ほれ、欲しがっていたであろう?この唇を」

『もっと近づけ』


差し出される腕の中へ進んで、下卑た嘲笑を見上げる。


「お前は素直だな。男など皆そうなのだ。見目の麗しさと肉体の蹂躙を求めているだけなのだ」

『瞳を深く見ろ。私はそこにいる』


腕の中へ抱き寄せられて、憐れむ様に見下ろされる。

彼はその深い青の、もっと奥へと視線を挿し入れるように、ただその瞳を見続けた。


目が合った、と思った。


「どうした?目当てはこの唇ではなかったのか?」

『お前の身体を貸せ。お前の中へ私を受け入れろ』


造りが美しいだけの顔は、訝し気に眉を顰めている。

そんなことにも気づかず、少年は青い瞳の奥だけを見て、そしてそこにいる唯一の存在を己の全てで受け入れることだけを考えた。


『トシツネ』


深い青のその奥にある魔法陣から、光が勢いよく這い出して来た。

少年の焦げ茶色の瞳に向かって、それが奔流のように流れ込んで来る。

激痛が襲い、身体の中へ別の生き物が入り込んで来ると感じた。

不思議と恐怖は無い。

叫びもせず、彼はただ受け入れていく。

少年にはそれが永遠のように長い時間に感じたが、実際は一瞬だった。


「なっ!?」


気づけば目の前の女が狼狽えていた。


「私の勝ちだ、エファ」


彼は――否、彼女は剣を抜いた。

それは少年がアルベルトから貸し与えられた剣だ。


その声は、彼の口から発せられた。

少年の声のまま、しかし彼の意思にはよらず、口が動き声帯を震わせているのは、間違いなく彼の慕うエルフリーデだとわかった。


意識のあるまま、彼らはひとつの身体を共有していた。

身体が混乱を起こさないのは、トシツネが全てをエルフリーデに差し出し、委ねているからだ。

そしてそのことを、心地良く受け入れているからだ。


「そんな馬鹿なことが」


目の前の美しい女は恐怖に顔を歪めている。

もうトシツネには、それがエルフリーデには見えなかった。

彼女は、自分の中にいるのだから。


「何故、わらわの魔法が使えない!?おのれ、魔封じの陣を、いったい誰が!どこから!」


優美なはずの腕を滅茶苦茶に振り回して、女は動揺と恐怖に取り乱していた。

王座に深く腰掛けたまま退路を断たれたその憐れな女の喉に、剣の切っ先を向ける。

すると瞠目した女の動きがぴたりと止まる。


「わ、わかっておるのか」


掠れた声を女が絞り出す。


「わらわを殺せば――」


その口を、左手で塞いで、先を言わせなかった。

その時、トシツネにはわかってしまった。

エルフリーデが何をしようとしているのかを。


「あ――う――っ!」


首が締まるような苦しさと共に、少年の口から呻きが漏れる。

肩で息をした。女の喉に向けている切っ先が揺れる。


『何故逆らう!?お前は私の臣下だろう!』


喉を通さず、エルフリーデが少年に呼びかける。


「でき…ません…!」


苦し気に呻く声が少年の喉から漏れる。

切っ先は相変わらず白い喉に狙いをすましている。

しかし、それを勢いよく突き立てようとする力と、押しとどめようとする力が拮抗して、危なげに震えている。

女は驚愕としか言えない表情で、目を見開いて固まっている。


『誓った忠誠に嘘はないというなら、従うのが当然だろう!』

「できません…嫌…です!」


白い喉に触れる僅か手前で、その切っ先はガタガタと危うい動きを続ける。


『臣下の誇りは無いのか!』

「わたしは…」


荒い呼吸が乱れて喉がおかしくなっている。

トシツネは、エルフリーデの存在をその身体へ受け入れることはできても、彼女のしようとしていることを受け入れることはできないのだ。

全身に汗が滲み、女の口を塞いでいた左手が滑って剥がれる。


「お、お前たち、その状態で何を…」


整わない呼吸の隙間から、ただ驚愕し続ける女が言葉を紡ぐ。

しかし、一つの身体を今や取り合うように動かす彼らには、それどころではない。

剣の切っ先はいつまでも、その喉の僅か手前でふるふると二つの力に翻弄されている。


『これは命令だ!このまま喉を突け!』

「あなたを失う、くらいなら…」

『国だけではない、この世界のことを考えろ!』

「…世界を…失ったほうが、マシだ!」

『何を馬鹿な!主君の命が聞けない臣下など臣下と認めぬぞ!』

「だったら捨てます!臣下の誇りなど!そんなもの、あなたの命に比べれば…!」

『いい加減にしろ!国も世界も滅びれば私だって滅びるのだ!』

「それでも、あなたをこの手にかけるくらいなら!世界なんて、滅ぼしてやる!」

『お前は何を言っている!お前だって死ぬのだぞ!お前の大切な者達も皆だ!』

「あなたがわたしの全てだ!他のものなんて何一つ要らない!このまま、わたしの中にいてください!」

『乱心したか!そんなことを言うなら、エファより先にお前を滅ぼすぞ!』

「本望です!あなたにこの命を捧げられるなら!」

『どうしてそう聞き分けが無いのだ!』

「あなたを愛しているからです!!!」


沈黙が落ちた。

それを破ったのは、王座に腰掛ける女から漏れた、僅かな笑い声だった。


「ふっ…。お前たち、二人ともおかしいぞ」


震える切っ先を向けられたまま、女は愉快気に笑った。

そこには、侮蔑も、憎しみも、嫌悪も、負の感情は何もない。

ただ純粋に、彼女は笑っている。


「片や、合理的選択として自分ごと敵を殺そうとしている。そんな頭のおかしな策にまでついてくると疑わず、身体すら貸し渡されると思えるほどに、忠誠心とやらを信じているくせに。この女は愛を信じない」


白い喉に向けられた切っ先は、震え続けているというのに。

少年の身体の中にいる二人は、二人ともその女に気を取られている自覚があった。


「片や、その魂を身体に共存させられるほどに、相手の全てを信じ受け入れているくせに。それでいて、求められる忠誠を捨て、世界を滅ぼしてでも、その女が信じもしない愛を選ぶか」


青い瞳が、薄紅の唇が、美しく微笑んでいる。


「そもそもおかしいのだ。いくら呪術を用いたとて、瞳の色の違う身体に別の魂が入るなど。そんな万が一に賭けるようなことができ、その上成功させておきながら、その中で痴話喧嘩とはな」


絶世の美貌に浮かぶ、穏やかな微笑。

トシツネには、それはエルフリーデ本人が浮かべるものとは違って見えるが、しかしそれを美しいと思わずにはいられない。


「その上、乗っ取られたはずのほうも意識を保ったままだというのだから、これを笑わずして何とする。お前たち、それほどまでに想い合ってもすれ違うか」


それは馬鹿にするというよりは、慈しむような声色だった。


「その俗悪を、わらわは愛でよう」


切っ先が止まる。もう震えてはいない。

白い喉元に脅すように翳されたまま、それ以上進もうとも引こうともしていない。


「互いのために、互いを裏切ることができるというのなら。それは、わらわにとって救いとなる」


白い瞼が閉じ、長い睫毛が頬に影を落とす。

それはただの瞬きではなく、女が浮かべたのは満面の笑みだった。


「我がいとし子の末裔よ。この国も、この身体も返してやろう。わらわの願いは叶った」


疑うように、まだその切っ先を喉元に向けながら、彼と彼女は同じ目から女を見上げた。


「信じられぬか?無理もないな。とにかくわらわは、この女と話をせねばならん。代われ」


この女の言うことを、すぐに鵜呑みにする気にはなれず、二人は戸惑っていた。

それでも、エルフリーデに身体の主導権を譲れ、という意味だということは、二人ともにわかった。

話が終わるまでは、エルフリーデも切っ先を喉に押し込むことはないだろう。

そう判断したトシツネは、その身体を明け渡すように、全てを彼女に委ねていった。

瞳に光が入っていくシーン、もっと色っぽい書き方をしたものもあったのですが、特殊な趣味すぎて自重しました。

どんなものだったかは、ご想像にお任せします。

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