43―女の愛
「話とは何だ」
それは少年の身体から発せられた声だが、その中にいる女王が発した言葉だとわかる。
「ふっははっ。この光景は滑稽ぞ」
王座に腰掛ける絶世の美女は、微笑まし気に笑う。
「ふざけているだけならば――」
少年の手に握られた剣の切っ先が、白い喉に近づく。
「まあ待て。わらわは、もうお前たちに敵対するつもりはない」
焦げ茶色の瞳が、疑わし気に青い瞳を見据える。
「先程も言ったが、わらわの願いは叶った」
本来エルフリーデのものであるその顔は、満ち足りた笑みを浮かべている。
「その切っ先を向けたままで良いから、腹を割って話をしようと言いたいところであるが。お前たちはすぐにはわらわを信用できぬであろう」
少年の中にいる二人分の無言の肯定を、その女は感じ取った。
「だからまずは、わらわの話からしよう」
そう言って、穏やかな微笑みを浮かべたままで、その女は僅かに睫毛を伏せた。
「覗き見をしておったなら知っておろうが、わらわには恨みに思う人間の男がおった。精霊の身でありながら、肉体を得るために犠牲にしたもののことまでは、もう言うまい。それはわらわが自ら望んだこと。裏切られただの何だのと、腹の立つことは山のようにあったが、最も許せなかったのは、別れの挨拶も無いまま無視をされたことでな」
遠い日を慈しむように、ふっくらとした薄紅色の唇は語っていく。
「醜く縋ってただ別れの言葉だけを求めてすら、あの男は無視を通しよったわ。まあ、そんなことはお前たちにとってはどうでもよかろう。幼稚な憎しみにすぎぬ」
女がそっと白い瞼を閉じると、黒く長い睫毛が白い頬に影を作る。
「この二千年、石になってすら、わらわの意識はあの中に留められておった。動けもせぬ、石ころに過ぎぬというのに。死ぬことはないと知っておったからこそ、その永遠の苦しみに耐えられんかった」
この世に不死に憧れを抱く者は後を絶たない。
けれどそれは、幸福たり得るとは限らないのだろう。
「憎い男の腸をこの手で引き摺り出してやったというのに、気が晴れとた思ったのはほんの数日。時が経てば経つほど、あの温かい血と肉に触れたときにすら、まだその男が愛おしいと感じた愚かな自分を、誤魔化しようもなく知っていった」
瞼を開いた女は、白い手のひらを見つめる。
その青い瞳が見ているのは、あの華奢な少女の在りし日の手のひらなのだろう。
「まるで存在などしないかのように、ゴミ屑以下の扱いを受けていたというのに、それでも醜く浅ましくもそんな卑しい感情を抱くのだ。わらわは、そんなわらわ自身のことも憎かった」
自嘲気味な独白は続いていく。
「無視をされるということは、存在を否定されること。もう、一秒でも一瞬でも、あの男がわらわを愛したことがあったとも思えなかった。いつ、何を間違ったのか、わらわにはわからない。ただ、思い出も、何もかもを否定することしかできなかった」
凛と透き通った声には、悲しみが混じり始めていた。
「この世に正しいことなど存在するのかどうかも、もうわからなかった。ただあの男が愛おしいと思っただけだったはずだというのに、醜い感情など知りたくもなかったというのに、どうしていれば救われていたのか、全くわからなかった」
端正な眉尻を下げて、女は自らを蔑むように微笑んだ。
「そうして、あの男を憎んだ。わらわ自身を憎んだ。そして、愛を憎んだ」
ほろりと、一筋の涙が白い頬を伝い落ちた。
「わらわは愚かな女じゃ。それでもどこかで、まだ縋れるものを求めていた。思い出に、愛に、ほんのひと欠片でも希望を見出したいと。そして二千年の時を過ごす間に、そんな愚かさをもまた憎んだ。石の女には成す術などないのだ」
青い瞳が寂し気に潤んでいる。
「お前が初めてわらわに触れた時、わらわにはその感情が伝わってきた。お前はわらわのように、愛を信じない女であった。いつしかわらわは、お前を娘のように思っておった。女は恋に傷ついても、子を慈しむことはできる生き物なのだ」
その言葉を聞く焦げ茶色の瞳が、動揺に揺れていた。
「そんなお前が人間の男など拾ってきて、自ら傷つきに行くのかと思うと、わらわは憤りを抑えられなくなった。今思えば、そんなお前を見るのが怖かったのであろう。わらわは、わらわのような女など二度と見たくなかった。そのために、ヴィンフリートに利用されてやる振りをすることにしたのだ」
伏せた睫毛を持ち上げて、女は少年の目と視線を合わせた。
「愛した者に傷つけられるくらいなら、初めから敵である者に滅ぼされるほうが、心は安らかであれる。人間の男などに傷つけられるくらいなら、わらわの手で葬ってやったほうがまだいい。そのついでに、人間の男など愛するだけ無駄だと、証明してやろうと思ったのだ」
借り物の身体の奥から、彼らはじっと見つめ合った。
「そんな高慢な押し付けがいかに見当違いであったかを、お前たちは見事に証明してくれたな」
にこりと、女は微笑んだ。
「世界を滅ぼしたいほどに愛しいと思う、苛烈で愚かな感情を、わらわは知っておる。それが間違いだとしても、卑しくても、浅ましくても、そんなことはもうどうでもいい」
涙は晴れていく。
「人間よ。お前の先程の姿は、わらわの目には醜くなどなかった。わらわはお前のその傲慢で身勝手な愛を愛でよう」
幸せそうに、青い瞳に曇りはない。
「復讐などに手を染めたこの身の咎をこそ憎めど、わらわはもう、自らの卑しい愛を憎まなくて良い」
そうして聖母のように微笑んだ女が、そっと両腕を開いた。
「わらわは救われた。だから今は、惜しみなく我が末裔を愛そう。エルフリーデ、お前はわらわの愛しい娘じゃ」
焦げ茶色の瞳から涙が溢れていた。
それは、少年の感情ではなく、親の愛を知らずに育った女王のものだった。
「っ――!」
剣が床に転がり落ちる。
少年の身体のまま、女王はその腕の中に飛び込んでいた。
おかしな感覚だった。
自分の身体に抱きしめられているのだから。
みっともなく嗚咽が漏れる。
涙に濡れた目で見上げると、青い瞳や白い肌、長い黒髪がぼやけて見えた。
それが、肖像画でしか見たことのない、母の姿に重なって見えた。
エルフリーデは、ずっと愛されたかった。
例え良き王でなくとも、何者でもなくとも、ただのエルフリーデのままで。
無条件で受け入れてくれる母の愛に、ずっと焦がれていた。
それは叶わないはずのものだった。
自分を産んですぐ死んだ母を、殺したのだとさえ思っていた。
そしてあの恐ろしい父でさえ、彼女は殺したのだ。
愛に飢えていた。
けれど、親殺しの自分は愛されてはいけないと思っていた。
愛を知らない自分の中に芽生える愛は、卑しい感情だと、ずっとそう、思って来たのだ。
優しい手が頭を撫でる。
止め処ない涙で、着慣れたドレスを汚らしく濡らしていく。
「…ははうえ」
呼べるはずのなかった、その人を呼ぶ。
「エルフリーデ」
優しく、呼び返す声がする。
柔らかな抱擁に包み込まれた。
「母上!」
違うということはわかっていた。
けれど、止まらなかった。
ずっと欲しかったものが、ここにある。
みっともなく泣き縋った。
その姿を初恋の人に晒していることもわかっていたけれど。
借りたままの身体で、顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。
そうすると、青い瞳からもまた、涙が零れ落ちてきた。
「わらわは、あんな男のことなどに構わず、こうしてずっといとし子を抱きしめていてやればよかったのだ」
温かい身体を抱きしめあって、二千年の時を隔てた先祖と子孫が、母娘のように泣いていた。
お互いに身体は他人のものであっても。
感じているのは、紛れもない肉親の愛だった。
「ごめんなさい…」
ふいに、少年の口から謝罪の言葉が漏れる。
「何を謝る、エルフリーデ」
宥めるように、白い手は背中をさすった。
「手も足も、捥いで」
女はクスクスと笑った。
「あれは痛かったぞ」
優しく、大丈夫だと伝えるように、白い手は髪や背中を撫で続けた。
「立派な王になったな、エルフリーデ。わらわは、いとし子を産んだことを、誇りに思うぞ」
それは、産まれてきてよかったのだと。
エルフリーデの存在を肯定する言葉だった。
本当は寂しかった。
本当は泣きたかった。
みっともなく弱音を吐いて、甘えたかった。
そんな感情をずっと抑え込んできた女王の心が、ただのエルフリーデとして満たされていく。
同じ身体の中にいるトシツネは、そんな姿を温かい気持ちで見守っていた。
自分の愛の告白より、エファに与えられる母のような愛に涙するエルフリーデを見て、少し妬けたけれど。
彼は母親にはなれないのだ。
それがずっと、エルフリーデの望んでいたものだというのなら。
満たされていく彼女の全てをまた、彼は愛おしいと感じるのだ。
そうして心行くまで、少年の身体を借りたままで、エルフリーデは子供のように泣いていた。
エファの真の願いは、憎しみを克服すること。
ちょっと強引ですかね。
そして、エルフリーデの内面の問題をこれより前にもっと書き込めていたら、この場面がもっと映えたかもしれないと、反省。




