39―甘い挑発と女王の残虐
※R15…残酷描写あり
海岸近い洞窟の前に、彼らは立っていた。
その洞窟が正しい道を示すのは、初代国王ディートリヒ・アルテンブルクの血を受け継ぐものだけだ。
他の誰かを連れていると、その奥へは辿り着けない。
――そう、思われていた。
たおやかな白い手指が、腰の短剣に伸びる。
金の柄を持ってそれを引き抜くと、女王は右手人差し指の腹に刃を滑らせた。
滑らかな肌に、鮮やかな赤い血が滲み出す。
「これを飲め」
少年の口元に、血の滴りかけたしなやかな指が差し出された。
僅かな躊躇いの後、その血が落ちてしまわぬうちにと、彼はぱくりとその指を銜える。
「血の契約に関する記述が正しければ、体内にこの血を保持する限り、お前は迷わない」
鉄錆の味が口の中に広がっていくと同時に、少年の心臓が早鐘を打ち、頬に熱が集積していく。
焦げ茶色の瞳で見上げると、美貌の女王の白い頬も、うっすらと上気していた。
彼女の指先には、柔らかい少年の唇と、その奥の温かく湿った皮膚が触れていた。
頬を染めて見上げる彼が一生懸命血を啜っている様が幼気に見えて、女王はいけないことをさせているような気分になった。
「も、もう充分だろう」
照れ隠しのように、さっと指を引っ込めると、女王は青白い光を指先に宿して傷を塞ぐ。
「これは予備だ」
血の入った小瓶を取り出し、女王は少年に渡す。
「あまり古いものは衛生的に良くない。これは必要なければ飲むな」
「はい、ありがとうございます」
まだ頬を赤くしたまま、少年が恭しく受け取る。
「行くぞ」
優美な白い左手が差し出された。
遠慮がちに、しかし嬉しそうに、少年はその手を取る。
「はい」
手を握り、指を絡めあって、彼らは洞窟の奥へ向かって踏み出した。
光る苔が淡く照らし出す洞窟の中を、二人並んで歩いて行く。
その手のひらの柔らかさに、少年の心臓がどきりと跳ねた。
また女王のほうでも、軍人として剣を取り豆だらけにしてきた少年の手のひらの、男らしくごつごつとした乾いた感触に、言い様もなく胸が高鳴った。
彼らはこうして異性と手を繋いで歩くことなど、初めてである。
互いに視線も合わせず頬を染めあって、いったい何をしているのかというと、精霊エファを誘き出すための演技のつもりなのであるが――。
そう、これは演技のつもりなのである。
女王は以前、その依り代に触れた時、エファの不興を買ったと感じたことを覚えている。
あの時エファは人間に心奪われていた彼女に腹を立てたのだと、女王は思ったのだ。
彼らの敵として現れたエファは、依り代とは別に身体を持っているが、本質的にはエファという存在の根幹は同じはずなのである。
だから、これからエファを挑発するにあたって、依り代のエファというのは間違いなく彼らの目的に繋がるものだ。
また、ヴィンフリートが敵としてどこかにいる場合においても、彼の本拠地は洞窟の近くである可能性が高いと女王は見ている。
彼自身の存在が世間に見つからず、封印と王を監視できる場所として、この洞窟付近はうってつけなのだ。
洞窟付近でエファを引きずり出すことができれば、彼の存在もはっきりさせられるという期待が持てる。
彼がエファの固有空間内にいるのであればそれもまたよし、どちらにせよエファを餌に引きずり出そうという算段だ。
しかし、こんな場所ではあっても、今の彼らは傍から見れば、初々しいデートをする恋人たちにしか見えない。
両想いとはお互い知らず、相手だけは冷静と期待して、時折はにかんだ微笑みを投げかけては、ぎこちなく離れたり近づいたりする、とんだ大根役者たちである。
「トシツネ」
さりげなく近づいた女王が、限りなく音量を抑えた小声で話しかける。
「はい、陛下」
答える声も、最小限に抑えられている。
「あちらも馬鹿ではない。警戒もしているだろう。露骨に挑発しても乗ってこない可能性もある」
ほんの僅かに、少年が頷く。
女王はそれを、きちんと見て取った。
「我慢ならないと思わせて、あちらが感情に任せて出てくれば成功だ。そのために――」
女王が繋いだ手を引き寄せ、身体の距離を縮める。
「かわいそうだが、お前にどこまで何をすることになるかわからない。我慢してくれ」
「…はい」
少年は期待と緊張で全身を火照らせる。
浮かれていてはいけないことは、彼にもわかっている。
今まさに敵地へ乗り込むところであり、冷静でいるようにと主君からも言われている。
手指から伝わる柔らかい感触と体温。
彼女から仄かに漂う甘い香。
そんなものに意識を取られないではいられない。
それでも、ここで主君の計画を狂わせるわけにはいかない。
かかっているのは自分の命だけではないのだ。
「いいか。エファの依り代には私の身体だけが触れるようにしろ」
「はい」
女王は、この恋は彼女の片想いだと思っている。
依り代に触れた時その感情を読み取られたなら、少年に依り代に触れさせてはいけないと思っているのだ。
間もなく、封印の依り代の前へ到着した。
瞼を閉じた物言わぬ愛らしい可憐な少女の、石になった冷たい身体がそこにある。
「エファ、わざわざこちらから来てやったぞ。これはもう私のものだ」
女王はそう言うと、わざとらしく少年の身体を抱き締めた。
びくりと震えて耳まで真っ赤にした少年は、少しでも冷静でいられるよう懸命に息を吸った。
女王は、その真っ赤な耳元に口を寄せる。
「やはり出てこないな。仮に傍に参謀がいるとすれば、止めているだろう。依り代に近づくぞ」
女王が耳元で小さく囁くと、少年はぞくりとしながらも、彼女の誘導に従って依り代のほうへ足を動かした。
やがて依り代に背を預けるようなかたちで、女王はその石の少女にもたれ掛かりながら、少年を腕の中に抱き寄せる。
お互いの身体が燃えるように熱いのを感じながらも、彼らは現れるべき精霊の気配に警戒する。
女王はその背中に、あの時のように少女の怒りを感じた。
前回よりはっきりと伝わってくるそれは、もう気のせいで済ませられるものではない。
「エファ。先日余計な世話を焼いてくれた礼に、証拠を見せてやろう」
暗い洞窟を照らし出す苔の淡い光が、女王の白く滑らかな肌を美しく浮かび上がらせている。
青い瞳が宝石のように煌めき、その光の全てを少年の瞳に注いでいた。
ふっくらとした薄紅色の唇が、少年の視界に近づいてくる。
彼が演技だということも忘れて、焦げ茶色の瞳を潤ませて夢見心地に見上げれば、彼女も恥ずかしげに頬を染め、青い瞳もまた愛らしく潤んで揺れていた。
ふわりと、少年の額に柔らかな感触が降りてくる。
その唇は続けて優しく、蟀谷に、眉間に、頬に、顎にと、丹念に慈しむような甘やかな感触を降らせていく。
うっとりと恍惚に身を委ねながら、少年はもう死んでもいいと思うくらいの幸福を感じていた。
しかし少年の唇だけは避けていくことが彼には焦れったくなり、彼は自分から身を寄せて女王の美貌に顔を近づけていった。
彼女の身体を石の少女に押し付けるようにして、唇を重ねようとゆっくりその距離を縮めていく。
青い瞳が少し驚いたようにしながらも、切なげに彼を待ち侘びていた。
その時――。
「それ以上のわらわへの侮辱は許さぬ!」
少年の背後から怒声、足元に轟音が響いた。
「トシツネ!」
女王が左後方へ少年の身体を素早く投げた。
そこに真っ黒な闇が口を開けており、そこから少年を掴もうと手が伸びている。
その手は少年をしっかりと掴んで闇の中に引きずり込んだ。
「アルベルト、任せた」
その声を発した女王は既に転移し、新たに現れた片腕の無い精霊エファの背後に回っている。
先程まで二人がいた場所の足元には、ごぼりと深い穴が開いていた。
「おのれ!」
ピシリと、少年を呑み込んだ闇に向けて別の亀裂が放たれるが、そこはもう閉じていた。
少女が憤怒の形相で女王を振り返り、きつく睨めつけている。
「何故ここで魔法が使える!」
少女が吠える。
「これを使わせてもらった」
女王は漆黒のドレスの裾に重なるレースを掻き分けて手を突っ込み、一本の腕を取り出した。
「それは、わらわの…!おのれ!お前、わざと…!」
少女の切れ長の愛らしい目は怒りに血走り、おぞましいまでの憎しみを露わにしている。
「あれは事故だったのだが、捥げてしまったものは仕方がない。使えるものは使わせてもらう」
少女から青い光が溢れ出す。
間髪入れずに女王も同じ量の青い光を溢れ出させた。
「ぎゃぁああああああああああ!」
少女の悲鳴が響き渡る。
「そこにはもう誰もいないぞ」
固有空間を無理矢理開かれた女王は、その空の空間に拳大の青い水晶を二つ投げ込んでそれを閉じ、冷酷な瞳で少女を見下ろす。
「足ぃい、足がぁああ、わらわの足がぁああああああああああ!」
少女の両足が無くなっている。
血の止まらないその様子は、言葉にするのも痛ましい。
「知らなかったか。私は残虐な女だ。昔、実の父を肉片に変えて殺したこともある」
その美貌に一切の感情を浮かべず、女王は淡々と告げる。
「おのれぇえ、おのれぇええええええええええええええ!」
痛みに悶える少女は、涙と鼻水と唾液を滅茶苦茶に溢しながら、怒りと恨みに塗れて女王を凝視する。
「助けを呼ばなければ死ぬぞ。いるのであろう?」
冷えた声が凛と響く。
少女はあらゆる負の感情を綯い交ぜにして、醜く顔を歪ませる。
「ヴィンフリートぉおおおおおおおおおおおおおお!」
少女の固有空間が開かれた。
「やはり生きていたか」
血に塗れたような真っ赤な髪、細長い蛇の様な眼窩から覗く白い瞳、漆黒の正装を纏った男が、その空間から放り出されて現れた。
女王の目的はこの男を引き摺り出すことだ。
「予定とは違いますが、いいでしょう」
起き上がりながらそう口にした男の背後に、既に女王は転移していた。
「随分悠長だな」
男の腹に、人の頭ほどの大きさの石が正面から飛んできて打ち込まれた。
「うぐっ」
少女が抉った地面の一部、それを女王が魔法で引き寄せたのだ。
「ふ、ふふふ」
しかし男は、物理的な痛みを受けながらも笑った。
「何がおかしい」
女王はドレスの中に隠し持っていた無骨な縄で、空間魔法を使い男の両手両足を手早く縛り上げていく。
「無駄ですよ、あなたはもう網の中」
それでも男は薄ら笑う。
「わたくしをここで殺さない時点で、所詮あなたも手ぬるい」
答えもせず、女王は再び固有空間を開く。
「ミリヤム、叔父上!」
その黒い裂け目から二人が飛び出し、素早くヴィンフリートを抱えてまた裂け目の中へ戻ろうとする。
「させぬわぁあああああああああああああああ!」
少女がそれを妨害するように青い光を充満させていく。
裂け目が閉じる。代わりに女王も青い光を充満させ、相殺するように少女にぶつけにいく。
「行ってくれ」
「ああ」
二人の臣下は縛り上げられた男を抱え、洞窟の外へ向かって駆け出した。
「一騎打ちだ、エファ」
吸血シーンが色っぽいっていう感覚、十代の頃はよくわかりませんでした。
大人になると変わるものですね…。




