38―嵐の前
半月型の下縁眼鏡を通して、若葉色の視線が紙面に落ちる。
スラスラと羽ペンが滑り、達筆な文字が整列していく。
「話は分かったわ。こちらのことは任せておきなさい」
淡い金髪の従者は、完璧な所作で礼をする。
彼が去ろうとすると、
「ねえアルベルト」
呼び声に引き留められた。
「はい、何でしょうか」
振り返ると、若葉色の真剣な眼差しが、彼に向けられている。
「これが終わって生きてたら、私と結婚しない?」
赤い瞳が見開かれ、純粋な驚愕が示される。
「冗談よ、馬鹿ね」
薄く紅を引いた唇が、悪戯っぽく笑む。
しかし彼の見開かれた目はそのままに、口も開きかけている。
「何変な顔してるのよ。冗談だって言ったでしょ?」
「え、ええ…」
「あなたくらいしか話す男がいないから、こういう冗談を言ってみたくなっただけ。さあ、行った行った」
シッシと、追い払う仕草をされ、従者はまた完璧な所作で礼をして、宰相の執務室を辞した。
ひとりになった彼女は、特大の羊皮紙を取り出して、床に広げる。
「これって本当に私のすべき仕事なのかしら。賞与出るわよね?」
特大の溜め息を吐きながら、従者から預かった献血用の血が入った大瓶を見遣る。
「期待はしないわ。最悪、給与どころじゃないし」
優秀な宰相である彼女は、女王から従者も知らない頼まれごとをしている。
これが終わって生きていたら。
その冗談の中でも、誰が、とは言わなかった。
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飴色の瞳がきらきらと輝いている。
「完成ですわ」
彼女の視線の先、丸い木のテーブルの上には、腕が一本。
「あたくしったら、最近は他人様のお役に立てていますわ。なんて嬉しいことでしょう」
妖艶な美女はご機嫌に微笑む。
「そして、これを取りにまたお客様が来てくださるのよ。何をお出ししようかしら」
台所へと向かう足取りは喜びに弾み、悩まし気な肢体が艶めかしく揺れている。
「それにしても、あたくしの魔力にこんな使い道があったなんて」
森の奥の大きな屋敷に、楽し気な鼻歌が響いた。
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焦げ茶色の瞳に期待と不安が入り混じって揺れている。
王宮の一角、普段使われていない小部屋は、扉も窓もカーテンも全て、外から覗かれないように閉ざされている。
壁の燭台に火が灯り、その部屋を照らし出す。
床に広げられた大きな羊皮紙に、血で描かれた魔法陣の上、その中央に少年は立っていた。
「これで本当に、聞こえるようになるのですか?」
「二日くらしか持たんじゃろうが、可能なはずじゃ」
答えた老人は、部屋の隅で別の作業をしている。
そこでは、澄んだ水の張られた桶に、いくつもの青い水晶が浸されていた。
「オットー、後は頼んだぞい」
「ああ、友よ。任せてくれ」
ごくりと唾を呑み込むと、少年の若い喉が動く。
初老の将校が、少年の背中を安心させるようにポンと叩く。
「怖いのかね?」
「少しだけ。でもそれより、陛下が貧血になっておられないかということのほうが――」
「ああ、陛下ならあの後もお元気でいらしたよ。君は本当に陛下を慕っているのだね」
少年の頬が上気して、これから起きることへの緊張が解けたのが、この将校に伝わった。
「さあ、始めよう」
少年は深呼吸をひとつすると、初老の将校に差し出された液体を飲み干す。
そして、口を開き、
「エルフリーデ・ジルヴィア・アルテブルク」
最も愛しい女性の名を唱えた。
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王宮の地下を、燭台が照らす。
華美な装飾など一切ないそこは、全てが石でできている。
コツリ、コツリと靴音が響く度、闇より濃く艶やかな黒髪が揺れ、滑らかな白い肌を際立たせる。
青い瞳の見据える扉、その向こうに王家の墓がある。
たおやかな手指が扉を押し開けば、そこには十二の柩。
その全てに、歴代の王の名が刻まれている。
十二番目の王の名は、エアハルト・グスタフ・アルテンブルク。
彼女はその蓋を開く。
その中には僅かな遺品がある。
そこへ納まるべき遺体を、彼女は闇を切り開いて取り出した。
「父上。我が罪は、私の死と共に白日の下に晒されるでしょう」
ぼとりぼとりと、それらが全て柩に転がり落ちる。
最後にひとつ、ごろりと零れ落ちた黒い水晶が、音を立てて柩の底を叩いた。
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ライトグレーの瞳の先で、男性にしてはしなやかな白い手にナイフの刃が当てられている。
それを見ている琥珀色の瞳は不満の色を湛え、すっきりと整った白銀の眉が顰められている。
「手はやめとけよ。戦闘に響く」
「足でも同じでしょう」
「どっかないのか、戦闘中に全然関係ない場所は」
琥珀色の瞳が、その貴公子の頭の上からつま先までを探るように眺める。
「そうですね」
スッ――と、前触れもなしに白い指が、健康的に日焼けした顎をとらえる。
「唇なんてどうです?」
ライトグレーの瞳で熱っぽく見つめると、彼女の艶やかな美しい頬が、かぁっと赤く染まる。
「ふざけんな!」
「だったらどこならいいのです?」
中性的な美貌をゆっくりと近づけ、耳元に口を寄せて、
「頬ですか?額ですか?耳ですか?」
彼は囁くように甘い声で問いかける。
それを押し返し、琥珀色の視線に怒気を孕ませながらも、彼女は愉快気に微笑む男の全身を眺める。
「ケツを出せ」
「絶対に嫌です」
ひとつ溜息を吐いて、中性的な美貌を物憂げに俯けながら、彼は口を開いた。
「注射器で腕から採りましょう」
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黒い空間に浮かぶ半壊した廃城。
肩を押さえて苦悶に表情を歪ませる、栗色の巻き毛の可憐な少女。
「まだか、ヴィンフリート」
「エファ様、そう簡単に腕一本が完成するものではありません」
「ならばもうよい、この傷口だけ痛みの無いように塞げ」
しばしの沈黙が、白い瞳から向けられる視線とともに漂う。
「エファ様。それではお力が――」
「構わぬわ。奪い取るまで持てばそれでよい。わらわがあの女なら、この機を狙って動く。そう時間は無いぞ」
血に染まったような赤い髪の男は、僅かな逡巡の後、頷いた。
「わかりました。では、急ぎましょう」
ミリヤムは、本当にギュンターがお尻を出したらどうするつもりだったのか…。
おそらく殴ったでしょうね。




