↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/238

10―謎の亀裂

少年はその夜、寝付けなかった。

白い病室には明かりが灯ったまま、サイドテーブルの上の辞書と、それに真剣に視線を落とす少年を照らしていた。


その辞書は、少年の母語であるイヅノメ語使用者向けの、精霊言語の辞書だった。

何故この辞書が作られたのか、いつこのような辞書が必要になることが想定されたのか、彼には甚だ疑問である。

実際に、この辞書は表紙は古びているのに、開かれた痕跡がほとんどない。人間界のあらゆる言語に対応した辞書が、アルテンブルクには備えられているのだろうか。


少年の出会う魔族は皆、世話係など下働きの者を含めて、彼の母語を流暢に話す教養があった。

初めは、そういう者だけを寄越しているのかと思っていたが、それにしては医師や看護士や掃除係に至るまで、誰も彼もが流暢すぎる。


女王が人間界の作法に則った書状を送ったと言っていたことからも、魔族という種族は人間界について深い理解を示していると察することができる。

おそらく皆が、いつでも人間との遭遇に対応できるよう、彼の母語のみにとどまらず、人間界のあらゆる言語を習得しているのであろう。


凡庸な自覚のある少年には、眩暈のしそうな推論だった。


「陛下」


興味のある単語から、少年は必死に覚えようとしていた。


「青い」


少年の頭は、あの女性に初めて話しかけるにはどんな言葉がいいか、ということでいっぱいだった。


「白い」


ひとりで胸を高鳴らせ、頬を紅潮させて辞書をくる。


「好き」


これでは、明日の夜までに覚えた三十以上の単語というもので、彼の心中が透けて見えそうだ。


「愛」


覚えたての文字でノートにその単語を書いてみて、恥ずかしくなって黒く塗り潰す。


「忠誠」


その単語の響きが、少年の中へすとんと落ちてきた。

信仰にも似た憧れが、彼の若い胸の中へ広がっていく。


教わったばかりの文法で足りる範囲で、文章にしてみようと思い立つ。


「あなたに、忠誠を」


そう口にしてみると、安堵と喜びが混じり合った。

差し出せるものなど何も無いと思っていた、空虚な自分。

けれど、ここにある心はきっと、恥じることなく捧げられるものだと感じた。


――その時。


ピシリ、ピシリと、何かに亀裂が入るような音がする。

感覚を研ぎ澄まして辺りを見回す。

誰が、何のために、どこから――。


背後から見えない力に吸い込まれる、と思った。

咄嗟に飛び退き、そこから逃れる。すると、先程まで彼がいた場所のすぐ後ろに、暗闇がぱっくりと口を開けていたのが、閉じて消えていった。


また、ピシリと別の方向から裂ける音が聞こえて振り向くと、そこに口を開けた亀裂から覗く闇に、吸い込まれそうになる。慌てて飛び退り、間一髪逃れる。


これは敵襲なのか。

何故彼が狙われているのだろうか。

他の皆は無事なのだろうか。


ピシリと音がする。

彼はまた、飛び退いて避ける。

今度は避ける距離が足りなかったようで、何かが掠めた感触があった。


そして、気配が完全に消え去った。

嫌な予感がする。

あの亀裂は、標的を変えて別の誰かのところへ向かったような、そんな気がするのだ。

それがもし、あの女性のところだったら…。


急いで部屋を飛び出そうと扉を開いたが、そこには暗い廊下が続いている。

この廊下をひとりで歩いてみたことはない。

飛び出して行っても、きっと迷うだけだ。


無力感に苛まれながら、少年は祈った。

嫌な予感が当たっていないようにと。あの女性が無事であるようにと。


どれくらい祈っていただろうか。


床に膝を付き、手のひらを合わせたり、指を組んだりするが、滲んできた汗の感触がするばかりで、不安はいくらでも膨らんでいく。

何に祈っていいのかわからなかった。彼の国にいた神々は、ここで助けてくれるのか。この国には神がいるのか。


少年は信心深いほうではなかった。

けれど無力で小さな自分を知れば、助けを乞える存在を求めてしまう。


「陛下」


ほとんど無意識に、精霊言語で呼びかけていた。

あの優しい腕の温もりを、思い出して泣きたくなった。


すると、膝の下にピシリと亀裂が入ったと思う間もなく、両足を呑み込まれて捕らわれた。

しまった、と思うが、遅かった。戻って来た何かに、このままあちら側へ引きずり込まれると思った。

そこでぷつりと、意識を飛ばされてしまった。




―――――――――――――――




寝室で休んでいたエルフリーデは、少年の部屋に仕掛けた魔道具が反応したことで、目を覚ました。


それは、部屋の中に悪意や殺意が漂えば感知できる類の魔道具だった。

感情の察知という魔法は希少なため値が張るが、大きな施設や富裕層の邸宅などには、防犯目的で普及している。

細かい仕組みについては説明を省略するが、自分に対する殺意、つまり自害する意思に対しても有効なため、少年の部屋にこれを設置していたのだ。


彼が抵抗をやめて以降、一度も反応していなかったそれが、エルフリーデに少年の危機を伝えていた。


すぐに彼の部屋へ転移しようとしたが、それを妨げるようにエルフリーデの寝台の真上に大きな魔力の気配がした。


その空間に亀裂が入るのを見た。

本能的に危機を感じ、黒い口を開こうとする亀裂から急いで遠ざかった。

するとそれは閉じ、また別の方向に亀裂ができ、その切り口が彼女を狙いすますように口を開けていた。

転移して部屋の中で避けると、また閉じる。


何だ、これは。


繰り返した。亀裂はあらゆる方向、あらゆる角度から襲ってくる。

ことごとく避けながら、エルフリーデは思考を巡らせた。


自分が攻撃されている現状、別の部屋へ転移などしても、追ってくる可能性は充分にある。

今少年の部屋へ行けば、彼を余計に危険に晒すかもしれない。

それに、魔道具の反応はもう消えていた。


亀裂の向こうに空間があるのがわかる。それもかなりの規模だ。

おそらくこれを仕掛けてきた誰かは、エルフリーデをそちら側へ取り込もうとしている。


空間魔法を使える魔族は、王族の血を引く者だけだ。

しかし、勿論のことエルフリーデは何もしていない。叔父であるギュンターには、このような真似ができるほどの空間魔法の才は無い。

近しい親類は他に生きてはいない。となれば残る可能性は、過去の時点で王家から枝分かれした、王族の血を引く貴族の末裔か。

あるいは、そんなことが起こりうるならばだが、故人の仕業ということになるのか。


何度目かの亀裂を躱した時、ぴたりと攻撃が止んだ。

感覚を研ぎ澄ます。ここにはもういない。ならば今、どこに――。


最悪の事態を察した。魔道具が反応している。

エルフリーデは、ネグリジェ姿のままでなりふり構わず転移した。


気を失った少年の鼻から上が、床近くの亀裂から辛うじて覗いていた。

駆け寄る間もなく飲み込まれていく。手を伸ばすがもう遅い。


「待て!」


閉じようとする亀裂をこじ開けようとするが、それ自体物理的なものではないため、手を挿し込んでも無意味である。

彼女は己の空間魔法を重ねてそこに干渉しようとしたが、それも虚しく逃げられてしまった。


「待て、私も連れていけ!私を狙っていたのではないのか!」


叫びは虚しく響き、その部屋にはもう誰もいない。

こんなにも自分を無力なものだと感じたことは無い。

エルフリーデは、その場にへたりこんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。