9―最初の授業
アルベルトによる少年への教育は、早速その夜始まった。
忙しい女王の従者は、彼の本来の仕事を全て済ませてから、更にこの新しい仕事に取りかかった。
夜もとっぷり更けかけた頃、白い病室に男二人。
「あれから陛下と会話する機会はありましたか?」
「いいえ」
「では、あなたの名前は聞かずにおきましょう。最初に名乗る相手は陛下になさい」
「はい」
「勉強を始める前に、あなたには我々の常識を知ってもらおうと思います」
厳しい表情とは裏腹に、アルベルトは非常に親切だった。
この人間を気に入らないと思ってはいても、敬愛する主君のためとあらば、この忠臣はそんな私情に拘りはしない。
「我々が精霊と人間との混血である、ということは知っていますか?」
「はい」
「では、我々のことを、どこまでわかっていますか?」
少年は、しばし逡巡し、
「わかりません」
と答えた。
「ふむ。ならば、あなたのほうから、わからないことを質問してみなさい」
こくりと頷いて、少年は口を開く。
「陛下は、魔法で何でもできるのですか?」
「魔法について、ですね。陛下がお使いになるのは、お母上譲りの治癒魔法と、父方――つまり王族の血により受け継いだ空間魔法です。通常、魔族は生まれながらに、扱える魔法の種類が決まっています。その多くは、両親のどちらかから遺伝によって受け継ぎます。一人の魔族が扱える魔法は一種類ということが多いのですが、たまに二種類や、それ以上といった者もいます。
ここまでわかりましたか?」
こくこく、と少年は頷く。
「ですから、いかに陛下といえど、何でもというわけには参りません。各種の魔力は、属性そのものを変化させることはできませんし、その効果に発動条件を持つ場合もあります。例えば、治癒魔法で治癒できるのは、生者のみ。死者の復活や、死体の修復などは、治癒魔法では不可能ということになります」
少年は、興味深げに頷いている。
「また、同じ種類の魔法でも、扱う者の能力差によって発揮できる効果は異なります。
空間魔法を例にしましょう。これは本来、空間に干渉するという高度な魔法で、これを扱う精霊ともなれば、別世界への入り口を開くことや、独自の異空間を形成することまで可能と言われています。
魔族でこの魔法の使用者に可能なことは、基本的には既にある空間の切断と接合。その能力の一般的な用法は、物体の転移です。ある物体を別の地点へ、過程を省略して瞬間的に移動させます。それはつまり空間の接合による距離の省略です」
少年の目は、もう死んでいない。好奇心に輝きを取り戻している。
「陛下の場合、無生物であれば、視界の範囲内から陛下の知る場所への転移が可能。突然物を消失させたように見えるのは、これです。
生物であれば、視界の範囲内でごく近い地点へ移動させることが可能。これを応用して、持ち上げて徐々に動かせば、対象生物の浮遊や飛行といったことが可能です。勿論、無生物も同じ方法で浮遊や飛行させられます。
ご自身に限っては、一度行ったことのある場所へならどこへでも転移なさいます」
「何故、生物と無生物で違うのですか?」
「生物は構造が複雑なだけに、精密な制御が必要になるからです。この制御ができない者が、人体を転移させようとしたと仮定します。失敗すると、どうなると思いますか?」
「…バラバラに、とか」
「その通り。最終的に身体全体が目的地点へ到達しても、全ての部位が同時に転移していなければ、時間差の関係で中身が一度バラバラになっていたために、最早生きてはいないということにもなりかねません。生物の転移は、それを生きたままに保つところが難しいのです」
ごくりと、少年は唾を飲んだ。
「では、陛下はご自身が転移を繰り返していて、大丈夫なのでしょうか?その、いつか失敗なんてことには…」
「陛下ならば心配ありません。魔法の才には大きく二種類があり、魔力量と制御力に分けられるのですが、陛下はそのどちらについても、ご自身の限界をよくご存知です」
焦げ茶色の瞳に、安堵が浮かぶ。
きちんと表情を見せるようになった少年を見て、陛下がきっとお喜びになるな、などとアルベルトは思った。
「空間魔法において、扱う空間の大きさに対して求められるのは魔力量。空間の大きさというのは、距離と置き換えて考えてもよいでしょう。そして、制御力とはその言葉から想像できる通り、対象への正確な魔力行使に必要なものです。この制御力というものを充分に持たず、威力の強い空間魔法を発動させれば、非常に危険なのはわかりますか?」
「…なんとなくは」
「それなりの威力の空間魔法を制御もせず振り回せば、空間の切断と接合がランダムに起り、目の前のものがバラバラに引きちぎれるでしょうね。攻撃に使えないこともないですが、生物相手にはちょっと惨いことになります」
とにかく制御できなければバラバラになる、ということは少年にもよくわかった。
「魔法について、だいたいわかりましたか?」
「はい」
「質問はありますか?」
「他にはどんな魔法がありますか?」
「使用者数の多いところでは、炎、冷気、風、雷などですね。
才があれば、ありふれた属性でも工夫次第で様々なことができます。例えば、風魔法を上手く制御できれば、空間魔法同様に飛行なんてこともできます。
また、一口に炎や風といっても、条件付きの特殊な魔法も存在します。存在を燃やし尽くすまで消えない炎だとか、使用者が止めない限り障害物を無視して進み続ける風だとか」
頷く少年が理解できる速度を保って、アルベルトは話す。
「珍しい魔法でいうと、透視や読心など、使用者に良心が無いととんでもない使い方をされそうなものもあります。使用できる魔力の種類は生まれ持って決まっていますから、それ自体はどうしようもないことですが、彼らが犯罪を行った場合は勿論きちんと裁かれます。
…ああ、言いたいことはわかりますよ?」
透視、と聞いて、やましいことを想像しない男性は少ないだろう。それはアルベルトも少年も、お互いに分かり合えるところである。
「透視や読心されてしまうことを、防ぐ方法は無いのでしょうか?」
「魔道具というものがあります。道具に魔力効果を付与したものです。これによって、特定の魔法を無効化あるいは軽減することができます。
安心なさい、陛下の寝室やお召し物には、きちんと対策してあります」
それを聞いて少年は、安堵して息をついた。
「陛下があなたに与えたその服も――」
「えっ」
まさか、自分の服にまで透視対策がされていたのだろうかと、少年は驚く。
「炎・冷気・風・雷などよく見られる属性魔法による攻撃は、軽減できる素材で作られています」
透視対策ではなかったようだが、少年はやはり驚いた。上質なものだとは思っていたが、そんな効果までついていては、たいそう値が張るのだろう。
「ついでですから、魔道具についても話しましょうか」
「お願いします」
「魔力を宿すに適した素材、適さない素材というものがあります。
物質の状態としては、固体、液体、気体の順にその適正があり、液体や気体に関してはほとんどと言って良いほど、特定の魔力を定着させておくのは不可能です。
固体の中で最も強い適性を示すのは石や金属、とりわけ水晶です」
少年は真剣に話を聞いている。
「魔道具には大きく分けて二種類あります。
ひとつは、道具そのものに魔力を蓄えておき、それを道具の使用者の意思で使用して効果を得るもの。もうひとつは、魔力使用者が道具に対して魔法を発動させたことにより、その道具が一定期間持続した効果を保持しているもの」
アルベルトは淡々と語るが、内心では少年がきちんと話を聞く生徒であることに喜んでいた。
口も利かなかったというのに、ちょっとしたことで随分と変わるものである。
「前者の魔道具は、現在の技術では水晶のみを素材として製造が可能です。多くは軍用か医療用で、家庭用には普及していません。後者の魔道具は、鉄や木や繊維など様々なものを素材として製造可能なため、日用品に多く用いられています」
「では、この服の効果はいつか切れるのですか?」
「その服の場合、効果は百年程度でしょうかね」
効果が切れるより先に、少年の命が尽きているだろう。
「あの、物に魔力効果を付与できるということは、それを悪用されたりはしませんか?例えば、食器に痺れ効果なんて付与されていたら、暗殺とかも…」
「ええ。理論上は可能です。
魔道具の製造については細かく法律で規制されており、それに抵触すれば法によって裁かれるのですが、あなたが心配した通り、暗殺など目論むような輩ならば法を犯す可能性は充分あります。
しかしこの王宮においては、万全の検知・警備体制を保っておりますから、安心して構いませんよ」
こくりと頷く少年を見ながら、アルベルトは彼がそれなりに飲み込みが早いことに満足していた。
もっと知識を詰め込むつもりなのだ、この程度で脱落されては困る。
「暗殺を危惧するなら、道具よりも、直接魔法攻撃を仕掛けてくる相手のほうが対策しづらいと言えます。ありふれた属性魔法ならまだしも、神経衰弱や幻覚といった類の魔法も存在し、これらは使われると非常に厄介です。
陛下でしたら、先程も言ったように一瞬で相手をバラバラにできますから、余程の策がなければ手を出してくる者はいないでしょうが」
一瞬でバラバラ。夢に出そうだと少年は思った。
「不審な輩は王宮に入れないよう、警備は徹底しております。しかし、内部に敵が潜んでいないとも言い切れないのは確かですね。
幸いなことに、アルテンブルク王国の歴史上、謀反は一度も起きていません。陛下は国民からの支持も厚いですから、警戒すべきは私怨による暗殺だと言えるでしょう」
「陛下が、怨みを買うようなことをなさるようには、見えませんが」
「おや?あなたも陛下に刃を向けたのではありませんでしたか?」
少年は気まずそうに俯いた。
「…申し訳ありません」
「わたくしに謝罪しても仕方のないことです。陛下になさい」
「はい」
「ですが。今度陛下を傷つけるようなことがあれば、わたくしが手ずから骨も残さず燃やして差し上げます。心得ておきなさい」
「はい」
すぐに返事をしたことからも、少年はもう女王に刃を向けることなどなさそうだった。
「国王というお立場ですから、時には反感や怨みを買うこともあります。強引な政策をなさることもありますから、逆恨みの類などは尽きないでしょう。
いざという時は、わたくしが命に替えてもお守りします」
アルベルトは固い忠誠を胸に抱いている。そのことが少年にも伝わってくる。
少年だって、守れるものならあの女性を守りたいと思う。
けれどそれは、この従者の忠誠に比べれば、まだまだ弱い想いのように感じた。
「それにしてもあなた。何だかんだと、陛下のことばかりを随分気にしますね?」
赤い瞳に見据えられて、少年はぎくりとした。
頬が赤らんでいく感覚があり、少年は答えに詰まった。
「恥ずべきことではありません。あのお方は稀代の名君、公明正大な裁定者、慈悲深き独裁者、絶世の美女にして清らかな乙女。心惹かれないほうがどうかしています」
清らかな乙女、という部分を、少年は十回以上は心の中で反芻した。
「陛下に心行くまで尽くすのは、心地良いですよ」
うっとりと、アルベルトの赤い瞳が夢見るように蕩ける。
「こうしてあなたに教育するのも、陛下のためです。もたもたしてはいられません。
そろそろ勉強に移りましょう」
気合を入れ直して、アルベルトは少年の前にボンッと辞書とノートを置いた。
「え、今からですか?」
夜はとっくに更けている。
「まず辞書の使い方を教えます。発音記号の読み方は特に重要です。その後は文字と基本文法を叩き込みますからノートを取りなさい。まさか字が書けないとは言わせませんよ?」
「字は、母国語しか…」
「いかなるものでも字というものを書いたことがあるなら、それでよろしい。人間界における識字率というものは、我々から見ればまだ低いですからね。
こちらの文字は今日中に、今ここで覚えてもらいます。明日の夜までに辞書を使って三十単語以上は覚えておくように」
「はいっ!」
アルベルトは親切でとても熱心で、厳しい教師だった。




