8―力づくでは手に入らないもの
その洞窟に入っていくエルフリーデを、観察するように見つめる目があった。しかし彼女はそのことに、少しも気づかない。
そこは王家の私有地である。その上、特殊な結界まで張られている。
本来そこには彼女以外いてはならないはずだった。しかしその目は、いつも見ていた。
エルフリーデは、洞窟の中を歩いていく。彼女の魔力を供給し、封印を強めるためである。
その方法は、王位を継いだ者だけが知る。
光る苔が生息した洞窟内は、最低限の視界を確保できる程度の明るさを保っていた。
滑らかな白い肌が仄かな光に浮き上がり、青い二つ瞳が宝石のように深い煌めきをちらつかせる幻想的な光景は、他に見る者があれば感嘆の吐息を漏らすほどに美しい。
だが彼女は今、一人きりだ。ここに他者を招いてはいけないというのは、王家の掟である。
何度目かの分かれ道を正しく選び取り、王族のみに示される道順を歩んでいく。
その奥に、約二千年変わらぬ姿で佇む、石になってしまった愛らしい少女の姿がある。
王位を継いだエルフリーデは知っている。
これは初代国王の母たる精霊の身体である。
そして今は、封印の依り代となっている。
ここに来るのは、もう何度目かわからない。
即位して七十余年、封印が緩んだと感じる度に訪れた。
そのタイミングは、王国軍の仕事の多さではかることができる。
いつもそうしていたように、彼女はその少女の姿をした石に手を当て、自分の魔力を注ぎこむ。
その時、違和感があった。胸騒ぎがした。
それは、少女の不興を買った、そんな気配だったろうか。
だがそれも一瞬のことで、すぐに気の所為だったかと思える元の静寂が訪れた。
封印は、滞りなく強められた。エルフリーデは、少女に花と祈りを捧げた後、そこを立ち去った。
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王宮に帰ってきたエルフリーデは、突然の来客を知らされた。
予定にはない訪問であり、王の間で謁見というかたちでもないのだから、つまりは親しい友人が上がり込んでいるのであろうと察しがつく。
応接室に向かうと、ミリヤムとギュンターが出迎えた。
「二人とも、よく来てくれたな。特に叔父上、久しいな」
「ああ、邪魔してるよ」
「お久しゅうございます」
客がこの二人とわかった途端、エルフリーデの心は弾んだ。
最も信頼する友人達なのである。その喜びも彼女の表情にはあまり出ないが、二人には充分伝わっていた。
後ろでアルベルトが給仕をしており、客人たちとの語らいを邪魔しないようにと、軽く頭だけを下げた。気の利く従者である。
「アルベルトの焼いた菓子は美味いな」
そう言って笑ったミリヤムの歯列に、アーモンドとレーズンが挟まっているのが見える。
テーブルの上を見ると、レーズンケーキが並べられているので、アーモンドはそれ以前に挟んできたものだろうとわかった。
「ミリヤム、歯にアーモンドとレーズンが挟まっているぞ」
そう指摘してやると、
「なんだと、レーズンまでが!」
ドンッと、悔しげにミリヤムが右の拳をテーブルに叩きつけて、全員分の食器が音を発てた。
ギュンターは腹を押さえて忍び笑いをし、アルベルトは呆れて頭を抱えている。
紅茶がこぼれなかったのは幸いである。
「ちょこまかと歯に挟まるしか芸のない雑魚どもが、あたしに喧嘩を売ろうなんざ千年早い!」
ギュンターは堪えきれず声を上げて笑い、アルベルトは大きな溜め息を吐いた。
「ミリヤム、楊枝で取るか歯を磨くかすれば済むだろう」
エルフリーデが冷静に伝える。
「ああ、まあな」
何でもなかったかのように、ミリヤムの怒りは収まっていた。ギュンターの笑いだけが収まらないようだ。
「ところで」
さっさと自分だけが気分を切り替えたミリヤムが、好奇心に満ちた琥珀色の目でエルフリーデを見る。
「あの噂、本当のところどうなんだ?」
直球すぎる質問に、ギュンターの笑いが止まり、皆エルフリーデの答えに耳を傾けた。
「あの噂とは、私が拾ってきた人間のことか?」
「勿論!」
愉快気なミリヤム、神妙な顔つきのギュンター、心配げなアルベルト、皆がエルフリーデを見ていた。
「噂の内容だが、広まるうちに変容し、様々な憶測が飛び交っているようだ。あれが私の愛人だとか、婚約者だとか、人間との間にできた隠し子だとか、愛玩用のペットだとか、人体実験の被験体として連れてきたのだとかいうものまである」
エルフリーデがここまで把握していたことに、アルベルトは少々安心した。
主君が冷静さを失って状況を把握していないことも、密かに危惧していたのだ。
「だが、そのうち真実に近いのは最初の頃の噂のみだな」
「最初のって…陛下、まさか」
そう驚いているのはギュンターだ。アルベルトは最早、諦めて嘆息している。ミリヤムは至極楽しそうだ。
「女王が人間の少年にご執心、という、あれだ」
涼しい顔で想い人を発表する絶世の美女を見て、ミリヤムは笑いを堪えきれずに俯いて肩を震わせている。
「では、陛下はその人間の少年に恋を…?」
呆然、といった様子でギュンターは問う。
対してエルフリーデは、驚くことなど何もないという調子で口を開く。
「強引に攫ってきて閉じ込めてまで手元に置いているのだ、察しがつくだろう。まあ、最近のあれの様子がひどくて、いつまで続くかわからんがな」
頭に血が上って少年の頬を叩いた日以来、エルフリーデは彼を訪ねていなかった。
「初恋は熱しやすく冷めやすいってね」
クククッと笑いを抑え込みながら、ミリヤムが愉快気に言う。
「陛下、語弊がございます。致命傷を治療し、自害を妨げるために保護していたのであり、拉致監禁でもしていたかのようなおっしゃりようは相応しくありません。きちんとイヅノメ皇帝に書状も送り、できる措置はしてやったではありませんか」
アルベルトが異を唱える。確かに、少年の母国であるイヅノメ皇国には、人間界の作法に則って捕虜の引き取りを要求する正式な書状を送った。
しかし返事はなく、事実上引き取りを拒否された彼は、行き場を失っている。
「同じことだ。私は暴君故な。あれの意思を捻じ伏せて、私の思うままに扱った」
自嘲気味に青い瞳が俯く。
「同じことではございません!」
窘めるアルベルトを横目に、ミリヤムの笑いは絶好調だ。
「情熱的だねぇ」
ギュンターは状況を分析しようとする。
アルベルトの様子からして、この従者は現状を良く思ってはいない。
不器用なのも情熱的なのも結構だが、この様子では上手くいっていないのではないか。
相手の人間がどんな者かも気になるが、姪のほうにも多分に問題がありそうだ。
「陛下、差し出がましいことを申し上げますが」
ギュンターのその真摯な声に、エルフリーデが真剣な眼差しを向ける。
「好きな異性を力ずくでものにしても、心までは手に入りませんよ」
ミリヤムは、爆ぜそうなほど笑い転げた。
「わたくしも、それについてはシュレンドルフ公に賛同致します」
アルベルトが、神妙な顔つきで首を縦に振っている。
「ほう。では、私が取り逃したあれの心は、どのようにすれば手に入る?」
「それは…」
ダークブロンドの睫毛を伏せて、ギュンターはしばし考え込む。
「押し倒してしまえ!男は好きだろう、そういうこと」
もはやゲラゲラと下品に笑い転げながら、ミリヤムは軽口を叩く。
「いや、駄目だったぞ」
笑いが止まる。空気が凍り付く。
全員が、表情筋という表情筋を引きつらせてエルフリーデを見ていた。
「どうした?」
沈黙が流れる。
なんとかそれを破ったのは、ミリヤムだ。
「え?は?押し倒したのか?」
「抵抗しろと言って脅したのだが、無反応でされるがままなのだ」
これは、かなりの重症ではなかろうかと、皆が思う。
「で、その後は?」
ミリヤムの問いに、男二人はごくりと唾を飲み込んで答えを待った。
「腹が立ったので、放って帰った」
まさかもう手遅れなのかと肝を冷やしたアルベルトは、ほっと胸を撫で下ろす。
ギュンターはそれはかわいそうにと小さく呟き、ミリヤムはつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「それで、どうすればあれの心は私のものになる?」
恥ずかしげもなく、エルフリーデは真剣な顔で問う。
「今度は放置しないで、ちゃんと満足させてや――むぐっ」
ギュンターがミリヤムの口を押えて、続きを言わせない。
「まず、よく話し合ってお互い分かり合うことですよ。会話はきちんとできていますか?」
「いや、あれは口を利かない」
これは、思っていたより相当酷い。ギュンターは頭を抱えた。
「話ができるまで、忍耐強く接してやることです。優しくし続ければ、いずれ心を開いてくれるはずです」
「ふむ…」
自称暴君のエルフリーデは、好き放題に蹂躙するのは得意だが、気遣ってやるのは不得意だと自負している。
優しくしてやるとは、いったいどうすれば良いのだろうか。
「もう手遅れじゃないのか?拉致監禁に強姦未遂だろう?だったらやっぱり、潔く力づくで――むぐぐっ」
アルベルトが、ミリヤムの口いっぱいにレーズンケーキを思い切り詰め込んだ。
「どんな関係性においても、信頼を築くことが大切です。信頼なしに恋心だけが育ちすぎると、かえって危険と言うものですよ」
ギュンターは心から姪を案じた。恋とは無縁で生きてきた姪がこれほど拗らせていると知っては、胸が痛む。
「そう言うギュンターだって長年恋人もいないじゃ――むぐむぐっ」
余計なことばかり言うミリヤムの口に、今度はギュンターが自分の皿からケーキを押し込む。
「総帥だって色恋沙汰には疎いでしょう。だったら、男心は男に聞いたほうがマシというものです」
女心を知りたくなってもこの上司にだけは聞くまいと、内心でギュンターは誓った。
「では、男のお前たちに聞くが、どういう時に心を奪われる?」
青い瞳が、アルベルトとギュンターを交互に見る。
「わたくしは、王の器を感じた時、ですね」
アルベルトのこれがとんでもない爆弾発言であることに気づいたのは、どうやらギュンターのみだった。姪がこの答えを掘り下げてしまわないよう、慌ててギュンターが口を開こうとする――が。
「男は美女と色仕掛けに弱いって、相場が決まって――むぐぐむっ」
「いい加減黙っていてくださいね総帥には聞かれていないんですから」
タイミングが良いのか悪いのか割り込んできたミリヤムの口に、残りのケーキを全て捻じ込みながら、ギュンターは現状思いつく最良解を探す。
「一瞬心を奪われるだけなら、笑顔が素敵だったりといった表面的なことで充分かもしれません。しかし長期的に惹かれ続けるには、お互いへの理解が進み、絆が深まったと感じられることが、重要に感じます。僕の場合、その相手との関係の将来性を重視したいので」
ふむふむと頷きながら、神妙な面持ちでエルフリーデは聞き入る。
「偉そうに言ってるけど、こいつどうて――むがうがっ」
「もう食べ終わったんですかクラナッハ総帥、陛下の御前で下品な発言は見過ごせませんよ」
ミリヤムの口の周りを必要以上にナプキンで拭き取りつつ口を塞ぎ、アルベルトがその発言をなんとか遮った。
どうやらここにいる全員が恋愛ごとには疎いようだと、ギュンターは内心で嘆息した。
もう少し頼りになる誰かを見つけないと、埒が明かないのかもしれない。
何せ、姪の初恋事情はあまりにも悲惨なのだ。
「我々はそろそろお暇しましょうか。ね、総帥」
「待てよ。まだ見せてもらってな――痛い痛い痛いっ」
ギュンターはミリヤムの耳を引っ張り小声で囁く。
「空気を読んでください。和やかに紹介してもらえるような段階ではないでしょう。修羅場なんですよ、今はそっとしておきましょう」
わかった、と答える代わりに、ミリヤムは親指を立てた。
「仲が良いのだな、二人は」
その様子を見ていたエルフリーデが、心なしか羨まし気に見ている。
「わたくしがお送り致しましょう」
「頼んだ、アルベルト。二人とも、また来てくれ」
「ああ、また近いうちに来る」
「ええ。それでは、また」
悩み事というのは、特に女性の場合、打ち明けてしまうだけで気が楽になったりするものである。
二人の友を見送り、エルフリーデは満足して自室に戻った。
その日アルベルトは、すっかり忘れていた。
あの少年が口を利いたと、主君に伝えることを。




