山椒チーズトースト
ちゅんちゅんと、雀の声が聞こえる。夏の日差しが顔を撫でる。夏の朝の予感に、民子はふと目を覚ました。
温い風が、窓からそよそよと吹いている。窓の外は、もうすっかり明るい。
「あっ! 目覚まし」
飛び起きて壁の時計をみる。しかし、そこに示されていた時刻は。いつもより1時間も早い。まだ6時前である。
それをみて、民子は再び床にへたりこむ。
昨夜は泣き疲れ、そのまま崩れるように床に寝落ちてしまったのだ。
風呂から上がった姿のまま、まるで行き倒れのように倒れ込んで眠った。旅の疲れもあっただろう。泣き疲れたのもある。おかげで、目覚ましをかけることさえ忘れていた。
昨日までの非日常は終わった。今日からまた日常だ。月曜日が始まるのである。
「……ああ、目が重い」
民子は涙が乾いて固くなった瞼をこする。
泣いて眠った日は、寝起きが重い。顔も頭も、ぼんやりと重い。
それを振り払うように鏡をのぞき込むと、そこには目を真っ赤に腫らした民子がいる。
「へんなかおー」
あまりの凄惨さに、民子は思わず吹き出す。
目の下がまるでクマのように赤い。目も真っ赤だし、頬のあたりにはまだ涙のあとがある。そのくせ、妙にすっきりとした顔をしているのである。
「みてみて上島さん、変な顔だよ」
棚に駆け寄って、上島に声をかける。彼の笑顔を見ると安堵する。
棚の上に顎を乗せて民子もつられて笑う。
「……おはよう、上島さん」
いつもは慌ただしく出社する民子だが、今日は妙に時間がある。軽くシャワーを浴びてもまだ余裕だ。
化粧をして、着替える。そして、冷蔵庫を開けた。
ひや、と冷たい風が民子の足を撫でる。
かがみ込むように冷蔵庫を覗けば、そこは寂しいものである。
「……ヨーグルトないし、牛乳もなし。山椒の佃煮……あり。でもご飯炊く時間はないし」
ここ一週間ほど、考えることといえば旅行のことばかり。朝御飯の用意をすっかり忘れている。無いとなると胃が反抗をはじめた。ぐうぐうと、嫌になるほど激しく鳴る。
諦め切れず冷凍庫を開けると、そこには一枚の食パンと、チーズがあった。
「あ。あった」
自分、えらい。と民子は自分を思わず褒める。余った食パンとチーズをちょうど一セット、冷凍していたのである。
民子はいそいそとパンを解凍する。柔らかくなった食パンの上に、バターを塗ったその直後。ふと思い立って自作の山椒の佃煮を散らす。
「主食には、合うと思うんだよね」
パンの上に乗せられた山椒の黒い粒は、どこか不安そうだ。だいじょうぶだいじょうぶ、と心の中で声をかけ、その上からチーズを散らす。
オーブンでじっくり焼くと、熱に焦らされチーズがふつふつと泡立つ。食パンの隅っこがカリリとやける。茶色に染まるまでじっくりと焼き上げて、あつあつのところを一口噛みしめた。
「あつっ」
ふつふつと熱を持ったチーズが口の端に当たる。火傷をしそうなほど熱いそれに耐えて噛みしめる。すると、チーズの甘さの向こうに、ぴりりと痺れる甘味がある。
「……やっぱり美味しい」
バターの濃厚な味わいと、チーズの甘い味わい。その間に挟まった、ぴりりと痺れる甘しょっぱい山椒の佃煮。一見不釣り合いなのに、口の中に入れると不思議とうまくまとまった。噛めば噛むほど甘い。
食べ終わると、額に汗が浮かんでいた。拭って、冷たい水を一気に煽る。
冷たい水が喉を伝わるのが気持ちいい。
「……夏だなあ」
時計を見ると、ちょうど出社の時刻である。民子はまだ腫れぼったい顔を、両手で包み込む。まだ口の中は山椒で、ひりりと痛い。
しかしその痛さが暑さを吹き飛ばすような気がするのだ。
荷物を手に玄関に駆け出しかけた民子だが、慌てて部屋に駆け戻る。
「上島さん」
満面の笑みを浮かべる彼の写真に向かって、一言。手を伸ばし、彼の顔を撫でる。光沢のある手触りが、指の先に伝わる。
「……いってきます」
今日は、昨日から続く毎日の連続の一日だ。
しかし連続の中にも毎日、思い出が重なっていく、些細な思い出、食べ物の思い出、顔の、声の、笑顔の、季節の思い出。
振り返れば思い出がある。たった一年だが上島の思い出も、そこにある。それが、民子にとっては何より嬉しい。
「上島さん。また、ただいままで、バイバイ」
手を振って、玄関へと駆け出して行く。飛び出した外は、真夏の白い日差し。
今日も暑くなる。光に手をかざし、民子は目を細める。
遠く、どこかで蝉の鳴き声が聞こえた。