三獄崩壊の序曲
天使アザゼルは周りを見回した。アザゼルが連れて来られたのは、灰色の石に囲まれた洞窟の中だった。背後にあったぎざぎざの時空の裂け目はすぐに閉じて消失した。アザゼルから2メートル離れた場所に黒リヴラが立っていた。
「ここは煉獄だな、黒リヴラ。それで俺をどうするつもりだ」
「お前は自分の意思で望んで、こちら側にやってきたんだろ。なら、俺がどうするも何もない」
「お前はあらゆる力を欲しているんじゃなかったのか」
「もちろん、あらゆる力を取り込むつもりだ。だが、俺の手下になるというなら、俺はそれで構わない」
「ふんっ、俺はお前の手下か」
そこで黒リヴラは背後にある灰色の木製ベッドに大股を広げてどんと腰掛けて、両膝に両肘を置いて両手を組んだ。アザゼルもリヴラに促されて、背後に置いてあった長い背もたれのある灰色の椅子に座り、豪奢な彫刻が施された肘掛けに両腕を置いて椅子の背に凭れかかった。改めてアザゼルは周囲を見渡した。天井まで5メートルほどある灰色の洞窟内は直径20メートルほどの開けた円形広間のようで、壁面は滑らかで光沢があり、洞窟内に幾つか浮遊している拳大の発光する球体が周囲を照らしていた。洞窟の出入り口から真反対の壁面に黒リヴラが座るベッドが置いてあり、アザゼルが座る椅子は出入り口を背にする形で黒リヴラと向かい合っていた。アザゼルの左右の壁面には幅120センチ高さ90センチほどのベンチ式収納ボックスが置いてあった。
「俺は最近ある仮説を立てて、一つの結論に達したんだ」
「その仮説が、俺を生かす理由というわけか」
「確かに俺は強力な力や能力なら何でも手に入れたい。けど、その種類や属性によっては、俺が使い手となることで本領を発揮できなかったり、むしろ弱くて役立たずの能力に成り果てたりする場合がある。そんなものなら俺には必要ないし、俺ではなくて元々の能力者が使いこなしてくれるなら、それは俺が手に入れたも同然じゃないか」
「それはお前にしては、殊勝な心がけだな、黒リヴラ」
「俺はこちら側に来てくれる有力な奴等――凄まじい個人は、尊敬に値すると思っている。だからといって、俺は略奪をやめるつもりはない」
黒リヴラは凄絶な笑みを浮かべた。
「あくまでも俺と敵対するというなら、容赦なく蹂躙してやろうじゃないか。利用価値が認められた奴からは能力を剥奪し、役立たずどもは皆殺しだ」
「わかった、思った通りだったぜ、黒リヴラ。面白いじゃないか、奪い奪われの弱肉強食の世界」
「世界は無数に存在する。幾つかは既に没落してしまったが、それでもまだ十分に楽しめる数はある」
「すぐに狩り尽くして、暇を持て余すということにはならないわけか。それでも、いつしか空っぽの世界には誰もいなくなるかもしれない。そうなったら、どうするつもりだ、黒リヴラ。お前は力と時間を持て余し、更に比較対象が無くなれば力への意志など消失してしまうんじゃないか」
「言っただろう、世界は一つではない。それは物質界の異世界だけでなく、四界を構成する他の三世界のことをも意味している」
「まさか、神に挑むつもりか?」
アザゼルが眉を顰めて質問すると、リヴラの青く変色した剣呑な瞳がぎらりと光った。
「神と云う何かしらの超常的上位存在への挑戦、それも一興だ。俺はそもそも原形界アツィルトに進出し、あらゆる力と知識を手に入れ完全な不死となることで、世界を救済してやりたいんだ。こんな堕落してぬるま湯に浸かりきった腐敗した世界など滅亡しか救済の余地はない。そこで〈秩序〉が邪魔だというなら、神殺しを果たしてやるよ。〈混沌〉が立ちはだかるというなら、俺が鉄槌を下すまでだ」
「お前が新世界の神に成り代わろうというのか」
「俺は神ではない。あえて言うなら、〝虚無〟だな。だが、祈ってくれる信者が誰もいない世界で神は果たして存在できるんだろうか。誰からも崇拝されずに畏怖されることを忘れた誰かは、もはや神などとはかけ離れた存在だ。たった一人で神を演じることなど出来ない。俺は世界を再生させたいわけじゃない。全てを消滅させたいんだ。つまり、神は目的ではない。手段の一つか、機能の一つでしかない。目的の為に〈秩序〉と〈混沌〉と対峙する時が来るかもしれないが、それはまだ先のことだろうし、もしかしたら対峙する必要すら無くなる場合もあるだろう。俺達が心配しなければならないのは、神ではなく、冥獄の支配者だ」
「ラメド・アンデルのパーソナル・イントラユートピアか」
そう言って、アザゼルは大きく舌打ちした。黒リヴラは眉根を寄せて、ぎりぎりと歯を食いしばった。
「ラメド・アンデルは世界を再誕させて、自ら神となる世界に書き換えるつもりだ。これまで奴の好き勝手を見過ごしていたが、もう奴の思い通りにはさせない」
黒リヴラの瞳が青く光り輝いた。青い光は直径30センチの円状に広がり、黒リヴラの顔を青く染めた。光は黒リヴラの頭部に収束し、輝きが増すにつれて光の面積は縮小していった。光が消失すると、一つの結晶が残って、黒リヴラの頭上に浮遊していた。拳大ほどの結晶は扇状の平たい形で、青く発光していた。アザゼルがひゅうと口笛を吹いた。
「教徒の欠片の一つ――苦しみの欠片フラグメント・オブ・アゴニーか。それで、ラメド・アンデルの痛みの欠片フラグメント・オブ・ペインに対抗しようというわけだな」
「アザゼル、お前も力への欲望に駆られ、能力を存分に振る舞う場所を求めているんだろ」
「そうだ。お前についていけば、戦う場所には困らないだろ。もう何かの目的の為に戦うのはやめだ。三獄の思惑なんてどうでもいい。敵対者と戦うその瞬間こそ、一番大事なんだ」
刹那、その場に異質な気配が感じられた。黒リヴラとアザゼルは眉根を寄せて、近くの壁面に視線を向けた。黒リヴラから見て右手側、アザゼルから見て左前方の壁面に灰色の空間の裂け目が開いていた。
「招かれざる客のお出ましか」
アザゼルが立ち上がり、赤い弓矢を構えた。
「待て、アザゼル。俺のプライベートフィールドに侵入できる者は限られている」
「あらゆる世界の有力者から狙われているんだ。誰だって構わないだろ」
「侵入者は今まで一人もいない」
「ここは煉獄だったな。可能性があるのは二人か」
「いや、これは僥倖かもしれない」
黒リヴラは何者かの正体に気づき、凄絶な笑みを浮かべた。
鬼神サリルスは煉獄内にある気配に気づいて、舌打ちした。
(そういうことだったのか)
サリルスは髭を弄るのやめて、右手に持っていたゴブレットを机に置いた。サリルスが座っている席の隣には、灰色のローブを着た鬼神カホルと鬼神リブラビスが立っていた。
「どうかしましたか、サリルス」
「いや、何でもない、リブラビス」
隠された黄金の鬼神リブラビスは、灰色の髪を肩まで伸ばした女鬼神だった。リブラビスはサリルスの〝らしくない〟反応に眉根を寄せた。
「リブラビス、私はちょっと移動するので、留守を頼む」
「どこに行くんですか、サリルス」
「すぐに戻って来るから、この場を頼む。行くぞ、カホル」
鬼神カホルは真っ白い髪を肩まで伸ばした女鬼神で、灰色の瞳をサリルスに向けて声を出さずに頷いた。
サリルスは自らの能力、真窓レイヤー・ペネトレイトを発動させた。サリルスが立ち上がると、右横に縦2mの四角い入口が出現した。入口の奥は灰色にぼやけていて何も見えなかった。サリルスが先に、続けてカホルが入口を潜り抜けた。二柱の鬼神の姿は消失し、四角い入口も消えて無くなった。
リブラビスは万鬼殿の広間に居て、そこには各時間領域の責任者の数だけ席が用意されていたが、着席せずに立って待っていた。リブラビスが立っていたのはサリルスの席のすぐ近くで、特に何をするでもなく待っていた。万鬼殿は静寂に包まれていて、その室内は物音一つなくしんと静まり返っていた。
(サリルスはすぐに戻ると言っていたが、それはいつなのだろうか。とにかく私は待つしかない。しばらく待った気がした。でも、まだ10分しか経っていない。一体、サリルスはどこに何をしに行ったのだろう)
気づくと、一時間も経過していた。リブラビスはため息をついた。まるでそれが合図だったかのように、空間の裂け目が開きサリルスが姿を現した。サリルスは周囲を見渡して、リブラビスに視線を向けた。
「遅かったですね、サリルス」
「ああ、少し手間取ってしまった」
「カホルはどうしたんです?」
「カホルは裏切り者の追跡に向かってもらった」
「そうですか」
リブラビスは眉を顰めた。出発する前のサリルスの様子よりも、更に今は〝らしくない〟ように感じられた。
「大丈夫ですか、サリルス」
リブラビスは心配になって、サリルスの左肩に触れようと右手を伸ばした。サリルスは何も言わず、リブラビスのことを見つめていた。
「サリルス、戻りましたよ」
新たな声が聞こえて、リブラビスは動きを止めて声のした方に注意を向けた。広間の入口のところに、鬼神カタリスが立っていた。サリルスが返事をした。
「戻ってきたか、カタリス」
「ええ、リヴラ達の方は済みましたよ。あと一つ相談がありましてね」
喋りながらカタリスはサリルスの方へ近づいていった。
「やあ、リブラビス。どうかしたか、眉間に皺が寄ってるぞ」
「サリルスの体調が心配だったのよ。カタリスは何処に行ってたの」
「天獄から戻ってきたところだ。なんだ、サリルス、具合でも悪いのか」
「問題無い。それより相談事とは何だ、カタリス」
「あんたの思惑通り、リヴラ達によって天使の抑制は済んだ。そこで俺は、本格的にラメド・アンデルと黒リヴラの対処に向かおうと思う。問題無いだろ」
カタリスは犬の口でにやりと笑った。
「ふんっ、まるで対処対象がそいつら二人だというなら、規制緩和可能とでも言いたげだな」
リブラビスは二人の言動の真意がわからず、全域ネットワークに答えを求めた。つい先刻にアップデートされた情報を見つけて、リブラビスは思わずあっと声を上げてしまった。
「なんてこと。黒リヴラが教徒の欠片の適格者だなんて」
「じゃあ、早速行かせてもらうよ、サリルス」
「何処に行くつもりだ、カタリス」
「まずは冥獄の支配者に挨拶に行くとするよ」
カタリスが空間移動して、姿を消した。
「サリルス、それでカホルが追っている裏切り者っていうのは?」
「黒リヴラと共に逃亡した鬼神達の事だ。少し皆と話し合わなければならないな」
そう言って、サリルスは空中に複数の小窓を展開し、各時間領域の鬼神達に連絡を取り始めた。
ベルンハルトは株式会社ポジティブシンキングのディストリビューターが開催する、様々なタイプのセミナーに参加していった。セミナーは基本的に会員主催のもので、取り扱い製品の説明会や健康セミナー、ビジネストレーニング――セールスやマーケティング、ブランディング、思考法などをテーマに繰り返し行われていた。ベルンハルトがターゲットにしたジョン・カズマのグループはセミナー回数が多く、既存メンバーのコミュニケーションと新人フォロー――実際は新人を辞めさせないように、あらゆる手段を講じてグループに定着させる為の囲い込みだ――目的のセミナー後のお茶会や食事会の参加率も高く、PT社内での評価も高かった。
(事前調査の通り、ジョン・カズマのチームのPTへの貢献度は高い。高品質な教育の徹底やセミナー実施回数の多さが、チーム活動の活発化に繋がっているわけだ。もちろんセミナーに参加しているだけでは無意味で、あくまでもセミナーは目的ではなく手段に過ぎない。前提として、企業活動としての収入が無くては話にならない。チーム内のディストリビューター一人一人が個人事業主として、売り上げを確保するのだ。ディストリビューターの属性は様々で、老若男女、学生から主婦、定年退職したビジネスマンなど種々雑多な人で構成されている。手っ取り早いのは、家族や友人をターゲットとする事だ。セミナーでも説明されている。各ディストリビューターは自分の電話帳に登録された番号もしくはアドレスに所構わず連絡し、営業活動のアポを取りなさい、と。だが、これには大きなデメリットが内在している。それに気づかないセミナー参加者がポジティブシンキングの言いなりにしていると、親や友人の信頼を無くし、家族の絆は消えないかもしれないが、確実に友情は失う事になる。だからといって、かつての営業マンの基本であった訪問販売は不可能に近い。営業成績トップレベルの営業職経験者であろうと、昔と違って今や膨大な情報が溢れる世界では誰が相手にするだろう。もはや消費者は自由に商品情報を入手し、複数のメーカーから自分に適したものを取捨選択している。訪問販売が成立していたのは、売り手側の情報量が明らかに買い手よりも有利だったからだ。あの手この手で騙してくる買い手に、売り手は注意して購入意思決定を下さなければならなかった。情報過多の世界では両者の立場は逆転し、売り手は否応無く販売価格を叩かれることになる。旧世界では言葉巧みなセールストークによって、悪質な製品も売りつけることが可能だった。その時代であれば、ポジティブシンキングのディストリビューターも今よりはシンプルに売り上げ数量を伸ばせたかもしれない。悪質な製品を売るのはほぼ不可能になった。というより、悪質な製品は自然淘汰によって駆逐され、ほぼ消滅した。自由競争の結果、市場に流通する様々な製品やサービスは比較すると違いがあるというだけで、ほぼどれもが良質な物に底上げされた。BtoBもしくはBtoC、DtoCの意思決定者は、各製品の違いを読み取り、メリットとデメリットを天秤にかけて自分に便益を与えてくれるものを選択するのだ。それは意思決定者の立場と価値観によって、同じ製品でも長短が変わってくることになる。要因は製品の品質だけではない。旧世界では考えられなかったが、良質な物が適正価格よりも低く評価される事態も起こり得るのだ――良質な物と悪質な物がそれぞれ適正価格より〝高く〟評価される事は納得いくが。製品自体の品質や機能ではなく、別視点で重要となってくるのが顧客との関係性だ。それは旧世界だろうと新世界だろうと関係ない。営業活動とは顧客の問題を解決し、関係構築を図るものだ。家族や友人といった既存の関係性があったとしても、問題解決を怠れば信頼を失い、売り上げには繋がらない。問題発見能力に優れているならば、既存の人脈ネットワークを使用せずとも、新たなネットワークを構築すればいい。製品評価が口コミで広がるというなら、インターネットを利用しても手っ取り早い。その為の問題発見能力だ)
ネットワークビジネスの仕組みと運営方法について調査したベルンハルトにとって、チーム内でのランク上げは難しくはなかった。売り上げも確保し、セミナーも自ら開催していった。必要なのはネットワークを構成する多くの人、その人達が継続できる毎月の売り上げ――すなわち人材と資金力だ。ベルンハルトは新世界救済教会の人員を派遣し、ポジティブシンキングのディストリビューターに登録させた。ベルンハルトのグループが、瞬く間に多くの人のネットワークで埋め尽くされた。ネットワークは階層形式になっていて、ベルンハルトが親となりその下層に無数の子がディストリビューターとして位置し、さらにその子達は新たな親となって下層に子のネットワークを形成し、ベルンハルトとの階層関係は孫となる。ネットワークは横と縦の繋がりで無数に枝分かれし、全員の売り上げがベルンハルトの成績になり、ベルンハルトの成績はベルンハルトが子となって所属しているジョン・カズマのチームの成績になっていた。ポジティブシンキング潜入の目的と手段を教会に説明し、教会のパーソナルクレジットカード使用許可を得たベルンハルトは、ネットショッピングでPT製品を買い漁った。化粧品、健康食品、美容グッズ、日用品などのラインナップ全てだ。購入する際の名義がベルンハルト自身だけでは成績が偏ってしまうので、ベルンハルトのグループ内の各ディストリビューターの名義でも支払を済ませ、グループ全体の売り上げアップも怠らなかった。ポジティブシンキングの取り扱い製品の品質や機能がどれだけ素晴らしかったとしても、ジョン・カズマがプレゼンする胡散臭い製品を使う気にはなれなかったので、ベルンハルトは郵送で届いた膨大な量のPT製品を開封せずに、教会の空き倉庫に突っ込んでおいた。
「使うのは自由だが、肌が赤くなっただ、お腹が痛いだなどの苦情は受け付けない。トラブルが起きても自己責任だ」
教会の人達にはそう説明し、それでも構わないという者達が山のように積み上がったダンボールから好みの製品を見つけ出して消費していった。ベルンハルトは時間が惜しかったので、教会の人と金に物を言わせてポジティブシンキングの実績を作り上げ、権力者との接触のチャンスを求めた。
(我ながら、極端にやり過ぎてしまったかもしれない。売り上げ実績の量も、ネットワーク形成の早さも異常だった。だが、重要なのは実際に計上される数字なのだろう。俺が疑われている様子もなく、遂にジョン・カズマは餌に食いついた。ポジティブシンキングの深奥に迫るチャンスだ)
毎週一度は行われているジョン・カズマのセミナーの一日が終了し、会場から参加者が退室し始めた。参加者の一人だったベルンハルトは灰色の演台から一番離れた席に着席したままで待っていた。セミナー開始早々に気づいていたが、自分に向けるジョン・カズマの視線がずっと気になっていたからだ。室内に誰もいなくなってから、ジョン・カズマがベルンハルトに近づいてきた。
「やあ、ベルンハルト。君のグループは本当に調子が良いね」
「はい、ありがとうございます。早くカズマさんに近づきたいからですよ」
(心にもない事を口にするのは、なんて胸糞が悪いんだろう)
「ははは、ベルンハルトなら、すぐに私と同じダイアモンドランクになるさ。実績は十分だから、後は継続さえすればランク上げされるよ」
ベルンハルトは我慢できずに眉を顰めてしまったが、勘違いしたジョン・カズマはにっと白い歯を見せて笑った。
「焦る気持ちはわかるよ。けど、心配しなくて大丈夫。君は上位ランクになれる人間だ。多くの人達を見てきたから、私にはわかるんだ。君には上に立つ者の素質が備わっているし、その為の条件も揃っている」
「そうですか」
自分でいけないとは思っていても、興味が無さ過ぎてジョン・カズマの話が全く耳に入ってこなかった。
「そうだ。君に紹介したい人がいてね。急で申し訳ないけど、この後の予定はどうなってる?」
「空いています。是非、紹介して下さい」
「君なら、そう言ってくれると思ったよ」
満面の笑みを浮かべる黒髪オールバックの顔面を殴り付けたい欲求を何とか抑えて、ベルンハルトは立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。近くで待ってるんだ」
ジョン・カズマに連れられて、ベルンハルトはセミナー会場を後にした。
イスキンの天使アサラデルは、同胞の亡骸を呆然と見下ろしていた。他の三人の天使達も亡骸を囲むように立ち尽くしていた。
(なんてことだ。まさか、イスキンの中から裏切り者の堕天使が出現してしまうなんて)
アサラデルは背後に何者かが降り立ったのを感じ取ったが、振り向かずにいた。
「堕ちたのは、アザゼルか」
そう言って隣に来たのは、セクンダデイの天使ミカエルだった。
「アザゼル。天獄を裏切り、同族殺しの罪を犯した堕天使」
アサラデルは答えながら、全域ネットワークに書き込みを済ませた。かつてイスキンの一員だった天使が、新たに堕天使アザゼルとして更新された。イスキンの天使アマザラクが、横たわるアキビールの近くでしゃがみ、アサラデルを見上げた。
「彼女をこのままにはしておけないわ、移動させるわよ?」
アサラデルは無言で頷いた。
アマザラクは黒髪をショートカットにした女天使で、肌は白く瞳の色は褐色だった。アマザラクは自らの能力――深淀を発動させた。アマザラクがしゃがんでいる場所とアキビールが横たわる場所の地面に生えている草の輪郭が薄れてぼやけ、不鮮明な緑の沼と化した。沼の上にいたアマザラクとアキビールが少しずつ沼の底に沈み始めた。アマザラクの足首まで沈み込むと、アマザラクとアキビールは一瞬にしてどぶんと沼に飲み込まれた。能力者のアマザラクの姿が消失すると、緑の沼は元通りの草原に戻っていた。アサラデルはそこで改めて周囲を見渡した。イスキンは自分を含めて、バルカヤルとタミアルの三人がそこにいて、これでイスキンは四人になってしまった。先刻到着したセクンダデイは六人揃っていた。ミカエル、ガブリエル、オフィエル、ラファエル、ザカリエル、アナエルがいて、サマエルの姿は無かった。アサラデルは隣に立つミカエルに視線を向けた。
「既に全域ネットワークでアップロード済みだが、この地に黒リヴラが出現し、アザゼルがそれを発見した。アザゼルからの連絡で我々は集結し、黒リヴラと戦闘したが、アザゼルの裏切りでアキビールが殺害されてしまった。アザゼルは黒リヴラと共に姿を消し、そこに君達がやってきたというわけだ」
ミカエルがアサラデルの肩に手を置いた。
「黒リヴラが教徒の欠片の適格者に選ばれたんだな。奴が欲しているのは、あらゆる能力だ。危険を冒してまで、我々が他世界に進出しなくても、奴は必ず天獄にやってくる……。……こんな風に、なっ!」
ミカエルは黄金剣を右手に出現させ、背後目掛けて振り払った。
「ぎゃあっ!」
黄金剣で斬り裂かれた何者かの悲鳴が響き渡った。
アサラデルは背後に現れた何者かに向かって、自らの能力――月静海を発動させた。
「うぐっ!」
二人が振り返ると、灰色のローブ姿が一人は灰色の血に塗れて悶え、もう一人は地面に磔にされていた。アサラデルは過重力で身動きが出来ない灰色のローブ姿に近づき、フードを被った頭に手を乗せた。アサラデルが力を込めると、破裂音と共に灰色のローブ姿がぺしゃんこに潰され、緑の草が灰色に染まった。ミカエルはじたばたともがき苦しむ灰色のローブ姿に舌打ちし、首筋目掛けて黄金剣を振り下ろした。断頭され、灰色の血が噴き出した。
「鬼神ヌクテメロンが、天獄に何の用だ」
ミカエルの正面20メートルほど前方に立っていたのは、扉を開け放つ鬼神サリルスだった。サリルスは真窓レイヤー・ペネトレイトを発動させた。サリルスの左右の空間に、縦3メートル横幅1.2メートルの長方形の入り口が出現した。不鮮明な灰色にぼやけた入り口の奥から、灰色のローブ姿の鬼神達が姿を現した。二柱の鬼神がミカエルを目指して駆け出した。ミカエルは眉を顰めて、鬼神を見据えた。鬼神はミカエルの横を通り抜けて、後方へ走り去っていった。二柱の鬼神が襲いかかったのは、ミカエルの後方にいた天使ラファエルと天使ガブリエルだった。
ラファエルは凄まじい衝撃によって、後方へ吹っ飛んでしまった。仰向けに倒れ込むが、すぐさまラファエルは起き上がった。ラファエルは波打つ黒髪を肩まで伸ばした、肌の白い男天使だった。他の天使と同様にすらりとして美しく、白い豊かな羽を背中に生やし、半透明の白いローブを着ていた。ラファエルは穏やかな黒い瞳で、突然襲いかかってきた敵の正体を見据えた。敵は真っ直ぐな金髪を肩まで伸ばした、褐色の肌の女鬼神だった。全域ネットワークで調べてみると、灰色のローブを着た女鬼神は、宝石の鬼神ニティカだった。鬼神ニティカは自らの能力――細鉱工メテオ・オーアを発動させた。ニティカの周囲の空中に色彩豊かな石が無数に出現した。直径10cmほどの石はニティカの合図によって、ラファエル目掛けて一斉に空中を飛んで行った。ラファエルは先刻の衝撃の正体を知って、素早く自衛の障壁を展開した。がきんと大きな音を立てて障壁に石が当たり、次々と飛んでくる石の衝撃でラファエルの自衛の障壁はぱきんという音と共に砕け散った。いくつかの石が直撃し、ラファエルは再び後方へ吹っ飛んでしまった。背中を地面に叩きつけられて、ラファエルの口から白銀の血が吐き出された。ラファエルは痛みに眉根を寄せて、自らの能力――水晶心を発動させた。ラファエルの後頭部に雫型の水晶が5つ出現して環状になって浮遊し、右手には半透明の水色の杖が出現した。ラファエルが杖の先端を胸元に当てると、胸の痛みは消え、口元の白銀血も跡形も無く消失した。ラファエルは立ち上がり、自衛の障壁を展開してからニティカ目掛けて駆け出した。ニティカが発射する鉱石を水晶杖で弾き落とし、捌ききれない部分は障壁で防いで、ラファエルはニティカに近接攻撃出来る距離まで近づいた。ニティカは鉱石群を一点に集中させて、ラファエル向けて発射した。ラファエルの障壁がぱきんという音と共に砕け散った。向かい来る鉱石の弾丸は無視して、ラファエルはニティカの左肩に水晶杖を叩きつけた。どんっと鈍い音とともに杖が肩にめり込み、ニティカは衝撃で仰向けに倒れ込んでしまった。肩甲骨は粉々に砕かれ、鎖骨と上腕骨も折られ、関節部分はばらばら状態だった。ラファエルが水晶杖を振り下ろすとほぼ同時に、ニティカの鉱石群がぶち当たった。衝撃で後方へ吹っ飛び、仰向けに倒れ込んだラファエルの上半身は白銀の血でまみれ、天使の羽は所々が抜け落ち、白い肌のほとんどが痣で青紫に変色していた。ラファエルは痛みに顔を歪ませて、何とか右手を動かし、杖を自分の上半身に当てた。傷は何事もなかったかのように修復され、痛みは嘘のように消え去った。ラファエルは翼を羽ばたかせて軽やかに立ち上がり、地面を滑るようにして倒れこむニティカに近づいた。ラファエルが冷めた表情で見下ろすと、呻き声を上げながらニティカが睨みつけてきた。
「お前は……治療者のはず。何故、こんな攻撃が……」
「睨んだって、どうしようもないですよ、鬼神ニティカ。私が治療者だからといって、攻撃力が無いとでも思いましたか。確かに全域ネットワークに記載済みの情報では私の治癒能力が強調されていますが、不特定多数が閲覧可能な情報を信じ過ぎるのは危険ですよ。真贋を見分けるのは個々人に委ねられているのですから、誤るとそれなりの代償を支払う羽目になります。いま、あなたが思い知っているようにね」
ラファエルは立ち上がろうとするニティカの右足目掛けて、水晶杖を振り下ろした。
「ぎゃあっ!」
ニティカの右足首が潰れて、足はあらぬ方向を向いていた。
「ニティカ、あなた達の目的は何ですか?」
「三獄は……全て、……我々の……ものだ」
嗚咽を堪えながらの途切れ途切れの返答にため息をついて、ラファエルはニティカの頭部目掛けて水晶杖を振り下ろした。破裂音とともに潰れた頭部から灰色の血液と内臓物が飛び出して、ニティカは絶命した。
天使ガブリエルは微笑を浮かべたまま、眼前に立ち塞がる灰色のローブを着た鬼神を見つめた。
「鬼神タラブ、どうしてヌクテメロンは天獄に攻め入ったのかしら?」
「聖地の奪還以外に、理由は見当たらんよ」
強奪の鬼神タラブは灰色の髪を短く刈り上げ、吊り上がった鋭い目つきの男鬼神だった。タラブは自らの能力――他己奪ワンス・ペーストを発動させた。ほぼ同時に、ガブリエルも自らの能力――月光花を発動させた。ガブリエルの後頭部に白銀の六弁花が出現した。タラブの後頭部に灰色の六弁花が出現した。タラブが歪んだ笑みを浮かべた。
「上級クラスの天使といえど、自分には勝てまい」
「そうでしょうね。でも、自分と争うことはないでしょう」
タラブは舌打ちした。
「お前の余裕ぶった態度、いつまで持つかな。苦痛で歪ませてやるよ」
タラブはガブリエルの能力によって、ガブリエルに攻撃を仕掛けた。ガブリエルに向かって灰色のナイフが無数に飛んでいった。ガブリエルの周囲の地面から白い炎が噴き出して、ナイフを焼き尽くした。タラブは両手をガブリエルに向けて、同じようにして炎をイメージした。タラブの手の平から灰色の炎が発射され、炎はガブリエルを覆い火柱と化した。火柱の中に羽の生えた天使の姿が黒い輪郭となって見えたので、タラブは高らかに笑った。灰色の火柱の表面が風によって螺旋状に波打ち出した。タラブは笑うのをやめ、眉を顰めた。巻き起こる風によって、炎は掻き消された。姿を見せたガブリエルは無傷で、半透明のローブには焦げ一つついていない。依然として穏やかな表情を崩さないガブリエルを見て、タラブは歯を剥き出しにして笑みを浮かべた。刹那、ガブリエルの腹部から灰色の剣先が飛び出してきた。ガブリエルは眉根を寄せて、自分に突き刺さった剣を見下ろした。タラブがげらげらと笑い出した。
「幻覚の痛みに苛まれ、絶命してしまえ」
ガブリエルはタラブを真っ直ぐと見据えた。
「お前が見ている現実に到達することは、未来永劫に無い」
そこでタラブの視界が一変した。
「うぐっ!」
凄まじい痛みに襲われてタラブが呻くと、口に溜まっていた液体が飛び出て顎に垂れ流れた。気づくと自分は両手両膝を地面についていて、眼前の地面は血塗れだった。喉の奥から何かが込み上げてきて咳き込むと、灰色の血塊が吐き出された。身体中がずきずきと痛み、一体何が起きているのかわからなかった。視線を前方に向けると、ガブリエルが無傷で佇んでいた。
「こんな……はずでは……」
「他者のアビリティを忠実にトレースするのは便利でしょうね」
タラブは血が溜まった口でゴボゴボと唸った。
(何を言い出したんだ、ガブリエルの野郎。俺のワンス・ペーストは、あの天使の能力を完璧に再現していたはずだ)
「一般普及する彩色魔術とは異なり、各人固有の能力というのは、本人しか知り得ない性質や由来、条件などがあるのがほとんどで、そんな情報がパブリック権限のオムニチャネルにアップロードされるのはごく稀です。優れた能力は大衆にひけらかすのではなく、私的には誰にも何も言わないでおきたい。デファクトスタンダードとは言わずとも、情報開示によって陳腐化してしまう事例は多いでしょう。それでは本当に必要とされている時になって、役立たずになってしまいます。お前の能力の素晴らしい点は、能力者自身の認識を超越していることでした。お前が知る由も無い真髄すら再現してみせるとは、もはや飼い犬が主人を追い抜いて先行しているかのようです。末恐ろしいのは、お前が愚鈍でなければ原形界アツィルトの力すら再現可能だということ」
(原形界アツィルトと言ったのか。つまりは……それは、神の領域)
「神の真似事どころか、神そのものに取って代わることが出来たかもしれません。神も対抗したことがないでしょう。自分と対等な情報と能力だなんて。となれば、勝敗は五分五分。お前の能力には神へ挑戦する可能性があったわけです。四界のバランスを根底から崩し兼ねない存在は、排除します」
刹那、タラブの痛みが消えた。立ち上がることが出来て、とても爽快な気分で両腕を回し、組んだ手をぐっと前に出して伸びをした。場面が一転し、タラブは激痛に呻いた。両膝を地面についていて、俯けの形で地面に接する右頬で上体を支えていた。意識は朦朧としていたが、痛みの正体で自分に何が起きているのかを察した。手首と足首の先が朽ちて無くなっていた。腐敗していく様は、まるで火に触れてしまった白い紙にじわじわと広がっていく黒い焦げのようだった。傷口伝いで肉体がぼろぼろと朽ち落ちていく。四肢が刻一刻と短く無くなっていくのは絶望的だった。
「その身に刻まれた痛みで思い知ったでしょう。私の能力は幻覚だけではありません。幻覚は前提であって、私の月光花は有効範囲内の対象に起こり得ない未来を見せます。確定したその未来は、極小部分での世界の書き換えを引き起こす。その点を活用すれば、このような攻撃が可能です」
(激痛の、一瞬前の幻覚は、そういうこと、だったのか。これが、ガブリエルの力、だというのか)
そこで、タラブの意識は混濁していった。
死亡した鬼神をそこに置き去りにして、ガブリエルはミカエルの方へ歩いて近づいていった。
サリルスが出現させた入り口から次々と鬼神が飛び出してきて、セクンダデイとイスキンの天使達に襲いかかった。ミカエルに襲いかかってきたのは、衰弱の鬼神ゼイルナだった。灰色のローブを着て、深くフードを被ったゼイルナは、ミカエル目掛けて跳躍し、灰色に変色した右手をあげた。
「弱化リグレッションテスト」
ミカエルの動きが一瞬硬直した。ゼイルナが凄まじい速さで加工硬化させた右手を、ミカエル目掛けて振り下ろした。
ミカエルが左手でゼイルナの右手首を掴み、右手に握っていた黄金剣をゼイルナの腹部に突き刺した。ミカエルはすぐに黄金剣を引き抜き、今度は振り上げてゼイルナの左肩目掛けて振り下ろした。ゼイルナの体が一刀両断された。ミカエルは黄金剣を振るって灰色の血液を払い落とし、サリルスの方を見据えた。ゼイルナとの戦闘中に、サリルスの姿が消失していた。鬼神を吐き出す窓も消えている。周囲を見渡すと、セクンダデイとイスキンは襲撃してきた何柱かの鬼神を既に蹴散らしていた。ミカエルのもとに天使達が集まってきた。
「一体、どういうつもりだ、鬼神どもめ」
セクンダデイ・ザカリエルがそう言って舌打ちした。
「所詮鬼神如き、我々の力をもってすれば返り討ちだ。身の程を思い知っただろ」
ゼイルナの死体を爪先で蹴って、イスキン・バルカヤルがぺっと唾を吐き出した。
ミカエルがため息をついて、黒髪を肩まで伸ばした男天使――ザカリエルと、金髪を短く刈り上げた男天使――バルカヤルを無表情に見つめた。二人は鬼神への悪態を今も続けていて、ミカエルの視線には気づかずにいた。
(やれやれだ。蔑視は仕方ないとはいえ、品性に欠けている。まあ、今は同胞ではなく、外界へ注意を向けないといけない時だ)
「ミカエル、アナエルがいないわ」
ガブリエルの穏やかな口調とは裏腹に、内容は深刻的だった。ミカエルが集まった天使達を見回すと、確かにアナエルの姿は無かった。何が目的かは不明だが、アナエルはサリルスに攫われたらしい。全域ネットワークにアクセスすると、アナエルが何とか最新データをアップロードしていた。天使と鬼神の戦闘の混乱の中、アナエルは誘拐されていた。
(その時点でネットワーク制限をかけられたせいで、その後どうなったかわからないな。ただ、どんな目的だったかにせよ、鬼神は何も知らずにアナエルを連れ去ったはずだ。バルカヤルではないが、鬼神は思い知ることになるだろう)
「アナエルは攫われた。鬼神の目的はわからないが、どうにかなるだろう。鬼神はアナエルが目的なのか、それとも違うのかは別として、とにかく対象がアナエルでむしろ良かった」
ミカエルの言葉にセクンダデイのメンバーは頷いていたが、イスキンのメンバーは納得できずにいた。イスキン・アサラデルが眉根を寄せてミカエルに質問した。
「同胞が攫われたというのに、どういうことだね、ミカエル。アナエルで良かったというのは、どういった意味なんだ?」
「落ち着け、アサラデル。アナエルで良かったというのは、どうでもいいというのではなく、問題無いという意味合いでだよ。というのも、不慮の事態に襲われたと想定し、セクンダデイとイスキンの全員を比較対象として、アナエルが最も生存率が高いのは疑いようが無いからだ」
「何だって!? ミカエルやガブリエル、それに私を差し置いて、セクンダデイ・アナエルが最強だとでも言うのか」
「ポテンシャル――もしくは委ねられた力とでも言えようか。その点では君の言う通りだ、アサラデル」
「知らなかった。いや、今でも信じられないな、アナエルがそんな力を秘めていたとはね」
ミカエルが肩をすくめた。
「依然として、天獄の最上級戦力は私や君に変わりはない。アナエルの秘めた力は野蛮で知性に劣り、コントロール不可能だ。アナエルが能力を駆使しているのではなく、力に使役されている状態だよ。天獄にとっての価値は無に等しい」
「アナエルの能力は、一体どんなものなんだ?」
「三獄〈デルタ〉由来の力では無い。異界の力だ」
アサラデルが眉を顰めた。
「地球〈ニューアース〉や偽器〈ヴェッセル〉に、そんな凄まじい力が存在するとは信じ難いね」
「違うよ、そこでは無い」
「横次元ではないと言うなら、縦次元ということかね。アナエルの力の源泉は、創造界ブリアーもしくは原形界アツィルト由来ということか」
ミカエルが首を横に振った。
「それも違う。正解なのは、前者の横次元の方だ。横に広がる世界はまだある」
「何だと、ロスト・オーラムのことを言ってるのか」
アサラデルは大きく目を見開いた。ミカエルの言葉が信じられなかった。
「嘘ではない。アナエルの体に埋め込まれたのは、絡繰〈オールドアース〉の力だ」
「そんな馬鹿な……」
アサラデルが呆然と呟いた。ミカエルとアサラデルの会話を聞いて、他の天使達は眉根を寄せていた。何のことを言っているのか、さっぱりわからなかったからだ。ガブリエルとラファエルだけは内容を理解していた。
ミカエル達のもとに、一人の天使が降り立った。
「事態が進展したわ」
そう言って話し始めたのは、階級監督官ラグエルだった。
万神殿の最上階にある広間に多くの者達が集まっていたが、そこにいるのは天獄の住人である天使以外の者達がほとんどだった。広間の主人であるリメド・エイデンのもとに連れてこられた者もいれば、自ら空間移動でやってくる者もいた。鬼神マストはまだ床に横たわったままで、オデュに骨折を治癒してもらった天使レミエルは広間の入り口近くの壁にもたれかかって立っていた。ティラはリメド・エイデンから5メートルほど離れた正面に向き合って立っていて、同じようにオデュとセラフィムもティラの左手側に並んで立っていた。ティラの右手側には、アクト・リーメルとロリアン・フェザー・クウィントゥスが立っていた。アクトとロリアンはある目的の為に、天獄の統治者に会いに来ていた。天井のステンドグラスから降り注ぐ白い光で、広間に鎮座するリメド・エイデンの甲羅に生えた草花や苔が輝いていた。白く煌めく明るい印象の広間とは裏腹に、リメド・エイデンが呟いた言葉は重苦しく淀んでいた。
「三獄の均衡は崩壊してしまった」
「覚醒した教徒の欠片が、適格者を見定めたか」
そう言ってオデュは深いため息をつき、全域ネットワークにアクセスして適格者が誰なのか見つけた。
「最悪じゃないか。いくら選択の自由が許されているとはいえ、〈秩序〉の意志よりも邪悪な策略が感じられるぞ」
「一体、何が最悪なんですか?」
誰が適格者に選ばれたか、ティラには分からなかった。
「教徒の苦しみの欠片フラグメント・オブ・アゴニーの適格者が、黒リヴラに決定したんだ。黒リヴラはこれで、様々な願いを叶えると言われる強力な力を手にすることになる。ラメド・アンデルに続けて、次は黒リヴラだ。最悪だろ」
「天使は黙ってないだろう。それでなくても、イスキンの裏切り者アザゼルが黒リヴラと行動を共にしている。黒リヴラは覚悟したわけだ。三獄〈デルタ〉の全てを敵に回すことを」
リメド・エイデンが深いため息をつくと、亀の顔に刻まれた何層もの皺が揺れ動いた。
「オデュ、それに、セラフィム。君達の意見が聞きたいな」
セラフィムはオデュを見た。
「お先にどうぞ」
オデュは右手を前に出して、セラフィムを促した。
「僕達が三獄にやってきたのは、ラメド・アンデルと黒リヴラを止めて、三獄の平和を取り戻す為です。邪悪な黒リヴラの策略は阻止しないと」
「セラフィムは黒リヴラを抑えるか。では、オデュ、君はどうする?」
「もともと黒リヴラはどうにかしなければならなかった。それが早いか遅いかが、教徒の欠片で定められたようなものだ。天使と鬼神の動きも気になるが、これまで独占状態だった欠片適格者の動きが気になるかな」
「オデュの言う通り、ラメド・アンデルの注視も怠ってはならないね」
「当初の予定通り、黒リヴラとラメド・アンデルの二手に分かれて、対応していきましょうか。それで、アクトはどうする?」
「セラフィム、僕は黒リヴラが潜伏している煉獄が心配で、一緒にどうにかしようとここまでやってきたんだ」
オデュがセラフィムに頷きかけ、アクトに近づきアクトの肩をぽんと叩いた。
「安心しろ、アクト・リーメル。今話したように、黒リヴラはどうにかしないとならない相手だ。だが、実際に戦う時は、なるべくこちらの戦力は分散させないほうがいい。それぐらい、教徒の欠片を相手にするのは危険なことだ」
ティラは何となく三獄の現状が理解出来ていたが、そんなことよりも自分の目的の方が重要だった。もはや、因果の刀の話はどっかに忘れ去られているようだった。
「そこにいる天使レミエルと鬼神マストも、我々の力になってくれるだろう」
リメド・エイデンがそう言っても、マストは寝たきりだったし、レミエルはそっぽを向いて無視していた。こんな状況では、ティラにはリメド・エイデンの発言は希望的観測にしか思えなかった。ティラは背後にいたマストとレミエルを睨みつけた。
(因果の刀の為だと言っていたのに、あの鬼神と天使は何の役にも立ってくれそうにない。いくら待ったところで、リメド・エイデンの口から因果の刀という言葉は出てこない)
ティラはリメド・エイデンに視線を戻して眉根を寄せた。
「この場にいない者達も、我々と同じ目的で動いてくれている。賢者リヴラ・ジヴァニトゥムや帝国の皇子エクス・マキナ達だ」
「まずは、何名かが煉獄へ向かった方がいいな」
オデュがそう言って、その場の者達を見回した時だった。広間の中心――ちょうどリメド・エイデンの目の前の空間に何者かが姿を現した。アクトが白銀剣を構えたが、オデュが手を上げて攻撃を制した。
「心配いらんよ、アクト。この広間はプライベートフィールドだ。空間移動可能な存在は限られている」
空間移動してやってきたのは、リヴラ・ジヴァニトゥムだった。リヴラは床に仰向けに寝た状態で出現した。万神殿の天井から射し込む光に眉根を寄せ、リヴラは閉じていた目を細く開いて上体をゆっくりと起こした。一瞬何が起きているのかわからなくなって混乱し、慌てて周囲を見回した。
「頼む、急いで煉獄へ向かってくれ。助けないと、大変なことに……」
リヴラの様子は異常だった。とにかく急がなければならないのは伝わってきた。
「セラフィム、アクト、ロリアン、煉獄へ向かってもらえないか?」
オデュの言葉に、三人は頷いた。セラフィムが空間移動を発動すると、三人の姿が広間から消失した。
リヴラは傷だらけだった。至る所が破れてしまっていた白色のローブは、赤い血が滲んで変色していた。
「何があったんだね、リヴラ・ジヴァニトゥム」
「リメド・エイデン……」
掠れた声でリヴラが答えた。
「すみませんでした、本当にすみません」
「………」
リメド・エイデンも、その場に集まっていたオデュ達も黙って、リヴラの次の言葉を待った。
「……私達は煉獄にいました。私達というのは、デウスとイライ・クルドとアケショナル・ラストアと鬼神カタリスです」
(アケショナルだって!?)
ティラは頭をぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
(そんな話聞いていなかった。どうしてリヴラは教えてくれなかったんだ)
ふつふつと憎しみの焔が心中に湧いてきたが、そんなことを聞ける雰囲気ではなかったので、ティラは小さく舌打ちしてから歯をぎりぎり食い縛りチャンスを待った。
「黒リヴラの策略によって、鬼神ヌクテメロンの中には何柱かの裏切り者がいます。私達が行なっていたのは、裏切り者の討伐でした……」
それまでは上手くいっていたが、そこで起きた予期せぬ事態を再び思い出してしまい、リヴラは言葉を失ってしまった。
「君達の戦力なら、裏切り者との戦闘は問題なかっただろうね。しかし、何か問題が起きてしまった。リアルタイムで進行する煉獄の出来事は、ネットワークには見当たらない。何があったか、話してもらえないか、リヴラ」
リメド・エイデンが優しい声で、項垂れているリヴラに次の言葉を促した。
「鬼神の最上級戦力が敵対してきたのです」
リヴラの言葉に、オデュが眉根を寄せた。
「それは、鬼神サリルスに襲撃を受けたということかね?」
「サリルスの姿は見ませんでした。襲撃者は各時間領域の統治者達です」
「領域統治者の地位にある鬼神達が、そんなに多く裏切っていたとは」
「違うんです!」
リヴラは首を横に振って否定した。興奮するリヴラを落ち着かせるように、リメド・エイデンはゆっくりと穏やかな声で話しかけた。
「違うというのは、何に対して言っているのだろう?」
「領域統治者での裏切り者は、4時の領域統治者の鬼神タグリヌスのみで、他の領域統治者達は裏切っていません」
「君が言いたいのは、こういうことかな。裏切り者討伐の為に煉獄で戦う君達の前に、裏切り者〝ではない〟煉獄の最上級戦力が敵として立ち塞がった、と」
「その通りです……」
リヴラはそれを目の当たりにしながら、今となっては自分でも信じられなくて眉を顰めた。
「煉獄で何が起きているんだ」
そう呟いてから、オデュはううんと唸り声を上げた。
「領域統治者が動いたとすれば、サリルスがそのように命令したということだ。手の平を返したような態度をするサリルスの目的はわからない。とにかく今は残された者達への救援が何とか間に合うといいんだが」
まるで、ティラに話して聞かせ現状をわからせるかのように、オデュは説明を続けた。
「もう知っているだろうが、三獄の住人には各人固有の能力がある。〈想いの力〉のようにな。それらは彩色魔術や無彩色魔術では再現不可能なものが多い。能力の相性によっては、太刀打ち不可能な相手が出てきてしまう。〈ヴェッセル〉や〈ニューアース〉の実力者といえども、組み合わせによっては敗北するだろう。セラフィム達が到着するまで、持ち堪えているのを願うのみだ」
(つまり、アケショナルが危険だということだ)
今すぐにでも、ティラはセラフィム達の後を追いたかった。と、いつもなら思っていたはずなのに、そうではない感情を抱き、かつての自分を冷静に俯瞰しているのに気づいた。
(今自分を支配している存在とは別の部分では、かつての自分は未だ変わらずに健在だ。けど、アケショナルを追いかけたいという奴の存在感は明らかに小さく、動く気力は微塵もない。全てがどうでもよくて、好きにすればいいと思えるが、倦怠感であったり何もやる気が起きなかったりは無く、むしろ来たるべき時の為に精神を研ぎ澄ませ、力を溜め込んでいるように思えてくる)
心の大部分を占拠している価値観が、暗くて冷たい静かな声でティラの頭に囁いてくる。
「終わってしまうというのなら、こちらからだって終わらせてやる」
(そうだ、アケショナルにもしもの事があったら承知しない)
「全てを無に帰してやる」
(アケショナルを失ってしまった世界なら、滅んでしまってもいい)
ティラの姿を見て、オデュは暗澹たる思いに沈んだ。ティラの全身が刹那、揺らめく漆黒のオーラに覆われ、すぐ様消失した。ティラの変化に気づくことができたのは、自分しかいないこともオデュにはわかっていた。
(本当に心から願おう。無事に帰ってきてくれ)
ベルンハルトは今、アルルーノという喫茶店にいた。店内は薄暗く、足下に点在する間接照明によって人の存在は確認できても、腰から上の姿は黒い不鮮明な影となって正体の特定がわかりにくくなっていた。喫茶店は路面店の一階で、壁に設置された丸窓の近くの席は、外光に照らされて明るかった。暗いのは店内の奥だけだ。木製の丸テーブルには、灰色の一人掛けソファが2脚もしくは4脚置かれ、それぞれに客が座っていた。布張りのソファは丸みを帯びたデザインで、背凭れと肘掛けが一体型の座り心地が良いものだった。ベルンハルトは四人席の1つに座っていて、同席しているのはジョン・カズマと、黒髪を真ん中分けした40代の男だった。
「はじめまして、ベルンハルト。私はアルフレート、会えて嬉しいよ」
アルフレートは見た目に若々しい男だった。灰色のスーツを着ていて、青いネクタイには赤いネクタイピンが付いていた。アルフレートが立ち上がり、握手の手を差し出してきた。同じく立ち上がったベルンハルトはどうしても愛想笑いをする気にならなかった為、力強く握り返すだけで済ませた。ベルンハルトが着席すると、ジョン・カズマがにこりと笑いかけてきた。ベルンハルトは頷くだけで済ませた。
(脂ぎった中年の嘘くさい笑顔には反吐が出る。いや、もはやこれは、嫌悪感伴う殺意だな。チッ、欲に塗れた醜悪な肉達磨め)
「アルフレートは私の〝親〟に当たる人なんだ。つまり、私にPTを教えてくれた人さ。アルフレートはとても賢くてエネルギーに溢れた魅力的な人なんだ。PTは素晴らしいけど、アルフレートのグループでなければ今の私はいなかったよ」
「いや、ジョンならどこにいたって今のクラスにまで上がってきたはずだよ。ジョンの熱意と行動力は誰よりも優れているからね。ジョンのお陰で、私のグループ成績はPT内でもトップクラスを獲得出来ているよ」
二人が声を出して笑い出したが、一体何が面白いのかベルンハルトには皆目見当がつかなかった。
(この喧しい二体の木偶は、完全にいかれちまってる)
「この喫茶店には来たことがあるかい、ベルンハルト」
「いえ、初めて来ました」
「PTの打ち合わせや勧誘の時などによく使っているんだよ。店は静かで落ち着いていて、席がゆとりをもって設置してあるから他の客を気にせずにゆっくりと話が出来るのはとても素晴らしい。実はこの店、アルフレートが経営しているんだ。やはり、才能のある社長はセンスが違うね」
「ありがとう、ジョン」
アルフレートが白い肌を紅潮させてにこにこと笑った。ベルンハルトは心中で舌打ちした。
(一体、今はなんの時間なんだ。この世に何も生み出さない、何の意味もない無駄な時間だ)
店員がやってきて、コーヒーを3つテーブルに置いていった。アルフレートとジョンがコーヒーを手に取ってから、ベルンハルトもコーヒーを飲んだ。口の中に広がる爽やかな苦味で、苛々する気分が少し緩和された。
「ベルンハルトに少し話があってね」
アルフレートが今回の目的の口火を切った。
「来月、ポジティブシンキングのコンベンションが開催される。2年に1回行われるコンベンションは、PTのイベントの中で最大規模のもので、世界中からディストリビューターのトップランカー達が集まり、情報共有や交流が行われるんだ。急な申し出となってしまうけど、ベルンハルトにも参加してもらえないだろうか」
(どうやら、ようやく餌に引っかかってくれたようだ)
脳裏で再生されたのは、丸々太った汚らしい魚が擬似餌に喰いつくシーンだった。ベルンハルトは機械的に返答した。
「はい、よろこんで参加させてもらいます。招待して頂き、ありがとうございます」
「良かった、ベルンハルトならきっとそう言うと思っていたよ。コンベンションが楽しみだね」
「イベント自体は11時開始だけど、9時には現地に集まって裏方に入る予定でいいかな」
アルフレートの言葉に、ジョンとベルンハルトが頷いた。そこから再びアルフレートとジョンが談笑し始めた。ベルンハルトも時折相槌を打っていたが、話は全く聞いていなかった。
(ポジティブシンキングの最大イベントなら、俺が求める諸悪の根源的人物も会場に来るはずだ。そこで、出来るところまで真相に近づいてやる)
アルフレートとジョンとは別の理由で、ベルンハルトはコンベンションが待ち遠しくなった。
鬼神リブラビスは万鬼殿の大広間で静かに待っていた。本来なら各領域統治者の12柱の鬼神や各領域のミーティングなどで使用されている場所に一柱しかいないと、いつも以上に広く静かで、そしてよそよそしく感じられた。リブラビスは耳にかかった灰色の髪を搔きあげ、小さくため息をついた。
(留守番とはいえ、私の能力で何がどこまで出来るだろうか)
リブラビスは突然背後に現れた何者かの気配に驚き、座っていた椅子から立ち上がった勢いで膝を机にぶつけてしまった。
「びっくりさせないで下さい、サリルス」
「悪かったな、リブラビス」
灰色の髭を生やしたサリルスが、真窓レイヤー・ペネトレイトの灰色の窓を潜り抜けてやってきた。サリルスに続けて、何者かが姿を現した。見慣れない姿にリブラビスはぎょっとした。金髪ショートカットの天使だった。どうやら天使は気を失っているようで、サリルスの左手で首根っこを掴まれ、俯けに引き摺られる形で連れてこられていた。白い豊かな羽が微かに上下しているのを見て取り、天使が死亡していないのがわかった。ある目的の為に天獄に向かうとは聞いていたが、これは聞いていない。
「ななっ、なんで、天使が、ここに?」
「セクンダデイの天使アナエルだ」
「セ、セクンダデイ、ですって!?」
上級クラスの天使だというなら、何かの交換条件の為の人質だろうか。
「もうこいつに用はない」
そう言うと、サリルスは背後の灰色の窓を閉じ、左横に新たな窓を出現させた。すぐ様サリルスはアナエルを窓の奥目掛けて放り投げ、窓を閉じて消した。リブラビスにはサリルスの行動の意図がよくわからなかった。終始目を丸くしていたリブラビスは、そこでようやく眉根を寄せてサリルスを恨めしそうに見た。
「さっきの天使は何だったんですか?」
「天使を攫って、天獄を掻き回したかっただけだよ。上級クラスの天使なら誰でも構わなかった」
「アナエルをどこへ送ったんですか?」
「知らん、適当に開いた窓だ。それこそ三獄を飛び越えて、横次元のいずれかの世界か、それとも縦次元のどこかの空間だろうな」
どうも要領を得ないので、リブラビスは話題を変えることにした。
「サリルス、これからどうするんですか?」
「決まっている。天獄の次は、冥獄だ。既に命令を受けた鬼神は、冥獄にいるはずだ」
「まさか、ラメド・アンデルに挑むつもりですか」
「いやいや、さすがの私でも、何の策も無しに教徒の欠片に対抗できるとは思っていない。それほどまでに、教徒の欠片は凶悪な力を持っている」
「でも、冥獄へ侵出したとなれば、ラメド・アンデルは黙っていませんよね」
「現段階でラメド・アンデルと戦うつもりはない。まあ、またすぐに戻ってくる。留守を頼むぞ、リブラビス」
サリルスは窓を出現させ、その奥へ消えて行った。再び、万鬼殿の大広間は静寂に包まれた。
黒リヴラと天使アザゼルは、灰色の洞窟内の珍客を見下ろしていた。輝く金髪と豊かな白い羽。半透明のローブから透けた完璧な美しさの肢体は、薄暗い空間の中で異質だった。
「こいつは、セクンダデイ・アナエルじゃないか」
アザゼルが無表情に呟いた。アナエルは気絶していて、地面に横たわっていた。
「アナエルなんて役に立つのか、黒リヴラ」
「セクンダデイ・アナエルなんかに興味はない。上級クラスの天使なら誰でもよかったんだ」
「イスキンでもいいのなら、俺がいるだろ」
「イスキンでも問題無いが、もはやお前では無理だし、というより無駄でしかない」
アザゼルはわけがわからず肩をすくめた。
「まあ、見てろ、アザゼル」
黒リヴラはしゃがんでアナエルの首を右手で掴み、無理矢理起き上がらせた。黒リヴラの青い瞳が発光し、アナエルを青く染めた。だらんと下を向いていたアナエルの顔が、ばっと勢いよく上がって前を向いた。アザゼルは黒リヴラが何かをしたのかと思ったが、どうやらそうではないみたいだ。なぜなら黒リヴラがアナエルの動きに合わせて素早く後方に下がり、距離を取ったからだ。アザゼルは眉根を寄せた。
「何をしたんだ?」
「何かするのはこれからだ。俺はまだ何もしていない」
アナエルの体は空中に浮いていて、爪先が地面から15cmほど離れていた。手足は未だに力が抜けたようにゆらゆらと揺れていて、気を取り戻したようには思えなかった。異様だったのは、真っ直ぐと前を見据えているアナエルの顔だった。アナエルの両目が真っ黒に変色していた。黒リヴラは答えがわかっている質問をした。
「なあ、アザゼル。セクンダデイ・アナエルはこんなおぞましい顔だったか?」
「バカ言え、黒リヴラ。腐っても天使だぞ。心や精神は別として、外見上の美しさなら他種族など足元にも及ばん」
「なら、これはなんだ」
不気味な真っ黒な瞳は、怪しい黒い光を放っていた。アナエルの顔は醜悪そのものだった。
「アナエルの能力にこんなものはなかったはずだが」
アザゼルが全域ネットワークで調べても、こんな現象の記述は発見できなかった。検索結果の金壁というアナエルの能力は、防壁を出現させるようなものに過ぎなかった。
「だが、あの瞳の変色作用は、お前の瞳を青く光らせているのに似ていないか?」
「あれは教徒の欠片ではない」
「何故わかる? お前は苦しみの欠片を手にしたかもしれないが、残り1つとも2つとも言われる教徒の欠片がどんなものかは誰にもわからないだろ」
「いや、教徒の欠片の正体を知る者が世界に二人だけいる。一人は俺で、もう一人はラメド・アンデルだ。つまり、欠片適格者だ。……どうやら、セクンダデイ・アナエルへの詮索は一旦中断せねばならんようだ」
ずっと沈黙を保っていたアナエルの様子が一変した。アナエルの腹部に突然、黒い空虚な穴が出現し、凄まじい速さで穴から何かが飛び出してきた。黒リヴラが洞窟の壁面に叩きつけられ、激しい衝撃音が響いた。黒リヴラを攻撃したのは、太くて長い見たことのない何かだった。太い触手は鱗で覆われていた。鱗の大きさは手の平ほどで、アナエルの瞳のように光沢のある黒で、体表全てを覆っていた。黒リヴラは自分を押さえつける生物を殴り飛ばし、敵の正体を見据えた。うねうねと蠢く黒い生物はアナエルの腹部に生じた穴と繋がっていた。先端が扁平で目や口が見当たらないところを見ると、これは尾の一部に思われた。暴れ狂う尾が鞭のようにしなり、黒リヴラに振り下ろされた。
「灰傀儡グレー・ファントム」
黒リヴラの眼前に三人の灰色のオーラで形成された人形が出現し、向かいくる尾を目掛けて飛び上がった。尾は人形を粉々に砕いたが、勢いを失って黒リヴラの足下にだらんと落ちた。黒リヴラが尾を蹴り飛ばすと、アナエルにぶち当たり後方へ吹っ飛ばした。
「しかし、こんな巨大な尾を持つ蛇なんて存在するのか」
自分で呟いて、黒リヴラははっと思い出した。
「まさか、こいつは三獣の一頭――レヴィヤタンなのか」
「何だって?」
「天獄の最高権力の一翼――イスキンの天使と言えども、絡繰〈オールドアース〉のことは知らないようだな。三獣は忘らるる世界に存在したとされる、凶悪な怪獣のことだよ。絡繰〈オールドアース〉の没落は、三獣によって引き起こされたという。こいつが伝説のレヴィヤタンだとして、どうしてセクンダデイ・アナエルの中に潜んでいたのか。まあ、経緯はどうあれ、重要なのは現状だ。最強最悪と謳われる悍ましい獣がどれほどのものか、見極めてやる。手を出すなよ、アザゼル」
アザゼルは肩をすくめて、ため息をついてから、空中を飛翔して洞窟の片隅にまで後退した。
背中を壁にぶつけて俯けに倒れ込んでいたアナエルが起き上がり、黒い目で黒リヴラを見据えると、口をぱかっと開けて甲高い奇声を発した。
「ふぁーーーーっ!」
知性の欠片も感じられない獣の叫喚だった。アナエルの腹から伸びるレヴィヤタンの尾が黒リヴラ目掛けて空中を疾走した。
「雪嵐波スノー・タイフーン」
黒リヴラが口を開けると、雪混じりの突風が発射された。レヴィヤタンの尾の先端が氷に覆われて凍結した。それでも尾の勢いは止まらず、黒リヴラの頭部に振り下ろされた。咄嗟に展開した保護膜と尾が激突し、ぱきんという音と共に保護膜と尾の先端がばらばらに砕け散った。黒リヴラは相殺し切れなかった衝撃によって、地面に叩きつけられた。黒リヴラはすぐ様起き上がり、次の攻撃に備えた。黒リヴラは額を流れる赤い血を左腕で拭って、レヴィヤタンの尾を見据えた。空中でうねうねと唸りながら、無くなった尾の先端が再生され始めた。リヴラは青い瞳で蠢く蛇の尾を睨みつけた。
「神槌ウィッチ・ハント」
黒リヴラの視界が白いラインによってセル状になった。黒リヴラは攻撃の座標を設定し、更に左手を振り下ろして洞窟が崩壊しないように天井の空間を切り裂いた。洞窟天井部分に開いた裂け目の奥から、白く燃え盛る火柱が地面に落ちてきた。直径1メートルほどの火柱はレヴィヤタンの尾に突き刺さり、その動きを止めた。続けて、二本の火柱が降り注ぎ、尾の別の部分を貫いた。レヴィヤタンは暴れるのをやめていたが、じりじりと尾を動かして束縛から抜け出そうとしていた。三本の火柱は微動だにしなかったが、尾は自分に刻まれた焼却の傷穴を更に広げるようにして動き続けた。千切れそうなほどにぼろぼろになりながら火柱の束縛から抜け出すと、尾がだらりと地面に落ち、すぐ様傷痕の修復が始まった。
黒リヴラは舌打ちして、攻撃座標を指定した。
「後者罪ノン・ジューズ」
アナエルの腹部近くのレヴィヤタンの尾が、破裂音と共にひしゃげて潰れた。ぼとりと音を立てて、尾が地面に落ちた。切断面が膨れ上がり、尾の再生が始まった。
「切りがないな、芸がない愚図が。宿主ごと滅してやる」
黒リヴラはアナエルの上半身目掛けて、物質圧縮の能力を発動させた。ぴきんという音が鳴り響いただけで、何も起こらなかった。黒リヴラは目を丸くしてアナエルを見つめたが、すぐに金髪黒目の天使を睨みつけた。
「条件文によるセーフティプログラムか」
レヴィヤタンの尾の根本がぶるっと震えて、尾の再生スピードが上昇した。何かのスイッチが押されたかのように、再生した尾が凄まじい早さで黒リヴラを打ち据えた。黒リヴラが壁に激突し、地面に俯けに倒れ込んだ。膝をついて起き上がった黒リヴラの頭部は赤黒い血に染まっていた。少し動くだけで背中に激痛が走り、右腕は折れて動かすことが出来なかったので左手で支えた。レヴィヤタンの尾が黒リヴラ目掛けて振り下ろされ、灰色の土煙が舞った。レヴィヤタンの尾が更に何度も振り下ろされると、その動きを止めた。突風が吹いて、砂塵を振り払った。黒いローブがぼろぼろに破れ、出血で頭部と上半身が赤黒く汚れた黒リヴラが左手でレヴィヤタンの尾を掴み、片膝をついているのが露わになった。
「流石に暴虐の限りを尽くす凶悪な獣だな」
黒リヴラは尾を掴んだまま立ち上がった。
「細嚼エクスプロイテション」
黒リヴラの口元が灰色のオーラに覆われた。左手を口元に運び、掴んでいた尾を噛み千切った。硬い鱗を強化された歯と顎でばりばりと噛み砕く。黒リヴラの全身を苛んでいた痛みが消え、折れた腕が治癒されて動くようになった。
「妄力セイクリッド・パワー」
レヴィヤタンの尾が行動不能に陥った。黒リヴラは左手を離し、尾の根本になる天使アナエルの近くまで歩いていった。
「あの役立たずの能力を奪っておいて良かった」
そう呟くと、黒リヴラは右手の平をアナエルの額に当てた。
「淵源オーディナル・フォルム」
アナエルが目を閉じて、地面に座り込んだ。さっきまでの不気味な雰囲気は嘘のように掻き消えていた。腹部に開いた穴の中へ吸い込まれるようにレヴィヤタンの尾がするすると戻っていき、穴が跡形も無く消失した。黒リヴラはアナエルの首を掴んで持ち上げた。黒リヴラの両目が青く染まり、不気味な光を放って、アナエルの顔が青く染まった。すぐに青い光は消えて無くなり、次の瞬間、黒リヴラの姿がアナエルに変貌した。嘘だったかのように、一瞬にしてアナエルの姿は黒リヴラの元通りの姿に戻っていた。黒リヴラはアナエルを地面に放り投げ、アナエルが存在する空間セルに、神槌ウィッチ・ハントの攻撃プログラムを作動させた。火柱が降り注ぎ、アナエルの胸部を刺し貫き、白銀の血が傷口と口から流れ出た。黒リヴラが更に後者罪ノン・ジューズの追撃を放つと、アナエルの全身が破裂音と共にひしゃげて潰れた。踏み潰されて臓物を撒き散らした蛙の死骸のように、白銀の血に塗れた天使は醜悪で惨めだった。
黒リヴラは深いため息をついてから、右手で空間を切り裂き、天使の死体を何処かへ蹴り飛ばした。黒リヴラは首を振って、やれやれと呟いた。
「絡繰〈オールドアース〉を没落させた化物の力、伊達じゃないな」
アザゼルが翼を羽ばたかせて近づいてきた。
「あんだけ能力をひけらかしたが、結果的には眠らせて追い出しただけか」
アザゼルの挑発を黒リヴラは鼻で笑うだけで済ませた。
「結果に対してどうこう言うつもりは無いが、俺が持っている能力――もしくは俺の知っている能力の中に、さっきのレヴィヤタンを倒すことが可能なものは一つも無い。後先考えずに何もかも犠牲にして力を高めたとしても、レヴィヤタンの尾を消滅させるのは不可能だ」
「物質界に存在する被造物が、永久不滅というのは不自然だな」
「想定外の条件が揃ったことで実現した異常な状態だよ。アナエルに埋め込まれている限り、三獣・レヴィヤタンへのあらゆる攻撃は無効化され続ける。いくら興味深い対象だとしても、結果が見えている戦いほどつまらないものはない。勝敗の行方が不確かだからこそ、自らの力量を如何様にも発揮でき、高揚するんじゃないか」
黒リヴラが不敵な笑みを浮かべた。
「さて、次は冥獄へ向かうつもりか、黒リヴラ」
「これで天獄の天使と煉獄の鬼神の姿を手に入れた。残りは冥獄だ。支配者クラスの悪魔で誰でもいいから犠牲になってもらおう」
黒リヴラが右手を振り下ろし、空間を切り裂いた。出現した黒い裂け目の奥へ入り、黒リヴラとアザゼルは姿を消した。
鬼神カタリスの要請によって、リヴラとアケショナルとイライは煉獄にやってきていた。リヴラ達は裏切り者の鬼神達を討伐し始めたが、何柱かで拍子抜けしてしまった。言わば抜け殻だったし、黒リヴラの姿も見えなかった。教徒の欠片を手にしたのなら、黒リヴラは多くの能力者を率いて襲撃してくるかに思われたが、どうやら違ったらしい。
リヴラ達が4時の領域にある灰色の草原にいる時、これまでとは異なる形で鬼神達が現れた。今までは一柱の鬼神による襲撃が断続的に続いていた。リヴラ達から30メートル離れた前方に、灰色のローブを着た五柱の鬼神が横並びに空間移動して姿を現した。リヴラはすぐ様全域ネットワークにアクセスして立ちはだかる敵の正体を探った。リヴラは眉根を寄せて、自分の情報検索方法に関して不備がなかったかを確かめた。しかし、検索方法も検索結果も共に間違いはない。五柱の正体は――審判の鬼神シンブク、自由意志の鬼神タブリス、鳩の鬼神アルフン、託宣の鬼神ファルドル、宮廷の食卓の鬼神ハハブ――全員が領域統治者だった。リヴラの隣に空間移動によって、カタリスが姿を現した。リヴラは領域統治者の鬼神達から目を離さずに、カタリスに話しかけた。
「これは一体どういうことかな、カタリス」
「お前は間違っていない。あいつらは煉獄の各領域統治者の鬼神達だ」
「上級クラスが黒リヴラに操作されてしまうのかね」
「あいつらは裏切り者ではない」
リヴラは理解しかねたので、黙ってカタリスの次の言葉を待った。
「煉獄の最高権力として、あいつらはお前達を排除しに来たんだ」
「私達の排除? 何故そんなことになっている。何かの間違いではないのか」
「お前達を処分しろ、と命令が下された。領域統治者達は万鬼殿の意志によって、お前達を殺しにここにやって来たわけだ」
リヴラは愕然として絶句した。
「もちろん俺も、お前達を抹殺する命令を受けている」
「カタリス、私達を騙したのか」
リヴラがカタリスの方を向いて睨みつけた。
「勘違いするな、リヴラ。俺はお前達と争うつもりはない。俺だって意味がわからないんだ。サリルスはお前達に黒リヴラに対抗する手伝いをしろと要請したが、その後でお前達の処分を命令したんだ。とにかく、俺も俺の為にお前達と一緒にこの場を切り抜けないとならない」
カタリスが領域統治者達の方へ向き合うと、五柱の鬼神達が歩いて近づいてきて、託宣の鬼神ファルドルが口を開いた。
「カタリス、お前も裏切り者だったのか。信じたくなかったのだが、私の予感は的中してしまったな」
ファルドルは灰色の波打つ髪を肩まで伸ばした男鬼神だった。白い肌をした整った顔立ちで、何故か常に目を閉じていた。
鳩の鬼神アルフンが灰色の嘴で舌打ちした。
「お前まで裏切ってしまうとは、ヌクテメロンも堕ちたものだ。それほどまでに黒リヴラが凶悪なのだとしても、統治者として終わってるな、カタリスもタグリヌスも」
アルフンの顔は鳩の顔で出来ていた。灰色の滑らかな羽に覆われた顔には小さくて丸い瞳がついていて、カタリスを睥睨していた。嘴は羽色よりも濃い灰色をしていて、苛々しているのかかちかちと嘴を噛んで鳴らしていた。
「アルフン、俺は裏切ってはいない。俺が黒リヴラに従属するわけないだろ」
「お前が誰を支持しているのかなど、どうでもいい」
応じたのはファルドルだった。
「黒リヴラだろうと誰だろうと、万鬼殿の意志に背く者は、ヌクテメロンにとって害悪でしかない」
カタリスは心中で舌打ちした。それから敵対する相手に筒抜けになるのを承知で、小声でリヴラに呟いた。
「ファルドルとアルフンには気をつけてくれ。煉獄で最上級クラスの戦力の一角を担っている奴等だ。彼等が統治する8時と11時の領域は、各領域統治者の凄まじい能力によって、裏切り者の発生を確実に防いでいる。俺達は四人で、五柱を退けねばなるまい」
冗談であって欲しかったが、カタリスも向こうの鬼神達もそんな雰囲気ではなかった。正直、こんなことをしている場合ではないのに、カタリスの言う通りにするしかないようだった。リヴラはアケショナルとイライを振り返って頷いて見せた。アケショナルは神剣アクロマティクを抜き放ち、イライは空間把握能力を展開させた。
五柱の鬼神達が襲いかかってきた。アルフンとファルドルの頭部に、灰色のオーラが出現して何かを形成した。それは角だった。アルフンの額には一本の手の平大の細い灰色の角が、ファルドルの頭部には耳の上あたりに左右それぞれ一本ずつの30センチほどの波打つ灰色の角が生えていた。
「何だ、あの角は?」
「イライ、あれは力の象徴だよ」
「なるほどな」
アケショナルはカタリスの言葉に納得して頷いた。同時に、相手の力量に関しても理解し、眉を顰めた。
「あの鬼神の角は、天使の光輪や悪魔の王冠と同じ、上位能力の発動証明か」
「その通りだ、アケショナル。あれは灰角と呼ばれる。鬼神の中でも領域統治者などの一部の者達のみが発動可能で、各鬼神が本領を発揮する際に発現する」
アルフンがリヴラ目掛けて飛びかかった。
「フィアス・オルトルイズム・オクト」
アルフンの両拳が灰色のオーラに包まれた。
「Έναβέλος」
素早く呪文詠唱を終えて、リヴラは氷の矢をアルフン目掛けて放った。アルフンが右手を突き出すと、氷の矢がまるで手の平に吸い込まれるように消失してしまった。アルフンの右手には傷一つない。リヴラは眼前にまで迫ってきたアルフンの顔面に、加工硬化で強化した右拳を突き出した。アルフンは揺れ落ちる木の葉をはたき落とすように左手でリヴラの拳を払いのけた。アルフンの右拳がリヴラの左頬に叩き込まれ、リヴラは後方に吹っ飛んでしまった。
アルフンの5mほど後方に佇むファルドルが目を見開いた。
「アルフン、右後方45度に女剣士だ」
アルフンは拳を振りかぶり、上半身を捻って右斜め後ろに迫る何者かを殴りつけた。
「なっ!?」
アケショナルが剣を振り下ろすより早く、アルフンの拳がアケショナルの顔面目掛けて飛んできた。アケショナルは咄嗟に白銀の保護膜を展開したが、十分な強度が得られず衝撃で後方に吹っ飛んでしまった。
イライが舌打ちして、〈想いの力〉ラスト・ストラグルを発動させた。
イライの攻撃に合わせるかのように、ファルドルは再び目を閉じた。
「ピース・フォーキャスト・エンデカ」
ファルドルの閉じた両目が灰色のオーラに覆われた。瞼がピクピクと震えると、ファルドルは口元に薄笑みを浮かべた。
「これは問題ない」
ファルドルの呟きを聞くよりも早く、アルフンは全域ネットワークにアクセスしてイライの情報を取得していた。
「確かに、未熟な空間支配能力ならば、予見するほどもないな」
情報取得によって、アルフンの視界にもイライの展開するものと同性質の座標セルが表示されていた。指定座標に爆発のプログラムが書き込まれるのを見て取り、アルフンは別の場所へ移動した。連続してプログラムされる爆破攻撃を、アルフンはまるで優雅なティータイムを過ごしているかのように、ゆったりとした動きで避けていった。イライが舌打ちして、アルフン周辺の全座標セルに爆発をセットした。アルフンはつまらなそうに自らの周辺にあるセルに手を伸ばし、凄まじい早さで爆発予定空間を掴んでイライの方へ突き進んでいった。アルフンに掴まれた空間は、爆発が一切起こらなかった。イライは次々とアルフンの前方に爆弾をセットしたが、アルフンが攻撃指定セルを掴むと全てが不発で終わってしまった。イライは爆風の威力に乗せて右手を突き出した。アルフンがイライの右手を掴むと、途端に勢いは失われてしまった。アルフンはイライの顔面を殴りつけた。
「ぐあっ」
イライは仰向けに倒れ込んでしまった。
「中途半端な力だな。人間の分際で爆発の威力は大したもんだが、当たらなきゃ無力と変わらん」
イライが上体を起こして、口に溜まった血をぺっと吐き出した。
「ふざけやがって」
ずきずきと痛む鼻を腕で拭うと、白色のローブにべったりと血がついてきた。
「イライ、お前は遠方から援護に徹しろ」
アケショナルがイライの横に移動して、イライに白銀の保護膜を張った。治癒までとはいかずとも、イライの顔面の痛みが少し和らいだ。
「私がどうにかする」
アケショナルは白銀の力を開放させた。白銀のオーラがアケショナルの全身を包み込み、アケショナルの黒髪が白銀に変色した。凄まじい早さでアルフンの背後に近づき、既に構えていた神剣を振り下ろす。
「後ろだ!」
ファルドルが叫んだ。アルフンも凄まじい早さで振り返って、右手で神剣アクロマティクを受け止めた。アケショナルは既に視界から掻き消えていた。アルフンの左手側からアケショナルの斬撃が飛んできた。アルフンの左腕が切り裂かれた。
「目の前だ!」
ファルドルの叫びで、続け様に振り下ろされた斬撃は右手で受け止めることができた。アケショナルは後方に高く跳躍して、白銀の衝撃波を地上の五柱の鬼神目掛けて放った。
「跳躍しろ」
ファルドルの落ち着いた言葉を聞いて、鬼神達は後方に飛んで衝撃波を避けた。
「白銀の女剣士は、私の予見よりも一手早い。私が1つ予見する間に、あいつは2つ行動を起こしている。アルフンとの相性も悪い為、複数で対応すべきだ」
他の鬼神は無言でファルドルの言葉に応答した。ハハブがアルフンの隣にまで歩いてきた。ハハブの右頭部に湾曲した灰角が一本生えた。宮廷の食卓の鬼神ハハブは金髪巻き毛を肩まで伸ばした男鬼神で、灰色のローブを着ていたが、首には親指大の宝石で色彩豊かに装飾されたネックレスをつけ、白い肌に施された赤いチークとリップによって異様な姿に見えた。ハハブがニヤニヤしながら呪文を唱えた。
「エレガント・ライフ・ドデカ」
アルフンが灰色のオーラに覆われた。
「うっぷ」
一気にご飯を食べてしまったかのように腹が苦しくなって、アルフンは灰色の嘴で小さくげっぷをした。同時に左腕の痛みが消えた。傷が癒され、左腕をぐるっと回してアルフンは感触を確かめた。
「治癒はありがたいが、この満腹感は邪魔だな」
「五月蝿い、アルフン。私のお陰だろう。私の能力に感謝するんだな」
アルフンは背後のハハブの言葉に対して、肩を竦めるだけにした。
(自信過剰の身の程知らずは、当然のように自分の権利や価値観を主張し要求し、理不尽な自分の姿に気づくことなく、よく吠えて喚き散らす。自分が集団に守られ、同時に集団から疎まれているのも知らない役立たずのクズめ。お前みたいなクズは、どんなに素晴らしい能力や知識を持っていたとしても、使い物にならないお荷物なんだよ)
アルフンはふんと鼻を鳴らしてから、周囲に発動された爆弾を両手で掴んでいって消滅させた。
アケショナルはアルフンの傷が治癒されたのを見て、小さく舌打ちした。
(どんな能力かはわからないが、倒す順番は考えないとならないようだ)
アケショナルは一瞬にしてハハブの横に移動し、神剣を振り払った。ファルドルの呟きが聞こえてきた。
「ハハブの横に来るぞ」
アケショナルの神剣ががきんという金属音と共に受け止められた。シンブクがハハブとの間に割り込んできていた。審判の鬼神シンブクは白い髪を肩まで伸ばした色白の女鬼神だった。シンブクの額には人差し指大の短い灰角が二本生えていた。
「ジャッジメント・エビル・エナ」
シンブクの左手に、右手に握るものと同じ灰色のオーラで形成された審剣が出現した。アケショナルは受け止めている審剣を弾き返し、振り下ろされるもう一本の審剣を神剣で受け止めた。シンブクの一振りはなんて事のない威力の剣戟だった。一呼吸置いた後に予期せぬ衝撃に襲われて、アケショナルは俯けに地面に叩きつけられてしまった。
「うぐっ」
(一体、何をされたんだ。気配もなかったし、早さでもない)
アケショナルは立ち上がって、目の前のシンブク目掛けて剣を振り上げた。シンブクが両手の審剣を振り下ろし、アケショナルの神剣とぶつかり合った。アケショナルが競り勝ち、シンブクは弾かれた審剣の反動で仰け反って態勢を崩してしまった。アケショナルが追撃を放とうとした次の瞬間、正体不明の衝撃に襲われて地面に叩きつけられた。
「くそっ」
アケショナルはシンブクの能力が何となくわかった。あの灰色の剣を受けてしまうと、問答無用で地面に叩きつけられてしまうらしい。
「ぐあっ」
視界の端で、イライとリヴラがアルフンに殴られて吹っ飛ばされ、仰向けに倒されていた。アケショナルは立ち上がり、救出へ向かおうとした。
「女剣士が逃げるぞ」
アケショナルが移動開始するよりも早くファルドルの声が聞こえてきて、シンブクが審剣を振り下ろしてきた。アケショナルは反射的に審剣を受け止めてしまった。金属音が鳴り響き、それからアケショナルは地面に俯けに叩きつけられた。アケショナルは眉根を寄せて、悪態をついた。
(鬼神達よりも早く動くんだ)
「逃亡されてしまう」
「ファルドル、問題ない。既に捕獲した」
ファルドルの呟きに応じたのはタブリスだった。タブリスはアケショナルの傍に立っていた。自由意志の鬼神タブリスは茶色い髪を肩まで伸ばした女鬼神だった。白い肌に真っ赤なリップが印象的で、大きな灰色の瞳でアケショナルを見下ろしていた。
「ルーラー・インテンション・エクシ」
タブリスの頭頂部に太くて短い灰角が一本出現した。半透明の灰色の障壁がタブリスの周辺に展開した。タブリスとシンブクが数歩後退し、アケショナルを見下ろした。
アケショナルは立ち上がり、眉根を寄せて周囲を見渡した。灰色の障壁は直径30メートル、高さ10メートルほどの四角い箱となってアケショナルとタブリスとシンブクを覆っていた。箱の外は薄い灰色に染まった景色となり、リヴラとイライの姿が見えた。
イライが前方にいるアルフン目掛けてラスト・ストラグルの爆発を放った。リヴラはその間に、20メートルほど離れた場所に出現した灰色の箱近くへ向けて駆け出した。走りながら、リヴラは両手に彩色魔術のエネルギーを集約させた。
「重層の衝撃シュヴァルツ」
黒いエネルギーの塊を灰色の障壁目掛けて放った。重層の衝撃が灰色の障壁に当たると、ばしゅっという破裂音とともにリヴラの攻撃の方が消失してしまった。呆然と立ち尽くすリヴラの横腹に蹴撃が叩き込まれた。吹っ飛んで倒れ込んだリヴラが呻きながら上体を起こすと、目の前にアルフンが立っていた。
「近づくな。お前にはどうしようもない」
アルフンは何者かの気配を察し、背後を振り返った。カタリスがアルフンの顔面目掛けて拳を繰り出した。アルフンが右手を突き出してくるのを見て取ると、カタリスは凄まじい早さで拳を止めて、左足でカタリスの腹部を蹴りつけて吹っ飛ばした。カタリスはリヴラの手を取り、起き上がらせた。
「カタリス、あの灰色の障壁は何なんだ」
「タブリスのルーラー・インテンション・エクシは、破壊不可能の障壁を出現させる。タブリスにダメージを与えると、展開した障壁の面積にもよるが、自己消滅させることができる。術者のタブリスが障壁の内側に入ってしまうと、外側からはいかなる方法だろうと障壁を打ち破ることはできない。原形界アツィルトの力だとしてもだ」
「そんな異常な力を三獄の一鬼神が持つというのか」
「能力の性質としては、極小単位での世界の隔絶を起こしているのみだ。アルフンのフィアス・オルトルイズム・オクトも同様だが、障壁部分もしくは拳部分のみが限定的に能力の起点となり、障壁の向こう側は別世界の為、こちら側の世界からの干渉が不可となり、アルフンの拳は別世界の入り口となって、こちら側の世界のものに触れると別世界の判定がなされ、どんな性質の力だろうとその力は存在出来ずに失われてしまう。世界隔絶の影響が極小単位の限定的短命的であることから、物質界において許されている能力なのだろう」
「現状、アケショナルはあの空間から抜け出せないわけか」
カタリスが犬の顔で頷いた。
「彼等の目的は、アケショナルの捕獲だったようだ」
「こちら側からアケショナルを救い出せないのか?」
「障壁の破壊や干渉は絶対に不可能だ。つまり、救出もほぼ不可能だ。だが、唯一活路を見出すとするなら、空間移動だろうか。おそらく空間移動なら、こちら側から障壁内の空間へ移動できるはずだが」
「弱点はそんな単純なことかね」
リヴラはため息をついて、空間移動を発動させようとした。同時にファルドルの声が聞こえてきた。
「リヴラの空間移動だ」
リヴラの顔面目掛けて、アルフンの拳が飛んできた。空間移動の発動に失敗し、リヴラは後方へ吹っ飛んでしまった。
「話し合いの休憩は終いだ。空間移動できるなんて思うなよ。そんな暇があったら、攻撃でもしてこい」
カタリスがアルフンの背中目掛けて右足を振り上げた。アルフンは凄まじい早さで振り返り、カタリスの蹴りを左手で受け止めて足首を掴み、リヴラが倒れ込む方へ投げ飛ばした。カタリスがリヴラの隣の地面に背中から叩きつけられた。呻きながらカタリスは立ち上がり、既に立ち上がっていたリヴラをちらりと見てため息をついた。
「やはりダメだったか」
「わかっていたなら、やらせるな」
「ファルドルのピース・フォーキャスト・エンデカによる未来視によって、俺達の行動の多くは露呈してしまう。リヴラにしろアケショナルにしろ、空間移動を発動しようと思った時点でファルドルに予見され、アルフンやシンブクによって妨害される。俺やイライが捨て身覚悟で誰かを行動不能にしたとしても、ハハブのエレガント・ライフ・ドデカによって回復されてしまい、奴等のはめパターンは崩されない。犠牲者が出るのはこちら側だけだ」
リヴラの視線の先で、アケショナルがシンブクの剣によって地面に叩きつけられた。アケショナルが何か反撃しようとしたのを、先回りされて妨害されてしまったのだ。リヴラは歯をぎりぎりと噛み締めた。
「理屈はわかった。どっちの道を進んでも茨の道だとしても、この状況から抜け出すのを諦めるわけにはいかない」
リヴラは再び空間移動の発動を試みた。凄まじい速さでアルフンがリヴラの眼前に移動し、腹部を殴りつけた。
「ぐはっ」
リヴラの口から血飛沫が飛んだ。
アルフンは右手でリヴラの肩を掴み、右頬を殴りつけ、横腹に膝蹴りを叩き込み、両手で首を掴んで締め付け、地面に後頭部から叩きつけた。リヴラの白いローブはボロボロに破れ、出血で全身が赤く汚れていた。
「くそ鬼神がぁっ!」
イライが全身を爆風に乗せて、アルフン目掛けて体当たりを仕掛けた。アルフンはつまらなそうにイライの逆立った金髪を掴み、するとイライの勢いは嘘のように消えてしまい、イライの顔面を右手で掴んで締め上げ、リヴラと同様に灰色の地面に後頭部から叩きつけた。
「糞はお前だ、人間。低俗で矮小な種族め」
イライの体はぐったりして、後頭部からじわじわと血の赤い染みが地面に広がっていった。
もはや意識を失って聞こえていないかもしれなかったが、それでもカタリスはリヴラに向けて話しかけた。
「俺も断じて諦めることなどしない。黒リヴラを倒す為には、お前が必要だ、リヴラ。俺もお前も、こんな場所で鬼神程度に足踏みしている場合じゃないだろ」
カタリスの額に螺旋状の細い角が一本出現した。
「フューチャー・シャイン・デカ」
アルフンが何かするよりも早く、リヴラの姿がその場から消失した。ファルドルにも何が起きたのかわからなかった。リヴラの消失を予見できなかったことにファルドルは困惑していた。ファルドルはピース・フォーキャスト・エンデカを解除した覚えはなかったし、目を瞑るという発動条件は満たしていたはずだ。アルフンは舌打ちして、微笑を浮かべるカタリスの左頬を思い切り殴りつけた。
口の中に広がる血の味を噛み締めながら、カタリスは心中で呟いた。
(さあ、これからが時間との勝負だ)
ラグエルはアナエルの誘拐を既に知っていたが、アナエルの内に秘められた力も把握していたので、その件についての問答は省かれた。それよりも天獄にとって重要なことをその場では優先された。ラグエルが顔色一つ変えずに、事務的に話し始めた。
「新たな教徒の欠片の存在が明らかになった。これで、教徒の欠片の全貌が見えてきたわ」
「ラグエル、それは誰の情報だ?」
ミカエルが眉根を寄せて聞いた。
「情報元は不明よ。見つけたのは全域ネットワーク上で、ラメド・アンデルが教徒の欠片を手にするよりも前にアップデートされている情報だった。真贋の見極めは必要でしょうが、参考にはなるでしょう」
「ラメド・アンデルによる情報操作の線は薄いというわけだな」
ラグエルはミカエルの言葉に頷いて、話を続けた。
「ラメド・アンデルと黒リヴラが欠片適格者となっている現状打破の為、新たな教徒の欠片には更なる注視が必要でしょう」
「ラメド・アンデルが教徒の痛みの欠片フラグメント・オブ・ペイン。黒リヴラが教徒の苦しみの欠片フラグメント・オブ・アゴニー。それで、新たな二つの欠片というのは?」
ミカエルはネットワーク情報を確認しつつ自分で言っていて反吐が出そうになったが、それでもラグエルに聞いてみた。
「一つは、教徒の憎しみの欠片フラグメント・オブ・ヘイト。もう一つが、教徒の怒りの欠片フラグメント・オブ・レイジ」
セクンダデイとイスキンの各天使は、それぞれため息をついたり首を横に振ったりし、一部の天使は舌打ちしたり悪態をついたりした。
「痛みと苦しみに加えて、憎しみと怒りとは、件の教徒が何をしたのかは知らんが、教科書通りの思考パターンだな。何者かによって攻撃され、その恨みに鬱々として朽ち果てたといったところか。流石、愚昧な劣等種族だ」
ミカエルは吐き捨てるように言った。教徒の欠片がここまで明らかになってくると、靄に隠されて判然としなかった正体の輪郭がおぼろげながら見え始めた。
(ある宗教の信徒が、絶命の瞬間に抱いた怨念によって、教徒の欠片は生み出された。教徒の正体と欠片発現の目的は不明だが、概括はこんなところか。四つの欠片に分断されているのも謎だが、残り二つの教徒の欠片が覚醒すれば自ずと明らかになるはずだ)
そこで、ミカエルは自分の脳裏に浮かんだことに驚いて目を見開いた。そしてすぐに思い出した内容に苛々して、小さく舌打ちし眉を顰めた。
(こんなこと忘れていたのに、教徒の欠片の話で思い出してしまったのか)
ミカエルの様子の変化にラグエルが気づいた。
「どうかしたのか、ミカエル」
「1つ、教徒の欠片のことで思い出したことがある」
「そうか、話してくれ」
こんな下らないことは話したくなかったが、自分の思いとは裏腹に、更に思い出は鮮明に蘇り、不思議とミカエルは話し始めていた。
「遥か彼方の記憶が蘇った。かつて聞いたような気がする。それは教徒の欠片の正体に関してだ。教徒の欠片とは、ある宗教の信者の砕けた心だという。彼は異世界の住人で、死に際の彼を襲ったのは、まず凄まじい痛みだった。先行する痛みの次に押し寄せてきたのは、苦しみだった。痛みに悶え、苦しみに足掻くが、彼は身動き出来ずに堪えるのみで、絶望に嘆くしかないように見えた。彼の心中は悔恨で満たされているかに思えたが、痛みと苦しみに苛まれる中で彼が抱いていたのは、なんと喜びだった。教徒が物質界から消滅した瞬間、教徒の激しく純粋な〈想いの力〉によって、痛み、苦しみ、喜びは強力なエネルギーの結晶と化した。三つのエネルギーの結晶は、痛みの結晶フラグメント・オブ・ペイン、苦しみの結晶フラグメント・オブ・アゴニー、喜びの結晶フラグメント・オブ・プレジャーとなった。教徒の欠片とは痛みと苦しみと喜びの三つの結晶の総称で、教徒の残した〈想いの力〉の結晶体なのだという」
ラグエルが首を傾げて、ミカエルの話を訝しんだ。
「ミカエル、そんな話を誰から聞いたんだ?」
「オデュだ」
ミカエルは吐き捨てるように言って、自分に苛々して舌打ちした。
「オデュがそれを言ったのか」
ラグエルはそう呟き、ううんと唸って思案した。
「オデュの言葉通りだとすれば、教徒の欠片は全部で三つ存在し、それは痛みと苦しみと喜びで構成されるわけか。私の話とは全く異なるな」
「ラグエル、聞かなかったことにしてくれ。何を言ってるんだか、私も自分で自分が信じられんよ。所詮、低俗な道化師の戯言に過ぎない」
ミカエルはため息をついて、やれやれと首を横に振った。
「低俗な道化師、ね……」
ラグエルは無表情にミカエルを見つめた。
(ミカエルは今やこんなに英雄オデュを毛嫌いしているが、かつては違った。私は今も昔も変わらずにフラットだが、ミカエルの言動は他の天使に影響を与え、オデュに対する価値観にバイアスをかけている。ミカエルの判断は、オデュに限って言えば、良くも悪くも認知バイアスに支配されてしまっている。ミカエルが話すのを躊躇した、かつての記憶というのが引っかかる。認識の歪みが解消されたとしたなら、それはマイナスがプラスになるということだ)
「〈想いの力〉教徒の欠片の発現者がどのような状況だったかはともかく、痛みと苦しみから憎しみと怒りという精神構造は正常な機能に思える。喜びというのは、信じ難いな」
「その通りだよ、ラグエル。痛みと苦しみは言わば受動的感覚で、第二段階としての憎しみと怒りは能動的感覚として至極真っ当だ。外的要因によって引き起こされる受動的感覚に続けて、個々人の内的要素により能動的感覚が選択されるわけだ。既に明らかな痛みと苦しみという受動的感覚に対して、喜びなどという不条理で不可解な能動的感覚を起こす存在など皆無だ。それに多くの知的存在にとって、負の感情のエネルギーは底知れない。教徒の欠片の発現者はよほど執念深く、悪どい存在だったのだろう。酷い仕打ちを受け、その結果沸き上がった純粋で膨大な復讐心によって、〈想いの力〉を覚醒させたのだから」
ミカエルの説明に、セクンダデイとイスキンの天使達が頷き合った。ラグエルは頭の片隅に三つで構成される教徒の欠片を残しつつ、各天使に四つで構成される教徒の欠片を注視しながら今後の活動方針に関してどうするかを説明し始めた。
ベルンハルトはポジティブシンキングのイベントに参加する為、ドイツの新ミュンヘン国際見本市会場にやってきていた。ポジティブシンキングのコンベンションは三日間開催され、期間中に世界中から集まってくるPTユーザーの来場者の合計は10万弱もの人数になるという。開場時間まであと130分ほどだが、既に多くの人々で溢れかえっていて、会場に近づくほど人の波の密度は濃くなっていき、前進が難しくなっていった。アルフレートとジョンとの待ち合わせ場所は、会場入り口近くにある荷物検査を抜けたすぐの入り口手前部分だった。ベルンハルトは近場の教会に荷物を置いてきたので、荷物と言えば茶色い布で包んで腰に括っている破滅の刀ぐらいだった。灰色のスーツ姿の検査員に対して、ベルンハルトは両手を広げて手ぶらなのを訴えた。検査員の男の眉間に皺が寄ったのを見て、ベルンハルトは胸の内ポケットから教会の身分証明書を取り出して提示した。検査員が証明書とベルンハルトの顔を見てから、布を解くように言ってきたので、ベルンハルトは破滅の刀を包む布を解いた。白く輝く鞘と柄が露呈した。滑らかな象牙柄を右手で掴み、鞘を引っ張ると、白く煌めく細身の刃が露わになった。灰色のスーツ男は見るからに不満そうだったが、首を振ってベルンハルトを中へ促した。ベルンハルトは無言で破滅の刀を布で包んで腰に戻し、検査員の横を通り抜けて進んだ。ベルンハルトははっとして、目を見開き、唾を飲み込んだ。立ち止まり、周囲の騒音に耳を澄ませる。
「おい、ベルンハルト! こっちだ、こっち!」
ジョンの声がして、ベルンハルトはアルフレートとジョンが待つ方へ向かった。アルフレートとジョンが色々と話しかけてくるのを、ベルンハルトは適当に頷いて応じた。破滅の刀を通して感じられるのは、周囲に溢れる異界の存在だった。誰から異界の反応を感じられるか区別がつかないほどに、無数に存在する異界存在に対して、ベルンハルトは先刻息を呑んで、硬直してしまっていた。
(なんてことはない事だった。ポジティブシンキングに関する全てが、異界に関与する存在だったという事だろう。このコンベンションに参加する全ての人間達は異界の存在に関わっているか、もしくはこれから関わることになる予備軍ということだ。どこのどいつだか知らないが、ふざけやがって。ポジティブシンキングの行為は、俺達の世界の人間を弄び、異界の立場から利用して食い物にしているようにしか見えない。余裕ぶって高みの見物をしてられるのも、これまでだ。コンベンションには、ポジティブシンキング本社の人間も事務方以外は全てやってくるという。なら、ここで決着をつけてやる)
ベルンハルトはアルフレートとジョンに都合良く話を合わせてコンベンション会場の中へと入っていき、言われた雑務を適当にこなし、切りのいいところで団体行動から抜け出して単独で捜査に向かった。
人で溢れる広大な会場内のどこへ向かい、何を探せばいいのかはわからなかったが、破滅の刀を通して特に強くて大きな異界の存在が三つ感じられたので、そのどれかに到達すれば何かがわかるはずに思えた。ベルンハルトは人混みを掻き分け、早歩きで現在地から一番近い強大な反応のする地点へ向かった。関係者以外立入禁止のステッカーが貼られた灰色のドアを抜けると、外の喧騒が嘘のように静まり返った廊下に出た。白い床と白い壁が奥に伸びていて、左右にいくつかの通路が伸びている。ルートを知らないと迷いそうな廊下だったが、より感覚が増し始めた異界のオーラによって、向かう方向に間違いはなかった。ベルンハルトは進んでいき、灰色の片開きドアの前で立ち止まった。この奥から、三つのうちの一つの感覚が感じられる。ベルンハルトは扉を押し開けて、部屋の中へ侵入した。
扉を潜り抜けた瞬間、ベルンハルトはどこかで感じたことのある目眩を覚えた。忘れようがないその感覚は、かつて世界に普及していたスペースサーフィンの瞬間転送システムに設置されていたゲートを通り抜けた時と同質のものだった。ベルンハルトは目を見開いて、周囲を見渡した。どこかのビルの一室のようで、魔界や天界などといった異常な世界ではないことでひとまず安心できた。振り返ると、入ってきた時と同様の灰色のドアが壁に設置されていた。部屋は100平米ほどの奥行きのある長方形で、何かの研究施設なのか機械設備が壁際と部屋のそこかしこに設置されている。部屋の一番奥にある机の前に二人の人間がいて、向かい合っている二人は男と女で、ベルンハルトにはまだ気づいていないようだった。ベルンハルトは扉の近くで様子を見ることにした。
「今度は誰が来たっていうんだ。これだからコンベンションは困る。良からぬ珍客が迷い込んでくる。君は誰だね、ここは関係者以外立入禁止だよ」
そう言って、白衣を着た50代の禿頭の男がもう一人の女に向けて、しっしっと手を振った。
「まあ、そう言わないでくれ、ゲッベルス。素晴らしいイベントなのだから、大目に見てやってくれないか。だが、予期せぬお客様に対しては、それ相応の扱いをしていいと私は思うよ」
灰色のスーツ姿の男が、白衣のゲッベルスの横に歩いて近づいてきた。左手側の機械に隠れて見えなかったようで、ベルンハルトは突然の三人目の登場人物に眉を顰めた。
「わかってますよ、ハインリヒさん」
ゲッベルスがそう言って、細い顔を醜く歪ませて笑みを浮かべた。スーツ姿のハインリヒは、何者かがやってくるのをあらかじめわかっていたかのような言動だった。ベルンハルトは身構えて、左手を破滅の刀の鞘に据えた。
「君はうまくポジティブシンキングの中に侵入できたと思っているようだが、我々によってここまで誘導されたとは考えなかったのかね」
ハインリヒの言葉に対して、ゲッベルスと向かい合っていた灰色のスーツ姿の女が話し始めた。よく見たら、ジョン・カズマのセミナーに来ていた黒髪ボブヘアーの女だった。
(どうして、あの女がこんなところにいるんだ)
「この場所まで私を侵入させた時点で、ポジティブシンキングはもうお終いよ、ハインリヒ」
「私は知っているぞ、ベアトリーチェ。複数の被害者団体の後ろ盾になっている組織――名称は無いが、故に我々はニーマントと呼んでいる。なかなか姿を見せないニーマントの実態解明の為に、我々は多くのエサを各国にばらまいてきた。そこに食いついてきたのが、君だよ、ニーマント幹部ベアトリーチェ」
ハインリヒが薄笑みを浮かべるのを見て、ベアトリーチェがはあとため息をついた。
「そこまでわかっていたのに私をここまで通したのは、愚考だったようね、ポジティブシンキングCEOハインリヒ。ポジティブシンキングが行なっているのは美容でも医療でも無い、非人道的な人体解剖実験よ。この場所だけでも、それは十分に証明できる」
ベルンハルトは事の展開に眉根を寄せて、室内に設置されている機械設備を見回した。人が丸々入れるほどの大きさの透明な試験ポットが何台も並んでいて、ポット内には何かの液体と物体が入れられていた。試験ポットは上部に設置された機械設備の暗がりになっていて、黒いぼやけたシルエット程度にしか中身は見えなかった。
「そんなに見たいなら、存分に見るがいいさ」
ゲッベルスが下卑た笑い声を上げながら、背後の機械に設置されたタッチパネルの操作盤に触れてポット内の照明を点灯させた。試験ポット内の中身が鮮明に照らされた。二度と経験したくないようなデジャヴュに襲われて、ベルンハルトは催した吐き気をぐっと飲み込んだ。試験ポット内には人間が保管されていた。ポット内を満たしている液体の色は赤か緑か黄色の三色のどれかで、裸の肉体がその色に染まって異様な姿だった。子供や老人はいなかったが、成人の男女分け隔てなくその部屋には五十人ほど保管されているようで、五体満足の人間もいれば、体の一部や大部分が欠落している者もいて、身体のパーツが部位ごとにまとめられて複数保管されているものもあり、ある一つの試験ポット内には人間の膝から足の爪先までの切断されたかのような足が何本も入れられていた。
(これが、ポジティブシンキングが隠蔽してきた秘密だというのか)
ベルンハルトは右手前方のポット内の人間に目を奪われた。その反応を見て、ハインリヒがベルンハルトの方に視線を向けた。
「茶のスーツの君は、アルフレートのグループ内のディストリビューターかな。アルフレートに悪いことをしてしまった。説明の機会を奪ってしまったね。このコンベンションに招待されたほどの人物だ。安心したまえ。こちらの手違いで混乱させてしまったが、すぐに会場まで案内させるよ」
「ハインリヒさん、こいつはどうしますか?」
「醜く物騒なのは困るよ、ゲッベルス。まずは、ベアトリーチェにもポジティブシンキングの真正なユーザーになってもらい、そのシステムによってどうにかしようじゃないか」
「私を殺しでもしたら、それこそ確実な証拠となるわ」
ハインリヒはつまらなそうに首を横に振った。
「そんなことはしないよ、ベアトリーチェ。とにかく予想外な珍客がこの場に来てしまったのは、私の不手際だ。決着をつけようじゃないか」
ベアトリーチェがジャケットの内側から拳銃を取り出して構えた。ハインリヒは目を丸くして、それから両腕を広げて肩を竦めた。
「なんだ、殺る気なのは君の方じゃないか」
「殺すわけないでしょ。身動きを封じさせてもらうわ」
「ゲッベルス、頼むよ」
「承知しました」
ゲッベルスが白衣の胸ポケットから注射器を取り出して、ベアトリーチェに近づき始めた。ベアトリーチェが躊躇無く発砲し、破裂音と共にゲッベルスの体が大きく揺れた。ゲッベルスの左太腿には弾痕が刻まれ、赤黒い血が流れ出ていた。ゲッベルスは倒れることなく、俯いていた顔を上げてにたりと笑った。ベルンハルトはゲッベルスの様子に眉根を寄せた。
(あいつ、銃撃された男の反応じゃない)
ゲッベルスがベアトリーチェに向かって一歩進んだ。再び銃声が鳴り響き、ゲッベルスの体が衝撃で大きく揺れた。ベアトリーチェの弾丸はゲッベルスの右膝の上部を貫いていた。ゲッベルスは倒れることなく、俯いていた顔を上げてにやけ面を見せた。ゲッベルスが足を一歩踏み出すと、ベアトリーチェが小さな悲鳴を上げて一歩後ずさった。
「どうして……、まだ動けるの」
「ぎひひひひ」
ゲッベルスの挙動は普通じゃなかった。禿頭の男の黒い瞳は狂気を帯びていて、髭の跡が残る青い口元を歪ませて笑っている。両足を撃たれているのに、まるで痛みを感じていないようだった。耳の上に少しだけ生えて残っている灰色の髪以外はツルツルの頭にも、深い皺が刻まれた広いでこにも、両目の下にぽつぽつとできた黒いしみのある顔にも、汗一つかいていない。涼しげで快適そうに見えた。
「クローニングの技術開発は遥か昔、旧時代の頃から始まり、すぐに現実のものとなった。先進国がクローニングの技術開発を急いだのは、時代背景を知れば当然の帰結だ。医療の発達によって健康寿命は伸びたが、デフレスパイラルによって生産年齢人口比率は減少し、愚かなグローバリストを除けば、経済縮小は避けられなかった。クローニング技術が発達すれば、手足の無い人は自分の腕や足をつけることが可能になり、心臓移植なども他人の心臓を使うのではなく、自分の細胞によってつくられた自分の心臓を使うことができる。遺伝子操作によって、生命の形質が正確に変わることは周知の事実だ。ネズミにクラゲの遺伝子を組み込んで、蛍光色に光るネズミなんてのは初歩的だろう。自然に任せるより、人間が遺伝子を操作することで、より良い生物の形が完成されるのだよ。肉体の不老問題は長き研究開発によって解決された。世界に変革が起きたのは、ハインリヒさんのお陰だ」
ゲッベルスの熱弁に対して、ハインリヒは肩をすくめるだけだった。
「ハインリヒさんは不老に不死をプラスしたんだよ。人間という種族の進化――時代が変わった瞬間だよ。ハインリヒさんは個人を識別する精神のデータ化に成功した。そのデータはいわゆる意思、魂、霊体と呼称されるもので、肉体から取り出し、注入することが可能となっていた。ポジティブシンキングは社員のクローンを生み出し、死体になる手前で対象から精神データを取り出し、新たなクローンの体に注入することで、不老不死を実現化させたのだ」
ゲッベルスが興奮しながらベアトリーチェにもう一歩近づいた。
ハインリヒが薄笑みを浮かべて話し出した。
「自分の体をクローン化し、記憶や経験といった情報を抽出できれば、器と中身の準備は完了する。同一のDNA情報にダウンロードされた魂が組み合わされば、自分の再誕となる。それはすなわち、死なない、つまり永遠の命の実現化だ。ポジティブシンキングは、みんなの夢を叶えてくれるんだよ」
「ぎひひひひ、お前も我々の仲間入りだ」
ゲッベルスが注射器を振り上げて、ベアトリーチェに襲いかかった。撃っても無駄なことを悟り、ベアトリーチェは思わず目をぐっと閉じてしまった。
(何をされるかわからないけど、もうおしまいだわ。軽率だったのは、ハインリヒではなく、私の方だった)
「何の真似だ、お前」
ゲッベルスの悪態が聞こえてきたので、何かと思ってベアトリーチェが目を開くと、目の前に茶色いスーツ姿の男が立っていた。よく見ると、ジョン・カズマのセミナーに参加していた無愛想な男だった。
「どうして?」
「俺にとっては、お前らの言動で証拠は十分だ」
ベルンハルトはゲッベルスの持っていた注射器を切り払った際に振り上げていた破滅の刀を鞘に戻した。それまでポーカーフェイスを気取っていたハインリヒが眉根を寄せて、小さく舌打ちした。
「君は何者だ、何故ここにやってきた」
「末端のディストリビューターまでは把握しきれていないようだな。俺はベルンハルト、新世界救済教会の者だ。お前達とベアトリーチェとのやり取りで、ポジティブシンキングの酷悪な所業はなんとなくわかった」
「教会の人間が、民間企業をどうにかするとでもいうのか、ベルンハルト」
「そうだな、俺達の世界の問題だけなら、俺もでしゃばるつもりはない。だが、お前達は違うだろ、ハインリヒ」
「なるほど、その刀だな。異様なオーラを放つ刀が、異界の存在を探知したわけだ。とうとう敵が現れたか。ゲッベルス、この教会の男は我々の大敵だ。ベアトリーチェと共に、クローン化させてしまえ」
「承知しました」
ハインリヒは部屋の左奥の暗がりへと消えていった。ゲッベルスはベルンハルトを睨みつけ、注射器を再び胸ポケットから取り出した。
「我々の邪魔をする奴は、全員取り込んでやる」
「それで眠らせるかどうにかして、俺達を社員同様の言いなりの奴隷にでもするつもりか。化けの皮が剥がれた時点で、容赦するつもりはない。クローン化によって不老不死となったお前らは、人間じゃなくなり化け物に成り下がった」
「違うぞ、劣性人種。我々は真の優越人種で、人間という種族の超越を目指す変革者だ。かつての邪悪な独裁者とは異なり、我々は劣った人々を絶滅させるのではなく、仲間に引き入れて進化させてあげるんだ。言うなれば、〝世界救済〟だよ。ぎひひひひ」
ゲッベルスの下品で醜悪な嘲笑と、くそくだらないたとえ話にうんざりし、ベルンハルトは大きくため息をついた。
(何より苛つかせるのは、どこかで聞いたような高等人種とやらへの進化の話だな。高等人種だ、優越人種だとやらは、どうしてどいつもこいつも見た目が化け物じみていて、べらべらと持論をまくし立てる高慢なくず野郎ばっかりなんだろうか)
「あんたらは、さぞかし優れた人種なんだろうよ。俺みたいな劣等人種など足元にも及ばない相手なんだから、俺も人外の力を使用しても問題ないだろ」
「何の問題だって?」
ゲッベルスが眉根を顰めた次の瞬間、ゲッベルスの視界が反転し、ベルンハルトを見上げていた。
「何が起こったの!?」
ベアトリーチェが驚倒しているのを反転した姿で見ていたが、ゲッベルスの方こそ何が起きたのかわからなかった。視線を落とすと、部屋の床が見え、視界の端には自分の履いている黒い革靴がある。
「痛覚が無いとしても、ある程度の人間の機能を真似たクローニングだというなら、首を切断されれば間も無く機能は停止するだろう」
「うぐ、ごぼ」
口の奥から込み上げてくるもので、うまく喋れなかった。ベルンハルトを見上げて、ようやく理解した。
(なるほど、あの異界の刀によって、私は首を刎ねられてしまったわけか。痛みも、苦しみも、感じられんな)
どうしようもなく瞼が重くなって、ゲッベルスは目を閉じた。そのまま意識は消失し、ゲッベルスは死亡した。
ベルンハルトは刀を振り払い、腰に括ってある鞘に破滅の刀を納めた。振り返ると、ベアトリーチェが真っ直ぐとこちらを見ていた。どこか睨んでいるようにも見えた。
「一体何者なの、あなた。何をしたの?」
「聞いてなかったのか。俺はベルンハルト、教会の人間だ」
「教会――新世界救済教会が、どうしてポジティブシンキングにやってきたの」
「ポジティブシンキングには怪しげな噂があった。入会することで、不老不死が叶えられ、かつての瞬間転送スペースサーフィンのように移動できる空間転送システムが提供される。そんな嘘みたいな危険なシステムを世の中に広めるわけにはいかない」
ベアトリーチェがうんうんと頷いた。厳しかった表情が少し和らいだ気がした。
「それで、あなたは何をしたの?」
ベアトリーチェが眉根を寄せて、ゲッベルスの死体を指差した。
「見ての通りだ。素早くこいつの首を斬っただけだ」
ベアトリーチェは何も言わなかったが、全てを納得したわけではなかった。
「ベルンハルト、あなたはこれからどうするの?」
「この部屋はコンベンション会場とは別空間にある。コンベンション会場とは、あの灰色の扉で繋がっている。会場には、まだ別空間への出入口があるはずだ」
「そこにハインリヒ、もしくは、別の幹部が潜んでいるわけね」
ベルンハルトは答えずに、ハインリヒが消えていった部屋の奥を探りに向かった。窓や扉は無く、隠し通路と思わしき物も見当たらない。
(なるほど、瞬間転送の真似事か)
ベルンハルトは首を横に振ってため息をついてから、部屋の扉に向かって歩き始めた。ベアトリーチェが呆れて首を横に振り、ベルンハルトの後に続いた。
「私も一緒に行くわ」
何も言わないベルンハルトに、ベアトリーチェはため息をついた。
「せっかく助けてくれたのに、あなたそんなに無愛想だと、損するわ。プラマイゼロで、善行が台無しよ」




