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白銀の代償と漆黒の選択

「おい、起きろ。起きるんだ、カタリス」

 鬼神カタリスは遠くから聞こえる男の声と、かすかに感じる身体の揺れによって意識を取り戻した。目を開けると、目の前に実際に会ったことはないが、知った顔がいくつかあった。それまで揺さぶられていた身体を意識すると、全身に鈍い痛みが走って、カタリスは犬の顔で眉根を寄せた。カタリスは上体を起こし、目の前に立つ者達を確認した。

(勇者アクト・リーメルに、創造神セラフィム・アダム・カドモン、元創造神ロリアン・フェザー・クウィントゥス。縦次元の四界と横次元の三界の中でも、トップレベルの実力者達が駆けつけてくれるとは、さすが賢者リヴラ・ジヴァニトゥムの仲間といったところか)

 カタリスは口の中に溜まっていた血の塊をぺっと吐き出し、何とか立ち上がった。

「一体、何が起きたんだ?」

「聞きたいのはこっちの方だよ、カタリス。君達に何が起きたんだ?」

 アクトが眉を顰めて、カタリスの背後に視線を向けた。カタリスが振り返ると、イライとアケショナルが地面に仰向けに寝ていた。イライは意識を失う前に見たままで、頭部の出血は止まっていて気を失っているようだ。死んではいない。しかし、もう一人は……。

「何だ……これは……?」

 カタリスの愕然とした声に、セラフィムが応じた。

「やっぱり、君もよく見てはいなかったんだね。僕らがこの場に空間移動してやってきた時、君とイライは気絶していて、アケショナルが一人で鬼神と闘っていた。僕らが来たことで、結果的に領域統治者の鬼神達は姿を消したけど、戦闘が終了するとアケショナルは〝こう〟なってしまった」

 アケショナルの周囲に白銀に煌めく霧のようなものが発生していた。その白銀霧はオーラとは異質なものというのはわかったが、何なのかはわからなかった。アケショナルの全身を覆っていて、体表から2cmほどで形を保っている。アケショナルは全身傷だらけで、異常だったのは顔や腕、足などの肌が露出している部分だった。見ると、げっそりと痩せこけてしまっていた。アケショナルの顔を凝視すると、頬や額、口周りには深い皺が刻まれ、ボサボサになってしまったショートカットの黒髪はまばらに生え始めた白髪のせいで灰色に見えた。主観時間で多くの時を費やし老化したかの如く、激しい風雨に晒されてしまったかのように、凛々しく美しかったアケショナルの面影は跡形もなく消えていた。

 カタリスは自分の判断が本当に正しかったのか後悔していた。

(三獄〈デルタ〉――ひいては全ての世界を救う為とはいえ、アケショナルがこんなことになってしまうなんて……)

「セラフィム、見ていたんだろ。アケショナルは何でこうなってしまったんだ」

 ロリアンがセラフィムの肩に手を置いて、カタリスを見据えた。

「私が話すわ。アケショナルのこの現象に、思い当たる節があるから」

「えっ!?」

 アクトとセラフィムは驚いて声を上げた。

「まずは応急処置だけ。私にできるのはここまで。あとはオデュにお願いしないと」

 そう言って、ロリアンはアケショナルとイライに灰色の保護膜を展開させた。アケショナルとイライが灰色のオーラに包まれた。

「アケショナルを取り巻く白銀の霧――私も直接見たわけではないけど、おそらく聞いていたのはこのことだと思う」

「ロリアン、話を聞いたというのは、ティラのことだね」

「そうよ、セラフィム。ティラから聞いた話では、この現象はアケショナルの〈想いの力〉よ」

「アケショナルをこんな姿にしたのが〈想いの力〉だなんて」

「アクト、ティラの見間違いでなければ、アケショナルがこの状態になった際、白銀の書が出現したそうよ。それで、ティラは〈想いの力〉だと思ったのよ」

「そうですね、ティラの話が本当ならば、アケショナルの〈想いの力〉が発現したということ。〈想いの力〉に覚醒した時、〈想いの力〉を限界まで引き出した時、もしくは〈想いの力〉に新たな力が宿る時、白銀の書、もしくは漆黒の書が出現しますからね」

「アケショナルの〈想いの力〉は自らの血液を代償にして、何らかの力を得る能力のようね。というのも、保護膜を展開する際にオーラによって白銀の霧の分析をしてみたら、霧の正体は彼女自身の血だったわ」

「血を代償にした限界突破か。能力は直接的な攻撃力向上ではなく、特殊な状況を形成するタイプだろうね。それまで手も足も出なかったであろう相手を一人で圧倒していたから」

「俺達が相手をしていた領域統治者クラスの組み合わせは、正直最悪だった。あのパターンに持ち込まれたら、攻略するのはかなり厳しい。俺もリヴラもアケショナルもイライも、どうしようもなかった。それを一人で崩してしまうなんて、一体どんな能力だったんだ。アケショナルの〈想いの力〉は……」

「けど、代償は大きかった。本来はそんなに長時間発動するのではなく、瞬間的に力を発揮させて敵を倒す性質の能力だったのだろう。相手が複数で更に強敵だった為、敵を倒しきれず〈想いの力〉の発動時間が長くなってしまい、結果アケショナルの体は大きな損傷を受けてしまった」

「どうにかできないのか?」

 カタリスはアケショナルを見つめたまま問いかけた。

「わからない。今はロリアンの力で応急処置をしているけど、それは治すのではなくて、進行を緩やかにしているだけ。アケショナルだけでなく、イライもこのまま放って置いたら取り返しのつかないことになってしまう。一度リメド・エイデンの元に帰って、二人の容態を診てもらわないと。もしかしたら、オデュが何か解決法を知っているかもしれない」

「わかった。頼む、セラフィム」

 セラフィムは空間移動を発動させ、その場の全員を天獄へと連れていった。





 アケショナルの視界の先で、リヴラの姿がその場から忽然と消えた。その後、アルフンがカタリスを殴りつけていた。

(リヴラの消え方は空間移動ではなかった。たぶん、カタリスが何かをやったんだ、この局面を打開する為に。私は灰色の地面に這いつくばって、一体何をしている。こんなことをするために、死の淵から蘇り、時空を超えて、異界にまでやってきたんじゃないはずだ)

 アケショナルを包んでいた白銀のオーラが消失し、白銀色に染まっていたアケショナルの髪が元通りの黒に戻った。俯けに横たわるアケショナルの顔の近くに、白銀のオーラに包まれた白銀の書が出現し、ぱらぱらとページが捲られた。アケショナルの〈想いの力〉機械仕掛けの女神が発動した。アケショナルの全身から白銀の霧が噴き出し、アケショナルの周囲に浮遊した。アケショナルの姿がその場から掻き消え、シンブクは驚いて周囲を見回し、ファルドルの方を向いて声を張り上げた。

「アケショナルの姿が消えた。一体何が起きている、ファルドル」

「わからない……。アケショナルの姿が、今もこの先にも見当たらない」

 ファルドルは呆然とした。アケショナルは見当たらないが、アケショナルが逃走したのではないとはわかる。ファルドルには数瞬間先の自分達が攻撃される結果だけが見えていた。

 タブリスは腹部に強烈な衝撃を受け、仰向けに倒れ込んでしまった。タブリスのルーラー・インテンション・エクシが解除され、アケショナルを閉じ込めていた障壁が崩壊した。気絶して倒れ込むタブリスのすぐ横に、まるで先刻からそこにいたかのようにアケショナルが佇んでいた。シンブクが凄まじい早さでアケショナルの背後に近づき、審剣を振り下ろした。アケショナルの姿がその場から掻き消えた。空振りした審剣を再び振り上げるより早く、シンブクの後頭部が何かによって殴りつけられて、シンブクは俯けに倒れ込んでしまった。ハハブのエレガント・ライフ・ドデカが発動し、シンブクとタブリスが灰色のオーラに包まれた。満腹感とともに気絶していた二柱の鬼神が立ち上がった時、男の悲鳴が上がった。

「ぎゃあ!」

 ハハブが気絶して俯けに倒れ込んでしまった。ハハブの近くにはアケショナルが立っていたが、すぐにアケショナルの姿はぱっと消失してしまった。

 ファルドルは一部始終を見逃さないように観察していた。

(どんなに集中しても、何度繰り返しても、ピース・フォーキャスト・エンデカによる未来視の中にアケショナルの姿は無い。予見したイメージの中にアケショナルが存在しなくても、目の前には実在している。何が起こっているのだ。アケショナルを取り巻いている白銀の霧の発生が引き金のようだが、この状況は彼女の能力の正体を示唆している)

 ファルドルは気絶するハハブに近づいた。アルフンが先にやってきていて、しゃがみ込んでハハブの状態を確認したが、首を振っていた。

(これで治癒役が脱落してしまい、我々の攻撃パターンは崩れてしまった)

 アルフンが立ち上がり、アケショナルの姿を探した。

「ファルドル、今もお前には見えていないんだろ? つまり、アケショナルのこの動きは、速さではないというわけか」

「その通りだ、アルフン。速度の話であるなら、この場に存在する限り、切り取られた未来の1コマに姿が映るはずだ。どんなに速く動いたとしても、例えば時空を操作して時を止めたとしても、未来から消失することは不可能。アケショナルはこの場に存在しないことになっている。では、眼前に現れるアケショナルは何なのか。これは縦世界の四界によって説明できるだろう」

 ファルドルの目の前で、アルフンが何かに吹っ飛ばされ、数メートル先の地面に仰向けに横たわった。

 アルフンはフィアス・オルトルイズム・オクトの応用で、全身に灰色のオーラを纏っていた。全身のオーラは両拳に纏うものと性質が異なり、触れたものを感知する能力のみだっだが、感知能力のおかげで直撃の一瞬前に敵の攻撃を察知できた。アルフンが手をついて片膝立ちすると、手にべったりと灰色の血がついた。右腹部が斬り裂かれ出血していて、傷口と後頭部がずきずきと痛む。

 目の前にアケショナルが忽然と姿を現した。

(保護膜の展開で何とか致命傷は避けられたが、力の消耗が激しくて次の攻撃は避けられないかもしれない。まさか、こんな事態になるとはな。ファルドルの言う通り、これは移動の類ではない。まるでアケショナルは最初からその場に立っていて、姿が見えていないだけだったかのようだ。だからといって、対象の透明化や不可視化だと言うなら、ファルドルの予見から逃れられはしないはずだ)

 シンブクがアケショナルの背後に近づき、審剣を横薙ぎにした。アケショナルの姿がぱっと消えて剣は空振りし、同じ場所にアケショナルが再度姿を見せた。アケショナルはその場で微動だもしない。

(んっ? どうして俺やシンブクに追撃を放ってこないんだ)

 何かがおかしい気がして、アルフンが見上げると、アケショナルの姿が変貌していた。アケショナルの黒髪は白いものが混じって灰色のグラデーションと化し、ひたいや口の周りには皺が寄っていた。アルフンは一瞬呆然としてしまったが、すぐに鳩の口でにやりと笑った。

「おい、ファルドル。どうやら、時間切れみたいだぞ」

「アケショナルの次元を超える力は、制限付きの能力だったようだ。すでにアケショナルが地にひれ伏すビジョンは見えている」

 ファルドルの勝利宣言を耳にして、アルフンとシンブクが立ち尽くすアケショナルに襲いかかろうとした時、鬼神達の顔の横付近の空中に手の平大の小さな穴が出現した。

「目的は達した。今すぐ、万鬼殿に戻ってきてくれ」

 サリルスの帰還命令にアルフンは舌打ちした。そのとき、その場に三人の者達が空間移動で姿を現した。

(どうやらリヴラ達の仲間が駆けつけたらしい)

 アルフンがファルドルと目配せを交わすと、ファルドルがやれやれと首を振った。

「わかった、サリルス。今、万鬼殿へ戻る」

 ファルドルはハハブを連れて空間移動を展開し、五柱の鬼神達の姿はその場から消失した。

 その場にやってきたセラフィム達は、急いでアケショナルの元に駆けつけた。何が起きたのか定かではないが、鬼神達との戦闘によって、アケショナルに大きな損失が起きてしまったのは明らかだった。アケショナルの意識は無く、ゆっくりと俯けに倒れこもうとしていたのをロリアンが抱きしめて支えた。

 セラフィムとアクトは遠くに倒れていたイライとカタリスをアケショナルの近くに横たわらせ、ロリアンが三人に簡易的な治療を施した。

 すぐ移動も出来たが、万神殿での混乱を避ける為、この場である程度の状況把握が必要だった。





 鬼神サリルスが領域統治者達を呼び戻すと、万鬼殿のサリルスの部屋の扉がノックされ、ファルドルとアルフンとシンブクとタブリスとハハブがやってきた。ハハブはファルドルに支えられていた。

「お前達には珍しい手痛い戦闘だったな、ファルドル」

「アケショナルの〈想いの力〉は異常だった。我々の能力範囲圏外からの攻撃は、とてつもない脅威だよ」

「アケショナルは既に時間切れだったが、ハハブが倒れた時点で俺達の敗色は濃厚だった」

「まるで敗走してきたかのように落ち込んでいるが、結果的に損失を被ったのはリヴラ達の方だけだ、アルフン。ハハブは治療を施せば良くなるだろうし、お前の傷も休めばすぐに癒えるだろ」

 アルフンは鳩の顔を傾けて、肩をすくめた。

「さすが、万鬼殿最上級クラスの戦力。要望を完璧にこなしてくれたよ」

「サリルス、最初はあなたの話を疑っていたが、闘って思い知ったよ。何故、低俗な人間種族一人の為に我々が動かなければならなかったのか、意味がわからなかった。人が有する能力なんて大したことないが、アケショナルは特異点だった」

「そうだな、早い段階でリタイアさせといてよかった。腹立たしいことに、低レベルな種族の中にも突然変異という奴は生まれるらしい。次は冥獄に行くつもりだ。次の戦いに備えておいてくれ」

 サリルスがそう言うと、ファルドル達は部屋を出て、そこから空間移動を発動させて姿を消した。

 サリルスは五柱の鬼神が完全に遠のいたのを確認してから、くつくつと笑った。

(統治者達は不満そうだったが、目的は達成されたのだから十分だ)

 サリルスはとても満足していた。

(統治者達の肩を叩いて、よくやってくれたと激励し、両手を上げてやったぞと叫びたいところだったが、そんなキャラでは無いだろう。まあ、実際は真の目的の為の手段に過ぎないのだから目的達成はこれからなんだが、この手段以外の作戦完遂の可能性は限りなく低かった。いやあ、それにしても愚昧で笑える。鬼神ども、いや、三獄の住民どもが持っている基準なんてのは間違いだらけだ。アケショナルが人間の中で唯一の特異点だとでも思っているのか。おめでたい奴らだ。コミュニティの優劣など無意味な幻想に過ぎない。所属団体と同様に、人種、年齢、性別、地位も関係ない。統計的有意性など適用外の領域だ。凄まじい個人はどこにでも存在する。そこに法則など無い。低俗な種族に強力な能力者が多く存在する時もあれば、高尚な種族に強力な能力者が一人も存在しない時もある。上級クラスの者達の多くは、RPG的人間観によって認知バイアスを起こしている。その高慢な愚かさには、吐き気のする嫌悪感しか覚えない)

 サリルスは眉を顰めたが、すぐににやりと笑った。

(それにしても、笑いが止まらない。計画通りの堕天とも形容できよう覚醒が起きたら、次は冥獄の番だ)

「待っていろ、悪魔ども。ふははははははっ」

 サリルスの哄笑が室内に響き渡った。





 マストが目を開けると、見たことのない光景が目の前に広がった。白く湾曲した天井に飾られた色彩豊かなステンドグラスを通して、白い光が差し込み室内を照らしている。

(確か、僕はセクンダデイ・サマエルと戦闘中だったはず)

 激痛のトラウマが蘇り、マストは全身を震わせた。慎重に腕を少し動かしてみたが、痛みは無い。サマエルの火針のダメージは癒えたようだ。床に仰向けに寝ていたので、上体を起こすと目の前に見覚えのある老人が立っていた。

「目覚めたか、鬼神マスト」

「あなたは、道化師オデュ」

 マストは片膝をついてからゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。その部屋には知らない者達が何人もいて、種族もばらばらだった。マストは目を見開き、オデュの背後の壁際に鎮座する存在を睥睨した。

「リメド・エイデンッ!」

 マストは歯を食いしばり、眉根を寄せて天獄の統治者を見据えた。

(こいつのせいで、僕は縛られている。こいつさえいなければ、僕は覚醒できるはずなんだ)

 マストが足を一歩踏み出すと、オデュがマストの両肩を優しく掴んだ。

「やめておけ、マスト。お前の体は治療されたばかりだ」

「僕が何をしようとしてるかわかるのか、道化師」

 オデュはため息をついて、話の方向を逸らしにかかった。

「リメド・エイデンを倒したからといって、お前に何のメリットがあると言うんだね。むしろ、それはお前ではない他の誰かにとっての利点で、お前にとってはデメリットしかないかもしれない」

「お前に何がわかる」

 聞き分けのないひよっこに心中で嘆息しつつ、オデュは更に話の論点をスライドさせた。

「そこまでいうなら、リメド・エイデンがお前に何かをしたとしよう。リメド・エイデンが倒されると、お前に何が起こるというのだね」

「それはな……」

 マストには答えられなかった。眉を顰めて何かを思い出そうとしても、言葉が出てこない。

(大事なことだというのはわかるのに、何かを失ってしまったというのはわかるのに、灰色の靄がかかったようにその部分の記憶を見返すことができない。こんなに重要なことを忘れられるなんて、あり得るのか。僕は一体どうしてしまったんだ。それとも、全ては妄想だとでもいうのか)

 マストは何だか混乱してきて、自分が分裂してしまい、思い返そうとしているのは別の誰かの体験のように思えてきた。

「……お前には、関係ない」

(ちくしょう。とにかくリメド・エイデンが倒れれば、全てが明らかになるんだ。でも、今の僕ではどうしようも出来ない)

 苛々して、リメド・エイデンとオデュから目を逸らし、マストはふと背後を振り返ってみた。部屋の扉のすぐ横の壁際に、一人の天使が凭れかかって立っていた。見覚えのない天使だったが、天使の腰に黒い布で括り付けられた一振りの剣には見覚えがあった。

(あの剣は、魔剣だ! いつ見たのかは記憶に無いが、確かに魔剣だというのはわかった)

 マストは天使の方へ歩いて近づいていった。

 レミエルは起き上がったマストが自分の方へ近づいてくるのを見て、嫌そうに顔をしかめた。

「その剣は魔剣だな」

「………」

 レミエルが無視していると、マストが舌打ちして声を荒らげた。

「魔剣は天使を斬り裂き、天獄の統治者を滅ぼすという。お前のような下級天使には不相応だ」

「それなら、お前には相応しいというのか。鬼神の分際で」

 レミエルは黒くくすんだ魔剣の柄を手に取り、鞘から剣を抜き払った。黒く艶やかな刀身が露わになると、魔剣が漆黒のオーラに覆われ、レミエルもゆらゆらと揺らめく魔剣のオーラに覆われた。レミエルがマスト目掛けて魔剣を振り下ろした。マストは灰色のオーラを纏った腕を交差させて魔剣を受け止めた。かつんという軽い衝撃音が鳴って、魔剣は勢いを失ってしまった。マストはにやりと笑って、魔剣の刀身を掴み、レミエルから魔剣を奪い取った。

「やはり、魔剣は天使以外には無力だな。この魔剣で、リメド・エイデンを……」

 マストが魔剣を振り上げてリメド・エイデンの方を振り返ろうとすると、魔剣が放つ漆黒のオーラが瞬く間に消えてしまった。

「なっ、重っ」

 右手で握っていた魔剣がとてつもなく重く感じられて、両手で何とか支えようとするも、耐えられなくなってマストは魔剣を床に落としてしまった。さっきまで漆黒のオーラに覆われ、刀身が煌めいていた魔剣だったが、地面に落ちた魔剣は光を失い、まるで埃まみれになってしまったかのように汚れて見えた。

「魔剣は聖剣と同様で、適格者でないと、その光を失する」

 マストは嘲笑うレミエルを睨みつけた。床に落ちた魔剣の柄を掴んで力を込めるが、どうしても持ち上がらない。レミエルはマストを蹴り飛ばし、しゃがんで魔剣を取り上げた。魔剣は羽根のように軽く、レミエルが手にした途端に命を吹き返したかのように光を放ち出し、刀身は黒く艶やかになり、漆黒のオーラに魔剣が覆われた。

「鬼神には過ぎた道具だ」

 マストは口の中に溜まった血をぺっと吐き出し、復体命アナザーワンセルフを発動させた。

(くそっ! 魔剣が適格者に縛られるというなら、あのいけ好かない天使を滅ぼし、僕が取って代わってやる)

 オデュは首を振って、深いため息をつきながらマストとレミエルの方に近づいていった。

「二人とも、そこらへんにしておけ。ここにお前らを連れてきたのは、争わせる為ではない。別にもっと大事な目的があるからだ」

「私はそんなことをお前に頼んだ覚えはない」

 レミエルはふんと鼻を鳴らし、魔剣を鞘に戻した。

「僕自身の目的以外に、大事なものなど何も無い」

 マストが舌打ちしてオデュを睨みつけた時、その場に何者かが空間移動して姿を現した。出現したのは六人で、知らない顔の中に一人見知った顔があるのに驚いた。なぜか、カタリスがそのグループ内にいた。

(一体、カタリスは何をしているんだ)



 空間移動してやってきたセラフィム達にオデュとリヴラが駆け寄った。ロリアンが何か言うより早く、オデュは負傷者の治癒に取り掛かった。

「クラスチェンジ・治療師」

 アケショナルの状態が酷過ぎて、オデュの額に汗が吹き出た。オデュはしゃがんでアケショナルに片手を翳し、もう片方の手はカタリスとイライに向けて治癒を施し、すぐに手を戻して両手でアケショナルの治療に専念した。

 リヴラは気を失ったアケショナルとイライを見て、愕然とした。アクトを見ると、アクトはリヴラから目を逸らした。ロリアンを見ると、悲しそうに顔を伏せていてリヴラの視線には気づかない。セラフィムを見ると、目を瞑り首を振った。縋るようにカタリスに目を向けると、カタリスはリヴラの肩に優しく手を置いた。

「リヴラ、責められるとするなら、俺だ。俺の判断がこの結果を招いてしまった」

 後悔で落ち込むリヴラの視線がカタリスの背後に移った。カタリスが振り返ると、そこにはティラが立っていた。ティラは無表情にアケショナルを見下ろしていた。

「アケショナルに何があったんですか、セラフィム。どういうことですか、アクトさん。何か言ってください」

 誰も何も言わなかった。誰もが、誰かが説明するのを待っていた。ティラにはそんなのは待てなかった。ティラは青い瞳でリヴラをきっと睨んだ。

「リヴラ、どうして何も言ってくれなかったんだ」

「すまなかった、ティラ。本当にすまない」

「謝罪はいらないから、質問に答えてくれ。アケショナルが三獄〈デルタ〉にいるのを、どうして教えてくれなかったんだ」

「やめるんだ、ティラ」

 オデュは治癒の継続を施したまま立ち上がり、ティラの肩に手を置いた。ティラはオデュの方を向いて、睨みつけた。

「僕に、触るな」

 オデュは手を離し、後ずさった。ティラの全身がゆらゆらと揺らめく漆黒のオーラに覆われた。ティラの左肩の上に、漆黒の書が出現した。ぱらぱらとページが捲られて、漆黒の光が閃いた。ティラの〈想いの力〉愛憎のアンビバレンスが発動した。ティラが烱々たる眼で、その場の全員を睨め回した。ティラの褐色の髪と青い瞳は漆黒に染まり、吹き出る漆黒のオーラによって目の下と手の甲に漆黒の紋様が刻まれた。目の下の紋様はまるで黒い涙を流しているかのように、頬を伝うギザギザのラインが刻印され、手の甲には人差し指から小指までの指の付け根部分の間から一本ずつ、三本の長い爪のような両端が尖ったラインが刻印されていた。

 アクトがティラ目掛けて飛び上がり、既に振り上げていた白銀剣を思い切り振り下ろした。ティラの両手から鋭いオーラが飛び出して、アクトの白銀剣と激突した。白銀剣を受け止めていたのは、白銀のオーラだった。ティラの手の甲部分から、爪状のオーラが三本出現していた。爪状のオーラは手の甲の刻印部分から腕に沿う形でそれぞれ伸びていて、肩に達するほどの長さだった。右手の三本は漆黒のオーラで、左手の三本は白銀のオーラで形成されていた。漆黒のオーラで全身を覆われていながら、煌めく白銀のオーラを左手に宿すティラの姿は異様で、アクトは思わず後ずさりしそうになったが、首を振って踏みとどまった。ティラが漆黒の爪をアクト目掛けて振り下ろした。アクトは後方に飛んで避け、凄まじい早さでティラの背後に回り込み、既に振りかぶっていた白銀剣を振り下ろした。ティラが半身を捻って、白銀剣を白銀爪で受け止めた。がきんと大きな金属音が鳴り響いた。ティラの漆黒爪がアクトに振り下ろされた。アクトは保護膜を展開し後方に跳躍した。

「うぐっ」

 漆黒爪が保護膜を突き破り、アクトの両足を切り裂いた。片膝をついて着地したアクトの目の前で、ティラが漆黒爪を振り上げた。爪を振り下ろすよりも早く自分に迫ってくる四方からの攻撃を、ティラは視界の端で捉えた。原形界アツィルトの力を覚醒させて獣に変貌したセラフィムが、鋭い爪で構えていた。魔剣士にクラスチェンジしたオデュが、水鷲剣を振りかぶっていた。全身を灰色のオーラに包まれたロリアンが、手刀で横薙ぎにしようとしていた。リヴラが重層の衝撃シュヴァルツを展開し、エネルギーを集中させて巨大化した右手を突き出していた。ティラの両目がカッと見開かれ、漆黒の閃光を発した。ティラの姿が掻き消えて、全ての攻撃が空を切った。ティラは四人の包囲から逃れ、少し離れた場所に移動していた。不気味な沈黙を湛えて佇んでいる。アクトが白銀剣を構えたままティラに数歩近づいた。

「ティラ、漆黒に染まっては駄目だ」

「まるで、あらゆる悪や負の部分の元凶が、漆黒の側にのみ存在する、とでも言いたげですね」

「諦めるな、ティラ。アケショナルを救う方法はあるはずだ」

 アクトの眼前からティラが忽然と消えた。アクトの〈想いの力〉パスト・テンスが発動した。アクトの感覚が研ぎ澄まされ、凄まじい早さでアクトは白銀剣を背後に向けて振り払った。がきんという金属音が響き渡り、白銀剣と三本の漆黒爪とが激突した。

「あなたが、アケショナルを語るな」

「ティラ……。アケショナルと共に闘い、〈混沌〉の子とその眷属エノキアンとも対峙してきた君ならわかるはずだ。囚われてはダメだ」

「………」

「君のその力は、時間を司るものだね。それに加えて、右手の漆黒の三爪が攻撃となる矛となり、左手の白銀の三爪が防御となる盾の役割を担っているようだ。しかし、君がかつて〈混沌〉の子と対峙した際とは異なり、白銀剣と漆黒剣は君に委ねられてはいない。それは選ばれていないということの証だ。ティラ、望まれていない力を認めることはできない」

「やはり……。〝あなた達〟は、あらゆることを白銀のサイドからしか見ることができず、そして、〝そこ〟からしか考えられないのですね。白銀の陣営に所属したとしても、不幸なことは頻発する。漆黒の陣営に所属しているからといって、憎悪と絶望に囚われ続けることなどない。立場と価値観が異なれば、対象の評価も同様に異なる。属する世界が違えば、住まう国が別だったら、今とは異なる時代だったなら、何が正義で、何が悪かは変わってくる。善と悪の基点は如何様にも反転する。僕はもう、一つの事柄に縛られて、更に雁字搦めにされるのは嫌だ」

 ティラの背後に、空間の裂け目が生じた。ティラ以外のその場の全員が、目を見開いて愕然とした。

(この気配は、あいつだ!)

 ぎざぎざの裂け目が開き、暗闇の奥から姿を現したのは黒リヴラだった。

「ティラ・マスカル、いや、黒ティラ。お前も俺と同じだ」

 黒リヴラ目掛けて、セラフィムとロリアンとアクトとオデュとリヴラとカタリスが六方向から飛びかかった。彼等の眼前からティラと黒リヴラが掻き消えた。と同時に、何かに切り裂かれたかのような衝撃が六人を床に叩きつけた。

「さあ、こっちに来い」

 ティラの耳元で、黒リヴラが囁いた。ティラは黒リヴラなどと一緒に行くつもりはなかった。老化してしまったかのように変貌してしまった横たわるアケショナルを一瞥すると、これまでの想いとは裏腹に、黒リヴラの言葉を素直に聞き入れている自分がいた。自分を取り巻く様々な存在――勇者や王族、王家に仕える高貴な人々、民衆から尊敬される偉人、伝説的種族、かつての英雄、神々と悪魔、愛する人、何もかもから逃れたかった。

「じゃあ、行こう、黒リヴラ。でも、僕は君に従属するつもりはない」

「俺は誰だろうと従属させるつもりはない。凄まじい個人は誰だろうと歓迎する。さあ、行こう」

 ティラと黒リヴラが黒い裂け目の奥へ姿を消すと、空間の裂け目は消失してしまった。

 俯けに倒れ込んでいたアクトは顔を上げて、歯を食いしばった。

(こんなことが再現されてしまうなんて)

 かつて、ジョーカと化したフィートとエノキアンが、眼前から消失してしまったのが思い出された。アクトは立ち上がり、リメド・エイデンの近くまで歩いて行った。その場の全員がリメド・エイデンの元に集まると、アクトは口火を切った。

「どうして、黒リヴラはこの場に侵入可能だったのですか?」

「それは黒リヴラの能力に起因している。本来なら、この万神殿のリメド・エイデンの部屋は、許容されているもの以外は侵入不可のプライベートフィールドとされている。黒リヴラの展開する空間の裂け目は、何かしらの条件による強制力があるらしい。ティラが漆黒の力に堕ちてしまったことで、黒リヴラをこの場所に導いてしまったんだろう」

 オデュの説明はアクトの予想の範囲内だった。過ぎてしまったことはどうしようもないが、果たして防げなかったのだろうか。

「ティラが去ってしまったのは、私のせいだ。みんな、本当に申し訳ない」

 リヴラが深く頭を下げて、十秒ほどそのままで、それから顔を上げた。アクトと同等以上の自責の念に苛まれていたリヴラの頭の中では、これまでのティラに対する選択のどれが間違っていたのかという自問が駆け巡っていた。先刻のティラの姿がフェードインしてきて、その相貌に改めて衝撃を受けた。頬部分のギザギザの刻印と両手甲に出現した爪状の刻印が、何故かレイチェルを彷彿とさせた。

(レイチェル……愚かな自分の犠牲となってしまった、唯一無二の最愛なる女性。後悔したところで、自分は許されてはならない。彼女こそ、世界にとって必要で、誰からも愛され、後世に語り継がれるような偉人になるはずだった。黒リヴラ――あの愚昧な分身は好き放題に振舞っている。かけがえのないレイチェルの消失を引き起こしてしまった私の行動は、本当に無駄で無益で、この世に何も生み出さない。はあ、それどころか、害悪しか生まない行為だ)

 レイチェルの家系では優秀な刻印師が世襲し、刻印を利用した魔術の普及に貢献している。刻印の技術は帝国シアルルの時代に構築され、刻印開発以後、魔術が急速に普及していった。シアルルの初代刻印師がレイチェルで、その後代々、刻印師の職業と共に名前も継承し続けている。レイチェルの祖先である、初代レイチェルが言うには、刻印開発以前は、才能のある者が形成界イェツィラーを認識できるようになって、そこから任意のエネルギーを特定できるようになり、その特定したエネルギーを物質界アッシャーに取り出し、適切な形で物質化することが出来ると、一定の効果がある現象となって発動する。この一連の流れが早く綺麗に出来ることと、形成界にアクセスすることで消費する精神エネルギーを十分に保有していることが、魔術師として成立するか否かだった。刻印は、前述した一連をスルーさせ、詠唱をトリガーにするのみで任意の効果の現象を発動可能にさせている。必須条件の一つを刻印によってクリアしたことで、魔術獲得の裾野が広くなり、刻印の技術も比例して広まっていった。人の表皮、多くの場合、手の甲に紋様は刻まれ、それは魔術が込められた刻印師の血がインクとなっていた。この技術を、初代レイチェルは旧異種族の文献を参考に開発したという。ダークエルフの一人が生み出した刻印は、魔力を込めたシンボルによって、一定の効果を定位置に固定し、条件によって任意の効果を発動するといったもので、高レベルのシンボルの中には、精神力の消費を伴わない、それこそ魔術師ではなくても発動可能な類のものもあり、利用価値は多岐に渡ると思われるが、これは一種のフィクションで、というのも、固有スキルでもない限り、汎用的な魔術でそんな技術は一度も見られたことがないからだが、それでも初代レイチェルはこのダークエルフの記述から発想を得て、刻印による彩色魔術の発動に成功した。他者に刻印を施す術は、刻印師による一種の魔術であって、その極意は歴代レイチェルが継承し、他の刻印師の追随を許さなかった。

(単純な魔術の力に耽溺し、四界のバランス崩壊を招きかけた愚劣な自分と比べて、レイチェルはどれだけ素晴らしい人物だったか。チッ、くそっ。レイチェルのことも、ティラのことも、お前はいつも過ちばかりだな)

 カタリスがリヴラの隣にやってきて、首を横に振った。

「リヴラを責めるのはやめてくれ。責任は俺にある。俺の勝手な判断で、アケショナルを危機に晒してしまった」

 誰も責める気などなかった。アケショナルの力と敵対した煉獄領域統治者達の力を知ったことで、各行動の是非はわからなかったからだ。

「お前達は何も悪くない。提出された選択肢の中から、各人が最良を選択しただろうから。私には今の現状が予測可能でありながら、積極的な回避を選ばなかった。責任問題の話をするなら、私のせいだ」

 リメド・エイデンはゆっくりと語ったあとに深いため息をついた。オデュはリヴラの肩をぽんと叩いてから、開口した。

「理由があったのだろう、リメド・エイデン」

「ああ、理由があったからといって、許されるわけではない。はじめから、ティラの問題を解決してやれば、こんなことにはならなかったのだよ。しかし、ティラが望んでいた因果の刀について語ることはできなかった。情報漏洩回避の為、因果の刀に関してティラが知ってしまったら、ティラを天獄から出すわけにはいかなかった。ただでさえアケショナルとの再会の為に奔走していた上、解決の糸口を見出したティラなら、いち早く探索を終えようとするだろうね。そうした場合、ティラを束縛しなければならなかったし、ティラが足掻くほど因果の刀から遠のくことになる。ティラを説得しようとしても、その説明の時点でタブーに触れてしまう為、説明も出来ずに断ることしか出来なかった。強さには様々な種類があるが、知られていないということが最も重要で強力な場合がある。因果の刀は、まさにそれだった」

 話し終えたリメド・エイデンに対してオデュが何も言わないので、アクトが口を開いた。

「リメド・エイデン、今後どのような対処を考えていますか?」

「まずは、アケショナルを生かす為にニティブスが必要だ。因果の刀が覚醒したなら、アケショナルを回復可能な状態に戻そう」

 アクトは頷いた。

(良かった、まだ解決方法はあるみたいだ)

「では、ニティブスのもとに向かいましょう。確か、彼女はエクスと一緒に行動していましたね」





 突然エクス達の前に現れた何者かは、暗黒の世界にぽつんとできた白い染みのようだった。真っ白なシルエットが浮かび上がり、異様なほど目立っている。少しずつエクスの方に近づいてきて、姿が鮮明になってくる。エクスは眉根を寄せて凝視し、すぐに目を見開いて相手の正体を察し、それから剣呑な笑みを浮かべた。

 白い異邦人が立ち止まった。

「初めまして、異界の皆さん。私は悪魔ではない。長耳兎族の長で、アンデルという者だ。聞いたことないかね。もはや、失われた世界の絶滅したはずの種族――ロストトライブスだからな。本当の意味での、真正なる旧異種族と言えようか」

「お前がラメド・アンデルか」

 エクスはラメド・アンデルの胸の膨らみを見て取った。

「冥獄の支配者が女だったとは」

「偏見に満ちた発言だね、皇子。そんな因習的な文化とは、帝国シアルルも底が知れているな」

 ラメド・アンデルが面白そうにくつくつと笑った。ラメド・アンデルは漆黒の世界で異様な姿をしていた。全身白づくめで、頭部には奇妙なものが生えていた。ラメド・アンデルの頭は頭髪の代わりに大きくて長い兎の耳がついていた。耳は背中にまで垂れていて、腰の辺りまで伸びていた。光沢のある真っ白な肌をしていて、体毛はなく滑らかだった。着ている服は白いシルクの艶やかなスーツで、白い革靴には埃一つついていない。唯一白に染まっていないのは、怪しい光を放つラメド・アンデルの赤黒い瞳だった。

「本来なら姿を見せるつもりはなかったんだ。けど、どうしてもボティスが心配になってね。星の鬼神ニティブスの力か、興味深いね。こんな力を秘めていたとは、実に用心深い鷹だったな。この力になら黒リヴラも強い興味を示すだろうが、黒リヴラがこの能力を獲得するのは許容しかねる。これほどまでに絶対的な法則を強制する鋭い爪を黒リヴラに渡してしまうのは、ぞっとしないな。それに、ボティスをここで失うわけにはいかないか。にしても、ボティスはヒエラルキーの底辺からよく頑張っていたのに、残念だ。悪魔王ボティスの称号も様になっていると思わないか。五大魔王というアップデートも検討していただけに、実に落胆しているよ」

 呑気に散歩するかの如くエクスの目の前を通り過ぎて、ラメド・アンデルは浮遊する球状オーラの近くで足を止め、ボティスを見上げた。

 エクスはラメド・アンデルを見据えた。ラメド・アンデルは不気味なほどに無防備だった。

(こいつは、わざわざ配下の悪魔を救出する為にこの場にやってきたのか。この場の状況を把握していたなら、もっと早く姿を見せてもよかったはずだ)

 ラメド・アンデルの赤い瞳は冷たい光を発し、口元には薄笑みを浮かべている。

(仲間を助けにやってきた奴は、こんな顔はしない。こいつには別の目的がある。それにこれまで表舞台に露出してこなかったこいつがこの場に姿を見せたということは、目撃者を見逃すわけがない)

 エクスは灰色のオーラを右手に纏い、ラメド・アンデルの白い背中目掛けて手刀を振り下ろした。エクスは愕然として、自分の右手と目の前に背を向けて立っているラメド・アンデルの姿とを目だけ動かして確認した。

(私は、確かにラメド・アンデルを目掛けて飛び出したはず。でも、今自分は飛び出す前の場所で立ち尽くしている。これがラメド・アンデルの力なのか。この時点で、見極めてやる)

 エクスは凄まじい早さでラメド・アンデルの背後に近づき、すでに振りかぶっていた手刀を振り下ろした。ラメド・アンデルに直撃するより早く、エクスの背後に展開された灰色のオーラの矢が無数に飛び出して、ラメド・アンデルの両腕に殺到した。エクスは目を見開き、自分の立ち位置を見て取って、ラメド・アンデルの居場所を確認した。一瞬、何が起きたのかわからなかった。

(何も変わっていない……。あいつは、忌まわしいエノキアン・サタナスのように、時を司っているとでもいうのか。ラメド・アンデルが時間を操作しているとするなら、奴の意識の外からの攻撃でないと、全て無効にされてしまう。それに時間操作ではない別の能力の可能性も疑わなければならない。未知の能力なら現段階で暴くことで、我々白銀の陣営が受ける被害をかなり抑えることになる)

 エクスは原形界アツィルトの力を解放させた。ラメド・アンデルの足元から灰色の湾曲した牙が十本飛び出して、がちんとラメド・アンデルを飲み込んだ。上空からの追撃を考えながら閉じた牙の中を見ていたエクスは、何かがおかしいことに気づき、自らの目を疑った。牙は何も飲み込んではいなかった。ラメド・アンデルは今も変わらずに地上からボティスを見上げていて、エクスの発動した牙は数メートル離れた的外れの場所で発現していた。エクスは眉根を寄せて、再度ラメド・アンデルの背後に迫り、手刀を振り下ろした。振り切ったと自分が思った瞬間には、エクスとラメド・アンデルの位置関係は攻撃前に戻っていて、攻撃は不発に終わった。

 ラメド・アンデルが振り返り、エクスに視線を移した。

「さっきから何をしているんだ、エクス。君のターンが終了したなら、次は私の番だ」

 出し抜けに顔面を殴りつけられ、エクスは後方へ吹っ飛んでしまった。展開していた保護膜がダメージを防いでくれたが、問題はそこじゃなかった。ラメド・アンデルが振り抜いた拳を戻し、踵を合わして揃え、両腕を広げた。

「どれだけ高い威力の攻撃だったとしても、当たらなければ相手の命を削れはしない。無駄に消費するだけだ」

 エクスは眉根を寄せて舌打ちした。

(こいつは、時を止めてなどいない。だからといって、速度ではない。攻撃は不発していたが、魔術発動に伴う精神力の消耗は実感できた。それに速度では不可避の攻撃が躱されている。招かれざることだが、かつてない異能との勝負ということだ)

 ラメド・アンデルは次はお前のターンだ、と言わんばかりに微動だにせず、腕を広げたままの姿勢を保っている。エクスがラメド・アンデルを睨み付けると、エクスの全身が灰色のオーラに包まれ、灰色のオーラの矢がラメド・アンデルに降り注いだ。エクスは凄まじい速さでラメド・アンデルに近づき、右手に出現させた2メートルほどの長槍を突き出した。刹那、エクスは舌打ちして、位置関係が背後に移ったラメド・アンデル目掛けて槍を投擲した。それに合わせて、フェイトの三人も凄まじい速さで追撃した。ラケシスがラメド・アンデルの頭上から鋭い不可視の円錐を発射した。クロトがラメド・アンデルの左手に近づき、炎獅子剣を振り払って炎の衝撃波を放った。アテピスがラメド・アンデルの右手に近づき、振り上げていた剣を思い切り振り下ろした。四人の視界からラメド・アンデルが掻き消えた。各人の攻撃は全て空を切り、時が止まったかのように全員が動揺してフリーズしてしまったが、けして時が止められたのではないというのもわかっていた。

「このターンも無駄に使ってしまったな、エクス。残念ながら、数の優位は通用しない。戦闘は兵隊の数が多い方が基本有利だが、君達が踏み込んだこの戦場では、一般常識は適用されない。一人だろうと、四人だろうと、百人だろうと、攻撃の性質が変わらない限り、結果は同じだ。君達の攻撃は、私には届かない」

 ラメド・アンデルがにやりと笑った。と、それを目にした次の瞬間には、エクスとフェイトの三人は正体不明の衝撃に襲われて後方に吹っ飛んでしまった。

 エクスは悪態をつきながら立ち上がった。ダメージは受けなかったが、ラメド・アンデルの言動が気に食わなかった。背後に気配を感じてエクスが振り返ると、眉根を寄せたニティブスが立っていた。

「もうやめて、エクス。ラメド・アンデルは遊んでいるのよ。撤退を考えて」

「なるほど。君はやはりラメド・アンデルに関して何か知っているんだな」

「ラメド・アンデルには勝てないわ。逃げましょう、エクス。まだ戦うには早かったのよ」

 ニティブスの消極的な態度は、これまでに見たことのないものだった。だからといって、このまま何も得られずに終わるのは納得がいかない。どう返答しようか迷っていると、ラメド・アンデルがくつくつと笑い出した。

「エクス。ニティブスはよくわかっているようじゃないか。君達のレベルは、私と戦うには値しない経験不足だ。どんな類の攻撃であろうと、私の体力を削ることは出来ない。実力差がありすぎて、君達の攻撃はミス連発だ。高貴な皇子様は、ロールプレイングゲームなんてやらないかな。私はね、ボスと戦う時、その時点で上げられるだけレベルを上げて戦いに挑むんだ。強くなり過ぎた私のキャラクターのボス攻略は、雑魚敵と大差ない容易さとなる。緊張感も不安もなく、戦闘前から勝利は見えている。嗜好が異なる者からしたら、至極興醒めなボス戦かもしれない。ボス戦で必殺技も魔法攻撃もせずにひたすら通常攻撃を繰り返し、ボスの攻撃はたかが知れていて、仲間の一人が回復することでボスがいくら攻撃したとしても、私のキャラクターのヒットポイントは最大のままだ。だが、それがいいんだよっ! 正義の象徴ともいわれる主人公の勇者が、諸悪の根源たるラスボスの魔王を最後の闘いで虐殺するんだ。ぞくぞくしてこないかぁ? 秩序を保つ立場の存在が、混沌を齎す存在を無慈悲に蹂躙するんだ。強者と弱者、善良と邪悪は逆転し、立場と価値観が混濁する。ゲームなんだ。楽しみ方は、自由だろう?」

 ラメド・アンデルの赤い瞳が怪しく光った。エクスはラメド・アンデルを睨みつけたまま、ニティブスに質問した。

「教えてくれ、ニティブス。ラメド・アンデルの能力の正体は何なんだ。戦うにしても逃げるにしても情報は必要だ」

「ごめんなさい、エクス。今は答えられないわ……」

 エクスはぎりぎりと歯を食いしばった。話さないのではなく、話せないのか。ニティブスの言動を縛っている何かが解消されない限り、これ以上聞いても仕方ない。エクスは右手を振るって、目の前に灰色のオーラで形成された防壁を展開した。防壁は幅も高さも果てしなく続いていて、エクス達をラメド・アンデルから隔てていた。エクスの考えを察したフェイトの三人は、既にエクスの元に集まっていた。エクスが空間移動を展開すると、視界がぼやけて不鮮明になり、次第に真っ暗になっていった。

「何だと……!?」

 エクスは自分の目を疑ったが、すぐに何が起きたのか理解し眉根を寄せて舌打ちした。

(精神力の消耗から確かに空間移動は発動していたはずなのに、自分の体感としては何も起きてはいない。今も変わらず、ラメド・アンデルは防壁の向こう側で佇んでいる。防壁は物理的魔術的に遮断されていて、縦次元の空間にも展開し、どの階層からも許容されない限り侵入不可能だ。時の停止が起きたとしても、何も出来ずに静止した世界を彷徨うだけ。時の逆行――もしくは空間の超越でもしない限り。つまり、ラメド・アンデルの能力の正体はそういうことなのか……?)

 エクスは自問をやめて、背後の存在目掛けて手刀を繰り出した。エクスの視界で白い残像が翻り、ラメド・アンデルの笑い声が響き渡った。

「アハハハハッ! 攻撃もせずにターンを無駄にしてしまうとは、愚行だったな、エクス。知らなかったか、教えてやる。大魔王からは、逃げられはしないんだよ」

 不可侵なはずの障壁を飛び越えて、ラメド・アンデルはエクス達の側にやってきていた。

(ちくしょう。能力の正体さえ理解できれば)

「なんだ、もうネタ切れか、エクス」

 ラメド・アンデルはくつくつと笑い出した。

「さて、そろそろゲームは終わりにしようか」

 どさっと音を立てて、フェイトの三人が地面に倒れ込んだ。エクスは右手に灰色の槍を出現させ、ラメド・アンデルの首元に切っ先を向けた。

「何をした?」

「殺してはいない。彼等には生贄になってもらう。悪魔だけだと収集が捗らなくてね」

 エクスの背後でニティブスが頽れて、首を横に振った。

「私達だけでは、もう無理だわ……。カジョウがいなければ、逃げることさえできない……」

「何だって、ニティブス?」



「エクス、決着をつけようか。……ん?」

 ラメド・アンデルが眉根を寄せて、エクス達から視線を外した。新たな情報が全域ネットワークにアップロードされた。何者かが、この場所へ向かってきているようだ。

(エクスとニティブスの仲間か。この場で5人を相手にするとしたら、捕獲は難しいかもしれない。珍しく迷っているな)

 ラメド・アンデルは薄笑みを浮かべた。

(これまで慎重に長い時間をかけて進めてきた計画が、ようやく成就しそうなのだ。敏感になって、過大評価しているのかもしれない。現にエクスは手も足も出ず、フェイトの三人は造作もなく捕獲できたではないか。姿を見せた以上、どんな脅威や障壁が立ちはだかろうと、私の作戦の邪魔をするものは蹴散らしてきただろ。何を臆することがある。私のもとに来るというなら、全て捕獲してしまえばいい。……だが……、今回は自身の直感に判断を委ねてみようか。パーソナル・イントラユートピアの実現は、もはや時間の問題だからな)

 自分でも不思議だったが、ラメド・アンデルはその場を退くことにした。ラメド・アンデルは横たわるフェイトの三人と凍結したままのボティスを連れて、空間移動を発動させた。エクスがラメド・アンデル目掛けて攻撃しようと突進してきたが、ラメド・アンデルはエクスの存在する空間に元の位置へ戻るプログラムを書き込み、攻撃を外させた。ラメド・アンデルとフェイトの三人とボティスの姿が不鮮明になり、その場から消失した。

 入れ替わるようにして、エクスの前方で空間移動が発動し、ロリアンとアクトとセラフィムが姿を現した。

「ロリアン、それに、アクトとセラフィムも……。どうして、冥獄に……?」

「問題が起きて、ニティブスの力が必要で彼女に会いにきたのよ。エクス……、それにニティブスも……何があったの?」

 ロリアンから見て、二人の姿は異常だった。ニティブスは地面に両膝をついて途方に暮れているように見えたし、エクスの顔色は青ざめていて、体力精神力ともに消耗しているようだった。

 エクスは三人にラメド・アンデルとの戦いについて説明した。ロリアンとアクトとセラフィムは眉根を寄せて、エクスの説明を聞いていた。セラフィムがふうと息を吐き出して、全域ネットワークにアクセスし、ラメド・アンデルの情報をアップロードした。

「暗躍してきたラメド・アンデルが、表立って行動を始めた。これはパーソナル・イントラユートピアの完成が間近ということの証。アテピスとクロトとラケシスが攫われた理由はそこにある。ラメド・アンデルが彼等を生贄と呼称したのは、パーソナル・イントラユートピアとの関係を示唆している。ラメド・アンデルはエクスとニティブスも捕獲しようとしていて、後からやってきた僕達三人すらも狙っていた。ある一定以上の実力者達が複数人必要で、それはまだ足りていないということだ。理由は不明だが逃走したラメド・アンデルは、再び僕達の前に立ちはだかる筈だ」

「……それまで、フェイトの三人は無事だろうか……」

「エクス、気持ちはわかるよ。僕も同じだ。次の機会に確実に救出出来るように、準備を進めよう」

「わかった」

 セラフィムに聞いたって仕方ないのは自分でもわかっていた。

(失態を犯し、意気消沈して他人に縋るなんて、情けないにもほどがある。失敗して、気落ちしている暇なんてない。気持ちを切り替えて行動を起こさない限り、愚かさが増すばかりだ)

「セラフィム、ラメド・アンデルの力は異常だった」

「そうだね。原形界アツィルトの力を操るエクスの攻撃が通用しなかったとなれば、僕のアダム・カドモンの力も、エクスと同質のロリアンの力も、アクトの白銀の力も同じ結果となってしまうのは必至。それに、ニティブスの言動を縛っているのも気になる」

 ニティブスは今は膝を曲げて地面に座り込んでいて、顔を下に向けて塞ぎ込んでいた。やはりニティブスは何かを隠していて、それはラメド・アンデルに関わる問題だった。

「ラメド・アンデルの力とは、一体何なのでしょうか。エクスの攻撃を悉く回避させているもの。裏返せば、直撃させればダメージは与えられるということ」

「アクト、君の推察通りだと私も思う。しかし腹立たしいことに、それがとてつもなく難題なんだ。ラメド・アンデルは避ける素振りすら見せない。攻撃は全て外させられてしまう。私自らが攻撃をラメド・アンデルから外しているんだ。ニティブスが何か教えてくれたらと思ったんだが」

「エクス、アクト。僕が思うに、ラメド・アンデルの力は空間を司る能力だろうね」

「空間……? セラフィム、それは空間把握能力のことか?」

「ラメド・アンデルの力は、空間支配能力と呼称されている」

 エクスもアクトもロリアンも、空間支配能力と呼ばれるものを聞くのは初めてだった。

「どんな存在もそれぞれ、程度の差はあれ〝空間干渉能力〟を潜在的に有している。その能力を意識可能になると、〝空間把握能力〟となる。更に一部の才能を有する者だけが、〝空間支配能力〟を覚醒させる。知的存在の脳が普段10%ほどしか機能していないのが、100%使用可能になるのと同様。他人の操作までは選択の自由から〈秩序〉によって制限されているが、自己と物質の操作は限定条件下にて全て可能。視界も広がり、風や重力などエネルギーは可視化される。時間だけは操作できない。空間支配能力なら、時の停止では回避不能な攻撃すら躱す理由が説明できる。ラメド・アンデルの意識の外側からの攻撃だろうと、空間自体に書き込まれたプログラムによって、攻撃はラメド・アンデルを自動的に避けるか、もしくはラメド・アンデルがいる空間が別の空間に自動移動されてしまう。侵入不可の防壁が展開されたとしても、空間に新たなプログラムが上書きされ、防壁はラメド・アンデルの進入を許容してしまう」

「そんな、ふざけた能力が……。それがラメド・アンデルのフラグメント・オブ・ペインの力ということですか」

「いや、空間支配能力と教徒の欠片は、おそらく関係ない。空間支配能力はラメド・アンデル自身の能力だろう」

「セラフィム、ラメド・アンデルの空間支配能力に関してそこまで知っているなら、対処法もわかるのか? いや、むしろ対処法は一つしか――

 エクスは自分で喋っていて、消去法で答えが出ることに気づいた。

――空間に対抗するには、時間しかないか」

 エクスの答えにセラフィムが頷いた。

「静止した世界では、ラメド・アンデルは空間へのプログラム書き込みができない。既に組み込まれているプログラムを掻い潜り、凍結したラメド・アンデルに近づくことができれば、攻撃を当てることができるはずだ」

「我々の陣営に必要なのは、時を司る能力者というわけか」

「ベルンハルトなら、なんとかしてくれるかもしれない」

「〈ニューアース〉の戦士のことね」

 ロリアンの言葉にセラフィムが頷いた。

「まずはニティブスにアケショナルを封印してもらい、それから次はベルンハルトを迎えいれよう」

 セラフィムが空間移動を発動させた。セラフィムとエクスとロリアンとアクトとニティブスの姿が不鮮明になり、その場から消失した。





 今も破滅の刀から伝わってくる強く大きな異界のオーラは、三つだった。ゲッベルスを倒した部屋は他の空間から隔絶されているようで、コンベンション会場の灰色の扉が唯一の出入口となっていた。ベルンハルトとベアトリーチェが二つ目の反応へ向かうと、一つ目の部屋と同様の扉に到達し、室内には試験ポットが無数に設置された胸糞悪い光景が広がっていたが、人は誰もいなかった。

(残る反応は一つ。そこにハインリヒ、もしくはポジティブシンキングの幹部がいるはずだ)

 ベルンハルトは来た道を戻り、かつかつと音がなる白い廊下を早歩きで進んだ。ベルンハルトの後にベアトリーチェが小走りで続いた。

「ベルンハルト、あなたがジョン・カズマのグループ内で優秀な成績を残していたのには気づいていたわ。新世界救済教会の人脈と資金を利用して、ディストリビューターの成績を稼いでいたんでしょう」

 ベルンハルトが何も言わずにいると、ベアトリーチェは勝手に結論づけた。

「教会の人間がどうしてと思ったけど、まさかポジティブシンキングの悪徳を暴く為だったなんてね。成績アップのポイント稼ぎは、今思えばあからさまだったわ」

「結果、今こうしてここにいるんだから、問題ないだろ」

「カズマとアルフレートは、あなたを怪しんで疑わなかったのかしら」

「あいつらにとっては、やり過ぎくらいの活動成果が満足だったってことさ」

 ベアトリーチェは呆れてため息をついた。

「ねえ、ベルンハルト。あなたが携帯している剣は、特別なものなの?」

「なんでそんな事を聞く?」

「戦闘を前提としているのに、銃器ではなく前時代的な剣しか装備していないなんて、おかしいと思って」

「これは剣ではない。刀だ」

 ベルンハルトはコンベンションのメインホールへの出入り口扉の前で立ち止まり、破滅の刀を抜いて刀身を見せた。白く煌めく片刃が露わになると、ベアトリーチェが息を呑んだ。ベアトリーチェの目には、ベルンハルトが握る白く美しい刀が白い霧のようなものに包まれているように見えた。

「あなたとハインリヒが話している時、異界とかなんとか言ってたでしょ。その刀も白い靄がかかっていて、普通じゃないわ。一体、何なの?」

 ベルンハルトはベアトリーチェの顔を見つめた。

(白銀のオーラがこの女にも見えるのか)

「何よ?」

「いや、何でもない。俺とハインリヒが言った異界というのは、俺達が今いる地球とは全く別の世界のことだ」

「地球ではなく、別の惑星ということ? でも、宗教の没落時に、惑星外への進出は断念されたはずだけど」

「宇宙の話じゃない。俺達の世界とは全く異なる別世界のことだ。宗教の没落時に惑星外進出が凍結されたのは、開拓すべき新世界が見出されたからだ」

「天使や悪魔の事を言っているの? でも、それって……」

「『特異点は私には関係ない、遠い世界の出来事』だとでも言いたげだな。だが、実際にそれはあんたの住む世界に隣り合わせで存在していて、気づいていないだけで知らずに関係しているかもしれない」

「……わかったわよ。じゃあ、あなたやポジティブシンキングは、天使や悪魔の世界に関わることで争っているということ?」

「厳密には違う。例えばこの破滅の刀は、〈ヴェッセル〉と呼ばれる異世界に出現したロスト・ジャパンで造られた三神刀の内の一振りだ。物質界に存在するあらゆるものを切り裂く能力を持っている」

 ベルンハルトは破滅の刀を振り下ろして空を切ってから、鞘に戻した。

「世界は一つじゃない。俺達の世界〈ニューアース〉の他にも二つ世界があって、ポジティブシンキングは異世界の技術をこの世界に持ち込み、俺達の世界の人々を邪悪な実験に用いている」

「にわかには信じがたいけど、まあ、わかったわ。といっても、あなたの言っていることが理解できたわけではないけど、とりあえず、ポジティブシンキングの全貌を暴けば、明らかになるものね」

 ベルンハルトとベアトリーチェは騒がしいメインホールへ移動し、残る異界反応を目指した。ベルンハルトは人混みにうんざりしたが、目的地へはどうしてもここを通り抜けるしかなかった。

「ベルンハルト! おい、ベルンハルト!」

 ベルンハルトは舌打ちして、聞き覚えのある声を無視して歩くのを早めた。ベルンハルトは左肩を掴まれて、ようやく歩くのをやめた。振り返ると、ジョン・カズマとアルフレートが立っていた。ベルンハルトは相手に何か言われるよりも先に口を開いた。

「騒がしくて気づきませんでしたよ」

「一体、どこに行ってたんだね、ベルンハルト」

「知り合いに会って、ちょっと話し込んでしまいました」

「なんだ、ベアトリーチェじゃないか。君達は同グループ内でも、親交が無いと思っていたよ」

 ベアトリーチェは愛想笑いを浮かべた。

「ベルンハルトには、たまにアドバイスをもらってたんです。だって、彼の成績は素晴らしいでしょ!」

「確かに、私も御教示願いたい」

 ジョン・カズマがにっこりと笑うのを見ていると、試験ポット内で漂うジョン・カズマの姿が脳裏に浮かび上がり、込み上げてくる吐き気をベルンハルトは何とか飲み込んだ。横目で見ると、ベアトリーチェはジョン・カズマと一緒になって声を上げて笑っていた。ベルンハルトはため息をついた。

「ベアトリーチェと共通の知り合いに会いに行くことになって、もう少し時間をもらえますか?」

「いや、ちょっと待ってくれ、ベルンハルト」

 ジョン・カズマの制止に、ベルンハルトは眉根を寄せてしまった。アルフレートがベルンハルトの肩にぽんと手を置いた。

「ベルンハルト、すまない。すぐ終わる。君に会いたいという人がいてね」

 アルフレートの背後から見覚えのある男が現れた。今度はベルンハルトは失敗しなかった。

「この方はゲッベルス氏だ。ポジティブシンキングの役員で、研究開発部のGMも兼任している人だ」

「はじめまして、ベルンハルトです」

 ベルンハルトは目の前に立つゲッベルスのクローンを何食わぬ顔で見つめた。

(どの時点のゲッベルスの精神データが眼前のクローンに注入されたのかは、わからない。仮に死の直前に精神データのバックアップが行われたとするなら、こいつは何もかも記憶していて、主観的に体験していることになる。肉体の空間転送が可能であるなら、データ化した精神とやらを大型ストレージに複製するのはわけないはずだ。どう対処するかは、ゲッベルスの出方次第だな)

「君がアルフレートのグループ内で、好成績をあげているのは聞いている。それに教会関係者だというじゃないか。少し協力してもらいたいことがあって、話を聞いてくれないかな」

「はい、喜んで」

 機械的に答えると、ゲッベルスが満足そうに頷いた。

「では、少し込み入った内容だから、個室に案内しよう。ついてきたまえ。すまないね、アルフレート。少しベルンハルトを借りるよ」

 アルフレートがゲッベルスに笑顔で応じた。歩き始めたゲッベルスの後にベルンハルトが続くと、ベアトリーチェがベルンハルトの前に小走りで回り込んだ。

「ベルンハルト……」

 ベアトリーチェが発したのは一言だったが、ベルンハルトにはベアトリーチェの不安が見て取れた。ゲッベルスが振り返り、ベアトリーチェとベルンハルトを見て薄笑みを浮かべた。

「構わない。君もベルンハルトと共に来たまえ」

 ゲッベルスが再び歩き出したので、ベルンハルトとベアトリーチェは後に続いた。

「ねえ、あのゲッベルスって、さっきあいつ自身が話していたクローンというやつよね」

 ベアトリーチェがベルンハルトに向かって小声で囁いた。

「そうだ。あいつがどの時点のゲッベルスなのかは、まだわからない。俺達と出会う前の奴かもしれないし、俺が斬った奴なのかもしれない」

「信じられないわ。ゲッベルスには一卵性の双子がいた、というのならよっぽど楽なのに」

「俺もそれなら助かるが、ポジティブシンキングはそんなに甘くないだろ」

 ゲッベルスは関係者以外立ち入り禁止の扉を抜けて、灰色の壁と床の廊下をすたすたと歩いていった。ベルンハルトは破滅の刀から伝わってくるオーラを読み取り、小さく舌打ちした。

「ベアトリーチェ、俺達が今向かってるのは、三つ目の異界反応の場所だ」

「ということは、今のゲッベルスは私達と会ったことのある奴ってことね」

「ポジティブシンキングは、俺達と決着をつけようとしてるらしい」

 ゲッベルスが灰色の両開き扉の前で立ち止まり、振り返った。

「中に入りたまえ」

 開かれた扉の中へ促され、ベルンハルトとベアトリーチェが中へ入ると、おぞましい存在が視界に飛び込んできた。ゲッベルスが後から入ってきて、扉を塞ぐように佇んだ。ベアトリーチェが後ずさるも、すぐ背後に立つゲッベルスによってそれ以上は逃げられない。

「何なの、あの化け物は……」

 室内に鎮座する異形の化け物は、静かに脈動していた。部屋はこれまでと同様で、試験ポットと機械設備が壁際に並び、床は灰色の部屋だった。ベルンハルトは舌打ちして、10メートル前方の化け物の隣に立つ灰色のスーツ姿を睨みつけた。

「異種族のキメラか。胸糞悪くなるな、ハインリヒ」

「天使と悪魔と鬼神と人間の異種族の混合――カオスキメラだよ」

 カオスという単語にベルンハルトは眉根を寄せた。

(混じり合っているという意味だけだよな。それとも〈混沌〉が関係しているのか? ……いや、まさかな)

 化け物は醜く不気味だった。全体は直径3メートルほどの肉団子で、悪趣味な屍体のパッチワークのようだった。胴体と言えよう巨大な球体部分とは裏腹に、四肢は細く華奢で、首筋まで伸びた黒髪で顔は隠されていたが、頭部は成人女性のものと思われた。背中には四枚の翼が生えていた。ベルンハルトから見て左側には、天使の生やす白く柔らかな羽毛に包まれた翼が二枚、右側には悪魔の生やす黒い飛膜で覆われ、細い骨が浮き出た翼が二枚――本来なら左右対称に生えるものが持ち主から強引に毟り取られ、無理矢理左右どちらかの片側に偏って配置された翼はバランスが悪く歪だった。首の下の肉塊部分――胸部には二本の捻れた灰色の角が生えていた。体表には太くて赤黒い血管が縦横無尽に走っている。

「免疫反応は反復実験による検体採取によって、後天的に解決された。悲しむことはない。彼等の個体が消滅したわけではないのだから」

「黙れ」

 ベルンハルトは破滅の刀を抜き払った。

「黙るのは君の方だよ、ベルンハルト。この場所に神が来ることはない。神は見てもいないからね」

(こいつは何を言っているんだ。何を知っているんだ)

「見ているのは、代理人である観測者兼管理者に過ぎず、彼は束縛されている。観測を管理者に一任している神はそれどころではない。この場所の問題よりも、ある一つの世界の没落回避に傾倒しているからな」

(こいつが関係しているのは、ポジティブシンキングだけじゃないのか)

「ベルンハルト、私が言いたいのはね、誰かの助けを期待するな、ってことさ」

 ハインリヒが右手を胸の前まで上げ、親指を立てたグッドサインのジェスチャーをした。まるで見えないスイッチを持っているかのように、ハインリヒは立てた親指を折って何かを押した。ハインリヒの横に立つカオスキメラが身を捩って苦しみだした。

「ベルンハルトを殺せ」

 カオスキメラの悪魔の翼の後方に、直径5メートルほどの巨大な黒い魔法陣が出現した。魔法陣から漆黒のオーラで形成された巨大な拳が飛び出して、ベルンハルトに振り下ろされた。ベルンハルトは破滅の刀を抜いて振り上げた。魔法陣から黒い帯となって繋がって伸びてきた拳が両断され、漆黒のオーラが霧散した。カオスキメラが硬直したのに苛々して、ハインリヒは舌打ちしつつ親指を折った。カオスキメラが身悶えし、背後に浮かぶ黒い魔法陣が妖しく光った。三本の黒い拳が飛び出して、ベルンハルトの前方と左右から殺到した。左右から近づいてきた二つの拳が一瞬にして割断され、ベルンハルトは正面から向かいくる拳目掛けて破滅の刀を振り上げた。拳の先端が二股に分かれ、破滅の刀は空を切った。ベルンハルトの胸の前に白銀の書が出現し、独りでにぱらぱらとページが捲られた。

「ベルンハルト!」

 ベアトリーチェが叫ぶのとほぼ同じタイミングで、ベルンハルトの〈想いの力〉絶対なる領域が発動した。ベルンハルトの両側頭部の目前で、カオスキメラの二股に分かれた黒い拳が静止した。

(やれやれ。ようやく〈想いの力〉の特性が何となく分かってきたが、絶対なる領域を連発しなければならないのはうんざりする)

 先刻の時間停止世界で、ベルンハルトが三つ飛んできた拳の内の左右二つを切断すると、絶対なる領域は強制解除されてしまった。以前に行ったテストが思い出される。テスト内容は、時の停止した世界で、ベルンハルトの活動を軸にした比較テストだった。ベルンハルトはドイツにある新世界救済教会の自室で、〈想いの力〉絶対なる領域を発動させた。人外の化け物が相手となる戦闘以外で〈想いの力〉を発動させるのは、これで三回目だった。自身の気持ちや考え方が反映されているのか、それとも能力発動の制約条件なのかは不明だが、ベルンハルトが異常な力の持ち主と会敵した時、〈想いの力〉は意識せずに発動出来ていた。時の停止という異常な力は、無闇矢鱈に使用してはいけない気がした。テスト目的で、他者への干渉はしないと遵守する。自分にそう言い聞かせ、紙に書き取り、口頭で読み上げ、反芻することで〈想いの力〉絶対なる領域の発動に成功した。ベルンハルトの自室は50平米ほどの広さで、床は濃い茶色のフローリング、白い壁紙が張られ、ウォークインクローゼットの扉のある壁側に木製のシングルベッドが置かれている以外には何一つ調度品の無い殺風景な部屋だった。絶対なる領域は発動済みで、世界は静止しているはずだ。ただ、この部屋では何もわからない。ベルンハルトは部屋に一つある腰窓に近づき、外の様子を見た。いつもと変わらない教会の庭の風景。短く刈られた芝生と濃緑の針葉樹が密集した森が見え、人の姿はない。ベルンハルトはウォークインクローゼットの中に置いてあった台車を、室内中央まで運んだ。台車には、長方形の白いプラスチックのまな板が積まれていた。ベルンハルトは破滅の刀を抜いて、まな板に刃を向けた。厚さ50mmのまな板が、まるで豆腐のようにすっと切れていった。重ねてあった12枚のまな板が真っ二つになると、ベルンハルトは次から次へと破滅の刀を振り下ろし、まな板を細切れにした。粉々になった白い破片は台車の上から溢れて、床に散らばった。何度切り刻んだのかはわからなかったが、出し抜けに〈想いの力〉が解除された。ベルンハルトは破滅の刀を鞘に納め、ばらばらのまな板を見下ろした。想定通りだったな。絶対なる領域を発動後、ベルンハルトが時間停止世界で何もせずにいた場合、〈想いの力〉が強制解除されることはなかった。時間が停止した世界で奇妙な表現かもしれないが、絶対なる領域の発動継続時間は自らの行動によって変化するということだ。自分で計測してどれだけ時を止め続けられるか試してみたところ、60分ほどは経過していたかと思われる。何もしなかったら、何時間でも何日でも時間を止められるのかもしれない。カオスキメラを斬った時と、まな板を斬った時とでは、持続時間に違いがあった。これは本人の行動だけでなく、ベルンハルトが干渉した対象も条件に含まれているということだ。何かしらのポイントかゲージが隠されていて、停止可能時間の残量が決定されている。干渉対象の力やエネルギーが大きければ大きいほど、持続時間が減少し、終いには時の停止は解除されてしまう。連続発動は可能だったが、体力と精神力の消耗が激しかった。

(〈想いの力〉の連続発動が強いられるような戦いが長引けば、結末は絶望的だ。早々に決着をつけてやる)

 ベルンハルトは静止しているカオスキメラの背後に回り込み、破滅の刀を振りかぶった。絶対なる領域を解除すると同時に、ベルンハルトはカオスキメラの横腹を目掛けて刀を振り下ろした。破滅の刀がカオスキメラの臍部にまで斬り込むと、がきんという金属音が鳴り響き、刀は勢いを失ってしまった。破滅の刀はこれまで何でも斬り裂いてきた。

(一体何が起きてるっていうんだ)

 力を込めて押し込んでも、何かに遮られて、破滅の刀はそれ以上斬り進んではくれない。ベルンハルトの横腹に漆黒の拳が飛んできた。

「うぐっ」

 衝撃で吹っ飛び、床に叩きつけられたベルンハルトは咳き込みながら立ち上がった。拳は重く、殴られた箇所がずきずきと痛む。

「三神刀の一振り――破滅の刀は物質界のどんな物でも断ち切る事が出来るという。だが、四界に属さない空隙を切ることはできない」

 ハインリヒがくつくつと笑いながら言った。

「天使アナエルの能力――金壁は、縦区分における各世界の狭間を出現させ展開し、防壁を形成させる。世界に存在しないものは、破滅の刀でも斬れない、というわけだ」

「縦世界の空隙? 存在しない壁は斬れない? 存在しないのなら、干渉して刀を止めるなどしないだろ」

「個人特有の能力の一部には、能力者の意思を超越したところで、極小レベルでの世界の隔絶を引き起こすものがある。アナエルの金壁も、その一つだ」

 ハインリヒは悦に入った表情を浮かべて、見えないスイッチを押した。カオスキメラの魔法陣から黒い拳が無数に飛び出して、ベルンハルトに降り注いだ。ベルンハルトは〈想いの力〉絶対なる領域を発動させた。破滅の刀で黒い拳をいくつか破壊すると、時の停止が解除されてしまう。覚悟は出来ていた。破滅の刀を振り回しながら、ベルンハルトはカオスキメラの懐に飛び込んだ。黒い拳の雨は止むことなく叩きつけられ、頭部と口からは血が流れ出し、倒れそうになるのを何とか堪えて態勢を崩しながらも、ベルンハルトは破滅の刀をカオスキメラの団子のような胴体目掛けて振り払った。カオスキメラの天使の羽が白銀のオーラに包まれて、白い羽毛が波打った。がきんと大きな金属音が鳴り響いて、破滅の刀が受け止められた。カオスキメラの胴体と破滅の刀とを隔てている紙一枚分の隙間に、半透明の黄金に輝く防壁が出現していた。直径30センチほどの真円状の障壁は見るからに脆弱そうだったが、破滅の刀で破壊するのは不可能だった。黒い拳を数発叩き込まれて、ベルンハルトは地面に俯けに倒れ込んでしまった。ベルンハルトが咳き込みながら両手を床について顔を上げると、目の前にベアトリーチェが立っていた。ベアトリーチェは何も言わずに、ベルンハルトの腕を持って立ち上がらせた。

「俺は大丈夫だ。危険だから、後ろに下がってろ」

「………」

 ベルンハルトは眉を顰めた。ベアトリーチェは無表情で無言のままだ。いつもなら文句の一つか二つ言い返してきてもおかしくない。

 ハインリヒが見えないスイッチを押すと、カオスキメラの胸部に生えた角が灰色のオーラを放った。

 ベアトリーチェがベルンハルトの首を掴んで締め上げた。ベルンハルトは反射的にベアトリーチェの手首を捻って、束縛から逃げ出した。ベルンハルトは一歩後退し、ハインリヒを睨みつけた。

「ベアトリーチェに手を出すな」

「お前が逃げないと確信できたなら、彼女は解放するよ。お前はカオスキメラには勝てないが、しかし逃げることはできるだろう。時を止めベアトリーチェを連れて逃げ出しても、時が動き出せば彼女はお前に襲いかかる。鬼神タグリヌスのアンネセサリー・ケア・テッセラの呪縛は、そう簡単に解けはしない。自分の命が惜しいなら、ベアトリーチェを犠牲にして逃げ出すといい、ベルンハルト」

(いい気になりやがって、あのくそ野郎。でも、どうする。破滅の刀の割断は天使の能力で防がれる。絶対なる領域は悪魔の攻撃量に対処しきれない。鬼神の能力によってベアトリーチェは操作されてしまう。やれやれ、最悪だぜ、ど畜生)

「はあ……」

 ベルンハルトは深いため息をついた。

 ハインリヒが満足そうに笑みを浮かべた。

「どうした、ベルンハルト。もう、お終いか」

 ベルンハルトは〈想いの力〉絶対なる領域を発動させた。ハインリヒの顔には、憎たらしい笑みが張り付いたままだ。ベルンハルトはハインリヒの心臓目掛けて、破滅の刀を突き刺した。一瞬にして絶対なる領域が解除され、ハインリヒの高笑いが響き渡った。破滅の刀はハインリヒの灰色のスーツを貫通しただけで、それ以上突き通すことは不可能だった。

「カオスキメラが無理なら、私を狙うだろうね。もちろん、そんなことは織り込み済みだ」

「だろうな」

 ベルンハルトの頭上に構えていた黒い拳が、一斉に振り下ろされた。ベルンハルトの脳裏に、マリアの姿が浮かび上がった。自分の生物学的現象に、ベルンハルトは心中で舌打ちした。

 ベルンハルトの背後の空間に裂け目が生じ、白いローブ姿が二人飛び出してきた。

「重層の衝撃シュヴァルツ」

 黒い球体が発射され、無数の黒い拳を悉く消滅させた。驚いたことに、一人は見覚えのある顔で、もう一人は人の体に犬の顔の獣人だった。

「絶体絶命って感じだったじゃないか、ベルンハルト」

「うるさい、リヴラ。忙しいんじゃなかったのか」

「犬の手も人の手にしたいほどにね」

 リヴラがにやりとして答えると、犬の獣人が口を開いた。

「おいおい、リヴラ。俺はそんなに役立たずの犬かね」

 犬の口でにやりと笑うのを見て、ベルンハルトは眉を顰めた。

「この犬は何者だ?」

「彼はカタリス、鬼神ヌクテメロンの中で、煉獄の10時領域統治者の犬の鬼神。私達の協力者だよ」

「異界の住人が、こちらに何の用だ」

「ベルンハルト、カタリスは君を助けに来たんだよ。君が〈ニューアース〉の問題を解決するのを待つつもりだったけど、待ちきれなくなって迎えにきた。それで、あの肉達磨を倒せばおしまいかな」

 リヴラがカオスキメラを見据えると、ハインリヒが目を見開いて後ずさった。

「調停者が、何故ここに……。こちらの世界には、来れないはずじゃなかったのか」

 ハインリヒは眉根を寄せてリヴラを睨みつけ、ぎりぎりと歯を噛み締めた。

「話が違うじゃないか、嘘つきめ。調停者を抑えつけ、異界から外界への移動を防いでいたはずだろうが」

 ハインリヒが見えないスイッチを思い切り押し込んだ。カオスキメラが四肢を振り回して悶え苦しみだした。黒い翼が漆黒のオーラに覆われ、白い翼が白銀のオーラに包まれ、角が灰色のオーラに包まれた。カタリスが眉を顰めて、舌打ちした。

「人間種族は悪趣味なものを作り出したな。あれは鬼神と天使と悪魔に対しての冒瀆だ」

「畏怖することを知らぬ、酷悪な愚行だな。邪悪な産物は、即刻排除せねば」

 リヴラは上半身に重層の衝撃シュヴァルツのエネルギーを纏った。カオスキメラが振り下ろす巨大な黒い拳を、リヴラは素手で易々と切り裂き消滅させた。

 カタリスの額に螺旋状の細い灰角が出現した。

「フューチャー・シャイン・デカ」

 カタリスはリヴラを一瞬にしてカオスキメラの頭上に移動させた。リヴラがカオスキメラの悪魔の翼を手刀で切り落とした。

「ふざけるなっ! どうして、こんなはずじゃ……」

 ハインリヒが見えないスイッチを何度繰り返し押しても、ハインリヒの思い通りにカオスキメラは動かない。リヴラ目掛けてベアトリーチェが銃口を向けた。ベアトリーチェの姿が一瞬にして消失し、壁際の方に移動したところで、銃声が響き渡った。弾丸はあらぬ方向へ飛んでいった。リヴラはカオスキメラの正面に回り込み、胸部の二本の角を叩き折った。まるで糸が切れた操り人形のように、ベアトリーチェがばたっと俯けに倒れ込んだ。

「くそっ、くそっ! どうして、発動しないっ!?」

 ハインリヒが唾を撒き散らしながら悪態をついている間に、リヴラがカオスキメラの天使の翼を肉塊から切り離した。カタリスがハインリヒに近づき、犬の口でにやりと笑った。ハインリヒはカタリスの不審な態度に眉を顰めたが、剥き出しになった上側左右の二本の犬歯を見て取り目を剥いた。

「嘘だ……、そんな馬鹿なっ……」

「いいや、今この時の何もかもが真実だ。お前が仕出かした鬼畜の所業は、この程度では償い切れまい」

 カタリスが人差し指をさっと上へ向けた。

「フューチャー・シャイン・デカ」

 ハインリヒの姿が忽然と消えると、今いた場所の天井に足をつけた状態で姿を現した。

「ぎゃあああっ!」

 激しい衝撃音と共に頭から床に激突し俯けに倒れ込むと、ハインリヒの頭部付近の床に赤い血溜まりができた。ベルンハルトはベアトリーチェを抱き上げて、倒されたカオスキメラに近づいていった。

(何でこいつは、アナエルの金壁を発動させなかったんだ。破滅の刀を退ける金色の防壁さえあれば、リヴラの重層の衝撃ですら太刀打ちできなかっただろうに)

 ベルンハルトがカオスキメラの頭部を爪先で小突くと、乱れた黒髪の間から隠されていた顔が見て取れた。目を見開いたベルンハルトはベアトリーチェを床に寝かせ、破滅の刀を抜き払い、カオスキメラの顔に振り下ろした。一刀両断された頭部から、赤い血が噴き出した。ベルンハルトは急いでベアトリーチェを抱き上げ、リヴラの元に歩いていった。

「リヴラ、これで株式会社ポジティブシンキングはおしまいかもしれないが、まだやらなければならないことがある」

「そうだね、ベルンハルト。株式会社PTを倒産させる前に、しなければならないことがある。社員やPTのユーザーを救わなければならない。でないと、全員老化できないままだ。彼等の救出には、不老の病を取り除く為の手段が必要だ」

「どうすればいい?」

「君の持つ破滅の刀とは異なる、もう一振りの三神刀が必要だ。それは因果の刀だ。因果の刀にはまた別の特殊な能力が付与されていて、時間軸の一部を断ち切ることが出来る。因果の刀さえあれば、ポジティブシンキングの被害者達は救われるはずだよ、ベルンハルト。君を〈ニューアース〉まで迎えにきたのも、別の理由で因果の刀が必要とされていて、その為には〈デルタ〉に来てもらって君の力を借りなければならなかったからだ」

「俺が手こずったカオスキメラを倒し切った奴に対して、俺の何が手助けになるのかよくわからんが、まあいい。連れて行くなら連れて行け。さっさと済ませてしまおう」

 リヴラは頷いて、空間を縦に切り裂いた。カタリスが空間の裂け目に入ると、ベルンハルトはベアトリーチェを抱えて後に続いた。リヴラが最後に黒い裂け目の奥へ姿を消すと、空間は閉じて元通りになった。





 悪魔ルカヴィは黒い地面に座って、背中にある岩に凭れかかった。どっと疲れが押し寄せてきて、深いため息をついた。自ら選択したとはいえ、体力と精神力の消耗が激しかった。

(やめればいいとわかっているのに、時折、自分に選択の是非を問うと、嫌な考えばかり浮かんでくる。俺は何もかも間違えてしまったのかもしれない。そう思うと、悔恨の念に押し潰されそうになる。もう行動を起こすのはやめにして、何もかも投げ出し、一層の事物質界から消滅したかった。思考は停止し、薄汚い肉体から魂というやつが解放される。気が滅入ってしまうのは、いつまで今の状況が続くのか見通しがつかないことだ。事態が好転する確証もないまま、俺の選択はむしろ敵側を有利にしているかもしれない。誰も頼ることはできない。でも、誰かに救済を願いたかった。ああ、助けてくれ、カジョウ!)

 ひゅっと風を切る音が聞こえたのとほぼ同時に、視界の全てが白く染まった。白い閃光は一瞬にして消失したが、冥獄の暗黒世界に眩い光の柱が出現していた。真っ黒なキャンバスに白く太い線を縦に走らせたかのようで、冥獄にとっては異常な光景だった。遠く離れた柱の中心からひしひしと感じられるのは、教徒の欠片の波動だった。

(なんだアレは? どういうことだ)

 意図がわからなかったが、何やら邪悪な策略が予想された。不可思議なのは、あの光の柱の中心にあるのはフラグメント・オブ・ペインではないということだ。ルカヴィは黒い影に身を隠しながら素早く移動し、聳え立つ柱を目指した。何かが起きるというのなら介入すべきか否かを見極めないとならない。光の柱は見渡す限りの平地にできた直径1km高さ200mほどの丘の中心から、空高くどこまでもまっすぐ伸びて闇を切り裂いていた。ルカヴィの見上げる先で、二つの光り輝く結晶が出現した。白い光の柱の中で燦然と輝く扇形の結晶の一つは緑色で、隣に浮かぶもう一つは紫色で、それぞれ鼓動するように明滅し始めた。

「馬鹿な……、あり得ない……」

 ルカヴィが小さく呟いた。

「三人目の適格者は、お前だったんだな」

 いきなり声がして、ルカヴィはぎょっとして背後を振り返った。そこには、黒い背景に浮かび上がる白い染みのような存在が佇立していた。

(最悪だ……)

「その瞳を黄金にさせているのが、お前の教徒の欠片か。一体、どんな感情がその瞳に込められているのかな」

「………」

「まあ、いい。すぐに露呈するだろう」

(あの二つの教徒の欠片の正体は気になるが、ここでやられるわけにはいかない)

 ルカヴィは喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャーを発動させた。ルカヴィの瞳から黄金の光が放射された。

「面白い、お前の力を見せてみろ」

 ルカヴィは視線をラメド・アンデルに向けたまま、後方へ跳躍した。

 ラメド・アンデルは首を傾げ、着地すると再び後方へと離れていくルカヴィに眉根を寄せた。

(何を狙っているんだ?)

 どんどんと離れていくルカヴィに舌打ちして、ラメド・アンデルは追いかけ始めた。

(罠にでも嵌めようというのか。私の力を忘れてしまったか、ルカヴィ。どんな罠や攻撃だろうと、私には無駄な事を思い出させてやる)

 ラメド・アンデルは空間支配能力を発動させた。ラメド・アンデルはルカヴィの背後の空間セルに一瞬にして移動し、慌てて振り返ろうとするルカヴィの首根っこを掴み上げた。左手を振りかぶり、鞭のように振り下ろされるルカヴィの黒い尻尾を避けて、相手の顔面を思い切り殴りつける。ルカヴィが黒い地面に叩きつけられた。ルカヴィは起き上がると、再びラメド・アンデルから離れるように走り出した。

(一体、ルカヴィは何をしているんだ。教徒の欠片の力はどうした。まあ、生命の危機に瀕すれば、力を引き出さざるを得ないか)

 ラメド・アンデルは左手を鋭く硬質化させ、振りかぶった状態でルカヴィの背後に瞬間移動し、同時に左手を首筋目掛けて突き出した。槍と化した左手は何の感触も無いまま空を切った。二人のローブ姿がルカヴィを支えて、前方に立っていた。

「意外な珍客だな。そんな仮面をつけても無駄だ、破壊神と傍観神だろう。こそこそと三獄を嗅ぎ回って、傍観神はせこせこと余計なプログラムを組んでいたじゃないか。ようやく会えたね、レイ、ユイ」

 レイとユイが白い仮面を外した。レイが舌打ちしてラメド・アンデルを睨みつけた。

「正体を見せずにこそこそと暗躍していたのは、お前の方だろ」

 にやりと笑ったラメド・アンデルの赤い瞳がぎらりと光った。

「破壊神と傍観神――新時代の神が相手か。面白い、良いじゃないか。全クリ後の高難易度隠しダンジョンの最奥に到達した境地だね。こちらも裏ボスとの戦闘準備は万全だ」

 ラメド・アンデルはいつでもどうぞといった感じで、足を交差し両手を広げた。

 レイの拳が漆黒のオーラに覆われ、空間把握能力を展開したユイの視界がセル化された。レイが両手を振り上げると、ユイも同じように両手を振り上げた。漆黒のオーラに覆われた二人分の拳が黒い大地に叩きつけられると、黒い閃光が爆発した。

 暗黒が視界を遮る中、ラメド・アンデルは向かいくる襲撃を待ったが、黒い塵が霧散して灰色になり始めても何もやっては来なかった。周囲の空間には、もはや何者も存在していなかった。

(闘わずして、すぐ様逃亡するなんて。こんなことは初めてだ。神の地位に立つ者をセフィロト・サインへ埋め込んでやったのに。自分でも気づかないうちに慎重になり過ぎているのか)

 ルカヴィとレイとユイを逃してしまったのは、どれも自らの判断の結果だったが、教徒の欠片適格者の未知なる力、破壊神と傍観神の三神を司る力への過大評価からの思い込みでしかなかった。だが、何かしらの違和感を覚えた。自分にとって不利で、相手にとっては有利な状況――何者かによって、そう仕向けられているように思えた。

(まさか、それがルカヴィの教徒の欠片なのか。いや、妄想が過ぎるか。教徒の欠片の実体は判明したのだ。気にすることはない)

 自らの背後に聳え立つ光の柱を目指して、三獄の有力者達が向かってくるのを感じられた。

(生贄は、羽虫の如くうじゃうじゃと寄ってくる。奴らの目的はわかってる――二つの教徒の欠片だ)

 ラメド・アンデルはにやりと笑って、柱の中心へと瞬間移動した。





 万神殿ではセクンダデイとイスキンが集まり、サリエルの号令の元に作戦が開始された。目的はとても単純だった。冥獄に向かい、覚醒した教徒の欠片を奪取する。適格者なんて関係ない。適格者ごと教徒の欠片を持ち帰り、これ以上新たな力を煉獄と冥獄に与えるわけにはいかなかった。各天使達が空間移動を発動すると、次々と天使の姿が不鮮明になりその場から消失した。





 全域ネットワークの情報をオデュは最初信じられなかった。何かのネットワーク上のエラーが発生しているのではないかと疑ったが、視線の先でリメド・エイデンが小さく首を横に振るのを目の当たりにして観念した。冥獄に新たな教徒の欠片が出現し、更にそれは同時に二つも覚醒していた。アクセス権限を持たない者達は、この異常事態に気づいていない。

 オデュから少し離れた場所で、ユイが空間干渉能力についてベアトリーチェに説明し、それから空間把握能力の発動方法に関して教えていた。

「世界が四角い無数のセルで区分されているのを頭の中にイメージしてみて」

「わかったわ」

 視界に突然白いラインが無数に表示されて、ベアトリーチェは目を丸くして驚いた。

「嘘っ! 本当に見えるわ」

 ベアトリーチェは眼前の空中に描画された白線を掴もうとして右手を握り締めたが、目では見えるのにそこには何も存在していなかった。

「不思議だわ。まるで赤外線みたいね」

「凄いわ、ベアトリーチェ。もう少し練習すれば、見るだけじゃなくて、プログラムの書き込みも可能になるはずよ」

 ユイとベアトリーチェが楽しそうに話しているのを、ベルンハルトはつまらなさそうに見ていた。正直なところ、さっさと面倒事を解決して元の世界に戻りたかった。

「みんな、ちょっと近くに集まってくれ。話したいことがある」

 オデュの呼びかけによって、万神殿の広間に集まっていた者達が近寄ってきた。乗り気じゃないマストとレミエルは人の輪から少し離れて視線を逸らしていた。

 オデュははあとため息をついてから、全域ネットワークにアップロードされた情報を説明し始めた。冥獄で新たに教徒の欠片が覚醒し、それは一つだけでなく二つも同じ場所同じタイミングで出現していた。憎しみの欠片フラグメント・オブ・ヘイト。怒りの欠片フラグメント・オブ・レイジ。適格者が現れたわけでもないのに、教徒の欠片の名前までも明らかになっているようだった。ここまでの情報公開が済んでいる時点で、三獄〈デルタ〉の有力者達が黙っているはずがない。憎しみの欠片フラグメント・オブ・ヘイトと怒りの欠片フラグメント・オブ・レイジが出現した冥獄のある場所には白い光の柱が聳え立っているとされ、セクンダデイとイスキンで構成された天使の軍勢と、四魔王の一人ガープ率いる悪魔の軍勢が柱に集結しつつあるという。鬼神ヌクテメロンの姿も柱近辺で目撃されているようだが、天使と悪魔とは異なり大人数での行動は起こしていないとのことだ。

「全域ネットワーク上の情報操作には限度があり、アップロード数の量からして信じざるを得ない。冥獄の異常現象を確認しないとならないんだが、邪悪な策略が感じられる。ラメド・アンデルが姿を現しフェイトの三人を攫っていった後に、この状況だ」

「冥獄の支配者が何かを企んでいるということか」

 エクスは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「無関係というのも確率的に低過ぎる。正直なところ、何らかの目的の為にラメド・アンデルが仕掛けたフェイクだと思っている」

「オデュ、おそらく、あんたの予想は的中してるぞ」

 そう低い声で言ってから大きな目をぱっと開けて、仰向けに寝ていたルカヴィが起き上がった。その場の視線が一斉にルカヴィに集まった。ルカヴィは輪の中心にいるオデュの隣にまで歩いて行き、その場の全員を見回した。ルカヴィの瞳は黄金色だった。

「ルカヴィ、その瞳の色を黄金にさせているのは、教徒の欠片だな」

「そうだ、オデュ。瞳を黄金にさせるのは、教徒の喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャー」

「喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャー」

 オデュが繰り返すと、ルカヴィは肩を竦めた。

「ルカヴィ、お前が教徒の欠片の適格者だったんだな」

 ルカヴィは静かに首を縦に振った。セラフィムがルカヴィの肩に手を置いた。

「複数覚醒のタイミングで、喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャーに選ばれたんだね」

「そうだよ、セラフィム。ラメド・アンデルの空間支配能力による限定的な拘束は、教徒の欠片適格者には通用しなかったらしい。俺はラメド・アンデルの目的が少しはわかっていたし、黒リヴラの危険性も理解しているつもりだった。ラメド・アンデルと黒リヴラに対抗するには情報が不足していたが、俺が直接みんなに伝えたり、全域ネットワークにアップロードしたりするのは危険だった。俺が知っているということが誰にもばれていないことが、最大の強みだったんだ」

「ルカヴィ、君は自分の姿を隠して、何をしていたの?」

「俺は……」

「大丈夫だよ。言いたくないのなら、無理をしなくてもいい」

「いや、必要なことだ、セラフィム。俺はラメド・アンデルと黒リヴラの計画が失敗に向かうように、ことの展開を誘導していた」

「〝ことの展開を誘導〟? まさか、それがお前の能力なのか」

「そうだ、オデュ。俺は喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャーの力を使って、俺達の陣営に敵対する勢力が不利になるように働きかけてきた」

 ルカヴィの脳裏に該当する者達が次々と浮かび上がった――ミカエル、ティラ、黒リヴラ、ラメド・アンデル。

「君の持つ喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャーの能力とは、どんなものなんだい」

「俺の力は、ラメド・アンデルや黒リヴラとは違って、大したことのない能力だよ。俺が喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャーを発動させると、対象を指定することになる。指定された対象者が何かの選択に迫られると、俺が望む結果の方を選択するように誘導することができる。ただ、これは絶対ではない。対象者が揺るぎない決意によって選択を決定しているのだとしたら、いくら俺が働きかけようとも結果を操作することはできない。つまり、何でもかんでも人の意思を自在に操る能力ではないってことだ。ふんっ、どうしてそんな中途半端な能力にしたのか不思議そうだな。俺はラメド・アンデルと黒リヴラに対抗するつもりだったが、自分がメインで戦闘するつもりは無かった。いくら教徒の欠片とはいえ、喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャー1つでは戦力差を覆すほどの願いはできない。俺ではラメド・アンデルにも黒リヴラにも勝てないってわけだ。なんとか俺でも役に立てないかと、俺のちっぽけな頭で考えて絞り出した答えが、今の喜びの欠片フラグメント・オブ・プレジャーの力なんだ」

 ふうとため息をつくルカヴィを、その場の者達は静かに見つめた。しばらく誰も何も言わず、息遣いさえ潜めた。

「ありがとう、ルカヴィ」

 リメド・エイデンの穏やかな声がしじまを切った。

「冥獄に出現した教徒の欠片の真贋は別として、何が起きているのかは確認しなきゃだろうな。ラメド・アンデルのパーソナル・イントラユートピアの阻止はそこで決まるかもしれない。その前に二点確認してもいいかな、ルカヴィ」

 ルカヴィは眉根を寄せて、リメド・エイデンの皺まみれの顔を見つめた。

「なんだ?」

「ラメド・アンデルが適合した痛みの欠片フラグメント・オブ・ペイン。黒リヴラが適合した苦しみの欠片フラグメント・オブ・アゴニー。この二つの教徒の欠片が発動すると、何が起きるか。知っていたら、教えてもらえるとありがたい」

 再び皆の視線がルカヴィに集中した。

「ラメド・アンデルと黒リヴラの能力か。俺が知っているのは、黒リヴラのやつだけだ。苦しみの欠片フラグメント・オブ・アゴニーが黒リヴラに与えたのは、他者の能力を奪う力だ」

 リヴラが眉を顰めて、大きく舌打ちした。

「奪うというのは、具体的にどのようにして行われるんだ」

「リヴラ、すまないが、詳細はわからない。ラメド・アンデルに至っては徹底的に能力を隠している。となると空間支配能力は別として、痛みの欠片フラグメント・オブ・ペインの能力自体が何らかの情報統制を果たす力なのかもしれない。あまり役に立たなかったな」

「いいや、十分だよ。ありがとう、ルカヴィ」

 リメド・エイデンがオデュとセラフィムに向かって頷いた。セラフィムが頷き返した。

「光の柱を目掛けて天使と悪魔と鬼神が向かっている。確実にラメド・アンデルが待ち構えているその場所で、何が起こるか予測がつかない。慎重にとは言えないかもしれないけど、みんな気をつけて。じゃあ、冥獄の状況を確認しに行こう。場所はルカヴィが案内してくれる」

「オーケー、セラフィム。ただ、この大人数の空間移動は俺には無理だ。力を貸してくれ」

 ルカヴィの隣にセラフィムとユイとレイが近づき、ルカヴィに掌を向けた。白銀と漆黒と灰色のオーラがそれぞれ放出されて、ルカヴィの体を包み込んだ。

 ルカヴィの背後に立っていたオデュは、声がして振り返った。

「オデュ、お願いがあるんだ」

 リメド・エイデンが小さく囁いた。

「どうした、リメド・エイデン」

「オデュには別の場所に行ってもらいたい」

「このタイミングでかね」

「いや、このタイミングしかないと思っている。オデュには、聖水を取ってきてもらいたい」

 オデュは眉を顰めた。

「……失敗すると思っているんだな」

「違うよ、オデュ。失敗しない為に、お願いしているんだ」

 オデュはリメド・エイデンの言葉のニュアンスから真意を読み取った。

「何が最悪かの誤認だったな。問題発生防止に注視するあまり、リスクマネジメントを怠っていた。耄碌したものだな」

 深いため息をつくオデュに対し、リメド・エイデンは静かに首を横に振った。

「オデュ、君にしかお願いできない」

「わかった。目的達成の為に、一人連れて行っても問題ないかね」

「もちろん。何よりも重要な任務だからね」

「じゃあ、行ってくるよ」

 オデュは踵を返して人の輪の中心へ歩いて行き、イライの肩を掴んだ。イライが不思議そうにオデュを見ると、オデュはにやりと笑った。

「行くぞ、イライ」

「お、おう……、行こう」

 ルカヴィによる集団空間移動が発動し、リメド・エイデンと戦闘を離脱したアケショナル以外の全員がその場から姿を消した。





 黒リヴラは背後にいるアザゼルとティラをちらりと見た。

「二人共、俺の肩に手を置くんだ」

 アザゼルとティラが手を置くのを見計らって、黒リヴラは両極端の結婚の鬼神カマイサルから奪った能力を発動させた。

「薄現ノーワン・シーズ」

 アザゼルが周辺を見回して眉を顰めた。洞窟の中は何も変わっていない。自分達にも変化は起きていないようだった。

「一体、何をしたんだ?」

「俺達の姿は今、客観では見えていない」

「不可視化の能力か。潜入にはうってつけじゃないか」

 アザゼルとティラが黒リヴラから手を離した。黒リヴラが空間を縦に切り裂き、裂け目の奥に三人は姿を消した。



 黒リヴラ達がやってきたのは冥獄だった。計画がおじゃんになる前に、二人には能力の前提を話さなければならない。

「俺から5メートル以上離れないでくれ。お前達に施した能力が解除されてしまう。あと、会話は控えなくても問題ない。声や音も基本的には隠されるからな」

「不可視化だけじゃないんだな」

「感知不能状態だからな」

「やりたい放題じゃないか。どうしてこれまで使ってこなかったんだ」

「能力発動中は他者への干渉が不可能だ。正直言って、あまり役に立たない能力だよ。敵の背後に突然出現出来たとしても、能力解除後の即再行動ができない。どんなやり方をしても、一瞬の硬直が絶対に起きてしまう。能力の制限なんだろう。硬直状態を襲われておしまいだ。それに存在が無くなるわけではないから、空間支配能力並みの探知能力の前では、何の意味もない」

「じゃあ、何で僕達は不可視化しているんだ」

 ティラがつまらなそうに聞いた。

「今回狙っているターゲットは中々姿を見せない。奴が姿を見せる一瞬のタイミングを見失わないように、見張り続けなければならいからだ」

「退屈そうだな」

 アザゼルが大きなあくびをした。黒リヴラは再度空間を切り裂き、その場から移動した。



 黒リヴラ達が次にやってきた冥獄の一領域には、一人の悪魔が佇んでいた。10メートルほど先にいる悪魔を見て、アザゼルが眉根を寄せた。身長140cmほどの人型の悪魔は全身が紫色の無毛の皮で覆われ、尻尾も翼も無く、大きな黒い瞳でどこかを眺めていた。

「あいつは何をしているんだ」

「奴はベレトの下僕。ベレトの命令通りに動く機械みたいなものだ。俺達が待っているものと同じものを待っているはずだ」

 ベレトの下僕がその場から動かなかったので、しばらく黒リヴラ達も身動きせずにいた。

 突然、閃光によって視界の全てが真っ白に染まり、再び黒い景色に戻った時には、暗黒の空を縦に切り裂く白い光の柱が聳え立っていた。

「何だ、あれは? 冥獄にあんな物は存在しないはず」

「ラメド・アンデルの仕業だ。それより、奴が動いたぞ」

 黒リヴラがゆっくりと前進し出したので、アザゼルとティラも後に続いた。悪魔の背後二歩の距離まで近づき、黒リヴラ達は立ち止まった。ベレトの下僕がしゃがんで地面にかりかりと何かを書いていた。黒く尖った爪で刻んでいたのは魔法陣だった。直径1メートルの魔法陣が完成すると、悪魔が呪文を呟いた。

「spatium」

 魔法陣が黒い光を放ち、円柱状の漆黒のオーラが魔法陣の上に出現した。漆黒のオーラの中から黒いマント姿の男が現れた。ウェーブした黒い髪を肩まで伸ばし、青白い肌をしている。

「ベレト様、あれが出現しました」

 下僕の悪魔が遠くに聳える光の柱を指差した。悪魔王ベレトは険しい顔で周囲を見回してから、光の柱を凝視した。

「ラメド・アンデルは一体何をしたんだ」

「エノキアンに報告しますか?」

「必要ない」

 ベレトが舌打ちして、羽虫が飛んでいるかのように手を振り払った。

「バティンがすぐ様連絡するだろうよ。それよりも、あの光の柱から教徒の欠片のオーラが感じられる。まだ何もアップロードされていないが、何が起きているんだ」

 黒リヴラはそこで薄現ノーワン・シーズを解除した。

「お前が心配する必要はない」

 突然目の前に人が現れてぎょっとし、ベレトは後ずさった。普段なら他者の存在を確認したらすぐ様その場から離脱するのだったが、光の柱の考察に気を取られ混乱していて、ベレトはまともな思考が出来ずにいた。

(空間移動の波動は感じられなかった。どうしてこの場所にいきなり姿を見せたんだ。それにこいつは黒リヴラじゃないか。それに天使と異界の存在も。とにかくこの場から離脱を――)

 ベレトが自問しているのはほんの僅かな時間に過ぎなかったが、黒リヴラ達の体の硬直が解消されるには十分だった。ティラが漆黒の爪で下僕の悪魔を引き裂いた。悪魔は黒い血を吹き出して仰向けに倒れ込み絶命した。アザゼルが赤華の鞭を振るってベレトの両足に巻き付けた。黒リヴラが苦しみの欠片フラグメント・オブ・アゴニーを発動させた。黒リヴラの両眼が青く光り輝き、放射する光線がベレトの両眼に当たった。

 ベレトの視界が真っ青に染まり、ドッと倦怠感が襲ってきてベレトは意識を失ってしまった。

「悪魔王の一人だというのに、呆気ないな」

「所詮この程度だ。肉体的ダメージを与えていないのに、能力を奪えたからな。だが、本番はこれからだ」

 黒リヴラが俯けに倒れ込んだベレトの頭部に右手を置いた。

「夢幻リアリティ・リプレイス」

 黒リヴラが悪魔王ベレトの姿に変身した。

「手に入れてやったぞ。さて、こいつは物質界に残られると困る。用済みだ」

 ベレトの姿をした黒リヴラが黒冠の力を発動させた。ベレトの頭頂部に漆黒のオーラで形成された王冠が出現した。黒い王冠は8本の帯がハーフ・アーチを形成し、アーチ中心部には丸い飾りがつけられ、帯には宝石のような模様が刻まれていた。ベレトの背後に直径5メートルほどの黒い魔法陣が出現し、魔法陣から黒い拳が飛び出した。どこまでも伸びる腕で魔法陣に繋がった黒い拳は勢いよく上空に飛び上がり、そのままの勢いで倒れ込むベレトに拳を叩きつけた。続けて三発が連続して叩き込まれ、漆黒の血が黒い大地に広がった。黒リヴラが能力を解除し、ベレトの姿から元の自分の姿に戻った。アザゼルが赤華で形成した赤い剣を、もはや息絶えたベレトの胸部に突き刺した。

「それで、次はあの光の柱へと向かうのか?」

「いや、鬼神がどうするかを決めてからだ。それに、あの光の中心から感じられるのは教徒の欠片だ」

「何だって? じゃあ、奪いに行けばいいだろう」

「通常の教徒の欠片じゃないはずだ。欠片適格者の俺にはわかる。おそらくラメド・アンデルの痛みの欠片フラグメント・オブ・ペインによるフェイクだ。とにかく今は目的を達成したから、この場から離脱する」

 黒リヴラは右手で空間を縦に切り裂いた。闇の奥にベレトの死骸を蹴り飛ばし、黒リヴラ達はその場から姿を消した。





 冥獄に空間移動すると、大気を震わすような喊声が響き渡り、武器がかち合う激しい音が四方八方から絶え間なく聞こえ、魔術などの異能による爆音が次から次へと周囲に巻き起こった。地上も空中も無数の天使と悪魔に埋め尽くされ、飛散した埃と塵が視界を不鮮明にし、迸る白銀と漆黒の鮮血のむせ返るような臭気で呼吸困難になりそうなほど空気は重く陰鬱としていた。ルカヴィによって案内されてきたのは騒ぎの中心から少し離れた場所だった。その場にオデュとイライの姿が無いことを不思議に思う者がいたが、それどころではなかった。冥獄の状況は異常だった。元凶は視界の先に立っている白い光の柱――更にその中心で一際目立っている緑と紫の二つの欠片だ。暗黒の世界の空を縦に切り裂いている白い光は、視界が悪いのとは関係無しに目を引いた。それほどに黒が支配する中での白い光は異質で、これまでに前例が無い状況だった。各人が驚いて周囲を見渡していたが、混戦の中で無事にその場に居続けるのは不可能で、滑空する天使と悪魔が相手構わずに襲いかかってきた。

 ベルンハルトが前方から向かってくる悪魔目掛けて破滅の刀を抜き払った。悪魔が一刀両断されて地面に落ちた。ベルンハルトはそのままの勢いで背後に迫っていた天使の胴体を斬りつけた。人形のように半身が別れた天使が地面に倒れ絶命した。天使と悪魔の数は膨大で、切りがなかった。

 セラフィムが目の前に迫った悪魔の顔面を殴りつけて、喧騒に負けないように声を張り上げた。

「柱の教徒の欠片に、近づける者だけでも確認しにいこう!」

 セラフィムが空中に飛び上がり、邪魔者を殴り飛ばしながら光の柱へ向かって飛んでいった。ユイとレイがすぐ後に続き、エクスとロリアンが空中に浮かび上がり三神の後を追った。エクスが背後に視線を感じて地上を見ると、ルカヴィと目が合った。ルカヴィが首を振るのを見て、エクスは意図を察し頷いてみせた。

(確かにルカヴィのフラグメント・オブ・プレジャーの能力は、敵と面と向かってでは不利かもしれない)

 アクトが白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを振り上げて発射した衝撃波が空中の天使と悪魔を薙払い、光の柱への道が生まれた。三神とエクスとロリアンは柱に向かって、アクトの作った空隙を凄まじい速さで通り抜けていった。アクトがはっとして振り返ると、背後に近づいていた悪魔が俯けに倒れ込んだ。悪魔の背後に漆黒のオーラを纏ったリヴラが立っていた。

「リヴラは行かなくていいんですか?」

「私の能力では、あの距離を飛翔し続けるのは無理だ。それに何が起きるかわからないからね。一つにまとまるよりも二手に別れた方がいいかもしれない」

「わかりました。じゃあ、僕達はこの場で敵に対応しつつセラフィム達を待ちましょう」



 セラフィムの前方には多くの天使が集まっていた。悪魔の数は膨大だったが、どうやら戦力としては天使の軍勢が優っているようだ。光の柱の周囲には天使が陣取り、近づいてくる悪魔を即座に倒していた。セラフィム達の目的は教徒の欠片の獲得ではなかったので、空中で静止して何が起こるかを待った。セラフィムがユイに何かを耳打ちし、ユイがその場から空間移動して姿を消した。天使達がセラフィム達の方を見たが、それ以上近づいてこないことが分かると視線を光の柱へと戻した。

 黒髪の天使ザカリエルが光の柱に近づいていった。背後から二体の悪魔が襲いかかったが、一体はミカエルの黄金の剣で両断され、もう一体はアサラデルの過重力によって地面に叩きつけられた。

 冥獄の黒い大地の丘の中心にある隆起した部分から、直径3メートルの白い光の柱が空高く伸びていた。その高さは際限なくどこまでも暗黒の彼方にまで続いていた。光の柱には実体が無く、何らかのエネルギーによって視覚化されているだけのようだった。地上から200メートルの高さの光の柱の中に、混乱の元凶とも言えよう教徒の欠片が浮いていた。二つの欠片はそれぞれ緑と紫に発光している扇型の結晶で、エメラルドとアメジストのようだったが、白い光の中で浮遊しながら鼓動のように明滅して、その度に白い光の柱を緑と紫に怪しく染めている姿は宝石とは全く異なる意志を持った未知の物体のようで、だからこそ教徒の欠片に間違いないように思えた。

 ザカリエルが教徒の欠片の前まで飛んでいき、翼を羽ばたかせながら空中で静止して、ゆっくりと両手を光の柱へ近づけていった。光の柱の中に入り込むと両手が白く染まったが、痛みや苦しみといった異常は何も起きなかった。ザカリエルはそのまま教徒の欠片に手を伸ばした。指先が教徒の欠片に触れた瞬間、緑と紫の強い光が放射され、爆発音と同時に空間の全てが異様な二色に染め上がった。





 ラメド・アンデルは光の柱の中心に埋め込んだ二つの教徒の欠片の近くに空中浮遊し、周囲を見渡した。向かってくるのは天使と悪魔と鬼神で、最も多いのが天使、次に悪魔、鬼神は少数精鋭らしい。

(鬼神はおそらく黒リヴラの影響で控えめな態度なんだろう。天使はやる気満々だな。上級クラスのセクンダデイとイスキンが揃って向かってくるじゃないか。悪魔は四魔王のガープの軍勢しか光の柱に集まってきてはいないようだな。いいじゃないか。予想通りだ)

 ラメド・アンデルは空間支配能力を発動させ、自分の現在地座標の不可視化プログラムを打ち込んだ。

(教徒の欠片出現によって、二つの目的のうち一つは果たされた。私以外の適格者は黒リヴラとルカヴィ。この二人は確実に私のパーソナル・イントラユートピアに取り込まないといけないな。さて、その為にも、もう一つの目的を果たすとするか)

 天使ザカリエルが教徒の欠片に触る瞬間を見計らって、ラメド・アンデルはあらかじめ組み込んでいたプログラムを発動させた。緑と紫の閃光が迸り、ばりんという衝撃音とともに光の柱の中の教徒の欠片がばらばらに砕け散った。ザカリエルを筆頭に光の柱周辺の者達の動きが硬直したが、プログラムはまだ始まったばかりだった。二つの教徒の欠片は跡形も無く消滅し、白い光の柱がすうっと消え失せた。出し抜けにラメド・アンデルの姿が出現し、その背後に巨大で異様な物体が現れた。

「刮目せよ! 三獄の有力者達よ!」

 直径3メートルの白い円球が10個空中に浮かび上がり、中心に4つ、左右にそれぞれ3つずつの三列に整列され、各円球は白い線で近くの円球に繋がれていた。黒い空に描画された巨大な白い図は空間把握能力によって視覚化される白いラインに似ていたが、その場にいた全ての存在に見ることができた。先刻までその場に屹立していた光の柱のように、10個の球体は白く光り輝いていた。

「さあ! パーソナル・イントラユートピア実現へのカウントダウン開始だ!」



 セラフィムは目を大きく見開いて、呟いた。

「セフィロトの樹だ……」

 エクスはラメド・アンデルを睨みつけて、大きく舌打ちした。

「あれはセフィロトの樹の偽造品! 縦世界のシステムを利用して、新たな世界を生み出そうというのか」



 ラメド・アンデルの背後に出現した巨大な図形を目の当たりにして、リヴラはへなへなと頽れた。アクトは両膝をついたリヴラと異様な魔法陣とを交互に見て聞いた。

「一体、どうしたんですか、リヴラ」

「おそらく、あれはセフィロトの樹だ。本物ではないが、何らかの近しい力を有しているはず。ラメド・アンデルは、教徒の欠片だけでなく、こんなものまで用意していたのか」

「何なんですか、それは」

 唖然として答えないリヴラを見兼ねて、アクトの背後にいたカタリスが犬の口を開いて答えた。

「四界は知っているだろ、アクト。物質界、形成界、創造界、原形界を構成し、繋いでいるのがセフィロトの樹と呼ばれているシステムで、本来なら隠れて表示されていないプログラムのようなものだ。空間把握能力によって見えるようになる空間へ書き込まれたプログラムと似ているが、空間把握能力レベルの空間系能力でも見ることは不可能だ。あれは模造品で、本物ではないが、おそらく世界の構造を限定的に操作する力があるのかもしれない」

 アクトは研ぎ澄まされた視覚によって、白い円球の中に何者かがいるのに気づいた。

「何なんだ、あれは……」

 どうやら人間のようで、その正体に気づいてアクトは思わず毒づいた。

「まるで、あれじゃあ生贄のようじゃないか」

 アクトの言葉で、他の者達も目を凝らしてみた。ニティブスとカタリスとマストとレミエルとルカヴィがその正体に気づき、愕然とした。



 〈時空の彼方〉のディスプレイの一つには、冥獄の暗黒の光景が映し出されていた。ディスプレイの前に立つフィートの周囲も、降り積もる白い光の粒子は別として、何処までも何も無く暗い世界が広がっている。ディスプレイの映像が一変し、不気味な魔法陣のようなものが映し出された。フィートは嫌な予感がして、眉根を寄せて食い入るようにディスプレイを見つめた。白く発光する円球の中に誰かが埋め込まれていて、その正体に気付くとフィートはディスプレイを思い切り殴りつけた。

「ふざけるなっ! おい、テトラモルフ。見てるんだろ、出てこい!」

「フィート」

 背後から中性的な声がして、フィートは振り返った。白い獅子がこちらをじっと見つめていた。

「テトラモルフ・ミカエル、あれはどういうことだ」

 フィートはそう言って、親指で背後のディスプレイの中を指した。

「フェイトの三人は大丈夫。アクト達を信じて待とう」

 フィートは舌打ちして、ディスプレイに映し出されている冥獄の出来事の展開を見守った。

「ラメド・アンデルのくずめ」



 鬼神サリルスはラメド・アンデルが出現させたセフィロトの樹の模造品を見て、深いため息をついた。

(やはり、教徒の欠片は囮に過ぎず、本命はあれというわけだ。もうここに用は無い)

 連れてきた仲間とその場を離れようとして踵を返して数歩歩くと、目の前に見えない障壁が立ち塞がった。仲間の一人が空間移動を発動させたが、すぐに発動がキャンセルされてしまっていた。

「真窓レイヤー・ペネトレイト」

 いつも通りに能力は発動したが、窓の境界に不可視の障壁が発生していて、その場からの離脱が不可能になっていた。嫌な予感がして、サリルスは遠く空中に浮遊しているラメド・アンデルを見据えた。



 悪魔王ガープは全身真っ黒のタキシードを着た色黒の男悪魔で、オールバックにした金髪は艶めいていた。ぎらりと光った金色の瞳で、ガープは前方にいるラメド・アンデルを鋭く睨みつけた。部下の悪魔が十数体ラメド・アンデル目掛けて空中を疾走したが、一瞬にして位置を移動させられて行動開始前の状態に戻されてしまっていた。背後の悪魔達に確認させると、不可視の壁が展開していて、それ以上後退することが不可能になっていた。

 セフィロトの樹に似た立体魔法陣を構成する白く輝く球体の発光が弱まっていくと、中心に灰色のシルエットが浮かび上がり次第に影は黒くはっきりとなっていった。球体は全部で10個あったが、何かが埋め込まれているのは8個だった。逆光が無くなったことで影の正体が露わになり、ガープは驚愕した。球体には悪魔や鬼神、天使や異界の人間種族どもが埋め込まれていた。



 カタリスがぎりぎりと歯ぎしりして、まるで眼前にいるかの如く遠くのラメド・アンデルを睨みつけた。

「全ては、あの歪な術式の為だった、というのか」

 カタリスが低い声で唸り続けているので、アクトが肩に手を置いて宥めた。

「落ち着け、カタリス」

「いいや、この感情は簡単に抑えることはできない。激しく猛り狂うこれは、俺だけの物ではないからな。かつての情熱の残余、とでも言えようか」

「誰かの願いを叶えてあげている、とでもいうのか、カタリス」

 アクトがよくわからずに聞いても、カタリスは前方を見据えたままで何も答えなかった。アクトが確認すると、ラメド・アンデルの周辺で奇妙なことが起きているようだった。ラメド・アンデルに向かって飛翔している天使と悪魔が瞬時にして空間移動したかのように元いた場所に移動していて、反対方向へ向かう者達はそれ以上前進出来ずにいるようだった。球体の中心にあったシルエットが見て取れるようになるのと同じタイミングで、遠く離れた場所で声を張り上げてラメド・アンデルが話し出した。その邪悪な内容に、アクトは目と耳を疑った。



 ラメド・アンデルは空間支配能力によってプログラムを発動し、セフィロト・サインを目にしている全ての存在に声が届くようにした。そこで向かいくる天使や悪魔、その場を離脱しようとしている鬼神や異界の者達を含めた各陣営を盛大に嘲笑った。

「セフィロト・サインを見せたからには、とことん付き合ってもらおう。誰であろうと、大魔王との戦闘に突入したら〝にげる〟を選択することはできないんだ、常識だろう?」

 空中に浮かんでいるラメド・アンデル目掛けて、天使と悪魔、更にセラフィム達が近距離攻撃もしくは遠距離攻撃を仕掛けた。ラメド・アンデルに近づいた敵は元いた場所に戻されて、遠距離攻撃の悉くがラメド・アンデルを外れてあらぬ方向へ飛んでいってしまった。別の場所ではその場から離脱しようとした者が見えない障壁に阻まれ、空間移動は不発によって不可能になっていた。

「無駄だよ。私が出てきたんだぞ。もう、これで終わりだ」

 セフィロト・サインを構成している球体の発光がぱっと消失し、埋め込まれていた者達の姿が露呈した。ラメド・アンデルがセフィロト・サインに埋め込んだのは、天使アメルス、天使ラティエル、鬼神コロパティロン、鬼神ゼファル、悪魔ボティス、アテピス、クロト、ラケシスの8人だった。空白の球体は残り2つのみ。

「さあ、次は君達のターンだ。おすすめの作戦はこうかな。力の温存なんて考えず、初っ端から各自最強の技で〝こうげき〟だ」

 セクンダデイとイスキンの各天使が次から次へと能力を発動させたが、ラメド・アンデルには何一つ直撃せず、それぞれが自ら攻撃を外していた。天使に続いて、セラフィムとレイとエクスとロリアンが攻撃しても、天使の二の舞になってしまった。悪魔の陣営が静観しているのを見て、ラメド・アンデルはにやりと笑った。

「ガープ、称号が泣いてるぞ。悪魔王が〝ぼうぎょ〟の選択なんて駄目だ」

「黙ってろ、異邦人が」

「それなら、闘わざるを得なくしてやる」

 空間支配能力によって、ラメド・アンデルと悪魔達だけを隔離したプライベートフィールドが作り出される。景色は何も変わらないが、不可視の障壁が構成する世界の隔絶によって、何者も出入不可能となった。セラフィムが白銀のオーラを纏った拳で思い切り空中を殴りつけると、低い衝撃音がごんっと響き渡ったが、ラメド・アンデルとガープの方へ近づくことはできなかった。セラフィムの姿をちらと見て、ガープは小さく舌打ちした。ラメド・アンデルにはガープの心中が手に取るようにわかっていた。葛藤した挙句、何を選択するのかさえお見通しだった。

(お前に残された時間軸は限られている。さっさと切り札を使って来い)

 ラメド・アンデルは歪んだ笑みを浮かべた。

 ガープは空中浮遊する正面のラメド・アンデルを睨み付けた。

(ギャラリーが注目する見世物のような状況の中、俺が動かないといけないというのか。あの異邦人のくそばばあが)

 ガープは自らの能力を発動させた。ガープの頭上に、漆黒の王冠が出現した。放射状の王冠には、正面に3つ、後部に2つ計5つのフルール・ド・リスが飾られていた。5つの百合の根元に当たる輪の部分は正面が半円形に広がっていて、そこに宝石を模るデザインが刻まれていた。ガープの全身が赤黒いオーラに覆われ、その場から姿が掻き消えた。一瞬にしてラメド・アンデルの目の前に移動したガープは振りかぶった拳で敵の顔面を殴りつけた。拳は空を切り、ラメド・アンデルは左手の方に離れて浮遊していた。ガープはやれやれと首を振った。

「お前の能力とは相性が悪い。同質の空間系能力者か、時を司る能力者でもない限り、知的存在がお前の能力に対抗するのは無理だ」

「さすが、魔王。よく勉強したじゃないか。それで攻撃を中断したということは、もう降参かな」

「いや、降参するぐらいなら、情報漏洩する方がましだ」

 ガープの言葉に悪魔達を含めたその場の各陣営が眉根を寄せたが、ラメド・アンデルだけは笑みを浮かべていた。ガープが指をぱちんと鳴らすと、空中浮遊するガープの足元の地上が低い地響きとともに揺れ始めた。冥獄の黒い大地がひび割れ、石片の飛散を伴って地の底から何かが飛び出てきた。ガープの横に姿を見せたのは角の生えた大きな頭部だった。全長10メートル程の巨大な種族は黄土色の硬質な鱗に全身を覆われていて、鋭い棘が生えた翼を羽ばたかせながら飛んでいた。ガープはオーラを纏った右手をドラゴンの首に向けて、赤黒いオーラの塊を発射した。ドラゴンの頭部近くの首にぎざぎざの首輪が出現し、ドラゴンの黄色い瞳が光を失い白濁した。ドラゴンが咆哮して、ラメド・アンデル目掛けて突進した。ラメド・アンデルの眼前にドラゴンが移動し、鋭い牙がずらりと並んだ顎をがちんと噛み合わせる。間髪入れずに、ドラゴンが尾を振るってラメド・アンデルを後方に吹っ飛ばした。見えない障壁にぶち当たったラメド・アンデルはぺっと口から赤い血を吐き出し、切り裂かれた左肩をちらと見てからガープを見据えた。

「ベルセルクル……」

「その通り」

「忌まわしき男だな、魔王ガープ」

「異邦人のお前に言われる筋合いは無い。空間支配能力の真髄は知的存在に強く影響を与える。忘我の底に落ち込み、凶暴な獣に堕ちたドラゴン相手では、お前の空間支配能力も効果が半減してしまうだろ」

 狂戦士と化したドラゴンがラメド・アンデルに襲い掛かった。ラメド・アンデルがその場を離脱するよりも早く、ドラゴンの鋭い爪が振り下ろされた。ラメド・アンデルの両足が切り裂かれ、赤い血飛沫が飛んだ。ばきんという破裂音と共に障壁が粉々に砕け散り、ラメド・アンデルが展開していたプライベートフィールドは消滅してしまった。

「お前は自らがコンテキストアウェアネスの中心となるようにしてシステムを構築しているようだが、プログラムの根幹である空間支配能力が起動できなければ無力だ」

 ラメド・アンデルは咳き込みながら龍族の後方にいるガープを見据えた。

「こと戦闘力においては、承知済みだよ。私は上級クラスのセクンダデイやイスキン、四魔王や領域統治者の鬼神達よりも弱い。でも、私は今のこの能力を選択する必要があった……。今更、自らの脆弱性を後悔するつもりはない。それに個人の凄まじい力とは無関係に、多くの情報を有するか否かが勝敗を決するんだよ」

 ラメド・アンデルが右腕を上げて掌を上に向けると、直径10センチ程のオーブが出現した。手の上の空中で浮遊する漆黒の球体は光沢を帯びていて、ゆらゆらと揺らめく漆黒のオーラに覆われていた。ラメド・アンデルの前方にいたドラゴンが黒のオーブを目にすると、漆黒の光にドラゴンが覆われて、次の瞬間には倒れ込む一人の人間の姿に変貌してしまった。黒い光は消失し、気絶した裸の女性はゆっくりと空中を移動しながらラメド・アンデルの方へ近づいていった。ガープは愕然として、ついさっきまでドラゴンの姿だったはずの人間の姿を目で追っていった。

「お前の持つ隠し球が、古来種の龍族だというのには気づいていた。龍族は抑えきれない力が暴走しないように、自分達にセーフティプログラムを組み込んである。私の持っている黒のオーブは、プログラム起動装置だ。これを見た龍族は人間の姿に変身して、本来の力の多くが封印される。流石のお前でも、異界の存在に関して多くは知らなかったようだ」

 ラメド・アンデルは今や人の姿のドラゴンの腕を掴み、その場から空間移動して姿を消した。セフィロト・サインの空白のオーラムの正面に移動してきたラメド・アンデルは、裸の女を光球の中心に投げ込んだ。龍族の全身はオーラムに取り込まれて姿が見えなくなったが、すぐに上半身だけが押し出されるように中心から出てきて、頭部から胸の辺りと両肘までが露出する形で収まり、他の8つのオーラムと似たような状態が作り出された。これで空白のオーラムは、残すところあと1つとなった。

 ラメド・アンデルは満足そうににやりと笑みを浮かべ、セフィロト・サイン周辺を見渡した。

(異界の有力者なら適格者となれるエネルギーを内在しているが、白仮面の軍勢を取り込むのはもはや難しいかな。ヌクテメロンの統率者サリルスならどうだ。……いや、無理か。もはや、あれは私の傀儡ではなくなった。さて、どうする)

「さあ、残り1つだ!」

 そう言いながら視線を巡らすと、はっと気づいた。

(なるほど、そうか。ちょうどいい奴の近くに、都合のいい奴がいるじゃないか)

 ラメド・アンデルはもはや決定された結末を予感し、邪悪な笑みを浮かべた。

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