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欠片適格者

 ベルンハルトは新世界救済教会の自室で深いため息をついた。部屋は20平米ほどの広さで、壁と床はダークブラウンに統一され、オーク材の机と椅子と二口の扉がついた収納ケース以外には何も置いていないのでスッキリしていた。奥行き60cm幅120cmの机には向かい合わせで二つの椅子が置かれ、壁際に置かれた方の椅子にベルンハルトは座っていた。ベルンハルトから見て右側の壁の大きな窓からは日差しが射し込んでいて、照らされた床が白く光っていた。ベルンハルトの髪は茶色で、似たような色の茶色いスーツを着て、腰には白く輝く刀が括られている。ベルンハルトは眉根を寄せて、足を組み直し、髪の生え際をギュッと親指で押して頭痛を誤魔化した。

 トントンと扉がノックされ、ベルンハルトは俯いていた顔を上げた。ベルンハルトの正面にある部屋の扉が開けられ、白いローブ姿が入室してきた。ベルンハルトはびっくりして、立ち上がった。

「お前っ! 何故ここに!?」

「やあ、久しぶり」

 白いローブを着てやってきたのは、リヴラ・ジヴァニトゥムだった。

「一体何があったっていうんだ、リヴラ。どうしてこちらの世界にやってきたんだ?」

「いやなに、ベルンハルトの話が聞きたくてね。新世界救済教会のおかげで、こちらの世界〈ニューアース〉は落ち着いているみたいじゃないか」

「ふざけるな、リヴラ。それだけではないんだろ。それに、なんだその格好は? 何故、〈秩序〉サイドである白いローブなんて着てるんだ? お前は調停者として、中立だったんじゃないのか」

「そうだぞ、ふざけてる場合などではない」

 そう言って、リヴラの肩に乗っていた有翼の亀デウスがリヴラの後頭部に突撃体当たりした。頭を押さえながら喋り出すリヴラに、ベルンハルトは呆れて首を振った。

「このローブについては後で話すとして、君は今、厄介事に悩まされてるんだろ、ベルンハルト」

「まさか、お前が言及するということは、異界が関係しているとでもいうのか?」

 リヴラは両手の平を上に向け、肩をすくめた。

「さあね、聞いてみないと判断のしようがないな。僕は傍観の神ではないからね」

 リヴラがにやりと笑った。ベルンハルトはため息をついて、椅子に座った。

「わかった、話そう。座ってくれ、リヴラ」

 リヴラはベルンハルトの向かいの席に座った。

「あれから、1年経った」

 ベルンハルトの話にリヴラはコクリと頷いた。

「客観時間でもう1年か。早いね」

「ああ。今思えば、あっという間だ」

 ベルンハルトはリヴラが去った後の事を語り始めた。かつての教会――言うなれば旧・新世界救済教会がコントロールしていた瞬間転送という移動システムが崩壊してから、世界を復興させる為にベルンハルトは今の新世界救済教会に所属していた。ベルンハルトは教会の象徴――聖女マリアをあらゆることから守ることに決めた。全てを知らない多くの民衆にとっては、旧・新世界救済教会の象徴でもあったマリアが諸悪の根源だと主張するのは当然なのかもしれないが――とにかく、ふざけた野郎共からマリアを守るのが最優先だった。もちろん現実から逃げ出すことはできないし、教会の立場も危うかったので、教会の体制を新旧として改め、ギルドと協力して崩壊し混乱する世界の復興を目指した。今では人々の教会のイメージは、完全に旧体制と新体制とで区別されているし、新・新世界救済教会はその呼称通りの印象を保っている。

「素晴らしいブランド戦略といったところだね」

 リヴラの言葉にベルンハルトはふんっと鼻を鳴らし、有翼の亀デウスはリヴラの後頭部に突撃体当たりした。

「茶々を入れるな、馬鹿め。無視して続けてくれ、ベルンハルト」

 ベルンハルトはため息をついて、再び話し始めた。

「まあ、世界は瞬間転送のシステムから卒業し、何とかやっていけるようになったというわけだ。教会とマリアにも平和がやってきて、かつてのように悪魔と戦うことなんて無くなった。ギルドは今の新・新世界救済教会の一部となって取り込まれ、それまでのギルドメンバーの多くが教会に所属しているよ」

「順風満帆じゃないか。それで、問題はなんなの?」

 リヴラの言葉に、ベルンハルトは眉を顰めて、うぅんと唸った。ベルンハルトは世界で勢力を強めている、ある団体に懸念を抱いていた。不老不死になりましょう――なんていう眉唾物のアンチエイジングを掲げる怪しげな団体だった。

「株式会社ポジティブシンキングって、知ってるか?」

「いや、聞いたことないな。単なる企業じゃないのかい」

「俺もよくわからないんだ。昔からある会社なんだが、最近なんか様子がおかしい気がするんだ」

 株式会社ポジティブシンキングは、かつて旧・新世界救済教会時代に医療品化粧品のメーカーだった。(株)PTは、旧・教会時代には注目されることはなかった。だが、今の新・教会時代になると、すぐに頭角を現し始めた。(株)PTに関して、不可解な点が二つある。真偽は定かではないが、人類の不老不死、空間転送の実現という、あり得ない噂がネット上で流れていた。(株)PTの製品を使用することで、不老不死を体現できるらしい。肌のシワは消えて、ハリとツヤが復元され、自浄作用によって病気から解放され活力に満ちるという。PTの会員は、世界のPTの支社間を空間転送と呼称されるシステムによって、一瞬で移動可能だという。それはまるで、かつて旧・教会時代に瞬間転送スペースサーフィンと呼ばれていた、どこにでも一瞬で移動できるシステムの復活のようだった。

「デマや都市伝説の類ではないんだね」

「定かではないがな」

「ベルンハルト、私が〈ニューアース〉にやってきたのは、君の力を借りたいからなんだ。それには、その株式会社ポジティブシンキングのトラブルを解決しなければならないな」

「どういうことだ、リヴラ。ポジティブシンキングが何か関係あるのか? 俺に何をさせるつもりだ」

「直接的な関係はないのかもしれない。ただ、不老不死もしくは空間転送のどちらにしたって、空虚な嘘にしては内容が現実的過ぎる。危険なのは、無関係の者では知り得ない情報が見え隠れしている点だよ、ベルンハルト。君にはポジティブシンキングに潜入してもらう必要があるね。私も出来る限りは協力するよ。その代わり、全て解決したら、君の力を貸してもらう。というより、君にはもう一つの世界に行ってもらう」

「なんで、リヴラの世界〈ヴェッセル〉に行かなければならないんだ。教会やマリアを置いて行けって言うのか」

「大丈夫。問題が解決すれば危険は排除されるし、保険として〈秩序〉の信奉者テトラモルフにも守り手としてお願いしておくから」

 ベルンハルトはため息をついた。

「そうするしかないってことか。それで、俺はどこに何をしに行くんだ?」

「まず、君に行ってもらうのは〈ヴェッセル〉ではなく、〈デルタ〉だということだ」

 ベルンハルトは眉を顰めた。

「〈デルタ〉――何処だ、それは?」

「君にはまだ、世界の真実を伝えていなかったね」

「何だそれは、世界の始まりについてでも議論するつもりか。宇宙は137億年前に無から誕生したんじゃないのか」

「そうか、それでは、その宇宙誕生の一瞬前には時間も空間も無いわけだろうが、今のこの宇宙の時間や空間や物質やエネルギーはどのようにして齎されたのだろう」

「………」

「いいか、ベルンハルト。君にとってのこの宇宙というのは、つまり地球〈ニューアース〉は、自己完結した世界ではないのだよ。〈秩序〉によって外側から齎されたものによって、不完全な世界が形成された」

「一体、何が言いたいんだ、リヴラ?」

「私が言いたいのはね、ベルンハルト。世界はまだあるということだ」

「何だって?」

「地球〈ニューアース〉と偽器〈ヴェッセル〉の他に、世界がもう一つある。それは三獄〈デルタ〉と呼ばれている」

「それなら、ビッグバン以前の無の世界に、その世界以外から何かがやってきたということか」

「納得いかないといった感じだね。確かに、空っぽの空間から宇宙は生まれたというイメージが先行しがちだが、それは誤解だね」

「当然だ、空間そのものも宇宙誕生と同時に誕生したわけだし、それ以前には存在していなかったはずだ」

「そう、無とは、文字通り物理的にも論理的にも存在していないという意味のはずだ。北極点よりも北には何があるか、という問いと同じだね」

 リヴラがにやりと笑うと、デウスがリヴラの側頭部に突撃体当たりした。ベルンハルトは訳が分からず、眉を顰めた。

「では、〈ニューアース〉よりも先に誕生したという〈デルタ〉に、俺は何しに行くんだ」

「それこそ、この白いローブに関係しているんだよ。〈デルタ〉は、〈ニューアース〉と〈ヴェッセル〉とは異なる三つ目の世界だ。〈デルタ〉は三獄とも呼ばれ、それは〈デルタ〉が天獄と煉獄と冥獄という三つの領域で構成される世界だからだ。それぞれの領域はある種族が支配している。それぞれ、天獄の天使、煉獄の鬼神、冥獄の悪魔で、彼らは相入れることなく長年敵視しながらも三つ巴の状態が続いていた」

「ちょっと待て。天使や悪魔って、そんな奴らの世界があるっていうのか」

「もちろん。その彼らの世界〈デルタ〉に、最近異変が起きた。教徒の欠片というエネルギー結晶体の出現が、三つ巴のパワーバランスの崩壊に繋がりそうで、各種族が互いに相手を出し抜こうと動き始めたんだ」

「要するに、天使と悪魔と鬼神の間で戦争が勃発したわけか」

「争いの発端となっている教徒の欠片の所在が不明な為、大事に発展はしていないけど、戦いはいつ激化してもおかしくない」

「そんな世界に俺が行って、役に立つというのか?」

「既にセラフィムやレイとユイ、〈ヴェッセル〉の勇者達が〈デルタ〉に潜入しているよ」

「スケールがでかすぎるな」

「君の力が必要な局面があるんだ、頼むよ」

 そう言って、リヴラはベルンハルトに白いローブと白い仮面を差し出した。

「何だこれは?」

「〈デルタ〉では、この白いローブと仮面を身につけて変装してくれ」

「何の為にだ?」

「天使と鬼神と悪魔は、他種族を蔑視している。正体を隠して、無用な争いを避ける為だよ。それに、ユニフォームを統一することで一体感が生まれ、敵対者へのアピールにもなるだろう」

 ベルンハルトは渋々白いローブと仮面を受け取った。リヴラはにこりと笑って、空間移動を発動させた。

「ポジティブシンキングは任せたよ、ベルンハルト。また、迎えに来るよ」

「相変わらず無責任な奴だな」

「あはは、ベルンハルトも相変わらずだね」

 リヴラの姿が不鮮明になり、その場から消失した。

 ベルンハルトはため息をついて、携帯端末でポジティブシンキングについて調べ始めた。





 リヴラ・ジヴァニトゥムは、片割れのリヴラ――言うなれば〝黒リヴラ〟のとてつもないエネルギーを感じ取った。波動は一瞬で掻き消えたが、リヴラが理解するには十分だった。

(最悪なことに、黒リヴラが教徒の欠片を獲得してしまった。上級クラスの天使や領域統治者の鬼神も教徒の欠片が適格者を選定したことには気づいているはずだ。だが、誰が手にしたかまでは、私にしかわかるまい。それぞれ自分達の仲間に適格者がいないとなれば、天使と鬼神と悪魔は何としてでも敵対者の適格者を見つけ出し、教徒の欠片の力を発揮させる前に殺そうとするだろう)

「おい、リヴラ。聞いているのか?」

 サリルスの声にリヴラははっとし、目の前のことに意識を集中させた。

「すみません。既に多くの鬼神が私の片割れ――黒リヴラと呼び分けましょうか――に寝返ってしまっているということですよね」

「うぅむ」

 鬼神サリルスは返事の代わりというように唸り声を上げた。

 リヴラは万鬼殿のサリルスの自室にいた。灰色で統一された部屋は50平米ほどの広さで、室内中央に直径3mの灰色の円卓が置かれ、円卓には12脚の灰色の椅子が置かれている。円卓に集っているのは、扉を開け放つ鬼神サリルスとリヴラ・ジヴァニトゥム、そしてアケショナル・ラストアとイライ・クルドだった。

 サリルスが空中に右手を突き出すと手首から先が消失した。腕を引いて再び右手が出現すると、灰色のゴブレットが握られていた。サリルスはゴブレットの中身を飲んで、ため息をついた。

「4時の領域の鬼神は、全て黒リヴラの手下と化しておる」

「となると、あの毒の鬼神達の領域全てが、か」

「そう、お前達が戦った時に既に、4時の領域は我々の領域ではなくなっていたわけだ。それ以外の領域の何柱かも怪しい」

「実際にどこの領域の鬼神が敵か否かわかれば、対処は明確になるんですけどね」

「それには俺が答えよう、錬金術師リヴラ・ジヴァニトゥム」

 背後から声がして、リヴラ達は振り返った。一柱の鬼神が扉の前に立っていた。

「来たか、カタリス」

 灰色のローブを着た鬼神カタリスの顔は、犬の顔だった。カタリスはリヴラ達の隣に、サリルスと向かい合う形で席に座った。

「紹介しよう、10時の領域を統治する犬の鬼神カタリスだ」

「どうも、見たまんまのつまらん異名でお恥ずかしい」

 アケショナルとイライは眉を顰めて、リヴラは苦笑いした。

「サリルス、この犬の顔の彼が敵対者を把握しているというわけですか」

「まあ、話を聞いてみてくれ」

 そう言って、サリルスはゴブレットの中身を飲んでから、促すようにカタリスに向けてゴブレットを数回傾けた。

「では、異界の皆さんには、煉獄の現状を把握して頂こう。大したことはない。知る者なら、天獄の天使や冥獄の悪魔さえ承知している事実だよ。順番に1時の領域からいこうか。領域統治者は審判の鬼神シンブクだ。1時の領域の鬼神は全員健在だ。2時の領域統治者は不在で、審判の鬼神シンブクが暫定的に兼任している。2時の領域では、2柱の鬼神が所在不明となっている。3時の領域統治者は不在で、2柱の鬼神が所在不明となっている。4時の領域統治者は混乱の鬼神タグリヌスだ。先刻の話の通り、4時の領域は全員謀反し、2柱の鬼神が消滅している。5時の領域統治者は鬼神バルクスだが、所在不明だ。そのせいか、5時の領域には何柱かの裏切り者がいるかと思われる。6時の領域統治者は自由意志の鬼神タブリスだ。タブリスが暫定的に3時の領域を兼任している。7時の領域統治者はそこにいるサリルスだ。7時の領域では、1柱の鬼神が所在不明となっている。8時の領域統治者は鳩の鬼神アルフンだ。8時の領域では、1柱の鬼神が消滅している。9時の領域の鬼神は全員所在不明だ。10時の領域統治者は俺だ。俺が暫定的に9時の領域を兼任している。11時の領域統治者は託宣の鬼神ファルドルだ。12時の領域統治者は宮廷の食卓の鬼神ハハブだ。ハハブは階級だけの役立たずだから、12時の領域の鬼神が何柱か寝返っているのは間違いないだろうな」

 カタリスの言葉にサリルスが眉根を寄せて唸った。

「教徒の欠片が何者かの手に渡ったかもしれん現状では、まずは鬼神の敵対者を排除しつつ欠片の適格者を探していくしかないであろう」

「鬼神の敵対者というのは、黒リヴラに寝返った鬼神ということですね」

 カタリスが犬の口を大きく開けて笑い声を上げた。

「錬金術師殿、もちろん裏切り者は許さんが、敵は天獄にも冥獄にもいるでしょう」

「カタリスの言う通りだ、リヴラ。お前達にやってもらいたいのは、敵対鬼神の討伐、欠片適格者の調査、欠片捜索中の天使と悪魔の妨害だ」

「わかりました、サリルス」

「まずはカタリスにどこに向かうべきか聞いてくれ。カタリス不在の間は、9時と10時の領域の監視は私がしておこう」

 リヴラは頷き、視線を横に向けると隣でカタリスがにやりと笑った。カタリスが立ち上がり、リヴラ達についてくるよう促した。カタリス達はサリルスの部屋から出ると、カタリスの展開する空間移動によって万鬼殿から姿を消した。



 リヴラ達は周囲の風景に目を疑った。カタリスの空間移動によってやってきたのは、緑の草原だった。どこまでも続く濃緑の草は柔らかく足首ほどまで伸びていて、所々に白い花が咲いていた。空は青く晴れ渡っていて、雲一つ無かった。心地良い暖かさの中、さらさらと草を揺らしている風は少し冷たくて、リヴラ達は思わず白いローブを脱ぎ去り寝転びたくなった。

「てっきり灰色まみれの風景を予想していたから、面食らったな」

「すまんね、イライ・クルド。我々ヌクテメロンの世界――煉獄は灰色が支配しているからね」

「ここは天獄だな、鬼神カタリス」

「当然だ、アケショナル・ラストア。三獄〈デルタ〉構成世界の中で、唯一、灰か黒に束縛されていない世界は天獄だけだからな」

 リヴラは眉を顰めて、周囲の美しい風景を見渡した。

「なぜ、天獄に空間移動したんだ、カタリス」

「愚問だな、リヴラ・ジヴァニトゥム。欠片捜索中の天使を邪魔するのは、万鬼殿にとっての大義だろう」

 リヴラは心中で舌打ちした。

(犬の鬼神カタリス、良くも悪くもこいつは厄介かもしれない。まだ天獄を訪れるつもりはなかったのだが、タイミングがずれてしまった)

「不服そうだな、リヴラ」

 カタリスはにやにやと笑っていた。

「天使への対応だけじゃないだろ?」

「わからんのか、馬鹿め」

 リヴラの肩に乗っていたデウスが、リヴラの後頭部にゴツンと突撃体当たりした。カタリスがひゅうと口笛を吹いた。

「わかってるじゃないか、小さな神様」

 カタリスの言葉に、デウスは何も言わなかった。

「だんまり無視か。まあ、いい」

 リヴラ達が青い空を見上げているのを見て、カタリスはくつくつと笑った。

「天使達は来ないから安心しな」

 リヴラはハッとして、すぐ様全域ネットワークにアクセスした。

「そうだよ、錬金術師殿。天使達は今大事な大事なミーティング中だ」

「ここは天獄の何処なんだ?」

「そんなのはどうでもいいことさ、リヴラ。天獄の何処だろうと関係ない。いや。万神殿はさすがにまずいな」

「いいから、何しに来たんだ、鬼神」

「そう焦るなよ、イライ。ただでさえ短い人間の寿命が、さらに減ってしまうぞ」

 イライが舌打ちするのを見て、カタリスはにやりと笑った。

「おっと、ブラックジョークはお気に召さんか。寿命はお前とは無縁の話だったかな。とにかく場所は無意味だ。というのも、俺が行きたい場所は、たとえ行き先の空間を確認済みで認知していたとしても、直接の空間移動が容認されていないからな」

 リヴラは眉根を寄せた。容認されていないということは、パブリックフィールドではない何者かによるプライベートフィールドにカタリスは向かうつもりなのか。

「まあ、言ってもわからないか。そこへ向かう唯一の方法が、天獄で発動させた空間移動のみなんだよ」

 そう言って、カタリスは再び空間移動を展開させた。リヴラ達の姿がその場から消失した。



 リヴラ達がやってきた場所は、先刻までいた場所とほとんど変わっていなかった。草原と青い空。ただ、一つだけ異なる物があった。リヴラ達が見つめるそれは、一見、何の変哲もないモニュメントに見えた。

「これが、目的ということかな、カタリス」

「そう、不可逆逆行鉱石だ」

 不可逆逆行鉱石は高さ6.5m、幅4mで奥行きが2mほどの長方形の石板だった。一つの継ぎ目もなく滑らかな表面の石板には、何らかの魔術が込められているようだ。石板の色が白・灰・黒とぼやけながらゆっくりと変化しているし、石板自体が地上から1.2mほど浮遊していたからだ。見れば見るほど、この石板がこの場所にあることはとても異質に感じられた。

 カタリスが不可逆逆行鉱石の表面に、犬の物ではない人の持つ形の手を当てた。すると、カタリスの手を中心にして、石板の表面に波紋が生じた。硬質なはずの石板表面は、まるで水面のように波打ち、色のグラデーションが停止した。灰色一色となった不可逆逆行鉱石から、灰色のオーラがゆらゆらと発生し始めた。リヴラ達は思わず身構えたが、カタリスが石板に触れていない左手を上げて声を発した。

「心配ない。この灰色のオーラはお前達に危害を与えはしない。それよりも、俺の近くに集まって、この不可逆逆行鉱石の生み出すオーラのドーム内に入ってくれ」

 不可逆逆行鉱石を中心にして、直径4mほどのドームが灰色のオーラによって形成された。

「デジャビュだ……」

 アケショナルが目を丸くして呟いた。カタリスは珍しく眉根を寄せて、首を傾げていた。

(確かに既視感に間違いない)

 リヴラもアケショナルと同じことを思っていた。灰色のドームは、聖域にそっくりだった。かつてアケショナルは聖域内に突き刺さっていた白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを抜くことで、繰り返される戦いに身を投じることになった。リヴラは眉を顰めて、灰色のドーム内に足を踏み入れた。

 カタリスは全員の体が灰色のドームの中に完全に収まったことを確認して、ふうとため息をついた。

「まさか、このタイミングで、異界のお前達を不可逆逆行鉱石に連れてくることができるとは、運命というのもそう馬鹿にはしてられないな」

「何の話だ、カタリス」

「リヴラ、お前は知っているだろうが、この三獄〈デルタ〉には形成界イェツィラーに全域ネットワークという情報網が広がっていて、ある程度の魔術の知識と経験を有する者は全域ネットワークにアクセスして蓄積されたデータを取得することができる」

「そんなシステムがあったのか。鬼神や悪魔達の言動の正体がようやくわかったぜ」

「イライ、このシステムについては、上級クラスの天使と鬼神と悪魔は承知済みだが、三獄でも知らない者は多い」

「なぜ、そんな話をするんだ、カタリス」

「今、俺は会話をするということに関して、前提を話したんだ、アケショナル」

 リヴラとアケショナルは眉根を寄せた。

「まあ、そんな顔するなよ。あとで説明する」

 そう言って、カタリスは不可逆逆行鉱石に触れていた手を離した。

「お前達が三獄にやってきたのは、いくつかの覚醒を確認したからだよな」

 リヴラがカタリスを睨みつけた。

「なぜ、それを領域統治者レベルの鬼神が知ってるんだ?」

「落ち着け、リヴラ」

「そうだ、落ち着け、馬鹿がっ」

 デウスがリヴラの後頭部に突撃体当たりした。カタリスがにやりと笑った。凄まじい速さで、カタリスはリヴラの胸部を右手で刺し貫いた。

「てめえ! 何してんだっ!」

 イライが叫んで空間把握能力を発動させると、世界は白いラインでセル化された。アケショナルは神剣アクロマティクを抜いて、カタリス目掛けて振り下ろした。

「二人とも! 待つんだっ!」

 リヴラの声が、寸前のところでアケショナルによる攻撃の動きを止めた。カタリスは微動だにしなかった。リヴラが自分の体を見下ろすと、カタリスの人型の手が貫通していた。痛みはなく、どうやら損傷も無いようだ。カタリスがゆっくりと右手を引き抜いた。依然として痛みは感じなかったし、体も元通りだ。リヴラは無表情にカタリスを見つめた。

「何をしたんだ?」

「言動に気をつけろよ、鬼神」

 アケショナルは未だに神剣アクロマティクを振りかざしたままにしていた。

「すまんな、リヴラ。俺はこうしなければならなかった。お前達の為に、俺がしなければならないことに関して、俺の安全を確保する為に」

「具体的に話してくれないか」

「お前達が信頼できることはわかった。リヴラには何もしていないよ。刺し貫いたように見せただけだ。あんた達の冷静さと判断力を試したかったんだ。これで、あんた達に伝えることができる。俺に話をさせてくれないか。まずは、全ての話を聞くんだ。この会話も長くは続けられん。お前達が倒すべきは、リヴラの分身――黒リヴラと、冥獄の支配者ラメド・アンデルだ。黒リヴラは一部の鬼神を部下にしている。裏切り者は、1時のザフンとヘイグロトとラスフイア、2時のシセラとトルウァトゥスとラベゼリン、3時のハハビとブタタール、4時の全員、5時のカマイサル、ゼイルナ、タクリタン、タブリビク、6時のザレンとニティカ、俺の部下である10時のアゼウフ、12時のセレン、タラブ、ミスラン、ラブスだ。中には消滅している鬼神もいるかもしれない。鬼神に関して、お前達が注意しなければならない相手はわかったな」

「万鬼殿での話と違うじゃねえか」

「今の話を万鬼殿でするわけにはいかなかったんだ、イライ」

「誰に対して、警戒しているんだ?」

「リヴラ、俺が警戒しているのは、三獄の〝全て〟だ。三獄のどこにいても、全域ネットワークのせいで、ほとんどのことが誰でもわかってしまう。今の話を天使や悪魔、鬼神にも聞かれるわけにはいかない。煉獄に関しては、サリルスが厄介だ。あいつは自らの能力で、煉獄の全てを監視している。天獄と冥獄も可能な部分は覗き見しているはずだ。いいか、サリルスは信用するな。あいつは危険だ」

「一体、何を言ってるんだ、カタリス」

「別に俺の言うことを信用しなくてもいいが、話は最後までさせてくれ」

 リヴラとアケショナルが眉根を寄せて頷いた。

「よし、良い子だ。白いローブと白い仮面姿の仲間はお前達だけじゃないよな」

 リヴラが目を見開いたので、カタリスは右手を上げてリヴラを制した。

「敵は天使と悪魔もだ。天使で厄介なのは上級天使のセクンダデイとイスキン、そして天使サリエルと天使ラグエルだ。彼等は直接的には敵対しないだろうが、教徒の欠片と魔剣の獲得の際に邪魔になるはずだ。警戒しておいてほしいのは、イスキンの天使アザゼルだ」

「その天使アザゼルは、そんなに強いのか」

「いや、そんなことはない、アケショナル。力量で言えば、セクンダデイのミカエルやガブリエルの方が強いさ。アザゼルはもしかしたら天獄を裏切るかもしれない」

「黒リヴラに従属するとでも?」

「わからんがな。とりあえず注意しておいてくれ。それで、悪魔に関してはラメド・アンデル討伐の際に全員敵になるだろうが、警戒しておいてもらいたいのは四人の悪魔の王だ」

「あいつのことか!」

 イライは眉根を寄せて、舌打ちした。

「そう、リヴラとイライが敵対して返り討ちにされた悪魔パイモンは王の一人だ。残りの三人は、悪魔王ベレト、悪魔王バール、悪魔王ガープだ」

「リヴラが敵わないとは、相当の実力者なんだな」

「そうだな、アケショナル。上級悪魔である悪魔王の四人はそれぞれ能力の差はあれ、手強い相手になるはずだ。悪魔王の他に、悪魔バティンと悪魔ボティスと悪魔ウァラクも厄介な相手だから警戒しておいてほしい」

「そいつらも強いのか?」

 アケショナルの問いに、鬼神カタリスはこくりと頷いた。

「俺が言った警戒すべき相手に注意しておけば、計画も進みやすいだろう」

「いや、鬼神やら天使やら悪魔だなんて覚えきれないぞ」

「そうかな。少なくとも二人は暗記したみたいだぞ」

 イライが見ると、リヴラとアケショナルが頷いた。カタリスがにやりと笑った。

「さすが、錬金術師と戦乙女」

「ふんっ、なら、俺は覚える気はねえよ」

「どうして、君はこの場所で私達に敵対者の話をしたんだ」

「気づいているだろうが、ここには不可逆逆行鉱石がある」

「不可逆逆行鉱石とは、一体?」

「この石の能力の一つに、世界の遮断というものがある。世界の遮断によって、全域ネットワークの領域から逃れることができる。鬼神や天使や悪魔のあらゆる能力でさえも、盗聴や透視が不可能となるんだ」

「今ここで話したことを誰にも聞かれたくなかったんだな。でも、その一歩手前まで監視可能というなら、秘密のやり取りが行われたことは知られてしまうんじゃないか」

「不可逆逆行鉱石の素晴らしいところは、それすらも不鮮明にしてしまう。厳密には、灰色のドーム内は時間の流れの外にある状況だ」

「つまり、このドーム内の時は止まっているとでも?」

「まあ、そんな感じだ。厳密には〝停止〟ではなくて〝逆行〟だがな。それに、不可逆逆行鉱石の原理について知る者も少ない。だから、この場での会話が漏洩する可能性は限りなく低いわけだ。さあ、話は終わりだ。お前達には鬼神討伐に向かってもらう。そうすることで、黒リヴラに近づくはずだ」

「ちょっと待ってくれ、カタリス。君の目的は何だ?」

「そんなこと、全域ネットワークでも見てくれ」

 カタリスが笑っているのを見て、リヴラは眉根を寄せた。

「いや、これほどまでの知識と経験を持っている君なら、全域ネットワークへの情報漏洩は当然防いでるはずだ。全域ネットワークには、君の目的は煉獄の安寧と教徒の欠片の探索としか記載されていない。この空間内では、話して大丈夫なんだろ?」

「愚問だな、リヴラ。俺は冥獄の支配者ラメド・アンデルと黒リヴラを破滅させてやりたいのさ」

「君は、一体、奴等と何があったんだ? 奴等に何かされたのか?」

「お前達と一緒だよ。さあ、おしゃべりはおしまいだ。さっさと色々済ませて、奴等を破滅させてやろうぜ」

 カタリスが不可逆逆行鉱石のドームから外へ出ると、灰色のオーラは散り散りになって消失した。カタリスが空間移動を発動させると、リヴラ達の姿は不鮮明になり天獄から消失した。





 天使ラグエルは万神殿の大広間に、セクンダデイの七人の天使とイスキンの六人の天使を集めた。ラグエルの隣には天使サリエルが立っていた。輪を作って立つ15人の天使の表情は様々だった。大半はせっかくの美しい顔が台無しになる苦虫を噛み潰したかのような渋面で、階級監督官のラグエルとセクンダデイのミカエルとラファエルとサマエルは無表情、イスキンのアザゼルはにやにやと笑い、セクンダデイのガブリエルは微笑を浮かべていた。サリエルはぎりぎりと歯ぎしりして、舌打ちした。

「オフィエル、堕天使レミエルを逃したのか」

「捕まえ損ねた。邪魔をしたのは、道化師オデュだ」

「道化師オデュだと?」

「かつての英雄オデュが、どうして天獄の邪魔をするのかしら、オフィエル。全域ネットワークにはないデータを提示しなさい」

「わかった、ラグエル。レミエルは錆びた聖剣ではなく、新生の魔剣を装備していた。道化師オデュは魔剣獲得の為にセクンダデイの前に現れ、レミエルとともに姿を消した」

「抜け殻の老人相手に、セクンダデイは手も足も出なかったというわけか」

 サリエルはミカエルとガブリエルを睨みつけた。ガブリエルは煌めく金髪を真っ直ぐと肩まで伸ばした女天使で、雪のような白い肌をしていたが、頬と唇はピンク色で、依然として微笑を浮かべていた。背中には豊かな白い翼を生やし、天使統一の衣装である半透明の白いローブを着ていた。

 ミカエルが無表情のまま、サリエルに応じた。

「あのような汚らしい老いぼれなど、私の相手ではない」

「では、わざとオデュを見逃したのか?」

「違う、ラグエル。オデュ以外の邪魔者が現れたんだ」

 サリエルとラグエルが眉を顰めてオフィエルを見ると、オフィエルが小さく舌打ちして頷いてみせた。

「それで、ミカエル、その邪魔者というのは?」

「白い仮面と白いローブを身につけていた。背の低い男だったな。正体はわからない」

「異界の存在ね。全域ネットワークにも情報がないとは、リメド・エイデンの策略を感じるわ」

「むしろ、その白仮面も道化師オデュも堕天使レミエルも全員、この万神殿に隠れているのだろうな」

「サリエルが言ったように、オデュ達がリメド・エイデンの領域に隠れている可能性は高い」

 ミカエルはそこで眉根を寄せて、ぎりぎりと歯ぎしりした。

 ラグエルが小さくため息をついた。

「たとえ万神殿に隠れていたとしても、我々にはどうしようもない。堕天使レミエルを捕まえるのは難しいかも。ただ、目的が魔剣もしくは聖剣だというなら、奪取可能なタイミングがある。深刻なのは、むしろ教徒の欠片の適格者が確定したことの方よ」

 天使達が口々に何かを呟いた。

「教徒の欠片の適格者が決まっただと?」

「そうよ、サリエル。今、データをアップロードしたわ。適格者は天使の中にはいない。つまり、鬼神か悪魔の誰かが手にしたと予測される」

「ふざけやがって、一体誰が教徒の欠片を手にしたんだ!」

「さあね、三獄で目立った混乱は見られないので、教徒の欠片はまだ使われていないのでしょう」

「ラグエル、お前の空間把握能力で、適格者の特定はできないのか?」

「適格者が大きな力を発動しない限り、私には感知できないわ」

「はあ、待つしかないというわけか」

「もう一点、伝えておくことがあるの。鬼神の多くが万鬼殿を離れ、黒リヴラに従属し始めているわ。煉獄で何が起きているかはわからないけど」

「鬼神サリルスに何かがあったということか」

「何それ、例えば欠片適格者に選ばれたとか?」

「何だとっ!」

 ラグエルは首を横に振った。

「いいえ、その可能性は低いわ。あり得そうで恐ろしいのは、黒リヴラね。教徒の欠片を手にした黒リヴラによって、鬼神は従属させられているのかも」

「ふんっ、最悪だな」

「とにかく、鬼神ヌクテメロンは、天使や悪魔と違って、他の世界への執着が強い。特に扉を開け放つ鬼神サリルスは、天獄や冥獄の一部を我が物とする欲が深い。鬼神達の動きは、天獄への脅威になるかもしれない」

「現状での対応としては、魔剣の奪取、欠片適格者の特定、黒リヴラに従う鬼神の注視ということだな」

 天使達が頷いた。ラグエルが眉を顰めてオフィエルを見つめた。

「何か言いたそうね、オフィエル」

「セクンダデイの問題なのだが、ね」

「言ってみればいい」

「おい、サマエル、なぜ来なかった? 全域ネットワークでデータは確認済みだったはずだ」

「俺がいてもいなくても、結果は変わらなかっただろ」

 オフィエルがサマエルを睨みつけた。

 イスキンのアザゼルが、はあとため息をついた。アザゼルは赤い髪と褐色の肌をもつ男天使だった。

「おい、ラグエル。もう話は済んだんだろ。セクンダデイの内輪揉めなんて聞いてられるか。俺は行くからな」

 ラグエルは顎をくいっと上げて、アザゼルを促した。アザゼルは空間移動を展開し、その場から消失した。イスキンの他の五人の天使も肩をすくめてから、空間移動でその場から姿を消した。

「やれやれ。それで、オフィエルはご立腹のようだが、どうして集合に応じなかったんだ、サマエル」

「集合の合図が送られてきた時点で、堕天使レミエルと魔剣のデータはオフィエルによって、全域ネットワークにアップロード済みだった。そのデータが正しい限り、俺は行っても無駄だと判断した。無駄だから、応じなかったんだ。たとえ、あんたが向かっても無駄だったろうよ、ラグエル」

 ラグエルはにやりと笑った。

「だろうな、サマエル。対応できたのは、オフィエルの能力――多性のみだったろう。けど、問題はそれだけじゃない。そうね、オフィエル」

「その通りだ、ラグエル。セクンダデイに所属している以上、規則は守ってもらうぞ、サマエル。それが嫌なら、セクンダデイを辞めて、好き勝手してればいいだろ」

「自分で言っていることの矛盾に気づいているか、オフィエル。どのような行動も規則と一致させることは可能だ。あんたが何と言おうと、規則と一致しているか矛盾しているかの議論は無意味だ。少なくとも観察するだけなら、俺を否定することはできない」

「私は今、お前と論争しているのではない。忠告しているんだ」

 オフィエルが多性を発動させた次の瞬間、サマエルの火針がオフィエルの左腕に直撃した。オフィエルの腕が衝撃でぶらんと揺れた。続けて火針がオフィエルの顔面に直撃したが、衝撃は首が少し傾くほどだった。オフィエルの左肘の内側と眉間の辺りから白い煙が立ち上った。オフィエルの肌に火傷の痕は見られない。

「無駄だ、サマエル。お前なんかの攻撃は無効化可能だ」

「ちっ、受け身でしか何もできないカメレオン野郎が」

 サマエルが再び火針を発動させた。火針への対抗策として、オフィエルは多性によって水や土による火への耐性力と伸展性や弾力を活用して衝撃吸収力を具現化させていた。サマエルがオフィエル目掛けて火針を撃っても、熱と衝撃を無効化された攻撃はオフィエルを傷つけはしなかった。サマエルが苛立ちを募らせて、自らの右手に火針を出現させた。長さ1mほどの赤く輝く剣を見て、オフィエルは眉を顰めた。サマエルがオフィエル目掛けて火の剣を振り下ろした。何の感触もなく、サマエルの剣は空を切った。サマエルは目を丸くして、オフィエルを見つめた。オフィエルは眉を顰めてサマエルを睨んでいた。サマエルの横に、いつの間にかガブリエルが立っていた。

「やめときなさい、サマエル」

 サマエルは無視して、再び火の剣をオフィエル目掛けて振り払った。サマエルの攻撃より早く、ガブリエルは自らの能力――月光花を発動させた。ガブリエルの後頭部に白銀に光り輝く六枚の白い花弁が出現し、まるで光輪を形成するように環状になって浮遊した。サマエルの攻撃はまた空を切った。サマエルがガブリエルを睨みつけると、ガブリエルは美しい顔でにこりと笑った。

「やめなさい、サマエル」

「くそっ、幻覚か」

 サマエルが今度はガブリエルに火剣を振り下ろした。がきんと大きな金属音が鳴り響いた。凄まじい早さでガブリエルの前に立ちはだかったのは、ミカエルだった。ミカエルは自らの能力――黄金環を発動させていた。ミカエルの後頭部には白銀に光り輝く光輪が浮いていて、右手に握る黄金のエネルギーで形成された剣が火の剣を受け止めていた。

「そのへんにしておけ、サマエル。私達がやらなければならないのは、鬼神ヌクテメロンへの対処だ」

 サマエルは舌打ちした。

「始めたのはオフィエルだ。俺はその鬼神への対処とやらに先に向かう」

 サマエルの姿がその場から消失した。ミカエルとガブリエルが能力を解除するのを見て、ラグエルとサリエルは頭を横に振ってため息をついた。ミカエルはそれを無視して、オフィエルの近くに歩いて行った。

「オフィエル、規律を重んじるのはわかるが、割り切る部分はそうすべきだ」

「我慢しろとでも?」

「考え方を変えるんだよ。確かにお前の能力――多性は強力かもしれないが、一人であらゆる任務を遂行するのは難しいだろ。馬鹿と鋏は使いようだ。だから、お前の能力は未だに一次元で留まっているんだ。お前は高次元への覚醒をしていてもおかしくないんだ。期待しているぞ」

 ミカエルはオフィエルの肩をぽんと叩いた。それからセクンダデイの天使達に頷いてみせ、空間移動を展開した。セクンダデイの六人の天使達の姿がその場から消失した。





 星の鬼神ニティブスの案内で三獄〈デルタ〉の煉獄にやってきたエクス・マキナは、目の前に立ちはだかる灰色のローブを着た三柱の鬼神を白い仮面の奥から見据えた。灰色の髪の男鬼神が一柱と、白髪の女鬼神が二柱だ。

「ニティブス、誰だ、あいつらは?」

「灰色のが醜聞の鬼神ザフン。白髪のショートボブが雪嵐の鬼神ヘイグロト。白髪のロングヘアが死霊占いの鬼神ラスフイア。全員1時の領域の鬼神よ」

「確か、ここは2時の領域だと言っていたな」

「ええ、こいつらは裏切り者ね。万鬼殿の命令無くして、領域を離れることはしないわ」

 ザフンがぺっと唾を吐き出して、ニティブスを睨みつけた。

「お前、ニティブスだな?」

 ニティブスはため息をついて、肩をすくめた。ザフンが舌打ちした。

「生きていたとはな。万鬼殿では消滅したことにされているぞ。お前こそ、万鬼殿の裏切り者じゃないか」

「同族の愚か者を見ると、虫酸が走るわ。さっさと済ませましょう、エクス」

「俺達を殺すつもりか? やっぱりお前は裏切り者のスパイ野郎だな。返り討ちにしてやるよ、クソ鬼神がっ! 行けっ! ヘイグロト、ラスフイア、ニティブスを殺せっ!」

 ニティブスは眉を顰めて、ヘイグロトとラスフイアを見つめた。ヘイグロトとラスフイアの瞳は靄がかかったように白濁していた。雪嵐の鬼神ヘイグロトが両腕を上げて、ニティブス目掛けて突風を放った。ニティブスが自衛の障壁を展開すると同時に、障壁に突風が直撃した。ニティブスが後方へ吹っ飛ばされた。灰色の地面に背中から叩きつけられるも、ニティブスはすぐ様起き上がった。けど、足が動かなかった。

「えっ?」

 立ち上がれなくて足元を見ると、左足が凍りついて地面に釘付けにされていた。ヘイグロトはニティブス目掛けて更に突風を発射した。ニティブスが思わず腕で顔を遮ると、左腕が凍りついてしまった。背後に気配を感じて、ニティブスはさっと振り返った。灰色のエネルギーで形成された人形が、三体近づいてきた。身長150cmほどの人形はゆらゆらと揺れる灰色のオーラを全身に纏っていて、耳や鼻は無く、眼と口の部分に黒くて丸い空虚な穴があるだけだった。人形達が腕を振り上げて、ニティブス目掛けて跳躍した。ニティブスは右手に灰色のオーラで剣を生み出し、一体の人形の腰を切り裂いた。すかさず二体目の人形がニティブスの顔面に腕を振り下ろした。ニティブスは剣を振り払ったが、二体目には間に合わなかった。ニティブスは衝撃を覚悟したが、振り下ろされる人形の腕がニティブスの眼前で動きを止めた。見ると、エクスが人形の首を掴んで締めていた。エクスは人形を投げ飛ばし、後ろに迫っていた三体目にぶつけた。そこでエクスは周囲に自衛の障壁を展開した。灰色のエネルギーでドームが形成された途端に、雪混じりの暴風がドームに直撃した。エクスはヘイグロトの攻撃を無視して、起き上がろうとする二体の人形目掛けて地面を滑るように疾走した。灰色のオーラで右手を硬質化させ、一体の人形の首を切断した。凄まじい早さで、エクスは残った人形の左肩から右腰までを両断した。エクスの背後に新たな二体の人形が迫ってきた。エクスは二体の人形を無視して、ラスフイア目掛けて空中を疾走した。エクスの視線の先で、ラスフイアの口からゆらゆらと揺らめく灰色のオーラが吐き出された。オーラは人の形になろうとしていた。エクスは硬質化した手刀で鬼神の吐き出すオーラを割断し、ラスフイアの顔面を殴りつけた。エクスを追いかけていた人形の頭部に灰色の槍が突き刺さった。蠢く二体の人形にニティブスは近づき、灰色の剣で断頭した。人形は動きを止めた。ニティブス目掛けて発射された雪嵐波を、エクスは手刀で真っ二つに切り裂いた。エクスは凄まじい早さでヘイグロトに近づき、腹部を蹴り飛ばした。ザフンは眼を見開いて驚倒していた。

「お前、何者だ?」

「何を今更。知っているんだろう。私は三獄〈デルタ〉の外の世界からやってきた者だ」

「そんなことはわかってるっ! 俺が言ってるのは、お前が何者かということだ。まさか、お前も裏切り者の鬼神なのか…?」

「何を馬鹿なことを」

 エクスが嘲笑する横で、ニティブスは眉根を寄せた。

「馬鹿なことを言ってないで、あなたは戦わないのかしら、ザフン」

「ちっ、行けっ! ヘイグロト、ラスフイア」

 ザフンの声に反応して、仰向けに倒れていたヘイグロトとラスフイアが起き上がった。二柱の鬼神がそれ以上動き出すより早く、エクスは灰色のオーラを右手から発射した。上空に放たれた四本の灰色の槍がそれぞれ対となって、ヘイグロトとラスフイア目掛けて凄まじい速さで落下した。先端が二又となった槍は鬼神の両腕に突き刺さり、二柱の鬼神を地面に張り付けにした。ザフンが舌打ちして、喚き始めた。

「ふざけるな、クソどもっ! さっさと裏切り者を八つ裂きにしろっ!」

 ヘイグロトとラスフイアが両足をばたつかせて足掻くのを見て、エクスは眉根を寄せてザフンを睨みつけた。エクスは凄まじい早さでザフンの首を掴み上げ、地面に叩きつけた。エクスが膝をついて背後を見ると、二柱の鬼神は暴れるのをやめていた。

「命令が無いと、お前を助けようともしないんだな」

 エクスは灰色の剣でザフンの右腿を突き刺し、立ち上がった。

「ぎゃあ!」

 ニティブスが近づいてきて、悪態をつきながら暴れるザフンを冷めた目で見下ろした。

「ヘイグロトとラスフイアに何かしたわね、ザフン」

「役立たずの鬼神の利用価値を引き出してやったんだよ」

「最低なクズね。黒リヴラの仕業なの?」

 ザフンはニティブスにぺっと唾を飛ばした。ニティブスの足に唾が付くのを見て、エクスは灰色の剣をザフンの首に突き刺した。

「ぎゃああっ!」

 ザフンはじたばたと暴れ回ったが、すぐに絶命した。エクスとニティブスはヘイグロトとラスフイアに近寄った。二柱の鬼神の瞳は、未だに白く濁っていた。

「あの鬼神の仕業ではないみたいだな」

「ザフンに鬼神を操ることは出来ないわ。鬼神の中には他者を操作するようなことが出来る者もいるけど、この二柱のような状態は聞いたことが無い」

「鬼神でないのなら、黒リヴラか。だとしても、この鬼神達はどうする、ニティブス」

「放って置くわけにもいかないわ。ただ、操作の解除方法もわからない。それに目的を誤認してはいけないわ」

「いいのか、ニティブス、同族だぞ?」

「邪魔者は排除しなければ。安心して、エクス。殺すわけじゃないわ。封印するだけよ」

「封印? しばらく行動不能にするつもりか?」

「ええ、ちょっとの間だけ、眠ってもらうみたいなものかしら」

 ニティブスは両手に灰色のエネルギーを蓄積させた。1分ほど経過しても、まだニティブスは集中し続けた。

「時間がかかるのがネックなのよ」

「それは困るな、星の鬼神ニティブス」

 ニティブスの背後に出現した空間の裂け目の奥から聞き慣れた声がした。エクスは凄まじい速さで前に飛び出し、ニティブスの左肩を突き飛ばした。空間の裂け目から黒髪の男が飛び出して、灰色の剣を振り下ろした。エクスが剣を受け止めると、がきんと金属音が鳴り響いた。エクスは衝撃で後方に吹っ飛ばされた。驚いてエクスの方を見ていたニティブスの顔面が、黒髪の男に殴りつけられた。エクスとニティブスが立ち上がると、見慣れた姿の男が、倒れる二柱の鬼神の傍に立っていた。エクスは眉根を寄せて、黒色のローブ姿を睨みつけた。

「お前が黒リヴラか」

 黒リヴラは錬金術師リヴラ・ジヴァニトゥムと全く同じ風貌だった。髪と瞳の色だけが違っていた。白一色のはずの髪色は黒一色で、瞳は青く不気味に輝いていた。

「お前は偽器〈ヴェッセル〉の没落皇子じゃあないか。何へんてこな仮面なんて被っているんだ。今なお帝国シアルルの滅亡を受け入れられず、愚かに狂ってるのか」

「お前、何故知っている!?」

「一目瞭然だ。お前の纏う灰色のオーラを見ればな。本来お前のものではない偽りの力は、異質だよ」

 エクスはぎりぎりと歯を食いしばった。ニティブスがエクスの隣に近づいてきた。ニティブスは歯をがちがちと震わせていた。

「どうした、ニティブス」

 黒リヴラの姿が信じられず、動揺したニティブスにはエクスの声が届かなかった。信じたくはなかったが、黒リヴラの瞳の青い輝きは揺るぎないものだった。

「最悪だわ……。その瞳の色を変えさせているのは、教徒の欠片……」

 黒リヴラは歯を剥き出しにして、にたりと凄絶な笑みを浮かべた。

「瞳を青くさせるのは教徒の苦しみの欠片――フラグメント・オブ・アゴニーだ。残念だったな、星の鬼神ニティブス。お前の暗躍は無駄に終わり、お前はまた敗北するわけだ」

「黙れ、黒リヴラ」

「さあ、鬼神ヌクテメロンはどうなってしまうのか。均衡は崩壊し、容赦なく天使は煉獄をひっくり返して欠片を捜索しだす。冥獄の支配者にとっては、どちらに転んでも笑い話だ。重い腰を上げて、残った世界を喰らい尽くすだけだからな」

「喜んでいるのも今のうちよ、黒リヴラ。欠片適格者がお前だとわかれば、三獄の有力者達はお前をターゲットとする。三獄を混乱させたと思い上がっているでしょうけど、自分の首を絞めただけね」

「俺が三獄〈デルタ〉に呼び寄せたのは混乱じゃあない。何でもありの無〈秩序〉であって、〈混沌〉だよ」

 黒リヴラの言葉に、ニティブスは眉を顰めた。エクスは仮面の奥から黒リヴラを睨みつけた。

「〈混沌〉の子は、〈デルタ〉にはやってこないぞ」

「選択の自由を与えられているのは、お前達の陣営だけではない。〈秩序〉は〝全て〟に選択の自由を求めたんだ」

「だとしても、お前に選択の余地は無い。ここで私達がお前を消滅させる。さあ、あなたは欠片に何を願ったのかしら」

「お前の方が詳しいんじゃないのか、ニティブス」

 ニティブスは黒リヴラを無視した。エクスが黒リヴラ目掛けて空中を疾走し、灰色の剣を振り下ろした。黒リヴラが灰色の剣で受け止めると、エクスは剣を手放して後方へ退却した。黒リヴラは眉根を寄せて、遠ざかるエクスを見つめた。視界が灰色の光で染まって、黒リヴラはさっと上空を見上げた。と同時に、降り注ぐ灰色の光の衝撃波が黒リヴラに直撃した。衝撃音とともに灰色の爆煙が巻き起こった。灰色の光の矢は無数に降り注いだ。灰色の矢が止むとすぐに、エクスは突風で灰色の煙を吹き飛ばした。黒いローブの所々が破れていたが、黒リヴラは無事に立っていた。

「もう終わりか、没落皇子」

 にやりと笑って、黒リヴラは凄まじい速さで倒れ込む二柱の鬼神のそばまで移動した。鬼神を束縛する槍がばりんと割れた。

「この鬼神達の能力を失うわけにはいかないからな」

 黒リヴラは右手で空間を引き裂き、その中にヘイグロトとラスフイアをそれぞれ左手で掴んで放り込んだ。空中に浮かぶ直径2mほどの裂け目の奥は暗く、どこに繋がっているのか定かではなかった。エクスとニティブスが黒リヴラ目掛けて空中を疾走し、灰色の剣を振り下ろした。二人の目の前にいたはずの黒リヴラが視線の先に立っていた。エクスは舌打ちして、自分が移動させられたことを察した。ニティブスがため息をついた。

「空間移動のトラップね。空間の裂け目に鬼神を放り込んだように、私達もそこへ誘導したんでしょ」

「お前らが勝手に裂け目に突っ込んできただけだろ。俺は今はお前達と遊んでる時間は無いんだ。焦るなよ、帝国の皇子と星の鬼神。またすぐにでも、お前達の能力とは戦いに来てやる。それまで三獄内をふらついてるんだな」

 黒リヴラが空間の裂け目の中に入り込むと、すぐに裂け目は閉じて消えた。

「ニティブス、あいつを追跡するのは可能なのか?」

「ごめんなさい、エクス。黒リヴラの移動手段は無彩色魔術の空間移動とはメカニズムが異なるみたいで、移動先の検索は難しいわ」

「異界の力でも無理か。居場所の特定が困難とは厄介だな、黒リヴラ。まるで、忌々しいエノキアンのようだ」

 ニティブスはザフンの亡骸を見て歯軋りした。

「ここで黒リヴラと対峙出来たのは僥倖かもしれないわ。良くも悪くも、三獄の有力者達は動き出さざるを得ない。そうすれば、黒リヴラ以外の私達の目的にも近づきやすくなるわ」

「では、居場所が確実な冥獄の支配者の様子でも見にいこうか」

「えっ、ラメド・アンデルと戦うつもり? 何も知らずに行くなんて危険だわ」

「リスクが伴わずして、新しい何かを果たすことなんて出来ない」

 ニティブスは眉を顰めて黙り込んだ。

「何か言いたいことでもあるのか、ニティブス」

「いえ、何も無いわ。行きましょう、冥獄へ」

 ニティブスがエクスに背を向けて、空間移動を展開した。エクスは黄金の瞳でニティブスの背中を見つめた。

(ニティブスが隠しているのは、ラメド・アンデルと関係することらしい。私達に隠すということは、彼女が召喚の束縛に呪われるより前の出来事が関係しているからだろう。ラメド・アンデルと対峙すれば、謎は明らかになるかもしれない)

 エクスとニティブスの姿がその場から消失した。





 黒リヴラは邪悪な波動を感じ取り、にやりと笑った。すぐ様、空間を切り裂き、黒リヴラは裂け目の奥へ入り込んだ。黒リヴラがやってきたのは、天獄だった。意外な行き先に、黒リヴラは目を丸くして、色彩豊かな緑の草原を見渡した。黒リヴラから10mほど離れた前方に、一人の天使が降り立った。天使は赤い髪と褐色の肌を持つ男天使だった。

「波動の正体はお前だったか、イスキン・アザゼル」

「黒リヴラ、その瞳の色を青くさせているのは、教徒の欠片だな。ラグエルの予感は的中していたな」

 アザゼルは全域ネットワークに接続し、黒リヴラと教徒の欠片の情報をアップロードした。アザゼルは優先的に所属するイスキンの天使達にデータ送付を行い、それからパブリックユーザーへのアクセス権限を許可する設定を施した。

「お得意のネットワークへのデータ追記は終わったのか。これで教徒の苦しみの欠片――フラグメント・オブ・アゴニーの所在は明らかとなったわけだ」

「三獄の権力者達がお前のところに殺到するぞ」

 その言葉が合図だったかのように、黒リヴラの背後に5人の天使達が上空から降り立った。黒リヴラは背後をちらと見て、くつくつと笑った。

「天使という存在は、本当にデモ活動が好きだな。まるで子供向けのヒーローアニメのようじゃないか」

「覚悟してもらおう、黒リヴラ。教徒の欠片は天獄の物だ」

 そう言って、イスキンの天使アサラデルが能力を発動させた。アサラデルは金色の髪と黒い瞳を持つ、男天使だった。黒リヴラは突然襲い掛かってきた重みに、思わず唸った。身体中が何かに押さえつけられているかのようだった。すかさず、イスキンの女天使アキビールが黒リヴラに襲い掛かった。白銀のオーラで硬質化された手刀が振り下ろされ、黒リヴラに直撃する、とその場の誰もが思った。しかし、悲鳴を上げたのは手刀を放ったアキビールの方だった。アキビールの背中から赤い刀身が飛び出していた。イスキンの天使達には目の前の光景が信じられなかった。アキビールに突き刺さる赤い剣を握っているのは、アザゼルだった。アザゼルが赤い剣を引き抜くと、アキビールの胸部から白銀色の血が流れ出した。アキビールは背中から仰向けに倒れ込んだ。黒リヴラは目の前に立つ赤髪の天使を見て、にたりと笑った。

(俺の予感は間違っていなかったな。こいつはこっち側の存在だ)

 残るイスキンの天使三人が空中を疾走して、倒れるアキビールの近くに集まった。アキビールは既に事切れていた。アサラデルは怒鳴り散らしたいのを必死に抑えて、アザゼルを睨みつけた。

「アザゼル、お前は自分で仕出かしたことがわかっているのか」

「俺は何もかもわかってるさ、アサラデル。わかってないのはお前らの方だろ、イスキン」

「お前、よくもアキビールを殺してくれたな! 八つ裂きにしてやる!」

 アサラデルは自らの能力――月静海を発動させた。アサラデルの後頭部に光輪が出現した。アザゼルはアサラデルを嘲笑った。

「焦るなよ、アサラデル。過重力の対象を俺に指定しても大丈夫なのか?」

「当然だろ。お前を圧死させてやる」

「なら、好きにすればいい。今誰が押さえつけられてるか、よく理解した上でな」

「お前、まさか、初めから」

「はたして、黒リヴラがおとなしくしているかな」

「ふざけやがってっ!」

 アサラデルはアザゼルへの攻撃を中断した。その代わりに、残りのイスキンの天使――アマザラク、バルカヤル、タミアルの三人がアザゼルに襲いかかった。アザゼルの握る赤い剣がぐにゃりと歪んで、赤い鞭に変化した。アザゼルは空中疾走する天使目掛けて、素早く鞭を振るった。天使達は空中でくるりと旋回して、赤い鞭を避けて地上に着地した。アサラデルがにやりと笑った。

「お前の能力では、我々を相手にするのは無理そうだな、アザゼル」

 アザゼルはアサラデルの挑発を無視して、自らの能力――赤華を発動させた。アザゼルが鞭の両端を手にすると、鞭がぐにゃりと歪んで赤い弓矢に変貌した。アザゼルは弓を引き絞り、イスキンの四人の天使の位置を見据えた。アザゼルが矢を放つと、矢尻は四方に分かれ、それぞれの標的に向かって飛んでいった。イスキンの四人の天使は事も無げに矢を避けた。凄まじい速さでアザゼルはアサラデルに近づき、矢を避けた瞬間を狙って赤い剣を振り下ろした。アサラデルは舌打ちして、過重力対象をアザゼルに設定した。アサラデルの目の前まで赤い剣が振り下ろされたところで、アザゼルは地面に叩きつけられた。倒れ込むアザゼルの頭上の空間に裂け目が生じて、中から手が飛び出し、アザゼルを裂け目の奥へ引きずり込んだ。

「しまった!」

 イスキンの天使達が何かするよりも早く、空間の裂け目は消えて無くなっていた。





 株式会社ポジティブシンキング本社ビルの一室で、二人の人間が向かい合って立っていた。20平米ほどの部屋は、照明が消されていて薄暗かった。まるで引っ越してきたばかりかのように室内はがらんとしていて、何も置かれていなかった。高さ120cmの腰窓に取り付けられたブラインドは閉じられていて、羽根の隙間から射し込む白い光が床に縞模様を作っていた。部屋の二人はどちらも壮年の男で、灰色一色のスーツを着て、真剣な表情だった。年上の50代の男が右腕を上げて、2m離れて向かい合う男の方に向けて親指を立てた。それはグッドサインのジェスチャーではあったが、意味合いは違った。

「ここにスイッチがありますが、あなたにはこのスイッチが見えますか?」

 年下の40代の男は伏し目がちに首を横に振った。

「見えないですか。それは、残念です」

 40代の男は相手の親指を凝視した。その表情は恐怖で引きつり、頬に冷や汗が流れた。

 50代の男が見えないスイッチを押した。

「ぎゃあっ!」

 40代の男は倒れて、床を転げ回った。

 50代の男が見えないスイッチから親指を離すと、ようやく40代の男は動きを止めた。ぜえぜえと荒い息をする男の額には、玉のような大粒の汗が吹き出ていた。それまで男を苦しめていた激しい痛みは治まっていたが、痛みへのトラウマで全身の震えが止まらなかった。40代の男は床に両手両膝をつけた状態で、俯けの顔のまま、何とか声を絞り出した。

「も、申し訳、あ、ありません、でした」

「〝これ〟は、君の失態に対する当然の罰だ」

 40代の男はびくっと体を震わせ、自らの命を左右する親指を見つめた。50代の男は、見えないスイッチを押す仕草を維持したまま話を続けた。

「とにかく、邪魔者は社内に潜り込んでしまったんだ。君には責任を取ってもらうぞ。なに、そんな難しいことではない。奴には、ポジティブシンキングの正規会員になってもらう。君はそれを促せばいい。奴は興味を持って、我々に近寄ってきたんだ。なら、望む通りにしてやればいいじゃないか。そうすれば、あとは〝これ〟で終わりだ」

 50代の男はにこりと笑って、親指を上下に動かした。

「ひいっ」

 スイッチが押されるのではないかと、40代の男は思わず後ずさった。

「そう怯えるもんじゃない。君は死の恐怖から解放されているんだよ。さあ、私の話は以上だ、理解したかね?」

「はい、承知しました」

 40代の男が慌てて退室するのを見ながら、50代の男は心中でため息をついた。

(まあ、どちらに転んでも、我が社にはメリットになるだろう)





 ベルンハルトは携帯端末のディスプレイを眉根を寄せて見つめた。

(株式会社PTはなぜ、新・教会時代になってから変わったのだろう。旧・教会時代からの変化が、株式会社PTに影響を与えたということだろうか。本社があるアメリカで、何か起きたというわけでもない。では、本社に潜入するか。いや、調べた限り、本社は受注配送センターに過ぎない。株式会社PTは世界各国に支店を持ち、支店独自に一般消費者を獲得している。その仕組みは、消費者がユーザー兼ディストリビューターとして活動し、既存ユーザーが新規ユーザーを開拓していくことでネットワークが広がっていく営業マン不要の商法だ。重要なのは、株式会社PTが保有するユーザーネットワークの中で、有力なディストリビューターに接触することだ)

 ベルンハルトは株式会社PTドイツ支店の中で、ユーザー獲得数ランキングトップのPTディストリビューターを見つけ出した。それは造作もないことだった。携帯端末で株式会社PTの情報を検索すると、大きな画像データ付きで無数に検索結果が出てきたからだ。ベルンハルトは舌打ちした。携帯端末に映し出されているのは、黒髪をオールバックにしてスーツを着た男が白い歯を見せてにっと笑っている姿だった。

(ふざけやがって。胡散臭くて虫唾が走る)

 ベルンハルトはポジティブシンキングユーザーによって開催されているセミナーに参加申し込みをした。場所はフランクフルトのオフィス街。受付開始は午前10時半だ。林立する高層ビルの中の一つに入り、ベルンハルトはセミナー会場の扉を開けた。狭い部屋だった。25平米ほどの広さで、部屋に入ってすぐ目の前に受付の机があり、その横に開けた四角いスペースが会場らしい。ベルンハルトが近づくと、受付の女性がにこりと笑った。ベルンハルトの姿を見て、すぐに女性の眉根が寄せられた。ベルンハルトは心中でため息をついた。茶色いスーツを着た、背の高い茶髪の男。ここまでは良かったが、ベルンハルトの腰に括り付けられた白い鞘の刀が、女性の表情を曇らせたのだった。ベルンハルトはジャケットの内ポケットから、新世界救済教会の身分証明書を取り出した。

「教会の方でしたか。ご来場ありがとうございます。こちらにお名前と、会費10オイロを頂戴できますか」

 ベルンハルトはお金を渡し、来場者リストに名前を書いた。突然、背中に何かがぶつかって、書いていたベルンハルトの名前が歪んだ。

「すみません、大丈夫でしたか?」

 背後を振り返ると、黒髪の女が立っていた。首筋まで伸ばしたボブヘアーの女は、灰色のスーツを着ていて、すみませんでしたと頭を下げた。ベルンハルトは女を無視して、セミナー来場者に視線を移した。男一人に、女が四人。どうやら先客の奴等はお互いに見知った仲らしい。五人は何かの話題で盛り上がっていた。ベルンハルトから正面奥には800×1200mmのホワイトボードが壁付けされていて、灰色に塗色された木製の演台が置いてあった。演台に向けられて、灰色の折り畳み式パイプ椅子が置かれていた。先客の五人は、演台に一番近い場所にまとまって座っていた。

「あの、すみません」

 灰色のスーツ女が後ろで待っているので、ベルンハルトは五人の先客から一番離れた席に座った。後から来たスーツ女がベルンハルトの隣に座った。

(他にも3席の空席があるのに、何故わざわざ隣に来るんだ)

 ベルンハルトが眉根を寄せてスーツ女を見ると、女が視線に気づいてにこりと笑った。ベルンハルトはため息をついて、隣は無視することにした。

 ベルンハルトの背後から受付の女の声が聞こえてきた。

「こんにちは、カズマさん」

「こんにちは」

 挨拶してやってきたのは、紺色のスーツを着た黒髪のオールバックの男だった。検索して出てきた画像の男だ。けど、写真の画像より太っていた。顔は丸みを帯びて、下腹が出ている。男はホワイトボードの前にある演台のところまでやってきた。

「こんにちは、ジョン・カズマです」

 ベルンハルトは眉を顰めた。

(まるで、ロストジャパニーズのような名前だ。ロストジャパン――親父が消えた場所。異界に関するものは、異界を呼ぶとでもいうのか)

「今回は、ポジティブシンキングのグループ・カズマのオポチュニティミーティングです。内容は最も初歩的なものとなりますが、同時に最も重要なものと言えます。いつになっても、何度聞いても、再確認は重要です」

 ジョン・カズマがポジティブシンキングについて語り出した。ポジティブシンキングの取扱製品に関してや、PT製品をコントロールとしての他社製品比較――もはや、これは社名とは真逆のネガティブキャンペーンだった。この他社製品をこき下ろすやり方は、情報のミスリードでしかない。視界の端で、スーツ女がジョン・カズマの話に何度も頷き、ノートに何かを大量に書き込んでいる。だが、ベルンハルトにはメモすべきような内容は何一つ聞き取れなかった。前に座っている五人のグループメンバーもスーツ女と大して変わらなかった。ベルンハルトには会場の雰囲気が異様に感じられた。あくまでもスピーカーはビジネスマンを装っているが、狂信者に対する邪悪なマインドコントロールと言われても仕方ないのかもしれない。ジョン・カズマは自信満々に講演を続け、好印象な爽やかな笑顔で参加者に語りかけ、時折見せるジョークで会場を沸かせていた。

(この人心掌握に長けた男のアストロターフィングによって、大多数がポジティブシンキングに対して誤認するだろう。その大多数というのは、ポジティブシンキングの肯定派と否定派を含めたものだ。そこから更に外れた極少数が、俺というわけだ)

 ベルンハルトは改めて、ポジティブシンキングの危険性を確認した。

(まずは第一段階――企業活動としての利益捻出の為に、ディストリビューターを獲得していく。こいつらは肯定派で、言うなれば信奉者で、ポジティブシンキングを支える奴らだ。次に第二段階として、肯定派のやり方を胡散臭い詐欺行為だと認識し、お互いに無視して無関係となっていく。こいつらは否定派で、ポジティブシンキングをクソみたいな悪徳企業と見なし、距離を置く奴らだ。こうやって二極化させることで、ポジティブシンキングは二重のリスク管理を果たしている。一般人の意識を安易な二元論に誘導して、PTが好きな奴からは存分に搾取し、嫌いな奴はトラブルにならないように遠ざけておく)

 このトラブルの部分がベルンハルトの調査対象だ。

(真の目的は何なのか。誰も近づかせないようにしている、ポジティブシンキングが隠している何かはわからない。取るに足らないような瑣末事かもしれない)

 その時、ベルンハルトをぞっとさせる事が起きた。ちょうど、ジョン・カズマがPT製品について語っているときだった。

「ポジティブシンキングの取り扱うソフトとハードによって、皆さんはステップアップします。内側と外側から同時に働きかける事で、若々しく活力に満ち溢れた毎日がやってくるんです。信じられないでしょう? けど、ディストリビューターは誰もが実感しています。細胞レベルで作用しますので、老若男女問わずに時間の逆行を体験できるでしょう。さあ、皆さんで最高の若返りを体験し、家族や友人に皆さんのアンチエイジングの秘密を教えてあげましょう」

 会場でぱちぱちと拍手が起きた。もちろんベルンハルトは微動だにせず、拍手などしなかった。というより、それどころではなかった。腰に括り付けていた破滅の刀から、異界の波動を感じられたからだ。この破滅の刀の反応にベルンハルトは心中で驚嘆したが、すぐに気を取り直しにやりと笑みを浮かべた。

(これで間違い無い。少なくとも、ディストリビューターリーダーのジョン・カズマか、もしくは来場している5人の既存ユーザーか、隣のスーツ女、あとは受付の女の誰かが異界と繋がっている確証は得られた。ポジティブシンキングのシステムの中枢にいる最重要人物にまで辿り着き、胡散臭い企業という外面を隠れ蓑にして隠蔽している悪徳を暴き出してやる)

 セミナー終了後、ベルンハルトは一番乗りで受付に向かって次回のセミナー予約を済ませ、会場を後にした。





 時空の監視者フィートの指令によって、アテピスとクロトとラケシスの三人は、三獄〈デルタ〉構成世界の一つ――冥獄へ空間移動してやってきた。三人共黒いスラックスに灰色の半袖シャツを着てその上に灰色の胸当てを装備し、アテピスとクロトは腰に剣を括り付けていた。アテピスは赤い髪を背中まで伸ばした獣人の女で、クロトは黒髪を肩まで伸ばした人間の女で、ラケシスは黒髪の中性的な人間の男だった。

 クロトが周囲を見渡してため息をついた。

「これほどまで漆黒に染まった世界があるなんて、最悪だな」

「確かにすごい世界だ。私にはうんざりだ。でも、この黒に支配された世界をあなたが憂鬱に感じるとはね、クロト」

「どういう意味だよ、ラケシス」

「二人共、忘れないで。私達は冥獄の支配者の調査に来たのよ」

「わかってますよ、アテピス。敵はいつ現れてもおかしくない」

 三人の前方には、ラメド・アンデルの居城――万魔殿が見えた。黒い草原を三人は万魔殿目指して歩き始めた。万魔殿は黒い尖塔がひしめき合って針山のような外観だった。入口のようなものは見られない。近づいて更に調べようとした瞬間、何者かが万魔殿の前に立ちはだかる形で姿を現した。

「異界の存在が、冥獄に何の用だ」

「冥獄の悪魔だな」

 アテピスの言葉に、悪魔はにやりと笑った。悪魔は黒いスーツを着た男悪魔で、黒髪をオールバックにした人間の姿をしていた。だが頭には二本の黒くて太い角が生えていて、口からは白い牙が二本飛び出していた。

「どうするの、こいつ。私がやろうか?」

「ありがとう、クロト。よろしく」

「いいえ、全員で相手するわ。任務が優先よ。ラメド・アンデルの手下に手間取ってはいられない」

 アテピスとクロトとラケシスの前に立ちはだかった悪魔ボティスは、腕を組んで待っていた。

「よし、決まったみたいだな。では、殺し合うとするか」

 ボティスの背後に黒い魔法陣が出現した。魔法陣は直径3mまでに広がり、黒く鈍い光で明滅していた。黒の魔法陣がまるで水面のように揺らめいた次の瞬間、悪魔が魔法陣から飛び出してきた。悪魔は次から次へと出現し、アテピス達に襲いかかった。アテピスは飛びかかってきた四足歩行の獣状の悪魔目掛けて剣を抜き放ち、そのままの勢いで一刀両断した。クロトの左右前方から獣悪魔が駆けてきた。クロトは凄まじい速さで前方に飛び出し、二体の獣悪魔の横腹を切り裂いた。ラケシス目掛けて数体の獣悪魔が跳躍してきた。だが、獣悪魔達は空中で何かにぶち当たり、衝撃でひっくり返って地面に叩きつけられた。それを眺めていたラケシスの背後に獣悪魔が近づいていた。飛びかかる獣悪魔をラケシスは背を向けたまま横に避けた。すぐ様方向転換して、獣悪魔が黒い牙で噛み付いてきた。ラケシスは硬質化した右手で獣悪魔の顔面を殴りつけた。

 ボティスの黒い魔法陣は空間移動装置となって、黒い獣悪魔を転送し続けた。獣悪魔は全身が黒い剛毛で覆われていて、剥き出しにする牙も、手足の先端に伸びる鋭い爪も黒色だった。艶やかな丸い宝石のような双眸は、赤く光っていた。

 しばらくして、獣悪魔は出現しなくなった。アテピス達の周辺の黒い草原には、獣悪魔達の亡骸が散り散りに横たわっていて、その数は26体だった。手下をやられても、ボティスは腕を組んだまま動かずにいた。

「ビーストでは手も足も出ないか。では、ゴーレムならどうかな」

 ボティスが呟いた瞬間、背後に展開する魔法陣が揺らめき、魔法陣から黒い人形状の悪魔が出現した。ボティスがゴーレムと呼んだ悪魔は黒く艶やかな鉱石で作られた身長3メートルほどの人形のような悪魔だった。ビーストと呼んでいた体長150センチほどの横たわる獣悪魔と比べると、とても大きく感じられた。黒い人形悪魔は瞬きすることのない丸く大きな赤い瞳でクロトを見据えると、指の無い手を振り上げて駆け出した。

「次々手下を空間移動させやがって。自分で戦いやがれ」

 クロトが悪態をつくと、アテピスが近づいてきた。

「私達を見定めているのでしょ。ただ、ここで時間を食うわけにはいかないわ」

 黒い魔法陣からは今なお次から次へと人形悪魔が出てきていた。

「ラケシス、あなたの〈想いの力〉で一気に片付けてくれない?」

 ラケシスは肩をすくめて、向かいくる人形悪魔に対し立ちはだかる形でクロトの前方に飛び出した。

 ラケシスの〈想いの力〉ラスト・リサインが発動した。同時にラケシスの空間把握能力が発動し、ラケシスの視界は白い格子状にセル化された。人形悪魔が不可視の障壁に衝突した。すぐに方向転換するも、既に人形悪魔の周辺は障壁で囲まれて身動きのしようがなかった。四角い障壁の四面は中心点へと秒速5mmで収縮しながら、人形悪魔を閉じ込める箱の容積を減少させ始めた。人形悪魔は見えない壁を殴って蹴りつけたが、狭くて振り被ることができず破壊力のある攻撃はできなかった。箱は容赦なく人形悪魔をじりじりと締め付け、人形悪魔の黒い体がひび割れ始めた。ばきんという音と共に、人形悪魔はばらばらになって崩れ落ちた。ラケシスは前方に蠢く黒い人形の群れに向かって、障壁展開の座標指定を行った。各人形悪魔達の頭上にシート状の硬質な板が出現した。板は凄まじい速さでy軸の0地点、すなわち人形悪魔達が立つ地面まで落下した。ぱきんという破裂音に続いて、黒い破片が周囲に散らばった。26体分の人形悪魔の残骸を目の前にして、ボティスは眉を顰めた。

「シャドウは瞬殺か。不愉快だが、興味深い。被支配層の人間如きが、どうやってそこまでの力を手に入れたのか。その力の限界はどこまでなのか。とりあえず、ゴーレムを一斉処理した空間支配能力者が実力者ということかな」

 ボティスが赤い瞳でラケシスを睨みつけた。背後にあった黒い魔法陣が縮小し、ボティスの後頭部に浮かび上がった。ボティスがラケシス目掛けて駆け出した。ラケシスはボティスとの直線上に障壁を展開させた。ボティスは走りながら右腕を振り払い、不可視のはずの障壁を叩き壊した。ラケシスは眉根を寄せて、次から次へと障壁展開のプログラムを書き込んだ。ボティスは障壁の悉くを破壊するか回避し、ラケシスの顔面を殴りつけた。後方へ吹っ飛んだラケシスの体が空中で障壁に当たり、ラケシスは地面に座り込んだ。クロトとアテピスがラケシスに駆け寄った。ラケシスが口から出た血を腕で拭いながら立ち上がった。

「殴られてそのくらいなら、ラケシス一人でも大丈夫そうだな、あの悪魔」

 クロトの言葉にラケシスは苦笑した。

「確かに私が耐えられるぐらいの腕力だけなら問題ないですよ、クロト。けど、私の〈想いの力〉はあの悪魔には通用しないらしい」

「その通り。どうやら、あの悪魔の視界は私達とは異なるみたいね。ラケシスのラスト・リサインの障壁が障害にならないのだから。それに、それ以外にもまだ能力を秘めているかもしれない。三人で全力で処理するわ」

 アテピスが剣を抜いて構えた。

 クロトは頷き、〈想いの力〉炎魔伝を発動させた。クロトの握る剣が炎に包まれた。

 ラケシスは〈想いの力〉ラスト・リサインを発動させ、両手両足を硬質化させた。

「さて、第2ラウンド開始だな」

 ボティスが凄まじい速さでフェイトの三人に襲いかかった。向かいくるボティスに、アテピスとクロトが剣を振り払った。ボティスが跳躍して避けると、すぐさまラケシスが跳躍して近づき、ボティスの顔面目掛けて手刀を繰り出した。ボティスの後頭部に浮遊する魔法陣から半透明の魔法陣が飛び出し、ボティスの顔を貫通してラケシスの手刀とぶち当たった。がきんという衝撃音が響き渡った次の瞬間、ボティスは赤い炎に包まれた。ボティスが舌打ちして両手を振り回しても、つきまとう炎の勢いは収まらなかった。ボティスを包む炎の外側から、不可視の円錐構造物が無数に殺到した。ボティスにできたのは幾つかを避けることだけで、向かいくる鋭利な棘の全てを回避するのは不可能だった。ラケシスはそれを見て、悪魔ボティスを嘲笑った。

「注意力が集中してなければ、ラスト・リサインを見破れないということですか。それはつまり、無意識下のレベルの話ではないということ。悪魔ボティス、あなたの視界にラスト・リサインが完全に映り込んでいないのなら、いくらだってやりようはある」

 ボティスが仰向けで地面に落下した。落下地点に移動していたアテピスが、炎に包まれたままのボティスに剣を振り下ろした。がきんと金属音が響き渡って、黒い魔法陣が炎の中から浮上してきた。アテピスは舌打ちして、後方へ退却した。魔法陣から漆黒のオーラが噴き出し、ボティスの周囲を渦巻き始めた。ボティスを包んでいた漆黒のオーラが赤い炎を次第に侵食し、ほどなくして黒一色になってしまった。赤い炎の中で黒い輪郭として見えていたボティスは、漆黒のオーラの中では不鮮明で見通せない。クロトが炎獅子剣を振り払い、ボティス目掛けて炎の衝撃波を放った。漆黒のオーラに弾かれて、赤い炎は消滅してしまった。ボティスを覆っていた漆黒のオーラがぐにゃりと歪んで、幅2mほどの二本の筋が空中に飛び出した。ぐにゃぐにゃと空中を蠢くオーラの筋は、動くに連れて黒から灰色に薄れていき細くなっていった。漆黒のオーラは何かを形成しようとしていた。アテピスがボティスに近づき、かろうじて首だと思われる黒い輪郭目掛けて剣を突き刺した。

「遅かったみたいだわ」

 何かを刺し貫いた感触はあったが、それはあまりに軽いもので、まるで中身の無い抜け殻を剣でついたみたいだった。漆黒のオーラに覆われてうっすらと残る黒い輪郭のボティスの姿が崩れ落ちるのを何とか見て取ったアテピスは、凄まじい速さで今立つその場から離脱した。ボティスを覆っていたオーラが一瞬にして消滅した。悪魔ボティスの姿は無かった。アテピスが一瞬前まで立っていた場所に何かが振り下ろされた。黒い地面が抉れて、塵と埃が舞った。アテピスとクロトとラケシスは眉を顰めて、空中を見つめた。漆黒の蛇が空中に浮いてうねうねと動いていた。蛇の体表に鱗はなく、全身は黒く艶やかで、黒い水銀にでも覆われているかのようだ。ぎざぎざの口に牙は無く、その奥には空虚な穴しか無い。丸く大きな双眸は赤く光っていた。漆黒の蛇が凄まじい速さで尾を振り払い、フェイトの三人を打ち据えた。三人は後方に吹っ飛び、仰向けで地面に叩きつけられた。ラケシスは咳き込みながら上体を起こして、口から流れるものを腕で拭った。両隣で座り込むアテピスとクロトも吐血していて、顎が赤く、もしくは黒く染まっていた。

 漆黒の蛇は三人から10mほど離れた空中を浮遊し、赤い双眸で座り込む三人を見下ろした。

「低俗な種族のくせに、悪魔の実体にまで迫るとは、それなりの力量を備えていたわけか」

 漆黒の蛇に変貌したボティスが拡声器を通したような機械的な声で喋った。

「ただ矮小なお前達では、尾の一振りで吐血してしまうか。これではもう楽しめまい」

 ボティスの言葉に舌打ちして、アテピスとクロトとラケシスは立ち上がった。それを見て、ボティスはくつくつと笑った。

「もうお終いなんだよ、下等種族がっ!」

 ボティスが尾を振り払った。今度は攻撃の軌道が読み取れて、アテピスとクロトは剣を振り払い、ラケシスは硬質化させた両腕を交差させて防御が出来た。それでも衝撃に耐え切れず、三人は後方に吹っ飛ばされてしまった。三人は空中で体勢を整えて、転ばずに着地した。ラケシスの着地地点に向けて凄まじい速さでボティスが空中疾走し、ぎざぎざの口を大きく開いた。

「ラケシスッ!」

 アテピスとクロトが叫ぶと同時に、ボティスががちんと顎を閉じた。確かにラケシスを噛み砕いたはずだった。ただ何の感触も無かったので、ボティスは口を開いて地面を見下ろした。ラケシスの千切れた肉片はどこにも落ちていない。異質な気配がして、ボティスはさっと前方に視線を向けた。白い仮面姿と灰色のローブ姿が立っていて、そこにはラケシスも立っていた。

「仮面の軍勢というやつか。それと冥獄に何の用だ、鬼神ヌクテメロン」

 ラケシスは自分を助け出した二人を振り返った。一人は星の鬼神ニティブスだった。ということは、この白い仮面姿は深海人族ミュシャなのかと思った。

「助かりました、ニティブス、ミュシャ」

「私はミュシャではない」

 そう言って、白い仮面を外して顔を見せた。白髪の男で、金色の瞳で見返してくる相手は、帝国の皇子エクス・マキナだった。アテピスとクロトがラケシスの隣にやってきた。エクスは庇うように前に歩み出て他の四人を背にし、ボティスに向き合った。

「冥獄に用事があるのは私だ、悪魔」

「高慢な下等種族だな」

 ボティスは苛ついていたが、攻撃は待ってひとまず全域ネットワークにアクセスしてみた。

(この白髪野郎は異界〈ヴェッセル〉のエクス・マキナという男だとはわかった。さっきまでの三人のデータは無い。残った鬼神は、おそらく2時の領域に所属する星の鬼神ニティブスだ。データではこいつは所在不明となっているが、どうして異界の奴らなどと一緒にいるのかは不明だった。忌まわしいことにデータ不足だ。エクス・マキナにしても、奴の能力や目的はネットワーク上には見当たらない。そもそもこんな低俗な奴等が、どうしてこの冥獄にやってきたんだ)

 エクスはぐずぐずしていたくなかったので、灰色のオーラを纏い、黄金の瞳で漆黒の蛇を睨みつけた。

「本来なら目的が果たせれば見逃していたところだが、アテピスとクロトとラケシスをここまで傷付けた悪魔だからな。今後の為にこの場で排除させてもらおう」

「図に乗るなよ。さっきはどうやってか攻撃を避けたようだが、そう何度もうまくいくか、馬鹿め」

 ボティスがエクス目掛けて尾を振り下ろした。エクスは跳躍して避けると同時に、前方に保護膜を展開させた。尾が保護膜にぶち当たり、衝撃は他の四人には届かなかった。エクスの視界の端に黒い何かが見えたと思った次の瞬間、蛇のぎざぎざの顎ががちんと閉じた。ボティスは閉じたつもりの口が開いているのにすぐ気づいたが、どうしても閉じられなかった。エクスは蛇の顎を掴んでいた両手の力をさらに強め、両顎を外側へ押しやった。すかさずエクスは顎が閉じるより早く、ボティスの顔面を殴り飛ばした。漆黒の蛇が地面に叩きつけられた。エクスは地上へ着地して、ボティスに注意を向けつつ振り返った。

「ニティブス、どれくらい時間を稼げばいい?」

「あと3分で詠唱が完了するわ、エクス」

「よし、3分なら私も特に消耗することもなかろう。任せてくれ」

 ボティスが地面から浮かび上がり、赤い双眸をエクスに向けた。

「お前のその体に纏う灰色のオーラは、原形界の力だな」

「どうした、悪魔。それで私に敵わないと悟ったか」

「その力どうやって手にした。人族などには不相応な力のはずだ」

「悪魔には関係の無い話だ。そんなことより、現状について心配したらどうだ」

「お前のその態度……。そうか、お前は予期せぬ力を手にしたんだな。生来の凄まじい力の保持者は、自分の力への信頼と自信で自然と力の誇示をしてしまう。不相応な力とは言い得て妙だな。お前はその力によって歪な器を見抜かれ、不適格者としてその力を奪われて失い、自らを他者をも道連れにして破滅させることになるな」

「黙れ、悪魔」

 刹那、ボティスがぎざぎざの顎を開いてエクスに突撃した。エクスは灰色のオーラを纏った右足で蛇の顔面を蹴り飛ばした。ボティスが空中へ投げ出された。

「今だ、ニティブス!」

「星域ヴォイドナッシング、発動!」

 ニティブスの全身から灰色のオーラで形成された十字架が無数に発射され、ボティスの周囲を包み込んだ。灰色の十字架は空中に灰色の球形を形成して浮遊した。すぐに球状オーラは半透明になり、中に閉じ込められたボティスの蛇の姿が透けて見えた。ボティスは微動だにせず、赤い双眸の光は澱んで曇っていた。ニティブスの隣に近づいて、クロトは眉根を寄せて問いかけた。

「なあ、ニティブス。あいつは死んだのか?」

「いいえ、悪魔ボティスは死んではいないわ」

 ニティブスの返答に首を傾げるクロトの横で、それまで浮遊したまま身動きしないボティスの姿を見上げていたアテピスが、ニティブスの方へ視線を移した。

「あの灰色のオーラは対象に何を引き起こすの、ニティブス」

「ボティスは言わば封印されたのよ。私の能力、星域ヴォイドナッシングによってね」

「でも、ニティブス。封印と言っても、ただ力によって身動きを封じるだけではないのよね?」

 アテピスが見て取った限り、ボティスは身動きどころか自意識さえ失って、生命活動すら停止しているように思えた。

「そうね、ボティスは物理的な力や魔術などで束縛されているわけではない。ヴォイドナッシングが何をしているかというと、対象の時空を剥ぎ取っているのよ」

「時空を剥ぎ取る? それは時が止まっているということなの?」

「似ているけど、厳密には違うわ。時と空間から切り離されることで、時間の概念すら失うのよ。今やボティスは存在しないことになっている。時の流れが存在しない中で、ボティスは思考も生命活動も停止し、自分に何が起きているのか認識することなく死ぬことも無いわ」

 ラケシスが納得したように頷いた。

「ということは、こちら側からもあちら側からも干渉不可能な状態を作り出しているんですね。外界から引き起こされる何らかの不安要素の心配が何も無いから、対象の保存には最適な能力だ。でも、これまであまり披露されなかったということは、発動条件に厳しいルールがある能力のようですね」

 ニティブスが頷いて応えた。

「そこまで厳しいわけではないけど、対象を指定してから発動するまでに時間のかかる呪文の詠唱が必要なの。更にその呪文の長さは対象の質量の増大に比例して長くなるから、発動が難しくなるわ。私一人では無防備すぎて発動を躊躇してしまうし、誰か仲間がいたとしても、ヴォイドナッシングで封印しなければならない状況も少ないとなれば、使用頻度も低くなるわよね」

「私もニティブスの能力は初めて見たが、時空の隔絶というのは実に興味深いな。時間という概念が存在しなければ、物質は永久不滅というわけか」

 そう言って、エクスが空中を飛翔しボティスに近づいた。ラケシスも気になって、ラスト・リサインで形成した不可視の空中階段を登って、浮遊する球状オーラに近づいていった。エクスとラケシスがボティスの不鮮明な赤い双眸を見つめた――次の瞬間、二人はニティブスの隣にいて漆黒の地面に立っていた。エクスとラケシスは眉根を寄せて、依然として空中に凍結されているボティスを見上げた。他の三人も、眉を顰めてボティスを見上げていた。その場で何か奇妙なことが起きているようだった。エクスとラケシスが一瞬にしてニティブスの隣にまで瞬間移動したのが、どのようにして何故起きたのかはわからない。そこでエクス達は異様な気配を感じ取り、ばっと背後を振り返った。視界に飛び込んできたのは、とても異質なものだった。エクス達から20メートルほど離れた場所に、全身白づくめの何者かが一人で立っていたのだ。

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