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リヴラとは何か

 ロリアンは灰色の円卓に両肘をついて組んだ手に顎を乗せ、深いため息をついた。大地人族ヒエロニムスと深海人族ミュシャはもう帰っていて、室内はロリアン一人だった。そこはエクスの自室だったが、エクスがいなくなってからロリアンはその部屋から出られずにいた。眉根を寄せて自問を繰り返しているロリアンの前に、何者かが空間移動して姿を現した。放出されるエネルギーがかつて感じたことのある波動だったので、ロリアンは特に驚くこともなく灰色の髪をかきあげて、突然の訪問者を見つめた。現れたのは二人の白ローブ姿だった。二人ともフードは被っておらず、白い仮面もつけていなかった。一人はセラフィム・アダム・カドモンだった。セラフィムは黒髪で童顔の青年だった。セラフィムの背中はローブの下に生えているはずの豊かな白い翼のせいで不自然に膨らんでいた。もう一人はアケショナル・ラストアだった。アケショナルはロリアンの記憶の中のアケショナルの姿と全く変わっていなかった。肩にかからないほどのショートカットの黒髪と整った美しい顔。力強い眼差し。ロリアンはニコリと笑った。

「久しぶりね、アケショナル、セラフィム。来るなら、前持って教えてくれれば良かったのに。お茶も用意出来ないわ」

「急に訪問してしまって、ごめん、ロリアン。ちょっと話があって」

「久しぶりだな、ロリアン。私もいきなりセラフィムに連れて来られたんだ。こんな白ローブなんてふざけた物を着せられてな。何でも、三獄〈デルタ〉で問題が起きているらしいんだ」

「三獄の事なら、私も前々から懸念を抱いていたわ。なんとなく今起きていることも聞いたけど、一体何が起きているのかの詳細まではわからない。調査の為に、エクスが三獄へ向かったわ。あなた達と同じ白いローブを着てね」

「僕も三獄に対して危惧はしていたんだ。だから、僕を含めた三神と〈秩序〉の信奉者テトラモルフはある措置をしていたんだ」

「セラフィム達が対策していたなら、問題は起きなかったんじゃないのか?」

「いや、対策というより、それは確認作業に過ぎなかったんだよ。僕達も確信がなかったから、疑わしきは罰せずの態度しか取れなかったんだ。結局、問題は勃発してしまった。それも想定していた時期よりも早くね」

「ロリアンとセラフィムが危惧していたというのは、具体的にどんなことなんだ?」

 ロリアンとセラフィムが目を合わせた。

「僕達が危険視しているのは、三獄〈デルタ〉に存在する二つの存在だよ。一つは冥獄の支配者ラメド・アンデル」

「名前は聞いたことがあるが、そいつは一体何者なんだ? 世界を〈混沌〉に染めようとでもしているのか?」

「いや、ラメド・アンデルは〈混沌〉とは違う。〈混沌〉の子とその眷属エノキアンとは、根本的に違うんだ。僕達は〈混沌〉の勢力に対抗し、四界に〈秩序〉を齎す為に〈混沌〉の子とその眷属エノキアンと戦ってきたけど、その間に冥獄の支配者ラメド・アンデルはパーソナル・イントラユートピア実現の策略を進行させていたんだ」

 アケショナルが眉を顰めた。

「なんだ、そのパーソナル・イントラユートピアというのは?」

「ラメド・アンデルの求める歪んだ理想郷だよ。全ての生命体は意思を持たないパブリックドメイン・インターフェースと化す。ラメド・アンデルの思い通りに動く生きた操り人形だよ。人々は自分達がパブリックドメイン・インターフェース化によって自由意志を剥奪された存在だということにさえも気づかない」

「主観的に操られているという認識が存在しないなら、自由意志云々は関係ないんじゃないのか、セラフィム?」

「確かに君の言う通りだよ、アケショナル。自認していないなら本人にとって虚構に過ぎない。そもそも自由意志というものが果たして存在するのかという問題もあるよね。さらにあらゆる事象は、因果によって確率的に必然性があるかもしれない」

「何もかもがあらかじめ予定され決定している、ということか。そんなのは私は信じない。物事は私達の一つ一つの選択と行動によって、変動していくはずだ。仮に神と呼ばれる存在が時の初めから終わりまでの全ての事象を操作し、定めているというなら、それは人々にとって神などではなく、悪魔以外の何物でもない。過去から現在、そして未来までも支配する悪魔のような存在がいるなら、私はそいつを倒し、自分の自由を勝ち取ってやる」

 アケショナルは眉根を寄せてから凄絶な笑みを浮かべた。セラフィムは控え目に笑った。

「アケショナルは強いね。創世族の誰もが君のような強さを持っていたならいいんだけど。全知を支配する存在がいるとするなら、アケショナルの支配者への挑戦に僕も手を貸すよ」

「ちょっと、二人とも。ラプラスの悪魔への挑戦はいいけど、私は選択や確率は絶対的なものではなく、相対的で不確定なものだと思っているわ。たとえラプラスの悪魔が全てを予見しているとしても、その度に常に小さな見落としがあるに違いないでしょうね。そんなことより、決定論や自由意志について哲学的論議をしている場合ではないでしょう?」

「そうだったね、ごめん、ロリアン。ともかく、ラメド・アンデルは〈混沌〉とは異なり、世界を一度滅ぼして、自分の思い通りの世界――パーソナル・イントラユートピアを実現させようとしているんだ。全ての生命体をパブリックドメイン・インターフェース化することで、ラメド・アンデルは奴隷達の支配者となるつもりだ。そんなことは許さない」

「まるで、神の真似事だな。そんな大それたことが物質界の一存在に可能なのか?」

「ラメド・アンデルには可能性がある。それは今、三獄で問題の渦中にある、教徒の欠片のせいだ」

「教徒の欠片というのは一体何なんだ?」

 アケショナルがロリアンを見ると、ロリアンはセラフィムを見つめていた。セラフィムがため息をついた。

「教徒の欠片が何をするのか簡単に言うとしたら、たぶんこうだろうな。教徒の欠片は、夢を叶えてくれる」

「夢を叶える?」

「膨大なエネルギーを秘めた欠片は、選ばれた者の願望を実現化してくれる。ラメド・アンデルは教徒の欠片の一部を持っている。教徒の欠片はラメド・アンデルに邪悪な策略を可能とする力を与えているんだ」

「ちょっと待ってくれ、セラフィム。教徒の欠片の一部っていうのは、どういう意味だ?」

「教徒の欠片は複数存在すると言われている。その一つをラメド・アンデルは持っているんだ。残りの欠片がどこにあるのかは誰にもわかっていない。ただ、残りの欠片が覚醒し、発動されたエネルギーを複数の者達が察知した。だから、残りの欠片の争奪が始まったんだ」

「そんな厄介な物が邪悪な奴等に渡ってしまったらと思うと、ぞっとするな」

「その通りだね、アケショナル。中でも最悪なのが〝リヴラ〟だ」

「〝リヴラ〟?」

 アケショナルとロリアンは同時に聞き返していた。

「すまない、セラフィム。私の聞き間違いか? リヴラが、最悪だって?」

「僕がさっき言った三獄で危険視しているというのは、ラメド・アンデルとリヴラのことだよ。どうやら、ロリアンもリヴラについては詳しくは知らなかったようだね」

「私はラメド・アンデル以外にもう一つの邪悪な波動を感知していたけど、それがリヴラだとは思いも寄らなかったわ。どういうことなの、セラフィム」

「君達が思っているリヴラと、僕の言う〝リヴラ〟は厳密には別の人物のことなんだ」

「名前が同じだけということか、紛らわしいな」

「いや、そう単純でもないんだ、アケショナル」

 アケショナルとロリアンは眉を顰めた。

「いいかい、二人とも。リヴラと言えば、僕達が知っているのは、リヴラ・ジヴァニトゥムと呼ばれる男のことで、彼は魔術師――賢者――調停者――錬金術師などの複数の肩書きで知られている。僕達は改めて、リヴラについて知らなければならない。リヴラ、とは何か」

「リヴラ、とは何か……」

 アケショナルとロリアンは再び同じ言葉を繰り返していた。

「そう、リヴラとは、何か」

「リヴラは不老不死の肉体と精神――更には多様な知識を持ち、無彩色魔術さえも操る」

「リヴラは何らかの罰を犯して、その償いとして〈秩序〉の信奉者テトラモルフに仕えているんだろう。だから、〈混沌〉に対抗しているんだ」

「どちらも正しいけど、どちらも不足しているね。リヴラの特異な能力はどこからきているのか。リヴラは何をしてしまったのか。真相を知らない限り、僕等は〝リヴラ〟に対抗できないかもしれない」

「そこまで言うのなら、お前は知っているんだろうな、セラフィム」

「もちろんだよ、アケショナル」

「話してくれるかしら、セラフィム」

 セラフィムは頷いた。

「リヴラ・ジヴァニトゥムと〝リヴラ〟は確かに別の人物だけど、二人は無関係というわけではないんだ。結論から言うと、二人はかつて一人の人間だった。質問があるのはわかるけど、ちょっと待ってくれないか、アケショナル、ロリアン。まだ続きがあるんだ。リヴラは最初から不老不死だったわけじゃないし、凄まじい力を持つ魔術師でもなかった。人より少し勤勉家なだけで、とりたてて言うほどのことがない平凡な人族だったんだ。本来のリヴラが生きていたのは帝国以後の世界。ちょうどアケショナルが生きた時代と同時代だったと言える」

「私が初めてリヴラと会った時には、既にあいつは異常な能力を持っていたぞ」

「ちょっとしたパラドックスだね。リヴラは同じ時間軸を何度も繰り返し行き交っていた。アケショナルが出会ったリヴラは、既に同じ時間を何度も体験した後の状態だったわけだ」

「よくわからないな。私が出会った時より前は、リヴラは普通の人間だったということか?」

「その通りだよ。正にリヴラは普通の人間だった。多少、魔術の才能は人より優れていたけど、無彩色魔術の才能はなかった。英雄となって〈混沌〉の子と対峙した白銀剣の担い手であるアケショナルや、帝国時代の魔法国家においてもずば抜けていた、自らに秘められた膨大な魔力故に監禁されて畏怖されたロリアンと比較したら、リヴラは特別でもなかったし、選ばれた存在でもなかった。どこにでもいる人並みの少年だった」

「では、何が彼を今のリヴラのようにさせたのかしら。リヴラに何が起きたの?」

「リヴラは罪を犯し、罰を受けた。リヴラは禁断の知識に近づいてしまった。彼は無知だった。しかし知らないからといって、犯した罪が許されるわけはない。たとえ、リヴラにそのつもりがなかったとしても――いや、何も考えてはいなかったのかもしれない。それでもリヴラの行動は四界のバランスを崩壊させ、世界を消滅させてしまう危険性があった。それは〈秩序〉と〈混沌〉のどちらからしても、未然に防がなければならない最悪の状況だった。リヴラは罰として、不老不死の肉体と精神を与えられ、時空移動の能力を授かった。犯した罪が許されるまで、リヴラは四界のバランスを管理する役目を担った。立場と価値観が異なれば、リヴラの手に入れた特質な能力は祝福のように見えるかもしれない。一方でリヴラの能力は、二度と同じ過ちを繰り返させない為の呪縛なんだ」

「リヴラは、一体何をしてしまったんだ?」

 アケショナルの問いに応じたのは、厳しい表情をしているロリアンだった。

「リヴラは、原形界への進出に挑戦したのね。四界のバランスのルールを無視して」

「その通り。リヴラは原形界への進出を試みた。それで失敗した。ちょうど世の中は魔王との大戦の最中だった。無名の魔術師だったリヴラ・ジヴァニトゥムは、魔術の源泉である形成界の存在から、四界教の本質を知ったんだよ。学べば学ぶほど、自らの凡才をリヴラは思い知った。リヴラは自分の才能の欠如に絶望してしまった。妬みと憎しみによる自己嫌悪が深まるほど、特別な力への憧れはリヴラの中で大きく膨れ上がり、自滅を省みずに危険な道を敢えて選択して進み続けた。取り憑かれた妄執のお陰か、リヴラは四界の存在を認知し、〈秩序〉の信奉者テトラモルフと〈混沌〉の子の下僕エノキアンに出会ったんだ。リヴラは力と知識に飢えていた。それ故にテトラモルフの忠告を無視して、禁断の力と知識を求めたんだ」

「まるで、自分の目でその時のリヴラを見ていたかのように言うんだな、セラフィム」

「アケショナル、僕は〝見た〟んだよ。アダム・カドモンとして覚醒した時に目撃したんだ。まるでハードを利用して記録媒体から読み取るようにね。ともかく、リヴラは力と知識への渇望によって、狂人と化していた」

「リヴラが背負っている罪と罰はそういうことだったのか。けど、これだけでは〝リヴラとは何か〟の答えにはならないな」

「まだ続くのよね、セラフィム。リヴラ・ジヴァニトゥムの罪と罰の更に先が」

「その通り。〝リヴラ〟の誕生だよ」

 そう言って、セラフィムは深いため息をついた。アケショナルとロリアンは何も言わずにセラフィムが続けるのを待った。セラフィムは再び話し始めた。

「リヴラが罪を犯し、罰を下された際に、リヴラ・ジヴァニトゥムから恐ろしい悪意を持った分身が生まれてしまったんだ」

「分身?」

「そう、瓜二つの分身体さ。リヴラの中に秘められていたエネルギーの凝縮体――心の奥底に渦巻いていた邪悪な精神の残滓がリヴラの内から外へ弾き出されたんだ。リヴラが罪を受け入れ、罰を覚悟して心を入れ替えることで分身が誕生した。暴力的な力のほとんどを宿主から奪い去った分身体は、あらゆる負の感情によって形成された悪の塊そのものだった。分身のリヴラは更なる力を貪欲に求め、あらゆる力を自分のものにしようとしていた。それは力と知識への渇望に狂っていた、かつてのリヴラの再来だった」

「つまり、私達が会ったことがあるリヴラは心を入れ替えた善人のリヴラで、三獄で危険視されているリヴラは、かつてリヴラから生まれた悪意の塊の分身ということか」

 アケショナルはやれやれといった感じで首を横に振った。

「分身のリヴラは力への渇望から、膨大な力を持つという教徒の欠片の覚醒を感じ取り、すぐさま欠片の捜索を開始したのね。当然、リヴラは教徒の欠片入手の為なら手段を選ばないし、犠牲も厭わない」

「そうだね、ロリアン。僕達はリヴラを止めないといけない。悪意の塊のリヴラは、飽くなき力への執着によってあらゆる力に手を伸ばしている。リヴラが今狙っているのは間違いなく三獄の教徒の欠片だ。世界に対して、リヴラは自らの力を好き放題に誇示しようとしている。鬼神ヌクテメロンの中には、万鬼殿を裏切ってリヴラの側についた鬼神もいるんだ。僕達も三獄〈デルタ〉へ向かって、行動に出よう」

「仕方ないな。だが、私は私の目的を果たす為にやらせてもらう」

「………」

 ロリアンが何も言わないので、アケショナルは眉根を寄せた。だが、ロリアンが沈黙を破るまで、アケショナルもセラフィムも何も言わずにいた。

 ロリアンが気になっていたのは、鬼神ニティブスの話だった。ロリアンはニティブスが嘘をついているのに気づいていた。

(エクスもニティブスの嘘に気づいているはず。ニティブスが先程語った三獄の話には、真実ではないことが含まれている。それが何かはわからなかったが、ニティブスが本当のことを言っていないのはニティブスの言動が示していた)

 ロリアンはともすれば消えてしまうような表情の変化を見逃さなかった。

(おそらく、ニティブスは悪魔ルカヴィに関して何かしらの嘘をついている。何故、嘘をつかなければならないかが問題だった。まさか、ニティブスがルカヴィの失踪の原因なのだろうか)

「私はエクスに創世族について任されているわ」

「わかっているよ、ロリアン。警戒に関しては、今回は例外的にテトラモルフが注視してくれることになっているんだ。異常が起きても心配ないよ。まあ、異常は起こさないようにするだろうけど。だから、ロリアンも一緒に来てほしい。ロリアンも調査したいことがあるんでしょ?」

「全て想定済みということね。わかったわ。行きましょう、三獄〈デルタ〉へ」

「オッケー。じゃあ、一緒に行こう」

 そう言って、セラフィムはロリアンに白い仮面と白いローブを手渡した。ロリアンはやれやれと首を横に振りながら仮面とローブを受け取った。セラフィムは三人分まとめて空間移動を発動させた。三人の姿が不鮮明になり、消失しようという時、室内に何者かが現れた。もはや三人の視界はぼやけていて、突然の侵入者は黒い輪郭としてしか認識できなかった。侵入者が衝撃波を放った。放出されたエネルギーは三人の展開途中の空間移動にエラーを発生させた。そのままセラフィムとアケショナルとロリアンの姿はその場から消失した。侵入者もすぐにその場から姿を消してしまった。





 鬼神マストがやってきたのは天獄だった。煉獄の灰色の世界とは異なり、色彩豊かな光景はまるで楽園のようだった。でも、これは単なる表層に過ぎない。マストは天使達の醜さを知っていたので、外見の美しさに騙されはしなかった。マストは周囲を見渡した。足首ほどまで伸びた緑の草原には、所々に赤、青、黄色の花が咲いていた。前方は丘陵地帯で、背後には濃緑な森林が広がっている。

「ここは、天獄のどこなんだろう」

 鬼神ヌクテメロンの領域ではないので、空間移動の明確な場所指定は不能だった。

「まあ、どこでもいい。天獄なのは間違いないからな。とにかく一刻も早く万神殿に行かないと」

 マストは丘陵を目指して歩き出した。しばらく歩いていると、背後から突風が発生した。マストが振り返るより早く、とてつもない衝撃がやってきてマストを前方へ吹っ飛ばした。地面に叩きつけられたマストは、腰部に激痛が走って転げ回った。マストは歯を食いしばって起き上がった。汗が吹き出して、額の黒髪が白い肌にへばりついた。腰部は今はピリピリと痺れたような痛みに変わっていた。マストはゼエハア言いながら立ち上がった。

「立ち上がるか、鬼神。昼に照らされる夜――ヌクテメロンの名も伊達ではないか」

 マストは目を丸くした。声の正体は天使サマエルだった。サマエルは万神殿で最上級クラスの位階に定められているセクンダデイに所属する男天使だった。半透明な白いローブを着て、背中には白い翼を生やし、容姿端麗な姿は天使特有の外見的特徴だった。他の天使とは異なり、更に目を見張るのは天使サマエルの真っ赤な髪だった。サマエルの肩まで伸びた赤い髪は、まるで炎のように猛りうねっていた。天使サマエルが赤い目でこちらを見つめているのを見て、マストは眉を顰めて舌打ちした。

(最悪だ。まさか、いきなり最上級クラスの天使とやり合う羽目になるなんて思ってなかった)

「天獄の最高権力の一部であるセクンダデイが、どうしてこんな場所にいるのかな?」

「お前にこの場所がどこだかなんてわからないだろう? なら、私がここにいる理由など、お前にはわからん」

 マストは再び小さく舌打ちした。

(こんなところで死ぬわけにはいかない)

 マストは復体命アナザーワンセルフを発動させた。マストの腰部の傷が癒された。

「さて、お前は誰だ?」

 サマエルはその言葉と同時に、全域ネットワークにアクセスして情報を引き出した。

「幻影の鬼神マスト、か。犬の鬼神カタリスが司る10時の領域に所属する一柱の鬼神が、天獄に何の用だ?」

 マストは歯ぎしりしながらサマエルを睨みつけた。サマエルはお構いなしに、マストのパーソナルデータを全域ネットワークからダウンロードし続けた。

「根本的理由はやはり教徒の欠片か。冥獄のラメド・アンデルに対抗する為、天獄も煉獄も教徒の欠片を絶対に手に入れたいからな。万鬼殿に教徒の欠片を入手させる為に、万神殿の邪魔にやってきたのか」

 そこまで言うと、サマエルの目の色が変わった。サマエルは眉根を寄せて、鬼神マストを睨みつけた。

「表向きは我々の邪魔のようだが、どうやらそれ以外に目的があるみたいだな。お前は教徒の欠片が適格者を選択することを知っているし、それ故に争奪戦が無意味なこともわかっている。自身の妨害行為も無意味だと自認しているな。お前には全域ネットワークのシステムなどわからないだろうが、全域ネットワークへの情報の漏洩は巧みに防いでいるようだ。お前は何の為に天獄へ来たんだ?」

 全域ネットワークなるものの存在は知っていたが、それがどのようなものかは知らなかったし、全域ネットワークという名称もマストは今初めて聞いた。

(どういうカラクリかはわからないけど、ある一定の情報は全域ネットワークに蓄積され、アクセス可能な者には情報が開示されるらしい。クソッ、ふざけたシステムだ)

 マストはハッとして、今になって納得がいった。

(そうか、犬の鬼神カタリスは全域ネットワークにアクセスできるんだな。カタリスの妙な態度も、全域ネットワークでの情報収集によって裏付けられる。けど、今はそんな場合じゃない。セクンダデイ・サマエルをどうにかしないと。嘘は無意味ということか。むしろ偽証は逆効果だな。僕には僕の嘘を相手が見破れているのかいないのかがわからない。どちらにしろそれでは僕にはマイナスでしかない)

「あなたが言ったように、僕は教徒の欠片取得の為に、天使達の妨害活動の為に来たんだ」

「私が詰問しているのは、その先の話だ、鬼神マスト」

 サマエルは苛々して舌打ちした。

「その先というのは何のことかな?」

「黙れっ! 白痴めっ!」

 サマエルは火針を発動させた。サマエルの右肩の上部宙空に直径1cmほどの赤い炎が出現し、炎は細い針状に変化し、凄まじい速さでマストの左肩に突き刺さった。マストは衝撃で後方へ吹っ飛んでしまった。仰向けに地面に叩きつけられるもすぐ様起き上がると、左肩に激痛が走った。激痛はピリピリとした痺れに変わり、左腕を動かせなくなった。マストは眉を顰めながら、さっきの腰部のダメージの正体を改めて思い知った。

「まともに話す気になったか、愚図が」

 マストはサマエルの言葉は無視して、復体命アナザーワンセルフを発動させ、傷の修復を図った。左肩の火傷は癒され、左腕が動くようになった。マストの左腕がピクリと動くのを見て、サマエルは眉根を寄せた。

「動いたな。ダメージは受けていたはず」

 マストの左肩の傷は痕跡こそ残っていたが、治癒されているように見えた。サマエルは再度全域ネットワークにアクセスし、鬼神ヌクテメロンの能力について検索した。検索結果のヒット数の少なさに、サマエルは落胆した。

「最初に放った火針のダメージも、いまや何とも無いようだ。治療したのか」

(どうやら全域ネットワークも完璧ではないらしい。明らかにサマエルは僕の能力――復体命アナザーワンセルフの正体がわからずにいる。それに僕の本当の目的もばれてはいないみたいだ。そこに勝機があるかもしれない)

「もういい。どれほどの耐久性があるのか見極めてやる」

 サマエルが火針を発動させた。マストの両足首に激痛が走った。マストが思い切り歯を食いしばると、口から灰色の血が流れて垂れた。復体命アナザーワンセルフが発動し、両足の治癒が開始したが、今度はマストの両肘に火針が突き刺さった。とてつもない痛みで、マストは俯けに倒れ込んでしまった。朦朧とする意識の中、自らの認識の甘さを呪った。

(何とかアナザーワンセルフの治癒作用だけは持続させないと)

 両膝に熱した鉄の串を突き刺された――そうとしか思えない衝撃に襲われ、マストの目から思わす涙が流れた。

「どうした、そんなものか、鬼神」

 サマエルの嘲笑がかすかに聞こえた。その後聞こえてきたのは、聞いたことのない爺さんの声だった。

「弱い者虐めとは、趣味が悪いな、サマエル。万神殿で最高位の権力者であるはずのセクンダデイ――そんな高潔な天使だとしても、案外、中身は低俗なんだな」

「道化師っ!」

 そこで、マストの意識は消失してしまった。





 オデュに連れられて、ティラは天獄を統治する万神殿へとやってきた。オデュの空間移動によって姿を現した場所は万神殿の深奥にある円形の広間だった。周囲は全て白かった。床と壁は白い大理石製で、湾曲する周囲の壁には直径1mほどの丸窓が等間隔で設置されていた。広間の広さは直径50mほどで、ティラとオデュは円形広間のちょうど中心部分に出現していた。ティラの正面には三神と無数の天使達が刻まれた高さ3mの白い扉があって、振り返るとちょうど扉の反対側には下層へ繋がる螺旋階段が設置されていた。ティラとオデュは頭上から射し込む白い光に照らされていた。見上げると、高さ10mの天井の中心にある丸窓から、明かりが降り注いでいた。

「さて、行くか」

 ペタペタという足音を響かせながら、オデュが正面扉へ近づいて行った。ティラも慌ててオデュの後を追った。白い扉をオデュが押し開けた。扉の中は、前の部屋と瓜二つの円形構造の部屋が広がっていた。その広間の奥に巨大な存在が鎮座していた。ティラが呆然とする横で、オデュが微笑みを浮かべた。

「久しぶりだな、リメド・エイデン。また一回り大きくなったんじゃないのか?」

 ティラは驚いて目を見張った。リメド・エイデンは巨大な亀だった。リメド・エイデンの甲羅は小さな山のように高くて大きくて、まるで本物の山のように土や草花、苔などに覆われていた。その甲羅山の左右の裾野から天使のような豊かな白い翼が生えていた。翼は畳まれていたが、広げたら全長40mにもなりそうだった。巨大な亀の顔は濃緑な皮膚の襞で覆われていて、悠久の歳月の流れが感じられた。それを物語るかのように、襞の間から見え隠れする小さな目はキラキラと光っていて、積み重ねた経験から得られるであろう深い知性が宿っていた。

「やあ、久しぶりだな、英雄オデュ」

「やめてくれ、リメド・エイデン。私は英雄などではない。もはや私は老いた道化師に過ぎない」

「そうか。客観時間でそんな時間が経過してしまったのか。それで、私を訪問したわけか、オデュ」

「覚醒が確認された。リメド・エイデン、私は何をすればいい?」

「まずは、一柱の鬼神を救って欲しい」

 オデュは神妙な面持ちで頷いた。

「幻影の鬼神マストだな、わかった。私にどこまでできるかわからんが、力の限りを尽くそう。クラスチェンジ・大魔導師」

 空間移動が発動し、オデュの姿は消失した。

「さて、初めまして、ティラ・マスカル」

 完全に話に取り残されて呆然としていたティラは、リメド・エイデンに話しかけられて我を取り戻した。ティラは白い仮面を外して、巨大な亀を改めて見つめた。

「どうして、僕の名前を?」

 リメド・エイデンはファッファッファッと笑った。

「知らないわけがないじゃないか。君は心中に秘めたる凄まじい〈想いの力〉をもって、相反する白銀と漆黒の力を同時に操り、〈混沌〉の子を打ち破った勇者じゃないか」

 ティラは何も言わなかった。

(リメド・エイデンの言うことは事実かもしれないが、自分には何の実感もなかったし、今の自分にそんな凄まじい力は到底感じられなかったからだ)

「オデュはどこに行ったんですか?」

 ティラは特に意味もなく聞いてみた。

「彼は鬼神マストを救いに行ったんだ。マストの救出によって、多くの者達が救われる」

「そうですか」

 ティラには意味がわからなかった。全く興味がなかったので、どうでもよかった。リメド・エイデンの姿を見ていて、リヴラにつきまとう有翼の亀デウスを思い出した。けど、今はどうでもよかった。周りに振り回されて自分の目的が進展しないので、どうしようもない無気力に襲われた。

「残念ながら、万神殿には因果の刀は無いよ」

「でしょうね」

 ティラは何の期待も抱いてはいなかった。

「リメド・エイデン、あなたは道化師オデュのことを英雄と呼んでいたけど、オデュについて詳しく知っているんですか?」

「本人が語らないことを私には話せないよ、ティラ」

「なら、因果の刀の行方については?」

「それはなんとも言えない」

「どういうことですか?」

 ティラは眉根を寄せた。

「今、三獄〈デルタ〉で何が起こっているか、君は知っているかい?」

 ティラは肩を竦めた。

「今、三獄ではね、教徒の欠片と呼ばれるエネルギー結晶体を巡って、天獄の天使と煉獄の鬼神と冥獄の悪魔が争いを始めてしまった。更に異世界の邪悪な存在リヴラによって、世界は〈混沌〉に染まろうとしている」

「今、リヴラと言ったんですか? リヴラって、あの賢者リヴラのことですか?」

「いや、錬金術師リヴラ・ジヴァニトゥムでは無い。かつて、そのリヴラから分かれた邪悪な分身体リヴラのことだよ」

 ティラにはよくわからなかったが、とりあえず頷いてみせた。

「さて、君の求める因果の刀は、この三獄の〈混沌〉を解消することで得られるだろう」

「どういうことですか? なんで天使や鬼神や悪魔の争いを止めることで因果の刀が手に入るんですか? 今すぐ因果の刀の在り処を教えて下さい」

 リメド・エイデンは皺まみれの顔を横に振った。ティラは苛ついて歯を思い切り食いしばった。思わず毒づきそうになるのを何とか堪えて、ティラはリメド・エイデンを真っ直ぐと見据えた。

「リメド・エイデン、僕はどうすればいいんですか?」

「ティラ、申し訳ないが、君には必要な仲間を集めて、分身体リヴラと冥獄の支配者ラメド・アンデルと戦ってほしい」

「わかりました。そうすれば、因果の刀が手に入るんですよね」

 リメド・エイデンが首を縦に振った。

「でも、僕は何をどうすればいいか全然わからないんですけど」

「すぐに英雄オデュが戻ってくるさ」





 天使サマエルは目の前に現れた道化師オデュを睨みつけた。

「何の用だ、道化師。いや、英雄の成れの果てとでも言えようか。かつての亡霊になど用は無いぞ。抜け殻の老兵など失せろ」

 オデュはサマエルは無視して、鬼神マストの様子を見ていた。気を失っているようだが、傷の修復はなんとか維持されているようだ。

「クラスチェンジ・治療師」

 オデュはマストの傷の治癒を手伝った。オデュは一瞬にして、向かい来る敵意を察知した。

「クラスチェンジ・魔剣士」

 オデュは治療師の姿のまま腕を振り上げ、モーションの途中で変貌完了と同時に握りしめた水鷲剣を振り上げた。サマエルの火針と水鷲剣とが激突し、爆音と水蒸気が巻き起こった。

「老人は労わるものだぞ、ひよっこ天使」

「黙れ、じじい」

 サマエルは全域ネットワークにアクセスし、道化師オデュについて情報を検索した。検索結果はどれも既にサマエルが知っているものばかりだった。サマエルは舌打ちした。それを見て、オデュは笑みを浮かべた。

「何が可笑しい?」

「いくら検索をかけても、全域ネットワークにはそれ相応の情報しかアップロードされていないぞ。無駄なアクセスを繰り返すとは、アクセス権限の限界がそこまでなんだな」

「何が言いたい?」

「オムニチャネルでのアクセス許可が定められているのは、なにも上級クラスの天使だけではない。更に言えば、ネットワークの規模は三獄だけに留まらない」

 サマエルは眉を顰めた。

「わからんか、ひよっこ。三獄だけが世界の全てでは無い。世界は四界によって構成されている。これで十分ではないか」

 オデュは再び放たれたサマエルの火針を水鷲剣で消滅させ、マストを連れて空間移動を発動させた。オデュと鬼神マストの姿がその場から消失した。





「それで、お前達の望みは何だ?」

 鬼神サリルスの言葉にリヴラはニコリと笑みを浮かべた。リヴラもイライも白い仮面は外していて、フードは被っていなかった。リヴラとイライは鬼神ヌクテメロンの居城――万鬼殿に来ていた。案内された部屋は50平米ほどの四角い部屋で床と壁は光沢のある灰色で、壁には昼に照らされる夜ヌクテメロンの姿が各領域ごとに刻印されていた。室内中央に正方形の灰色のテーブルとソファが向かい合って置かれていて、リヴラとイライは扉を開け放つ鬼神サリルスと向かい合う形で座っていた。

「私達が求めるのは四界の〈秩序〉ですので、それはつまり三獄の〈秩序〉をも意味しています」

「お前が三獄の〈混沌〉を解決してくれるとでもいうのか」

「出来得ることなら」

「ふざけたことを。お前達などに何が出来る」

「私達だけではありません。多くの協力者によって、世界は〈秩序〉を取り戻します」

「理想を語るのは賢者を装った愚者にでも出来る。だが、何よりも苛つかせるのは、お前がその顔で〈秩序〉を語ることだな」

 イライが眉を顰めたが、リヴラは肩を竦めただけだった。

「当然ではあるが、お前は分身体のリヴラと髪の色が違うだけで瓜二つの姿なんだな」

「申し訳ありません。過去の忌まわしい汚点です」

「お前の軽率な汚点というやつで、三獄のバランスは崩壊しようとしているんだぞ。分身体リヴラは満足することのない力への意志によって、結果的に四界を滅ぼすかもしれん」

「清算は必ず果たさせて頂きます」

 サリルスはそこで全域ネットワークからの情報を確認し、眉根を寄せて唸った。リヴラも既に全域ネットワークからデータのダウンロードが済んでいたので何も言わずにいたが、イライには何が起きているのか全くわからなかった。サリルスは顔の目の前の空中に右人差し指で一辺10cmの正方形を描いた。空中に四角い窓が出現した。サリルスは空間を飛び越えた窓の奥を覗き込み、全域ネットワークの情報の真偽を確かめた。情報に間違いはなかった。サリルスは舌打ちして、ため息をついた。

「私達が対処致します。鬼神サリルス」

「いいだろう、リヴラ。お前の言葉の真偽を見極めてやる」

 リヴラは一礼し、イライと共にその場から空間移動した。



 リヴラとイライは万鬼殿の外の入り口までやってきた。背後には灰色の円錐形の塔で構成されている万鬼殿があり、目の前には灰色の大地が広がっていて、そこに漆黒の存在が佇立していた。

「煉獄に何の用だね、悪魔カルキュドリ。冥獄へ引き返せ」

「黙れ、堕ちた錬金術師」

 カルキュドリは黒いワニの頭で、黄ばんだ牙がズラリと並んだ口で流暢に言語を話していた。全長10mほどの全身は黒い鱗で覆われていて、四肢には黒く硬い毛がビッシリと生え、先端には黒く光沢のある鋭い爪が三本ついていて、まるで獅子のようだった。背中には黒紫の飛膜で覆われた広げれば全長10mにもなりそうな翼が生えていた。イライは眉根を寄せて、カルキュドリを睨みつけた。

「なんだ、このドラゴンの出来損ないは?」

「悪魔カルキュドリ、冥獄の悪魔の軍勢の一人で、言うなれば冥獄の支配者ラメド・アンデルの手下だよ」

 カルキュドリは黒い瞳でリヴラとイライの姿を凝視し、低い声で唸った。

「白い仮面とローブ姿の奴等はお前の差し金だったのか、リヴラ」

「まあ、ご察しの通りだよ」

「お前という存在はどちらにしても三獄のバランスを掻き乱すんだな、疫病神が」

「自分で言うのもなんだが、力への意志に支配されている狂人と私とを一緒にするのはやめてくれないか。私は欲望に溺れたクズとは違う」

「よく偉そうなことが言えるな、クズの根幹はお前だろうが」

「わかった、もういい。さっさと冥獄へ帰れ、カルキュドリ。イライ、手出しは無用だ。私がこの身の程知らずに思い知らせてやろう。サリルスへのアピールとしても、私一人の方が効果的だろう」

 イライは肩を竦めて、両腕を組んで様子を窺った。

「Πάγος」

 詠唱を済ませて、リヴラはカルキュドリ目掛けて右手から氷の槍を発射した。カルキュドリは素早く鰐の口を開いてタイミング良く氷の槍を噛み砕いた。カルキュドリがリヴラを睨み付けると、カルキュドリの両翼が開き、翼を囲むように黒い魔法陣が出現した。魔法陣からリヴラに向けて漆黒の炎が飛び出した。

「Προστασία」

 素早く呪文を唱えてリヴラが自衛の障壁を展開した次の瞬間、黒い炎がリヴラを包み込んだ。炎の塊の上空にリヴラが飛び上がった。カルキュドリの魔法陣から黒い槍が飛び出した。リヴラに黒い槍が直撃し、リヴラは後方へ吹っ飛び、地面に叩きつけられた。カルキュドリが咆哮すると、黒い魔法陣から漆黒の風が飛び出した。黒い突風は横たわるリヴラを覆い尽くした。パキンという破裂音がして、黒い風が消失した。立ち上がったリヴラの白ローブは所々が千切れていて、顔には無数の傷と血痕がへばりついていた。カルキュドリは鰐の口でニヤリと笑ってから、魔法陣を起動した。リヴラ目掛けて、黒い魔法陣から2本の黒い槍が飛び出した。リヴラの両足に突き刺さるタイミングに合わせて、カルキュドリは跳躍して素早くリヴラに近づき、リヴラの胴体を噛み砕いた。

「堕ちた錬金術師の最期だ」

 そう言った瞬間、カルキュドリは何かがおかしいことに気づいた。見ると、リヴラは微動だにせず立ち尽くしていた。悲鳴一つ漏らしていない。むしろ痛みで絶叫しそうなのは、自分の方だった。

「ぎゃあああ!」

 カルキュドリはリヴラに噛み付いていた顎を外してみた。鋭い牙が根元から消滅していた。根元どころか、歯茎の一部さえ消えてなくなっていた。

(いったい、なにが!?)

 激痛で正常な思考は不可能だった。朦朧とする意識の中、視界の端でリヴラが動き出すのを捉えた。リヴラの両足は串刺しになっているはずだったが、黒い槍の先端は消滅していて何の役割も果たしていなかった。鼻の先端をリヴラに触れられた瞬間、激痛が走ってカルキュドリは絶叫した。恐怖でカルキュドリは後ずさった。リヴラが一歩足を踏み出すと、立ちはだかるように何者かがカルキュドリの目の前に姿を現した。

「これ以上、部下を虐めるのはやめてくれないか、リヴラ・ジヴァニトゥム」

 現れたのは黒いスーツ姿の青年だった。黒髪と白い肌の穏やかそうな人間の姿で、瞳は赤褐色だった。頭上には黒く艶やかな冠が浮遊している。王冠は漆黒のエネルギーで形作られていて、放射状の弧が5つの頂点を作るようなデザインで、先端に丸い飾りがついているだけのシンプルな造りだった。

「悪魔王パイモン、煉獄に何の用だ?」

「あなたの方こそ、三獄に何の用ですか?」

 そう言って、パイモンはニコリと笑った。

「さて、我々は立ち去るとしよう。これ以上、カルキュドリが傷つけられても困るし、鬼神ヌクテメロンに大挙して来られても厄介だからね」

「逃がさない、と言ったら?」

 パイモンはニコリと笑ってから首を横に振った。

「力への意志を失い、抜け殻となったあなたに、一体何が出来るのでしょう。たとえ、今のあなたがやっているように重層の衝撃のエネルギーを器用にも身に纏ったとして、所詮力量不足を補う為の対処にしか過ぎない」

「なら、その身で思い知るがいい」

 リヴラがパイモン目掛けて地面を蹴って飛び出した。パイモンはため息をついてから、リヴラを睨み付けた。パイモンの双眸がギラリと光り、頭上に浮遊する黒い冠が漆黒のオーラを放出した。リヴラが展開していた重層の衝撃シュヴァルツのエネルギーが分解された。リヴラは信じられないように、自分の周囲を取り巻く分解されて残った四色のエネルギーを見つめた。すかさずパイモンは立ち尽くすリヴラに近づき、リヴラの顔面を殴りつけた。リヴラは後方へ吹っ飛び、仰向けに倒れこんでしまった。

「どうやら、思い知ったのはあなたの方でしたね、リヴラ・ジヴァニトゥム」

 パイモンはニコリと笑ってから、跳躍してその場を離れた。パイモンが寸前までいた空間が爆発に包まれた。

「どなたか知りませんが、礼儀というものを知らないようですね」

「黙れ、悪魔。お前に礼儀など知ったものか」

 イライは眉根を寄せてパイモンを睨みつけた。

「まるで、あなたが上級種族であるかのような言動ですが、むしろ我々の方が高次元に位置していて、あなた方、人間の方こそ蔑まれる存在なんですよ」

「ふざけるなっ!」

 イライは空間把握能力を展開し、〈想いの力〉ラスト・ストラグルによって、悪魔パイモンの存在する空間を爆破した。設定した爆破プログラムが起動しようという時、パイモンは既に爆破空間から離脱していて、継続して発動される爆発の全てを回避していた。パイモンが無傷で佇んでいるのを、イライは呆然と見つめた。

「これで終いですか? あなたの爆破能力は下級種族としては評価に値しますが、上級クラスに喧嘩を売るにはつまらない代物ですね」

「つまらない、だと?」

「あなたの未熟な空間支配能力では、何の意味もないということですよ。あなたが空間セルにセットしたプログラムの属性はデフォルトのパブリック設定で、パラメータは全域ネットワークに露呈し、アクセス可能な者達には筒抜けですからね」

「何を……言ってるんだ、お前?」

「あまりにも滑稽なあなたが哀れで、無償でレクチャーしてあげたというのに。やれやれ、私の言葉が理解できませんか。下級種族とは、まともな会話すら出来ないらしい。人間とは不完全な存在ですね。無知の知を学んで下さい」

 パイモンはカルキュドリを連れて空間移動し、その場から姿を消した。イライが倒れ込むリヴラの方へ近づくと、リヴラが上体を起こした。

「大丈夫か、リヴラ。一体、あの悪魔は何なんだ?」

「悪魔王パイモンだ。悪魔の王の中の一人だよ」

「悪魔の王だって? ふざけやがって、あのクソ悪魔」





 勇者アクト・リーメルが空間移動してやってきたのは、三獄〈デルタ〉構成世界の一つ――冥獄だった。ラメド・アンデルが支配し、悪魔が巣食う暗澹たる漆黒の世界。アクトは思わずため息をついてしまった。

(言うなれば、天獄は白で、煉獄は灰色で、冥獄は黒だ。出来ることなら天獄か煉獄が良かった。よりにもよって、何で冥獄なんかに)

 黒い空と黒い大地。不毛というわけではなかったが、植物も石も黒くて、違いといえば多少の明暗と光沢の有無だけ。まさしく黒が支配する世界だった。何らかの光源があるのか、冥獄の全ては黒かったが、薄暗闇の状態が保たれていた。アクトは自分の姿を見下ろし、全身白尽くめの自身の格好を再確認し、またため息をついてしまった。

(白いローブと白い仮面をつけて、自分は一体何をしているのか)

 首を振って、アクトは無意味な自問自答を振り払った。

(もちろんそんなのはわかっている)

 目の前に広がる暗黒の世界に蔓延る悪魔達によって、アクトがすべきことは明らかだった。

「ラメド・アンデルに従属したのが、間違いだったな」

 アクトは白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを抜いた。暗黒の世界に白銀の輝きが放たれた。アクトの〈想いの力〉パスト・テンスが発動した。アクトの身体能力が研ぎ澄まされた。アクトは跳躍して、悪魔の群れの中に飛び込んだ。空中で白銀剣を振り下ろし、地上に放った白銀の衝撃波によって、無数の悪魔が吹っ飛んだ。台風の目のようにポカンと空いたスペースにアクトは着地し、押し寄せる悪魔の大群に環状の白銀の衝撃波を放った。大挙する悪魔の動きが膠着した一瞬の隙に、アクトは右腕を上げて白銀剣を黒い空に向けて掲げ、剣先でサッと円を描いた。白銀に煌めく光輪が描画され空中に浮かび上がり、光輪から無数の光の矢が発射され、再び動き出した黒い悪魔達の身動きを止めた。悪魔によって引き起こされた轟音が鳴り響く中、光輪から矢が放出されるチュンチュンという音は鳴り止まなかった。アクトは今なお生きて動く悪魔を研ぎ澄まされた感覚によってすぐ様察知し、凄まじい早さで近づき、白銀剣で一刀両断した。悪魔の亡骸が累々と横たわる中に、アクトは一人立ち尽くした。

(どれだけの数の悪魔を倒しただろう。とりあえず、この場所にはもう悪魔はいないはずだ)

 周囲を見渡していたアクトは近くで空間移動が展開されるのを察知した。何者かが空間移動をして姿を現した。アクトが仮面の奥で眉を顰めて見つめると、現れたのは自分と同じ姿の白いローブと白い仮面姿の者だった。アクトは新たに現れたローブ姿の放つ波動を知っていた。相手のローブ姿がアクトに近づいてきた。

「その波動――あなたは、アクト・リーメルね」

「そういうあなたは、帝国シアルルのロリアン・フェザー・クウィントゥス」

 そう言って、アクトは白い仮面を取って素顔を晒した。相手も同様に姿を晒すと、灰色の髪を長く伸ばした金色の瞳の美しい女性の顔が露呈した。思った通り、相手はロリアン・フェザー・クウィントゥスだった。





 ティラとリメド・エイデンの目の前に、オデュが空間移動して姿を現した。

「待たせたね、リメド・エイデン。ご覧の通り、鬼神マストは保護したよ」

 ティラが見ると、確かにオデュはどこかから何者かを連れてきていた。灰色のローブを着た黒髪の青年は眠っているようだった。

(鬼神マストとは、一体何者なんだ)

 マストはオデュの空間移動によって連れて来られ、白い床に横たわっていた。リメド・エイデンがそれを見て、目を閉じて頷いた。

「実質、タイミングはギリギリで際どかったようだね、オデュ」

「そうだな、あと一歩遅かったら、マストは物質界アッシャーから消滅させられていたかもしれん。何とか今は、気絶していても自己治癒能力は継続しているようだが」

「本当に良かった、ありがとう、オデュ。ここまで彼を傷つけるとは、相手は上級クラス――セクンダデイかイスキンの誰かかな」

「マストの相手はセクンダデイのサマエルだったよ。やれやれ、自分の領域の住民くらい、しっかり管理してもらえないかね」

「何を言ってる、オデュ。私は天獄を支配しているのではないよ。それに本来、天獄は私の領域ではないのだから」

「わかってるよ、わざと言ってみたんだ」

 ティラにはよくわからなかった。そんなことより、重要なのは今後の自分の事だった。

「リメド・エイデン、さっきの話はどうなったんですか?」

 リメド・エイデンとオデュとが視線を交わした。オデュは深いため息をついた。

「それで、次は誰なんだね、リメド・エイデン。見当はついとるが」

「レミエルのところに行ってほしい」

「はあ、レミエルか。聞き分けの悪い子供は本当に苦手なんだがな。仕方ない、行くとしよう。クラスチェンジ・大魔導師」

 オデュが空間移動を展開した。ティラが戸惑っていると、オデュがティラの腕を掴み、ティラとオデュの二人は空間移動してその場から消失した。





 リヴラとイライは落胆しながら、万鬼殿に戻ろうとしていた。結果的にリヴラ達は悪魔を追い払ったことになるが、ことの展開の全てを把握しているはずのサリルスがどう判断するかはわからない。リヴラが歩みを止めたので、イライも眉根を寄せて足を止めた。

「どうしたんだ、リヴラ?」

「何者かが空間移動を展開して、姿を現そうとしている」

「何だと、あの悪魔か?」

 リヴラは答えずに、5mほど前方の空間を見据えた。その場所に白いローブ姿の者が空間移動して姿を現した。白いフードを被り白い仮面をつけていたが、リヴラは相手が何者かすぐに気づいた。

「俺達と同じ白いローブと白い仮面じゃないか、リヴラ。こいつは一体誰なんだ?」

「何だ、お前か、リヴラ」

 新たな白いローブ姿が女の声で言った。

「一体どうしてこんなところにやってきたんだい、戦乙女アケショナル・ラストア」

 白いフードと白い仮面を取ると、黒髪ショートカットの美しい女性の顔が露呈した。

 アケショナルは周囲を見渡してから、リヴラに視線を戻した。

「ここが、三獄〈デルタ〉というわけか」

「そうだよ、アケショナル。ここは三獄構成世界の一つ――煉獄だよ。鬼神ヌクテメロンが住む世界だ。でも、どうして君が一人で煉獄に……。私はてっきり、セラフィムとロリアンと一緒かと思っていたのだが」

「お前の言う通り、私はセラフィムとロリアンと一緒だったよ、一瞬前まではね」

「どういうことだい?」

「私にも詳しいことはわからない。私とセラフィムとロリアンは、エクス・マキナの部屋から空間移動しようとしていたんだ。空間移動が展開した時に、何者かがその場に現れた。そいつが私達の空間移動を邪魔したんだ。こんなことは初めてだよ。空間移動は既に始まっていて、私達の存在は物質界から消失しかけていた。その状態に何らかの衝撃を与えることなんて出来たんだな。空間そのものへの強制的な干渉といったところか。空間移動を妨害することが出来るなんて、初めて知ったよ」

「空間移動を邪魔されて、空間移動が正常に機能しなかったということか」

「そうだな。だから、私は一人でこの煉獄に空間移動してしまったんだろう。ロリアンとセラフィムも別の何処かへ、それぞれ別々に移動してしまっているのだろうな」

「その邪魔をした奴というのは?」

「既に空間移動が開始していて、私達は物質界から消失しかけていた。その侵入者の姿は黒い輪郭としてしか認識出来なかった」

「そうか」

「少なくとも、私が感知した侵入者の放つエネルギーのオーラは、私が知らないものだった。おそらく、なんとなく正体は予測出来そうだが」

「そうだね。確証はないが、多分予測は的中しているだろう」

「おい、リヴラ」

 イライはリヴラの肩を突ついて、空中に開いた窓に注意を向けさせた。その窓の奥にはサリルスの顔があった。

「リヴラ・ジヴァニトゥム、こちらへ戻ってきてもらおうか」

 リヴラはサリルスに一礼してから、アケショナルとイライを連れて空間移動した。



 リヴラは何も言わずに、サリルスの言葉を待っていた。しばらくして、サリルスが口を開いた。

「その女もお前の仲間ということか。一体どれだけの部外者を連れてきて、何をしようとしているのかね、リヴラ・ジヴァニトゥム」

「先程お伝えした通りです。我々は三獄に〈秩序〉を齎す為にやってきました」

 サリルスはリヴラを睨みつけた。

「お前の目的は一つしかなかろう。分身体リヴラの滅殺以外に何があるというのだ。一層の事、お前を消滅させてやろうか。そうすれば全て解決するかもしれん」

 リヴラは無表情で何も言わなかった。サリルスは首を横に振って、ため息をついた。

「まあ、いい。ことはそう簡単ではないだろう。私としても、分身体リヴラは邪魔で、どうにかしたいと思っておる。その為に手を貸してくれるのはありがたい。我々、鬼神ヌクテメロンと共に、分身体リヴラの退治を手伝ってくれるか?」

「ありがとうございます。是非ともよろしくお願い致します」





 天獄の空を飛翔していたレミエルは、強大なエネルギーを察知し、慌てて地上へ降り立った。自分の感覚を信じたくはなかったが、間違いなく上級クラスの天使が近づいてきていた。レミエルの額を冷や汗が伝った。まっすぐと自分へ向かって来るのが感じられる。(逃げるか? いや、既に察知されている今となっては、どこまでも追いかけてくるに違いない。戦って、敵を殺すのだ。もう後戻りはできない)

 レミエルは魔剣を構えて、上空を見据えた。レミエルの前に三人の天使が降り立った。10mほどの距離を取って相対する天使二人は何の階級にも定められていなかったが、一人は上級クラスの天使だった。レミエルは心中で舌打ちした。覚悟はしていたが、いざ実際に目の前にすると決心が鈍りそうになった。現れたのは、万神殿の最高権力の一つ――セクンダデイに属する天使オフィエルだった。オフィエルはクリーム色の短い髪を棘のように逆立てていて、つり上がった鋭い目つきの男天使だった。オフィエルは冷めた目つきでレミエルを見つめていた。

「逃げずに私を待ち構えるとは、進退の決意は済んでいるのだな。神の慈悲レミエル」

 レミエルは何も答えずに、オフィエルがどう出るのかを窺っていた。

「黙するか。まあ、いい。この同族殺しの罪人――堕天使レミエルを滅殺してやれ、ルヒエル、ザフィエル」

 オフィエルの左右にいた天使が一歩前に踏み出した。風の天使ルヒエルは褐色の髪を肩まで伸ばした女天使だった。にわか雨の天使ザフィエルは黒髪を短く刈った男天使だった。どちらも白い半透明のローブを着ていて、美しい肢体が透けて見えていた。ルヒエルが右手を上げて、レミエルの方へ突風を発射した。同時にザフィエルが右手を上げて、親指大の水の玉をルヒエルの放つ突風目掛けて無数に発射した。水滴は突風の中で雹と化し、無数の鋭い槍となってレミエルに襲いかかった。レミエルが魔剣を振り上げると、魔剣の衝撃波は突風と雹を悉く消滅させた。レミエルはルヒエルとザフィエルを睨みつけ、凄まじい速さで二人に近づき、魔剣で一刀両断した。

「ぎゃああ!」

 ルヒエルとザフィエルは絶叫したが、すぐさま事切れた。セクンダデイ・オフィエルは無表情にその有様を眺めていた。レミエルはオフィエルの方に向けて魔剣を構えた。だが、オフィエルは身動きせずにいた。

「どうした、セクンダデイ・オフィエル。私を裁きにきたんだろう。部下をぶつけて、自分は何もせずにいるつもりか?」

 レミエルはそこで嘲笑を浮かべた。

 オフィエルは無視した。レミエルの安い挑発に乗るのは愚かだったし、オフィエルにとって今優先すべきはレミエルと魔剣のデータを全域ネットワークにアップロードすることだった。全域ネットワークにアクセスするのは、権限を取得した者にとっては造作もないことだ。全域ネットワークを意識すると、脳裏に点滅する全域ネットワークの文字とその横に矢印が浮かび上がる。イメージの世界でその文字をクリックすると、ダウンロードとアップロードの項目が書かれたダイアログボックスが表示される。ダウンロードをクリックすると、検索フォームが表示され、任意の検索結果がズラリと表示される。検索条件は自由だし、結果表示の並べ替えも自由だ。天使オフィエルは普段使用するダウンロードではなく、アップロードをクリックした。アップロードでは、脳裏に二つのメッセージフォームが出現する。一つ目のメッセージフォームには、アップロード内容の項目やタイトルを入力する。オフィエルは天使レミエルと魔剣の二単語の間にスペースを入れて入力した。二つ目のメッセージフォームには天使レミエルと魔剣のデータを入力し、ついでに現在地の座標データも追記した。全域ネットワークへのデータアップロードを完了させたところで、オフィエルは口火を切った。

「本当に魔剣を手にしていたんだな、レミエル。それに魔剣の力も噂通りのようだ。天使の能力を無効化させ、天使を容易に切り裂くとは忌まわしき武器だな。どうやら錆びた聖剣は持っていないようだが、聖剣と魔剣が入れ替わるというメカニズムは本当らしい。魔剣の力に魅了され、正気を失い狂ったか、レミエル」

「全てあなたの考えている通りですよ、セクンダデイ・オフィエル。ただ、私は狂ってなどいない。私が悪徳天使を殺すのは自分の意志だ。むしろ狂っているのは万神殿の方だ。力への意志に執着し、悪徳天使を放置し好き勝手にさせて、天使の神聖性を貶めている。万神殿の権力者達は欲望のままに力を求めている。まるで邪悪なリヴラのようじゃないか。万神殿はそこまで堕ちてしまったのか」

 オフィエルは鋭い目でレミエルを睨みつけた。

「魔剣は回収させてもらおう。お前の生死は問わないという指令だ。覚悟しろ」

「覚悟するのはそっちの方だ。ぬるま湯に浸かった権力者め」

 レミエルは魔剣を構えてオフィエルがどう出るのか窺った。クリーム色の髪を逆立てた鋭い目つきの天使は、動こうとしなかった。レミエルは眉を顰めた。攻撃に出る素振りもなく、オフィエルは少し震えているように見えた。レミエルは凄絶な笑みを浮かべた。

(どうやら上級クラスの天使だとしても、魔剣の力を目の当たりにして、恐怖で何も出来ずにいるらしい。いける。これなら何の問題もなく当初の目的を果たすことができる)

 レミエルは笑い声を上げながら、魔剣を振り上げた。

「朽ち果てろぉっ!」

 レミエルはオフィエル目掛けて跳躍し、魔剣を思い切り振り下ろした。魔剣はセクンダデイ・オフィエルの左肩に食い込み、そのまま上半身を両断する――はずだったのに、レミエルは予想外の感触に目を丸くして呆然とした。魔剣はカキンと軽い金属音を鳴らして、オフィエルの体から跳ね返されてしまった。何かの間違いに違いないと、レミエルはもう一度、今度はオフィエルの右肩目掛けて魔剣を振り下ろした。再び、魔剣は跳ね返されてしまった。

「どうして……。一体、何が……」

「多性――発動。今、私の属性は天使のそれとは異なっている。つまり、天使の天敵である魔剣の力は、今や天使ではない私には通用しないということだ。私の多性の能力が魔剣に対して通用するのかどうか定かではなかったが、どうやら有効なようだ」

 オフィエルはレミエルに対してそう話しながら、とてもホッとしていた。自らの多性によって、天使という種族の特性を変化させるのは初めて試すことだったし、結果変化した自分の性質に魔剣が反応してくれるかどうかは未知の領域だった。本当に一か八かで、自分が死んでしまう可能性もあった。オフィエルはそれが恐ろしくて、滅多にないのに震えてしまった。

「魔剣のセーフティーサイドのシステムもこれで確認できたわけだ。天獄のリメド・エイデンと天使を滅ぼすという魔剣の力は忌まわしく強大だが、標的以外には無力なんだな」

 オフィエルは魔剣の新たなデータを全域ネットワークへアップロードし、更新させた。見ると、堕天使レミエルはさっきまで握っていた魔剣を重そうに握っていた。汗を大量にかいていて、金色の髪が額と首筋に張り付いていたし、半透明のローブも湿って肌に張り付いていた。呼吸が荒く、背中の白い羽が上下に揺れている。

「魔剣以外は、単なる一般天使に過ぎんか」

 オフィエルは舌打ちして、白い翼を広げてレミエル目掛けて空中を疾走し、そのままの勢いでレミエルの顔面を殴りつけた。レミエルが後方に吹っ飛んだ。倒れ込むレミエルの足元まで空中を飛んで移動し、オフィエルが地面に降り立つと、レミエルを囲む形で複数の天使が空から降り立った。現れたのは5人の天使だった。天使ザカリエル、天使ミカエル、天使アナエル、天使ラファエル、天使ガブリエル――すなわち、ここに1人を除いた6人のセクンダデイが集結したのだった。セクンダデイ・オフィエルは内心で舌打ちをした。

(サマエルの奴、無視したな。クソッ、面倒臭い、クズ野郎め。気に食わないんだったら、セクンダデイから外れればいいし、上級クラスを辞めればいい。なんであんな身勝手で短気な気分屋がセクンダデイの天使なんだ。あいつは魔剣で斬り殺されてもいいな。いや、そうされるべきだ)

 オフィエルは苛々して、仰向けに横たわるレミエルの足をつま先で蹴飛ばした。

「こいつが反逆者のレミエルだ。ラグエルが察知したのは魔剣の波動だったんだ。レミエルは聖剣から変貌した魔剣を手にしている」

 オフィエル以外のセクンダデイの天使達の視線が、レミエルが握り締めている黒い剣に集中した。魔剣の鍔には悪魔が生やす黒い飛膜の翼が精巧に模られていた。刀身は艶やかな黒色で傷一つ無かった。刹那、魔剣の刀身が暗い光を発し始めた。閉じていたレミエルの目がカッと見開かれ、上体を起こすと同時に魔剣が振るわれた。セクンダデイの各天使がバッと空中に飛び上がった。空中で浮遊しながらオフィエルは、レミエルに注いでいた視線を同族達に向けた。半透明の白いローブが斬り裂かれ、薄っすらと白銀の血が流れ出ていた。

「気をつけろ。魔剣の力は本物だ。天使である限り、防ぎようがない。魔剣は天使の力を悉く無効化し、容赦無く天使を斬り裂く。上級クラスであろうと問答無用だ」

 オフィエルの言葉に、セクンダデイの天使達はため息をついたり首を横に振ったりしていた。オフィエルはレミエルが立ち上がるのを見て、地上へ降り立った。レミエルはオフィエルを睨みつけて、魔剣を振り払った。オフィエルは魔剣を素手で受け止め、レミエルを蹴り飛ばした。吹っ飛ぶレミエルを空中疾走して追いかけ、地面に仰向けに倒れ込んだレミエルの腹部をオフィエルは踏みつけた。

「ぐはっ」

 レミエルの口から白銀の血が流れ出た。

「もはや堕天使だというのに、未だにその身を流れる血は白銀というわけか」

 オフィエルは蔑んだ目つきで堕天使レミエルを見下ろした。レミエルが仰向けに倒れ込んだままで、魔剣を振り払ってきた。オフィエルは魔剣を素手で掴み、引っ張った。だが、レミエルは魔剣を手放さなかった。オフィエルは舌打ちして、掴んだ魔剣を上下に揺すって剥ぎ取ろうとした。なかなか魔剣を手放さないレミエルに苛ついて、オフィエルはレミエルの腕を足で踏みつけてへし折った。

「うぐっ!」

 レミエルは魔剣を手放して、地面を転げ回った。地面に落ちた魔剣を拾おうとオフィエルが足を踏み出した瞬間、魔剣の前に立ちはだかる形で、何者かが空間移動で姿を現した。新たに出現した者は、灰色の襤褸を着た汚らしい老人と、白い仮面で顔を隠した白ローブ姿の何者かだった。セクンダデイの各天使がオフィエルの左右に降り立った。

「道化師が何の用かね? それとも過去の栄光に縋り、今さら英雄気取りで人助けにでも現れたのかな、オデュ」

 セクンダデイ・ミカエルが言った。天使ミカエルは波打つ金髪を肩まで伸ばした男天使だった。肌は白く、唇は赤くて、美しい顔立ちはまるで女性のようだった。

「後ろに倒れてるひよっこ天使を助けに来たんだよ。それにしても、上級クラスの天使が揃って弱い者虐めとは、感心しないなあ」

「リメド・エイデンの命令か。そこの堕天使というよりも、救出対象は魔剣だろ。もしくは、欲しているのは反転している聖剣の方かもな。教徒の欠片への対抗策とでもいうのかね」

「さあ、私は知らんな。お前さん達の得意な全域ネットワークへのアクセスでもして、検索すればいいだろ」

 ミカエルはオデュの嘲りに対して、何も言わなかった。代わりに自らの力を発動させた。ミカエルの後頭部から眩い光が発せられた。光は一瞬で収まり、ミカエルの後頭部には白銀に光り輝く光輪が出現していた。ミカエルが心中で呪文を呟くと、光輪から白銀のオーラが吹き出し、ミカエルの全身を包み込んだ。白銀のオーラによって鎧と剣が具現され、ミカエルに装備された。剣は黄金に輝き、煌めく鎧は鏡のように景色を反射していた。ミカエルは黄金剣をオデュに振り下ろした。

「クラスチェンジ・軽業師」

 灰色の全身タイツ姿となったオデュがバク転して黄金剣を避けた。態勢を整えたオデュの左手には魔剣が握られていた。倒れ込む天使レミエルのもとに、オデュは素早く近寄った。すかさず白仮面姿のティラがオデュに駆け寄った。

「クラスチェンジ・大魔導師」

 オデュの姿が赤、黄、青、緑の鮮やかで光沢のあるローブ姿に変貌した。オデュは空間移動を展開した。ミカエルが凄まじい速さで空中疾走し、オデュに黄金剣を振り下ろした。オデュの右手が灰色に輝き、ガキンと大きな金属音が鳴り響いた。オデュの手には灰色のエネルギーで形成された刀が握られていて、その刀がミカエルの黄金剣を受け止めていた。ティラが白仮面の奥で眉を顰めた。オデュが大魔導師の姿で、刀にしろ何にしろ武器を使うのは初めてだった。次の瞬間、オデュが吐血した。

「なっ!」

 ティラは思わず声を漏らしてしまった。オデュが負傷してしまったのにも驚いたが、何よりティラをビックリさせたのは、オデュの血の色が白銀色だったからだ。

「大丈夫ですか、オデュ」

「大丈夫なもんか。はあ、私みたいな老いぼれに戦わせといて。お前さんが、この天使達をパパッと蹴散らしてくれればなあ」

 ティラはオデュの体が震えているのに気づいた。呼吸は荒く、皺の寄った額には汗が吹き出ていた。ミカエルが舌打ちした。

「老いたな、オデュ。見た目以上に中身はボロボロらしい。本当にかつての力を失ってしまったのだな。今のあなたの――その醜く汚い姿は見るに堪えない。強く清らかだった頃に死んでおくべきだったんだ。もはや、あなたはオデュではない」

「何馬鹿なこと言ってる。ひよっこが偉そうにするな。私がオデュだ」

「オデュはもう死んだ。お前は抜け殻の道化師に過ぎない。かつての亡霊が三獄を彷徨うな、鬱陶しいぞ。醜悪な姿で、私の記憶を穢さないでくれ。朽ち果てろっ! 道化師!」

 唾を撒き散らしながら大声でミカエルは言い放ち、オデュの腹部目掛けて黄金剣を振り払った。オデュは灰色の刀で攻撃を受け止めるも、後方へ吹っ飛んでしまった。オデュは空中で態勢を整えて、地面に片膝をついて着地した。腹部と右手がズキズキと痛み、ガンガンと響く鈍痛で頭は割れそうだ。ゼエハア言いながら、オデュは髪の生え際部分のつぼを刀を持ったままグイグイと押した。ドッと疲労が押し寄せてきたと思った途端に、オデュのクラスチェンジが解除された。灰色の襤褸姿のオデュに、セクンダデイの天使達が空中疾走して殺到した。各天使がオデュに必殺の一撃を与えようと構えるも、急ブレーキをかけて空中で動きを止めた。オデュの目の前に新たな白ローブ姿が現れた。オデュは朦朧とする意識の中、新たな白ローブ姿の正体を察知して、ふうと息を吐き出した。

「お前さんなら安心だな、セラフィム」

 ミカエルがセラフィムに黄金剣を振り下ろした。セラフィムは黄金剣を左手で受け止めて、右手でミカエルを殴りつけた。吹っ飛ばされたミカエルは空中で態勢を整えて制止し、眉根を寄せてセラフィムを見据えた。

「私の剣を受け止めるとは……。原形界アツィルトの力の持ち主か」

 ミカエルは全域ネットワークにアクセスした。期待したデータはなかった。ミカエルが舌打ちするのを見て、セラフィムは白い仮面の奥で微笑んだ。

「オムニチャネルでのアクセス権限を保持していたとしても、存在するネットワークを識別できないのなら無意味だね」

「黙れ、白仮面」

「とにかく、この場は退かせてもらうよ」

 ミカエルは再び黄金剣を振り下ろした。セラフィムは右手を振るって、白銀の衝撃波を放った。セクンダデイの天使達が空中へ投げ飛ばされた。その隙に、セラフィムはオデュとレミエルと魔剣を回収して、ティラに頷いてみせた。ティラは慌ててセラフィムに駆け寄った。セラフィム達は空間移動して、その場から消失した。





 アクトは周囲を見渡してから、再びロリアンに視線を戻した。

「あなたもリヴラの指令で冥獄にやってきたんですね」

 空は暗く、黒い大地に無数の悪魔の死骸が横たわっている。薄暗闇の中、白いローブを着たロリアンの灰色の長い髪と金色の瞳が際立っていた。ロリアンはため息をついて、首を横に振った。

「いいえ、私は冥獄に来ようとしたわけではないのよ」

 アクトは首を傾げた。

「どういうことですか、ロリアン。じゃあ、何故冥獄にやってきたんですか?」

「空間移動のエラーよ。こんなことは初めてだわ。セラフィムの空間移動で、アケショナルと一緒に三人で三獄〈デルタ〉に向かおうとしていたのよ。そこで何者かが現れて、私達の邪魔をした」

「空間移動のエラー? セラフィムの力を妨害出来る存在なんて、限られていますよね」

「そうね、犯人は冥獄の支配者でしょうね」

「ラメド・アンデルですか」

 アクトは振り返って、万魔殿がある方向を見据えた。

「私達は天獄を目指していたのよ、アクト。リメド・エイデンには、何か考えがあるみたいだわ」

「リヴラが言っていた複数の覚醒についてですね。僕は冥獄の勢力の抑制の為に、この暗澹たる世界へやってきました」

「アクト、あなた、一人でラメド・アンデルを倒そうとしているの?」

「いや、さすがにそれはないです。ラメド・アンデルがどんな力を持っていて、何を企んでいるのか不明な段階では、危険ですよね」

「そうね、ラメド・アンデルは〈混沌〉の子やエノキアンとは違う。冥獄の支配者が望むのは、自らを絶対者とした世界の独占。パブリックドメイン・インターフェースによる、あくまでも個人的で、どこまでも独占的なパーソナル・イントラユートピアの実現を画策しているのよ」

 アクトは聞きなれない単語に眉根を寄せた。

「全てを思うがままに操作し支配するという――ラメド・アンデルの目指す世界は何となくわかりましたが、パブリックドメイン・インターフェースやパーソナル・イントラユートピアとは一体?」

「〈秩序〉の信奉者テトラ・モルフが、世界の在り方に関して語る際の表現方法の一つよ。世界を構成する四界と物質界の創世族や天使、鬼神、悪魔達の関係性のことね。言うなれば、世界の端末化のこと。例えばアツィルトドメイン・インターフェースとは、原形界アツィルトが物質界の存在と繋がることで、人々の自由意志など消滅し、〈秩序〉や〈秩序〉の信奉者テトラ・モルフの思い通りの人形に成り果てることよ」

「なっ! そんなこと許されていいはずない」

「もちろん。そんなことは許されないし、認めないわ。ただ世界をコントロールする管理者からすれば、アツィルトドメイン・インターフェースは、とても効率的なの」

 ロリアンは左右の手の平を上に向け、肩をすくめた。アクトは歯ぎしりしたが、すぐにやめて、ため息をついた。

「確かに管理者側としては、不確定要素を排除できるし、起きた問題を解決するよりも、問題を起こさせないシステム構築の方が安全安定的で持続可能性も高いでしょうね」

「そうよ、自らが定めた法律に従う存在のみで構成された世界なら、無秩序なんて起こり得ない。当然よね。トラブルを起こさないように、あまねく存在が操作されているのだから。四界の安寧を目指すのなら、全てを操作するアツィルトドメイン・インターフェースの導入はとても魅力的だわ。でも、〈秩序〉と〈秩序〉の信奉者テトラ・モルフはアツィルトドメイン・インターフェースを選択しなかった」

「選択の自由意志ですね」

 アクトの言葉にロリアンが頷いた。

「〈秩序〉は創世族に選択の自由を求めた。そうすることで、多様な世界の構築を願った。それが非合理的でリソースの無駄遣いだとわかっていても。結果、秩序の実現が難しくなってしまってもね」

 ロリアンはそこで思いついた自分の考えに、眉を顰めた。

「どうしたんです、ロリアン」

「いえ、何でもないわ」

 頭がクラクラして、ロリアンは吐き気を催した。

(何故、アツィルトドメイン・インターフェースを導入しなかったのかは、選択の自由意志の為だ。そうなると、〈秩序〉の信奉者ではなく、〈混沌〉の支持者が生まれるのは必然となる。私達サイドの視点から考えれば、それに間違いない。それでは〈秩序〉サイドからはどうなのだろう。アツィルトドメイン・インターフェースを導入しないという判断は彼等に――神でも超越的・超自然的存在でも超AIでも、どう表現されたとしても――何を齎すのか。選択の自由意志を与えることで、全ての予測が不可能になったら、神の権利や立場を放棄することになるのだろうか。もしくは、選択の自由意志が委ねられたからといえど、その選択が起きた瞬間には、無数に枝分かれした時間軸から適確な未来は選ばれ、神はそれを見通しているのだろうか。後者でないのだとしたら、神には世界の行く末がわからなくなっていることになる。たとえ、神が世界の出来事に強制的に介入して変化させたとしても、遠い未来は定かではない。〈秩序〉とは、そんな存在なのか。選択の自由意志で世界が〈混沌〉の側に偏ったとしても、何の意味もないのだろうか。世界は興隆と滅亡を繰り返し、その都度、適確な器の存在が変数として代入され、役割を担わされるのだろう。変数として組み込まれた時点で、どのようなプロセスを経たとしても、結果は同じはず。つまり、選択肢は用意されたものしかないのかもしれない。限られた選択肢を自由と呼ぶか否かは、立場や価値観で異なるだろう。それが真実なら、悩み苦しみ、がむしゃらに足掻いたとしても、結果は同じということ)

 ロリアンは首を横に振って、まとわりつく不安から目を背けた。額に冷や汗が出ているのに気づいて、ロリアンは自嘲の笑みを浮かべた。

(アケショナルなら、一笑に付すような可能性ね)

「大丈夫ですか、ロリアン」

「ええ、ごめんなさい、アクト。それで、わかったでしょう?」

 アクトは頷いた。

「ラメド・アンデルが企むパブリックドメイン・インターフェースとは、歪んだ理想を実現化させるおぞましい行為ですね」

「人であろうと、何であろうと、自然や世界まで、あらゆる存在は冥獄の支配者の操り人形と成り果てるのよ。支配下において操作された人形達は、自分を吊るす糸に気がつかない。いえ、気がつけない」

「だからといって、ラメド・アンデルが邪悪なことに何ら変わりはない。むしろ、より邪悪にさえ感じる」

「そうね、ラメド・アンデルは当事者の主観が現実だと主張するでしょうけど、そんなのはエゴに過ぎないわ。自分が死んでいると気づかずに生きていることが、どれだけ悲しくて辛いことか。そんな絶望が許されるわけないわ」

「ラメド・アンデルは絶対に止めないと」

「ねえ、アクト。あなたも覚醒の話は聞いているでしょう。私達が止めないといけないのは冥獄の支配者だけではないわ――」

 そこでロリアンは眉根を寄せて口を閉じた。アクトは何者かの気配を感じ、背後を振り返った。次の瞬間、空間移動によって何者かが姿を現した。黒いスーツを着た人間の姿をした男だった。

「お前達が、白仮面の軍勢というわけか」

「あなたは、悪魔バルバトスね」

 悪魔バルバトスは黒い髪をオールバックにしていて、褐色の肌をした男悪魔だった。

「冥獄だけでなく、三獄〈デルタ〉で好き放題しているみたいだな。俺はお前達の正体なんてどうでもいいから、早速死んでもらうぞ」

 悪魔バルバトスの全身が漆黒のオーラに覆われた。バルバトスが右腕を振り払うと、漆黒の衝撃波が放射された。アクトは白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを抜いて、漆黒の衝撃波を切り裂いた。バルバトスが凄まじい速さでアクトに近づき、漆黒のオーラに覆われて巨大化した拳でアクトの顔面を殴りつけた。バルバトスが左腕を上げてまっすぐ伸ばし、右腕を曲げて胸の前に置くと、漆黒のエネルギーによって弓と矢が形成された。吹っ飛ぶアクト目掛けて、バルバトスは漆黒の矢を発射した。バルバトスがニヤリと笑った。漆黒の矢は見事にアクトに突き刺さり、アクトは地面に倒れ込んだ。バルバトスは目を丸くして、それから眉を顰めた。20mほど先に倒れ込むアクトが立ち上がって、握っていた漆黒の矢を地面に投げ捨てた。アクトはローブについた土埃を左手で払った。ロリアンがアクトの背後に近づいてきた。

「手伝いましょうか、アクト」

「いいえ、一人で大丈夫」

 アクトは悪魔バルバトスを見据えた。

「彼の攻撃は見たことがある。エノキアンのものより力は弱い。一人で対処できるよ」

「さすが、勇者ね」

「茶化さないで下さい」

 悪魔バルバトスはギリギリと歯を食いしばってから、ペッと唾を吐き出した。

「ふざけるなよ、お前らっ!」

「ふざけてなどいないさ、悪魔バルバトス。ラメド・アンデルに従属したことを後悔するんだな」

「馬鹿がっ!」

 バルバトスは凄まじい速さでアクトに近づき、巨大化した拳で殴りつけた。アクトは左手で攻撃を受け止め、白銀の衝撃波を放った。バルバトスは上空へ吹っ飛ばされたが、空中で態勢を整えて弓を構え、地上のアクトに漆黒の矢を発射した。アクトは向かいくる矢を白銀剣で切り裂いた。パキンという金属音が響き渡った。アクトは凄まじい速さでバルバトス目掛けて跳躍し、白銀剣を振り払った。バルバトスの腹部が両断されて、絶叫が響き渡った。

「ぎゃああ!」

 肉体が地面に落ちてもなお、バルバトスの意識はかすかに残っていた。黒い大地が艶やかな漆黒の血で染まっていく。吐血しながらバルバトスが小さく呟いた。

「従属……など……してない……」

 バルバトスは事切れた。

 バルバトスの言葉にアクトは眉根を寄せた。

「アクト、あなたの冥獄での目的は十分じゃないかしら?」

 アクトは振り返って、灰色の髪と金色の瞳を持つ女性を見つめた。

「冥獄の一領域を管理する悪魔を倒したのだから、冥獄の注意を向けるには十分でしょ」

「悪魔バルバトスは公爵か何かだったということですか」

「そうね、さっきの続きだけど、私達が止めなくてはならないのはもう一人いるのよ」

「リヴラですね」

 ロリアンは頷いて、空間移動を展開した。

「一緒に来て、アクト。ことによっては、ラメド・アンデルよりも厄介かもしれないのよ」

 アクトも頷いて、ロリアンの展開する空間移動の領域に近寄った。アクトとロリアンの姿が消失した。




「ようやく……目覚めたか……」

 小さくそう呟いて、黒髪の男はにやりと笑った。男の姿は錬金術師リヴラ・ジヴァニトゥムと酷似していた。リヴラ・ジヴァニトゥムとの違いといえば、髪の色だけだった。リヴラ・ジヴァニトゥムの髪色は白一色だったが、反対に男の髪色は黒一色だった。三獄〈デルタ〉の権力者達に〝リヴラ〟と呼ばれている黒いローブを着たこの男は、微笑を浮かべつつ何かを待っていた。

「見定めたな」

 リヴラはくつくつと笑い出した。

「焦るな、欠片よ。すぐに俺の物としてやるから」

 リヴラは凄絶な笑みを浮かべながら、右手をサッと振り下ろした。灰色の光が暗闇に一筋煌めいた。灰色のオーラをまとった右手によって、空間が縦に切り裂かれた。リヴラが空中に生じた裂け目の中にするりと入り込むと、すぐさま空間の裂け目は閉じて無くなった。



 万鬼殿の自室にいた鬼神トグラスは、突然の出来事に驚いて立ち上がった。目の前に出現した青く光り輝く何かは空中に浮かんでいた。トグラスは光り輝く物体に魅了され、背後の異変に全く気づかなかった。先刻までトグラスが座っていたベッドの上の空間に、びりびりと裂け目が生じた。空間の裂け目の奥から、リヴラが現れた。リヴラは眉根を寄せて鬼神を睨みつけ、にやりと笑みを浮かべた。

 隠された財宝の鬼神トグラスは、光の正体に気づき、手を伸ばして掴んだ。トグラスが教徒の欠片の1つ――〈苦しみの欠片〉を手にした瞬間、リヴラは灰色の剣でトグラスの心臓を刺し貫いた。

「お前が手にするには、過ぎた財宝だ」

 リヴラは振り向いた鬼神を嘲笑い、灰色の剣で頭部を叩き切った。トグラスは絶命した。〈苦しみの欠片〉は未だに光を放ち、浮遊していた。

「俺の物だ、教徒の欠片」

 リヴラは〈苦しみの欠片〉を掴み取った。部屋を照らしていた光は〈苦しみの欠片〉に吸い込まれるようにして消失し、と同時にリヴラの瞳が青く染まった。リヴラは自分の変化に気づいて、くつくつと笑い出した。〈苦しみの欠片〉フラグメント・オブ・アゴニーはあらゆることをリヴラに教えてくれた。リヴラは教徒の欠片について一瞬で学び理解し、教徒の欠片の力を発動させた。リヴラは計画を進める為に空間を右手で切り裂き、裂け目の奥へと消えた。

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