第七章 先生の黒歴史
江口桜次郎は、昔から明るい人間だったわけではない。
ただ、明るい人間のふりは上手かった。
高校時代の江口を知る人間なら、たいていこう言う。
人当たりがいい。
誰とでも話せる。
空気を壊さない。
冗談で逃げるのがうまい。
面倒な場面になると、いつのまにか笑顔で端にいる。
それは長所のように聞こえる。
実際、長所として扱われることも多かった。
教師になってからもそうだ。
保護者対応が意外とできる。
職員室の空気を悪くしない。
怒鳴らずに生徒を止められる。
傷ついた子どもに踏み込みすぎない。
だが江口自身は、それが美徳だと思ったことはあまりなかった。
ただ逃げ足が速いだけだ。
期待される前に笑ってかわす。
責められる前に自分を落とす。
誰かの深いところへ入る前に、冗談で一歩引く。
江口は、ずっとそうやって生きてきた。
だから榛名蛍に最初に言われた時、少しだけ腹が立った。
――先生、不器用ですね。
十三歳の子どもに見抜かれた。
あの時から、江口はずっと蛍に弱い。
◆
京東大学の事件から一日が経った。
相沢遼介の死は、まだ大学内で正式に詳細発表されていない。
だが噂は広がっていた。
植物研究室の院生が温室で死んだ。
毒物らしい。
第一発見者は榛名蛍。
現場には片羽の蝶があった。
最後の一文だけは、まだ表には出ていないはずだった。
それでも、どこかから漏れている。
江口はそのことに、嫌なものを感じていた。
午前十時。
江口は警視庁近くの喫茶店にいた。
テーブルの端には、学校から持ってきた採点途中の小テストが一束置かれている。
事件の資料ではない。
中学二年の社会科。
江戸幕府の改革について。
大人が一人死に、十三年前の一家惨殺事件が再び動き始めているというのに、江口は朝から採点をしていた。
それは現実逃避でもあり、現実でもあった。
教師という仕事は、世界がどれほど歪んでも、明日の三時間目に授業がある。
生徒はプリントを待っている。
赤ペンはインクを切らす。
小テストには、「享保の改革」を「恐怖の改革」と書く生徒がいる。
江口はその答案に丸をつけかけて、思わず止まった。
「意味は合ってるような気もするな……」
呟いた時、待ち合わせ相手が現れた。
二階堂壮也だった。
二階堂は五分遅れて来た。
黒いコートに、整った髪。
高校時代から、妙に場の空気を自分のものにする男だった。
「ごめん、待った?」
「五分」
「君、昔なら“今来たところ”って言ったよね」
「大人になったので」
「嫌な大人だ」
二階堂は笑って、江口の向かいに座った。
注文を済ませると、すぐに表情を切り替えた。
「榛名くんは?」
「大学には行かせてない。本人は行くって言ったけど」
「止めたんだ」
「止めた。珍しく」
「珍しく?」
「昔から僕は、あの子を止めるのが下手だから」
二階堂は少しだけ目を細めた。
「江口が?」
「何」
「いや。君、自分のことは雑に扱うくせに、あの子のことになるとちゃんと止めるんだなと思って」
「分析しないで」
「するよ。そのために呼んだんだろう?」
江口は返事をしなかった。
その通りだった。
今回、江口が二階堂を呼んだ理由は二つある。
一つは、事件について聞くため。
もう一つは、自分が冷静でいられているのか確かめるためだった。
榛名蛍に関して、江口は時々判断を間違える。
あるいは、間違えないために動けなくなる。
十六歳の蛍が雨の夜にアパートへ来た時もそうだった。
部屋に入れるべきか。
入れないべきか。
あの数秒を、江口はいまだに思い出す。
正しいことをしたとは思う。
だが、あれが蛍を傷つけなかったとは言い切れない。
「江口」
二階堂が呼んだ。
「顔が昔に戻ってる」
「昔?」
「高校の時、面倒なことを考えている時の顔」
「どんな顔」
「笑ってないのに、笑う準備だけしてる顔」
江口は思わず苦笑した。
「それ、嫌な顔だね」
「うん。だから嫌いだった」
「ひどい」
「でも、わかりやすかった」
二階堂はコーヒーを一口飲んだ。
「榛名くんは、それを見抜いたんだろうね」
江口は視線を落とした。
「……あの子は、変なところを見る」
「生存者だから」
「にか」
「言い方が悪いなら謝る。でも、そういう面はある。生き残った子どもは、大人の顔色を読むのが早くなる」
二階堂の声は静かだった。
「誰が本当に心配しているのか。誰が早く終わらせたがっているのか。誰が自分を“事件の子”として見ているのか。たぶん榛名くんは、七歳の時から見ていた」
江口は、蛍の言葉を思い出した。
――みんな、見ないふりをするのが上手いです。
「相沢さんも、それを見ていたんだと思う」
「どういう意味?」
「相沢遼介は、人の弱点を見つけるのが上手かったそうだね」
「蛍がそう言ってた」
「なら彼は、榛名くんの弱点も見つけた」
「十三年前の記憶」
「あるいは、榛名くんがついた嘘」
江口は黙った。
生き残った子どもは嘘をつく。
蛍はそう言った。
自分を守るために。
誰かを守るために。
大人が望む形に合わせるために。
江口はそれを否定できなかった。
「捜査の情報は?」
江口が訊くと、二階堂は声を落とした。
「正式な死因はまだ出ていない。ただ、毒物による急性中毒の疑いが強い。キョウチクトウ由来の強心配糖体に似た反応が出ている」
「現場にあった葉はやっぱり関係してる?」
「見せるための小道具かもしれない」
「本命の毒は別?」
「その可能性もある。少なくとも、現場に落ちていた葉をそのまま使っただけ、という単純な話ではなさそうだ」
二階堂はスマートフォンを伏せる。
「温室の自動灌水装置が、死亡推定時刻の前後に作動していた。床は広範囲に濡れていた。でも遺体の白衣には、不自然に乾いた部分がある」
「死んでから置かれた?」
「可能性はある。あるいは、死亡時の姿勢と発見時の姿勢が違う」
「首元の赤い点は?」
二階堂の目がわずかに細くなった。
「そこ、君も気づいてた?」
「見ました。虫刺されにしては変でした」
「鑑識も同じ見立て。針孔の可能性がある。毒を飲ませたのではなく、微量を直接入れた可能性も出ている」
「注射?」
「注射針とは限らない。研究室なら、細い器具はいくらでもある。植物組織に薬剤を注入するための器具、マイクロピペットの先端、昆虫標本用の針。現時点ではまだ幅がある」
江口はコーヒーカップを見下ろした。
雨の温室。
濡れた床。
乾いた白衣。
片羽の蝶。
湿気で浮く線。
首元の赤い点。
嫌な情報ばかりが積み上がっていく。
「それから、片羽の蝶」
二階堂が続けた。
「あれは古い標本で、相沢の私物ではない可能性が高い」
「榛名家のもの?」
「照合中。ただ、十三年前の押収品リストに直接該当するものはない」
「なら、誰かが持ち出した」
「もしくは、事件後に別ルートで保管されていた」
江口は柿沼から聞いた話を二階堂に伝えた。
榛名律が京東大学の植物研究者だったこと。
事件直前、研究データをめぐって大学や企業と揉めていたこと。
灯里が蝶の標本を作っていたこと。
事件の夜、小さな箱を蛍に託した可能性があること。
標本ケースの内側に、湿気で線のようなものが浮いていたこと。
二階堂は最後まで黙って聞いていた。
聞き終えると、ゆっくり息を吐いた。
「かなり嫌な構図だね」
「うん」
「過去の一家惨殺事件は、研究データをめぐる殺人だった可能性が出てきた」
「そうなる」
「そして現在、相沢はその過去に近づいた。だから殺された」
「榛名くんを犯人に見せる形で」
二階堂は頷いた。
「一番得をするのは誰だろう」
「十三年前の事件を掘り返されたくない人」
「榛名律の研究データに関係する人」
「片羽の蝶、もしくは標本箱の存在を知っていた人」
「榛名蛍の記憶が曖昧だと知っていた人」
二人は同時に黙った。
条件に当てはまる人物は限られる。
柿沼怜司。
叔母。
叔父。
当時の大学関係者。
企業関係者。
そして、相沢遼介が直前に接触していた誰か。
「江口」
二階堂が言った。
「榛名くんの叔母さんに会える?」
「たぶん。僕が連絡すれば」
「会った方がいい」
「警察より先に?」
「警察はもう接触しているはず。でも、お前にしか聞けないこともある」
「僕に?」
二階堂は小さく笑った。
「お前は、榛名くんを泊めなかった大人だから」
江口は眉を寄せた。
「何それ」
「あの子にとって、お前は“踏み込まなかった大人”なんだよ。だから、周囲の人間が踏み込みすぎていたかどうか、お前なら違和感を持てる」
江口は返事に困った。
自分はそんな立派な人間ではない。
ただ、間違えるのが怖かっただけだ。
未成年の元教え子を、自分の部屋に入れてはいけない。
それだけだった。
だが蛍は言った。
――だから、先生を信用できます。
あの言葉は今も江口の中に残っている。
「にか」
「何」
「僕は、あの子を救ったわけじゃないよ」
「知ってる」
二階堂は即答した。
「でも、見捨てなかった」
「……」
「それで十分だったんじゃない?」
江口は黙った。
高校時代の二階堂は、こういうことを平気で言う人間ではなかった。
もっと笑って、もっと軽く、もっと上品に距離を取る男だった。
だが今の二階堂は、人の核心に触れる。
江口はそれが少し嫌で、少しありがたかった。
◆
榛名蛍の叔母、榛名美佐枝は、世田谷の静かな住宅街に住んでいた。
午後三時。
江口は蛍とともに、その家の前に立っていた。
蛍は来ると言い張った。
江口は止めた。
だが最終的に、蛍はこう言った。
「俺の嘘を見に行くなら、俺がいないと意味がありません」
その言葉に、江口は反論できなかった。
白い外壁の二階建て。
庭には手入れされた低木があり、玄関先には鉢植えが並んでいる。
きちんとした家だった。
きちんとしすぎている家だった。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
榛名美佐枝は五十代前半の女性だった。
品のよいワンピース。
整った髪。
穏やかな笑顔。
「蛍」
その声は優しかった。
優しすぎた。
「来るなら連絡をちょうだい」
「しました」
「三十分前でしょう」
「はい」
「江口先生も、お久しぶりです」
美佐枝は江口へ丁寧に頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
「蛍が中学生の頃は、大変お世話になりました」
「いえ」
江口は曖昧に笑った。
当時の美佐枝は、いつも丁寧だった。
連絡帳の字も、電話の応対も、面談での受け答えも。
だが、その丁寧さの中に、どこか壁があった。
榛名蛍を守る壁。
同時に、榛名蛍を閉じ込める壁。
今ならそう思う。
客間へ通される。
テーブルにはすぐにお茶が出された。
緑茶と、小さな菓子。
何もかも整っている。
蛍はソファに座ったまま、ほとんど動かなかった。
「事件のことは聞きました」
美佐枝が言った。
「蛍、大丈夫?」
「大丈夫です」
「あなたの大丈夫は信用できないわ」
江口は思わず蛍を見た。
同じことを自分も言った。
蛍も気づいたようで、少しだけ視線を落とした。
「警察の方からも連絡がありました」
美佐枝は続ける。
「相沢さんという方が亡くなったとか」
「はい」
「お気の毒に」
言葉は正しい。
表情も悲しげだった。
だが、江口は微かな違和感を覚えた。
相沢遼介の死よりも、蛍が巻き込まれたことへの心配が前面に出ている。
それは叔母として自然かもしれない。
だが、自然すぎる。
用意されていた反応のようにも見えた。
「美佐枝さん」
江口は口を開いた。
「十三年前の事件について、少し伺ってもいいですか」
美佐枝の表情が、ほんのわずかに固まった。
すぐに戻った。
「今さら、何を」
「相沢さんは、蛍くんの過去を調べていました」
「そのようですね」
「ご存じでしたか」
「警察から聞きました」
「その前は?」
「知りません」
答えは早かった。
江口は続ける。
「榛名忠さんの研究については?」
「兄の研究ですか」
美佐枝は湯呑みに手を添えた。
「詳しいことは存じません。難しい植物の研究だったとしか」
「大学や企業と揉めていたことは?」
「初耳です」
蛍が顔を上げた。
「叔母さん」
「何?」
「父さんの研究資料、家に残ってなかった?」
「残っていなかったわ。事件で全部燃えたでしょう」
「本当に?」
蛍の声は静かだった。
美佐枝は蛍を見た。
「蛍、あなた疲れているのよ」
その言葉に、江口の胸がざらついた。
優しい。
だが、話を閉じる言葉だ。
「相沢さんは、片羽の蝶について調べていました」
江口が言うと、美佐枝の指が止まった。
「片羽の蝶?」
「ご存じありませんか」
「……灯里が、蝶の標本を作っていたのは知っています」
蛍の姉。
榛名灯里。
その名前を美佐枝は口にしなかった。
「事件の夜、蛍くんは小さな箱を持ってクローゼットに入った可能性があります」
「そんな話は聞いていません」
「蛍くんも最近思い出したことです」
「思い出した?」
美佐枝の声が少し強くなった。
「蛍、あなた、またあの夜のことを考えているの?」
「また?」
江口は聞き返した。
美佐枝は口を閉じる。
蛍が静かに言った。
「叔母さんは、僕が事件のことを考えるのを嫌がってた」
「当然でしょう」
美佐枝は蛍を見た。
「あなたは七歳だったのよ。あんなことを思い出して、何になるの」
「相沢さんが死んだ」
「それはあなたのせいじゃない」
「俺の過去に触れたからかもしれない」
「蛍」
美佐枝の声は、母親のようだった。
「あなたは、何も知らなくていいの」
その一言で、部屋の空気が変わった。
江口は湯呑みを置いた。
「知らなくていい、ですか」
「江口先生」
美佐枝はすぐに穏やかな顔へ戻した。
「私は蛍を守りたいだけです」
「わかります」
「本当に?」
「たぶん」
「あなたは昔からそうでした。蛍に踏み込みすぎなかった」
「はい」
「だから感謝していました」
美佐枝は微笑む。
「でも今は、踏み込みすぎています」
江口は黙った。
その通りかもしれない。
だが、今引くことはできない。
「美佐枝さん」
「はい」
「十三年前、周囲の大人は事件を早く終わらせたがっていた。そう聞きました」
美佐枝の目が細くなる。
「誰から?」
「それは言えません」
「江口先生、あなたは刑事ではありません」
「はい」
「蛍の家族でもありません」
「はい」
「では、なぜそこまで?」
江口は答えに詰まった。
家族ではない。
刑事でもない。
教師ですら、今はもう違う。
では、なぜここにいるのか。
蛍が呼んだから。
その答えは、あまりにも弱い。
だが、江口にとってはそれがすべてだった。
「昔、雨の日に」
江口は言った。
「蛍くんが僕のアパートへ来たことがあります」
蛍が江口を見る。
美佐枝の表情が変わる。
「高校生の時です。家出をして」
「……聞いていません」
「でしょうね」
「江口先生、あなたは」
「部屋には入れませんでした」
江口は静かに言った。
「未成年の元教え子だったので。代わりに、朝までファミレスにいました」
美佐枝は黙った。
蛍も黙っている。
「あの時、蛍くんは聞きました。成人したら先生と対等になれるか、と」
江口は続けた。
「今、彼は二十歳です」
「だから?」
「だから、知らなくていい、とは僕には言えません」
美佐枝の顔から、微笑みが消えた。
「知れば壊れるかもしれない」
「知らないままでも、壊れます」
江口は自分の声が震えていないことを確かめるように言った。
「この子はもう、知らないふりで守れる年齢じゃありません」
蛍がわずかに息を呑んだ。
美佐枝は江口を見つめていた。
その目には、初めて敵意に近いものがあった。
「あなたは、蛍の何を知っているの」
江口は答えた。
「何も知りません」
「なら」
「でも、知らないことを理由に黙らせるつもりはありません」
沈黙。
時計の針の音が聞こえた。
やがて美佐枝は、ゆっくり立ち上がった。
「帰ってください」
蛍が顔を上げる。
「叔母さん」
「蛍も今日は帰りなさい。疲れているわ」
「俺は帰らない」
「蛍」
「俺はもう、ここに住んでいません」
蛍の声は小さかった。
だが、はっきりしていた。
「俺は、知りたい」
美佐枝の顔が歪んだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと複雑な、名前のない表情だった。
「知れば、あなたは私を恨むわ」
その言葉に、江口は息を止めた。
蛍も動きを止めた。
「……どういう意味」
蛍が訊いた。
美佐枝は目を伏せた。
「帰って」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
◆
家を出ると、空は曇っていた。
雨は降っていない。
だが、湿った風が吹いている。
蛍は門の前で立ち止まった。
「先生」
「はい」
「叔母さん、何か知っていますね」
「はい」
「俺を守っているんでしょうか」
「そのつもりではあると思います」
「そのつもり」
「人は、守るつもりで閉じ込めることがあります」
蛍は黙った。
その横顔は青白い。
「先生」
「はい」
「俺、あの家で生きてきました」
「知っています」
「ご飯を食べさせてもらって、病院へ連れていってもらって、学校にも連絡してもらって」
「はい」
「でも、ずっと檻みたいだった」
江口は何も言えなかった。
「俺は、それを感謝しないといけないと思っていました」
蛍は目を伏せる。
「感謝しているのに、苦しいと思う自分が嫌でした」
江口は、十六歳の雨の夜を思い出した。
家にいるより外の方が楽だと、蛍は言った。
生き残った人間は飼われやすいとも。
あの言葉は比喩ではなかったのだ。
「榛名くん」
「はい」
「人は、感謝している相手を苦しいと思うことがあります」
「普通ですか」
「普通かどうかは知りません」
江口は言った。
「でも、悪ではないです」
蛍は少しだけ顔を上げた。
その目は揺れていた。
江口は続ける。
「君が苦しかったことと、叔母さんに感謝していることは、両方本当でいいんです」
蛍は長い間、黙っていた。
そして、小さく頷いた。
◆
夕方、江口は二階堂に電話をした。
喫茶店で再び合流する。
二階堂は話を聞き終えると、難しい顔をした。
「“知ればあなたは私を恨む”か」
「うん」
「かなり決定的だね」
「何を隠してると思う?」
「いくつか可能性がある」
二階堂は指を折る。
「一つ。叔母は十三年前の犯人、あるいは共犯を知っている」
「二つ目は?」
「蛍くんの証言が誘導されたことを知っている」
「三つ目」
「蛍くんがクローゼットに持ち込んだ箱の中身を、事件後に叔母が回収した」
江口は息を呑んだ。
「それだと、叔母さんは研究データを持っていたことになる」
「あるいは、誰かに渡した」
「誰に?」
「大学関係者。企業関係者。柿沼。あるいは、もっと別の人物」
二階堂は続けた。
「ただ、叔母が直接殺人に関わっているかはまだわからない。彼女は守っているだけかもしれない。自分を。蛍くんを。あるいは、誰かを」
江口は頭を抱えた。
「守るって何なんだろうね」
「江口らしくない問いだ」
「最近、榛名くんの影響で問いが増えてる」
「いい傾向だよ」
「そうかな」
「昔のお前なら、笑って流していた」
二階堂は静かに言った。
「今は流さない」
江口は窓の外を見た。
夕暮れの街は、少しずつ暗くなっている。
高校時代の自分なら、たぶん逃げていた。
面倒な話を笑いに変え、責任を半分に薄め、誰かが何とかするのを待っていた。
だが今は、逃げられない。
榛名蛍が呼んだから。
それだけで、十分だった。
「にか」
「何」
「僕の黒歴史、何か覚えてる?」
二階堂は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。
「急だね」
「榛名くんに、成人したら聞かせるって約束した」
「お前、そんな危険な約束をしたの?」
「雨の夜に」
「なるほど」
二階堂は頬杖をついた。
「たくさんあるよ。高校時代、文化祭で陽キャのふりをして司会を引き受けたのに、本番直前に逃げようとしたこと」
「忘れてた」
「放課後、誰もいない教室で“教師だけは絶対無理”って言ってたこと」
「……それも忘れてた」
「それから、卒業式の日に後輩から手紙をもらって、トイレで泣いてたこと」
「それは言わなくていい」
「榛名くんには言おう」
「やめて」
二階堂は笑った。
だが、その後で少し声を落とした。
「江口。お前の黒歴史って、だいたい“期待されるのが怖かった”話なんだよ」
江口は黙る。
「榛名くんも似てる。でも彼の場合は、期待じゃなくて、生き残った意味を背負わされている」
「重すぎるね」
「うん」
二階堂はまっすぐ江口を見た。
「だからお前が、意味を押しつけずに隣にいるのは大事だと思う」
「僕は何もしてない」
「何もしないで隣にいるのは、案外難しい」
江口は返事をしなかった。
喉の奥が少し熱くなった。
泣くほどのことではない。
だが、二階堂の言葉は妙に効いた。
◆
夜。
江口は蛍のマンションを訪ねた。
玄関を開けた蛍は、少し眠そうだった。
「先生」
「寝てました?」
「少し」
「よかった」
「何かありましたか」
「黒歴史を持ってきました」
蛍が瞬きをした。
「今ですか」
「成人してるでしょう」
「しています」
「なら約束です」
江口はコンビニ袋を掲げた。
「ココアも買ってきました」
蛍は少しだけ笑った。
「先生、本当に変わりましたね」
「そうですか」
「昔なら、そういうことは照れてしなかったと思います」
「昔より開き直りました」
部屋に入り、二人は小さなテーブルを挟んで座った。
江口は高校時代の話をした。
明るいふりをしていたこと。
実は人前に出るのが苦手だったこと。
文化祭の司会から逃げようとしたこと。
卒業式で泣いたこと。
教師になる気がなかったこと。
人に期待されると、先にふざけて逃げたくなったこと。
蛍は黙って聞いていた。
時々、少し笑った。
「先生」
「はい」
「ちゃんと情けないですね」
「言い方」
「でも、安心しました」
「なぜ」
「先生も逃げたかった人なんだと思って」
江口は苦笑した。
「今でも逃げたいですよ」
「逃げますか」
「君が夜中に死体の横から連絡してこなければ」
「それはすみません」
「反省してください」
蛍はココアを飲んだ。
湯気が頬の前で揺れる。
「先生」
「はい」
「叔母さんを、恨むことになると思いますか」
江口はすぐには答えなかった。
「わかりません」
「先生なのに?」
「先生だったので、わからない時はわからないと言います」
蛍は少し笑った。
その笑顔は、十三歳の頃より大人びていた。
だが、どこか同じだった。
「もし恨んでも」
江口は言った。
「それで、感謝が消えるわけじゃないと思います」
「両方あっていい?」
「たぶん」
「たぶん」
「そこは自信がありません」
蛍は静かに頷いた。
「先生らしいです」
窓の外は暗かった。
大学の温室で人が死に、十三年前の事件が再び動き出し、叔母は何かを隠している。
解けていない謎ばかりだった。
それでも、その夜だけは少しだけ穏やかだった。
江口は、テーブルの上に置かれたココアの紙カップを見た。
四年前のファミレス。
十六歳の蛍。
雨の夜。
成人したら対等になれるかと訊いた少年。
そして今、二十歳の蛍が目の前にいる。
完全に対等ではない。
たぶん、これからもそうだ。
だが、少なくとも江口はもう、蛍を“知らなくていい子ども”として扱わない。
「榛名くん」
「はい」
「明日、もう一度柿沼先生に会いましょう」
「何を聞くんですか」
「榛名忠さんの研究データと、標本箱の行方」
「叔母さんじゃなくて?」
「叔母さんは、まだ話さないと思います」
「柿沼先生なら?」
「嘘が下手でした」
蛍が少し驚き、それから笑った。
「先生、教師ですね」
「今さら?」
「はい」
蛍は窓の方を見た。
その横顔に、もう十三歳の少年だけではない、二十歳の青年の輪郭があった。
傷は消えない。
背中の片羽も、夜の記憶も。
だが、それだけで榛名蛍ができているわけではない。
江口はそれを知っている。
蛍は事件の子ではない。
生存者だけでもない。
紙飛行機が下手で、植物が好きで、ココアを飲む、面倒な元教え子だ。
そのことを、江口は何度でも思い出す必要があった。
翌日、事件はさらに深い場所へ進む。
だがその夜、蛍は小さく言った。
「先生」
「はい」
「俺、少しだけ眠れそうです」
江口は頷いた。
「それはよかった」
「先生は?」
「帰って寝ます」
「寝られますか」
「たぶん」
「先生のたぶんも、信用できませんね」
「君に似ました」
蛍は笑った。
江口はその笑顔を見てから、部屋を出た。
廊下は暗かった。
エレベーターを待つ間、江口はスマートフォンを見た。
二階堂からメッセージが届いていた。
『相沢のパソコンから、榛名忠の研究データに関するファイル名が見つかった。中身は削除済み。復元中』
江口は画面を見つめた。
そして、もう一通。
『ファイル名は「Lepidoptera_OneWing」』
英語は得意ではない。
だが意味はわかった。
鱗翅目。
蝶。
片羽。
片翼の蝶。
江口は目を閉じた。
十三年前に燃えたはずのものが、まだ燃え残っている。
そして誰かが、それを今も隠そうとしている。
エレベーターの扉が開いた。
江口は乗り込んだ。
逃げたいと思った。
正直、今すぐ全部投げ出したい。
だが、それでも足は止まらない。
榛名蛍が、呼んだから。
それだけで、江口桜次郎にはもう十分だった。




