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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第七章 先生の黒歴史

 江口桜次郎は、昔から明るい人間だったわけではない。

 ただ、明るい人間のふりは上手かった。

 高校時代の江口を知る人間なら、たいていこう言う。

 人当たりがいい。

 誰とでも話せる。

 空気を壊さない。

 冗談で逃げるのがうまい。

 面倒な場面になると、いつのまにか笑顔で端にいる。

 それは長所のように聞こえる。

 実際、長所として扱われることも多かった。

 教師になってからもそうだ。

 保護者対応が意外とできる。

 職員室の空気を悪くしない。

 怒鳴らずに生徒を止められる。

 傷ついた子どもに踏み込みすぎない。

 だが江口自身は、それが美徳だと思ったことはあまりなかった。

 ただ逃げ足が速いだけだ。

 期待される前に笑ってかわす。

 責められる前に自分を落とす。

 誰かの深いところへ入る前に、冗談で一歩引く。

 江口は、ずっとそうやって生きてきた。

 だから榛名蛍に最初に言われた時、少しだけ腹が立った。

 ――先生、不器用ですね。

 十三歳の子どもに見抜かれた。

 あの時から、江口はずっと蛍に弱い。

     ◆

 京東大学の事件から一日が経った。

 相沢遼介の死は、まだ大学内で正式に詳細発表されていない。

 だが噂は広がっていた。

 植物研究室の院生が温室で死んだ。

 毒物らしい。

 第一発見者は榛名蛍。

 現場には片羽の蝶があった。

 最後の一文だけは、まだ表には出ていないはずだった。

 それでも、どこかから漏れている。

 江口はそのことに、嫌なものを感じていた。

 午前十時。

 江口は警視庁近くの喫茶店にいた。

 テーブルの端には、学校から持ってきた採点途中の小テストが一束置かれている。

 事件の資料ではない。

 中学二年の社会科。

 江戸幕府の改革について。

 大人が一人死に、十三年前の一家惨殺事件が再び動き始めているというのに、江口は朝から採点をしていた。

 それは現実逃避でもあり、現実でもあった。

 教師という仕事は、世界がどれほど歪んでも、明日の三時間目に授業がある。

 生徒はプリントを待っている。

 赤ペンはインクを切らす。

 小テストには、「享保の改革」を「恐怖の改革」と書く生徒がいる。

 江口はその答案に丸をつけかけて、思わず止まった。

「意味は合ってるような気もするな……」

 呟いた時、待ち合わせ相手が現れた。

 二階堂壮也だった。

 二階堂は五分遅れて来た。

 黒いコートに、整った髪。

 高校時代から、妙に場の空気を自分のものにする男だった。

「ごめん、待った?」

「五分」

「君、昔なら“今来たところ”って言ったよね」

「大人になったので」

「嫌な大人だ」

 二階堂は笑って、江口の向かいに座った。

 注文を済ませると、すぐに表情を切り替えた。

「榛名くんは?」

「大学には行かせてない。本人は行くって言ったけど」

「止めたんだ」

「止めた。珍しく」

「珍しく?」

「昔から僕は、あの子を止めるのが下手だから」

 二階堂は少しだけ目を細めた。

「江口が?」

「何」

「いや。君、自分のことは雑に扱うくせに、あの子のことになるとちゃんと止めるんだなと思って」

「分析しないで」

「するよ。そのために呼んだんだろう?」

 江口は返事をしなかった。

 その通りだった。

 今回、江口が二階堂を呼んだ理由は二つある。

 一つは、事件について聞くため。

 もう一つは、自分が冷静でいられているのか確かめるためだった。

 榛名蛍に関して、江口は時々判断を間違える。

 あるいは、間違えないために動けなくなる。

 十六歳の蛍が雨の夜にアパートへ来た時もそうだった。

 部屋に入れるべきか。

 入れないべきか。

 あの数秒を、江口はいまだに思い出す。

 正しいことをしたとは思う。

 だが、あれが蛍を傷つけなかったとは言い切れない。

「江口」

 二階堂が呼んだ。

「顔が昔に戻ってる」

「昔?」

「高校の時、面倒なことを考えている時の顔」

「どんな顔」

「笑ってないのに、笑う準備だけしてる顔」

 江口は思わず苦笑した。

「それ、嫌な顔だね」

「うん。だから嫌いだった」

「ひどい」

「でも、わかりやすかった」

 二階堂はコーヒーを一口飲んだ。

「榛名くんは、それを見抜いたんだろうね」

 江口は視線を落とした。

「……あの子は、変なところを見る」

「生存者だから」

「にか」

「言い方が悪いなら謝る。でも、そういう面はある。生き残った子どもは、大人の顔色を読むのが早くなる」

 二階堂の声は静かだった。

「誰が本当に心配しているのか。誰が早く終わらせたがっているのか。誰が自分を“事件の子”として見ているのか。たぶん榛名くんは、七歳の時から見ていた」

 江口は、蛍の言葉を思い出した。

 ――みんな、見ないふりをするのが上手いです。

「相沢さんも、それを見ていたんだと思う」

「どういう意味?」

「相沢遼介は、人の弱点を見つけるのが上手かったそうだね」

「蛍がそう言ってた」

「なら彼は、榛名くんの弱点も見つけた」

「十三年前の記憶」

「あるいは、榛名くんがついた嘘」

 江口は黙った。

 生き残った子どもは嘘をつく。

 蛍はそう言った。

 自分を守るために。

 誰かを守るために。

 大人が望む形に合わせるために。

 江口はそれを否定できなかった。

「捜査の情報は?」

 江口が訊くと、二階堂は声を落とした。

「正式な死因はまだ出ていない。ただ、毒物による急性中毒の疑いが強い。キョウチクトウ由来の強心配糖体に似た反応が出ている」

「現場にあった葉はやっぱり関係してる?」

「見せるための小道具かもしれない」

「本命の毒は別?」

「その可能性もある。少なくとも、現場に落ちていた葉をそのまま使っただけ、という単純な話ではなさそうだ」

 二階堂はスマートフォンを伏せる。

「温室の自動灌水装置が、死亡推定時刻の前後に作動していた。床は広範囲に濡れていた。でも遺体の白衣には、不自然に乾いた部分がある」

「死んでから置かれた?」

「可能性はある。あるいは、死亡時の姿勢と発見時の姿勢が違う」

「首元の赤い点は?」

 二階堂の目がわずかに細くなった。

「そこ、君も気づいてた?」

「見ました。虫刺されにしては変でした」

「鑑識も同じ見立て。針孔の可能性がある。毒を飲ませたのではなく、微量を直接入れた可能性も出ている」

「注射?」

「注射針とは限らない。研究室なら、細い器具はいくらでもある。植物組織に薬剤を注入するための器具、マイクロピペットの先端、昆虫標本用の針。現時点ではまだ幅がある」

 江口はコーヒーカップを見下ろした。

 雨の温室。

 濡れた床。

 乾いた白衣。

 片羽の蝶。

 湿気で浮く線。

 首元の赤い点。

 嫌な情報ばかりが積み上がっていく。

「それから、片羽の蝶」

 二階堂が続けた。

「あれは古い標本で、相沢の私物ではない可能性が高い」

「榛名家のもの?」

「照合中。ただ、十三年前の押収品リストに直接該当するものはない」

「なら、誰かが持ち出した」

「もしくは、事件後に別ルートで保管されていた」

 江口は柿沼から聞いた話を二階堂に伝えた。

 榛名律が京東大学の植物研究者だったこと。

 事件直前、研究データをめぐって大学や企業と揉めていたこと。

 灯里が蝶の標本を作っていたこと。

 事件の夜、小さな箱を蛍に託した可能性があること。

 標本ケースの内側に、湿気で線のようなものが浮いていたこと。

 二階堂は最後まで黙って聞いていた。

 聞き終えると、ゆっくり息を吐いた。

「かなり嫌な構図だね」

「うん」

「過去の一家惨殺事件は、研究データをめぐる殺人だった可能性が出てきた」

「そうなる」

「そして現在、相沢はその過去に近づいた。だから殺された」

「榛名くんを犯人に見せる形で」

 二階堂は頷いた。

「一番得をするのは誰だろう」

「十三年前の事件を掘り返されたくない人」

「榛名律の研究データに関係する人」

「片羽の蝶、もしくは標本箱の存在を知っていた人」

「榛名蛍の記憶が曖昧だと知っていた人」

 二人は同時に黙った。

 条件に当てはまる人物は限られる。

 柿沼怜司。

 叔母。

 叔父。

 当時の大学関係者。

 企業関係者。

 そして、相沢遼介が直前に接触していた誰か。

「江口」

 二階堂が言った。

「榛名くんの叔母さんに会える?」

「たぶん。僕が連絡すれば」

「会った方がいい」

「警察より先に?」

「警察はもう接触しているはず。でも、お前にしか聞けないこともある」

「僕に?」

 二階堂は小さく笑った。

「お前は、榛名くんを泊めなかった大人だから」

 江口は眉を寄せた。

「何それ」

「あの子にとって、お前は“踏み込まなかった大人”なんだよ。だから、周囲の人間が踏み込みすぎていたかどうか、お前なら違和感を持てる」

 江口は返事に困った。

 自分はそんな立派な人間ではない。

 ただ、間違えるのが怖かっただけだ。

 未成年の元教え子を、自分の部屋に入れてはいけない。

 それだけだった。

 だが蛍は言った。

 ――だから、先生を信用できます。

 あの言葉は今も江口の中に残っている。

「にか」

「何」

「僕は、あの子を救ったわけじゃないよ」

「知ってる」

 二階堂は即答した。

「でも、見捨てなかった」

「……」

「それで十分だったんじゃない?」

 江口は黙った。

 高校時代の二階堂は、こういうことを平気で言う人間ではなかった。

 もっと笑って、もっと軽く、もっと上品に距離を取る男だった。

 だが今の二階堂は、人の核心に触れる。

 江口はそれが少し嫌で、少しありがたかった。

     ◆

 榛名蛍の叔母、榛名美佐枝は、世田谷の静かな住宅街に住んでいた。

 午後三時。

 江口は蛍とともに、その家の前に立っていた。

 蛍は来ると言い張った。

 江口は止めた。

 だが最終的に、蛍はこう言った。

「俺の嘘を見に行くなら、俺がいないと意味がありません」

 その言葉に、江口は反論できなかった。

 白い外壁の二階建て。

 庭には手入れされた低木があり、玄関先には鉢植えが並んでいる。

 きちんとした家だった。

 きちんとしすぎている家だった。

 インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。

 榛名美佐枝は五十代前半の女性だった。

 品のよいワンピース。

 整った髪。

 穏やかな笑顔。

「蛍」

 その声は優しかった。

 優しすぎた。

「来るなら連絡をちょうだい」

「しました」

「三十分前でしょう」

「はい」

「江口先生も、お久しぶりです」

 美佐枝は江口へ丁寧に頭を下げた。

「ご無沙汰しております」

「蛍が中学生の頃は、大変お世話になりました」

「いえ」

 江口は曖昧に笑った。

 当時の美佐枝は、いつも丁寧だった。

 連絡帳の字も、電話の応対も、面談での受け答えも。

 だが、その丁寧さの中に、どこか壁があった。

 榛名蛍を守る壁。

 同時に、榛名蛍を閉じ込める壁。

 今ならそう思う。

 客間へ通される。

 テーブルにはすぐにお茶が出された。

 緑茶と、小さな菓子。

 何もかも整っている。

 蛍はソファに座ったまま、ほとんど動かなかった。

「事件のことは聞きました」

 美佐枝が言った。

「蛍、大丈夫?」

「大丈夫です」

「あなたの大丈夫は信用できないわ」

 江口は思わず蛍を見た。

 同じことを自分も言った。

 蛍も気づいたようで、少しだけ視線を落とした。

「警察の方からも連絡がありました」

 美佐枝は続ける。

「相沢さんという方が亡くなったとか」

「はい」

「お気の毒に」

 言葉は正しい。

 表情も悲しげだった。

 だが、江口は微かな違和感を覚えた。

 相沢遼介の死よりも、蛍が巻き込まれたことへの心配が前面に出ている。

 それは叔母として自然かもしれない。

 だが、自然すぎる。

 用意されていた反応のようにも見えた。

「美佐枝さん」

 江口は口を開いた。

「十三年前の事件について、少し伺ってもいいですか」

 美佐枝の表情が、ほんのわずかに固まった。

 すぐに戻った。

「今さら、何を」

「相沢さんは、蛍くんの過去を調べていました」

「そのようですね」

「ご存じでしたか」

「警察から聞きました」

「その前は?」

「知りません」

 答えは早かった。

 江口は続ける。

「榛名忠さんの研究については?」

「兄の研究ですか」

 美佐枝は湯呑みに手を添えた。

「詳しいことは存じません。難しい植物の研究だったとしか」

「大学や企業と揉めていたことは?」

「初耳です」

 蛍が顔を上げた。

「叔母さん」

「何?」

「父さんの研究資料、家に残ってなかった?」

「残っていなかったわ。事件で全部燃えたでしょう」

「本当に?」

 蛍の声は静かだった。

 美佐枝は蛍を見た。

「蛍、あなた疲れているのよ」

 その言葉に、江口の胸がざらついた。

 優しい。

 だが、話を閉じる言葉だ。

「相沢さんは、片羽の蝶について調べていました」

 江口が言うと、美佐枝の指が止まった。

「片羽の蝶?」

「ご存じありませんか」

「……灯里が、蝶の標本を作っていたのは知っています」

 蛍の姉。

 榛名灯里。

 その名前を美佐枝は口にしなかった。

「事件の夜、蛍くんは小さな箱を持ってクローゼットに入った可能性があります」

「そんな話は聞いていません」

「蛍くんも最近思い出したことです」

「思い出した?」

 美佐枝の声が少し強くなった。

「蛍、あなた、またあの夜のことを考えているの?」

「また?」

 江口は聞き返した。

 美佐枝は口を閉じる。

 蛍が静かに言った。

「叔母さんは、僕が事件のことを考えるのを嫌がってた」

「当然でしょう」

 美佐枝は蛍を見た。

「あなたは七歳だったのよ。あんなことを思い出して、何になるの」

「相沢さんが死んだ」

「それはあなたのせいじゃない」

「俺の過去に触れたからかもしれない」

「蛍」

 美佐枝の声は、母親のようだった。

「あなたは、何も知らなくていいの」

 その一言で、部屋の空気が変わった。

 江口は湯呑みを置いた。

「知らなくていい、ですか」

「江口先生」

 美佐枝はすぐに穏やかな顔へ戻した。

「私は蛍を守りたいだけです」

「わかります」

「本当に?」

「たぶん」

「あなたは昔からそうでした。蛍に踏み込みすぎなかった」

「はい」

「だから感謝していました」

 美佐枝は微笑む。

「でも今は、踏み込みすぎています」

 江口は黙った。

 その通りかもしれない。

 だが、今引くことはできない。

「美佐枝さん」

「はい」

「十三年前、周囲の大人は事件を早く終わらせたがっていた。そう聞きました」

 美佐枝の目が細くなる。

「誰から?」

「それは言えません」

「江口先生、あなたは刑事ではありません」

「はい」

「蛍の家族でもありません」

「はい」

「では、なぜそこまで?」

 江口は答えに詰まった。

 家族ではない。

 刑事でもない。

 教師ですら、今はもう違う。

 では、なぜここにいるのか。

 蛍が呼んだから。

 その答えは、あまりにも弱い。

 だが、江口にとってはそれがすべてだった。

「昔、雨の日に」

 江口は言った。

「蛍くんが僕のアパートへ来たことがあります」

 蛍が江口を見る。

 美佐枝の表情が変わる。

「高校生の時です。家出をして」

「……聞いていません」

「でしょうね」

「江口先生、あなたは」

「部屋には入れませんでした」

 江口は静かに言った。

「未成年の元教え子だったので。代わりに、朝までファミレスにいました」

 美佐枝は黙った。

 蛍も黙っている。

「あの時、蛍くんは聞きました。成人したら先生と対等になれるか、と」

 江口は続けた。

「今、彼は二十歳です」

「だから?」

「だから、知らなくていい、とは僕には言えません」

 美佐枝の顔から、微笑みが消えた。

「知れば壊れるかもしれない」

「知らないままでも、壊れます」

 江口は自分の声が震えていないことを確かめるように言った。

「この子はもう、知らないふりで守れる年齢じゃありません」

 蛍がわずかに息を呑んだ。

 美佐枝は江口を見つめていた。

 その目には、初めて敵意に近いものがあった。

「あなたは、蛍の何を知っているの」

 江口は答えた。

「何も知りません」

「なら」

「でも、知らないことを理由に黙らせるつもりはありません」

 沈黙。

 時計の針の音が聞こえた。

 やがて美佐枝は、ゆっくり立ち上がった。

「帰ってください」

 蛍が顔を上げる。

「叔母さん」

「蛍も今日は帰りなさい。疲れているわ」

「俺は帰らない」

「蛍」

「俺はもう、ここに住んでいません」

 蛍の声は小さかった。

 だが、はっきりしていた。

「俺は、知りたい」

 美佐枝の顔が歪んだ。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 もっと複雑な、名前のない表情だった。

「知れば、あなたは私を恨むわ」

 その言葉に、江口は息を止めた。

 蛍も動きを止めた。

「……どういう意味」

 蛍が訊いた。

 美佐枝は目を伏せた。

「帰って」

 それ以上、彼女は何も言わなかった。

     ◆

 家を出ると、空は曇っていた。

 雨は降っていない。

 だが、湿った風が吹いている。

 蛍は門の前で立ち止まった。

「先生」

「はい」

「叔母さん、何か知っていますね」

「はい」

「俺を守っているんでしょうか」

「そのつもりではあると思います」

「そのつもり」

「人は、守るつもりで閉じ込めることがあります」

 蛍は黙った。

 その横顔は青白い。

「先生」

「はい」

「俺、あの家で生きてきました」

「知っています」

「ご飯を食べさせてもらって、病院へ連れていってもらって、学校にも連絡してもらって」

「はい」

「でも、ずっと檻みたいだった」

 江口は何も言えなかった。

「俺は、それを感謝しないといけないと思っていました」

 蛍は目を伏せる。

「感謝しているのに、苦しいと思う自分が嫌でした」

 江口は、十六歳の雨の夜を思い出した。

 家にいるより外の方が楽だと、蛍は言った。

 生き残った人間は飼われやすいとも。

 あの言葉は比喩ではなかったのだ。

「榛名くん」

「はい」

「人は、感謝している相手を苦しいと思うことがあります」

「普通ですか」

「普通かどうかは知りません」

 江口は言った。

「でも、悪ではないです」

 蛍は少しだけ顔を上げた。

 その目は揺れていた。

 江口は続ける。

「君が苦しかったことと、叔母さんに感謝していることは、両方本当でいいんです」

 蛍は長い間、黙っていた。

 そして、小さく頷いた。

     ◆

 夕方、江口は二階堂に電話をした。

 喫茶店で再び合流する。

 二階堂は話を聞き終えると、難しい顔をした。

「“知ればあなたは私を恨む”か」

「うん」

「かなり決定的だね」

「何を隠してると思う?」

「いくつか可能性がある」

 二階堂は指を折る。

「一つ。叔母は十三年前の犯人、あるいは共犯を知っている」

「二つ目は?」

「蛍くんの証言が誘導されたことを知っている」

「三つ目」

「蛍くんがクローゼットに持ち込んだ箱の中身を、事件後に叔母が回収した」

 江口は息を呑んだ。

「それだと、叔母さんは研究データを持っていたことになる」

「あるいは、誰かに渡した」

「誰に?」

「大学関係者。企業関係者。柿沼。あるいは、もっと別の人物」

 二階堂は続けた。

「ただ、叔母が直接殺人に関わっているかはまだわからない。彼女は守っているだけかもしれない。自分を。蛍くんを。あるいは、誰かを」

 江口は頭を抱えた。

「守るって何なんだろうね」

「江口らしくない問いだ」

「最近、榛名くんの影響で問いが増えてる」

「いい傾向だよ」

「そうかな」

「昔のお前なら、笑って流していた」

 二階堂は静かに言った。

「今は流さない」

 江口は窓の外を見た。

 夕暮れの街は、少しずつ暗くなっている。

 高校時代の自分なら、たぶん逃げていた。

 面倒な話を笑いに変え、責任を半分に薄め、誰かが何とかするのを待っていた。

 だが今は、逃げられない。

 榛名蛍が呼んだから。

 それだけで、十分だった。

「にか」

「何」

「僕の黒歴史、何か覚えてる?」

 二階堂は一瞬きょとんとした後、楽しそうに笑った。

「急だね」

「榛名くんに、成人したら聞かせるって約束した」

「お前、そんな危険な約束をしたの?」

「雨の夜に」

「なるほど」

 二階堂は頬杖をついた。

「たくさんあるよ。高校時代、文化祭で陽キャのふりをして司会を引き受けたのに、本番直前に逃げようとしたこと」

「忘れてた」

「放課後、誰もいない教室で“教師だけは絶対無理”って言ってたこと」

「……それも忘れてた」

「それから、卒業式の日に後輩から手紙をもらって、トイレで泣いてたこと」

「それは言わなくていい」

「榛名くんには言おう」

「やめて」

 二階堂は笑った。

 だが、その後で少し声を落とした。

「江口。お前の黒歴史って、だいたい“期待されるのが怖かった”話なんだよ」

 江口は黙る。

「榛名くんも似てる。でも彼の場合は、期待じゃなくて、生き残った意味を背負わされている」

「重すぎるね」

「うん」

 二階堂はまっすぐ江口を見た。

「だからお前が、意味を押しつけずに隣にいるのは大事だと思う」

「僕は何もしてない」

「何もしないで隣にいるのは、案外難しい」

 江口は返事をしなかった。

 喉の奥が少し熱くなった。

 泣くほどのことではない。

 だが、二階堂の言葉は妙に効いた。

     ◆

 夜。

 江口は蛍のマンションを訪ねた。

 玄関を開けた蛍は、少し眠そうだった。

「先生」

「寝てました?」

「少し」

「よかった」

「何かありましたか」

「黒歴史を持ってきました」

 蛍が瞬きをした。

「今ですか」

「成人してるでしょう」

「しています」

「なら約束です」

 江口はコンビニ袋を掲げた。

「ココアも買ってきました」

 蛍は少しだけ笑った。

「先生、本当に変わりましたね」

「そうですか」

「昔なら、そういうことは照れてしなかったと思います」

「昔より開き直りました」

 部屋に入り、二人は小さなテーブルを挟んで座った。

 江口は高校時代の話をした。

 明るいふりをしていたこと。

 実は人前に出るのが苦手だったこと。

 文化祭の司会から逃げようとしたこと。

 卒業式で泣いたこと。

 教師になる気がなかったこと。

 人に期待されると、先にふざけて逃げたくなったこと。

 蛍は黙って聞いていた。

 時々、少し笑った。

「先生」

「はい」

「ちゃんと情けないですね」

「言い方」

「でも、安心しました」

「なぜ」

「先生も逃げたかった人なんだと思って」

 江口は苦笑した。

「今でも逃げたいですよ」

「逃げますか」

「君が夜中に死体の横から連絡してこなければ」

「それはすみません」

「反省してください」

 蛍はココアを飲んだ。

 湯気が頬の前で揺れる。

「先生」

「はい」

「叔母さんを、恨むことになると思いますか」

 江口はすぐには答えなかった。

「わかりません」

「先生なのに?」

「先生だったので、わからない時はわからないと言います」

 蛍は少し笑った。

 その笑顔は、十三歳の頃より大人びていた。

 だが、どこか同じだった。

「もし恨んでも」

 江口は言った。

「それで、感謝が消えるわけじゃないと思います」

「両方あっていい?」

「たぶん」

「たぶん」

「そこは自信がありません」

 蛍は静かに頷いた。

「先生らしいです」

 窓の外は暗かった。

 大学の温室で人が死に、十三年前の事件が再び動き出し、叔母は何かを隠している。

 解けていない謎ばかりだった。

 それでも、その夜だけは少しだけ穏やかだった。

 江口は、テーブルの上に置かれたココアの紙カップを見た。

 四年前のファミレス。

 十六歳の蛍。

 雨の夜。

 成人したら対等になれるかと訊いた少年。

 そして今、二十歳の蛍が目の前にいる。

 完全に対等ではない。

 たぶん、これからもそうだ。

 だが、少なくとも江口はもう、蛍を“知らなくていい子ども”として扱わない。

「榛名くん」

「はい」

「明日、もう一度柿沼先生に会いましょう」

「何を聞くんですか」

「榛名忠さんの研究データと、標本箱の行方」

「叔母さんじゃなくて?」

「叔母さんは、まだ話さないと思います」

「柿沼先生なら?」

「嘘が下手でした」

 蛍が少し驚き、それから笑った。

「先生、教師ですね」

「今さら?」

「はい」

 蛍は窓の方を見た。

 その横顔に、もう十三歳の少年だけではない、二十歳の青年の輪郭があった。

 傷は消えない。

 背中の片羽も、夜の記憶も。

 だが、それだけで榛名蛍ができているわけではない。

 江口はそれを知っている。

 蛍は事件の子ではない。

 生存者だけでもない。

 紙飛行機が下手で、植物が好きで、ココアを飲む、面倒な元教え子だ。

 そのことを、江口は何度でも思い出す必要があった。

 翌日、事件はさらに深い場所へ進む。

 だがその夜、蛍は小さく言った。

「先生」

「はい」

「俺、少しだけ眠れそうです」

 江口は頷いた。

「それはよかった」

「先生は?」

「帰って寝ます」

「寝られますか」

「たぶん」

「先生のたぶんも、信用できませんね」

「君に似ました」

 蛍は笑った。

 江口はその笑顔を見てから、部屋を出た。

 廊下は暗かった。

 エレベーターを待つ間、江口はスマートフォンを見た。

 二階堂からメッセージが届いていた。

『相沢のパソコンから、榛名忠の研究データに関するファイル名が見つかった。中身は削除済み。復元中』

 江口は画面を見つめた。

 そして、もう一通。

『ファイル名は「Lepidoptera_OneWing」』

 英語は得意ではない。

 だが意味はわかった。

 鱗翅目。

 蝶。

 片羽。

 片翼の蝶。

 江口は目を閉じた。

 十三年前に燃えたはずのものが、まだ燃え残っている。

 そして誰かが、それを今も隠そうとしている。

 エレベーターの扉が開いた。

 江口は乗り込んだ。

 逃げたいと思った。

 正直、今すぐ全部投げ出したい。

 だが、それでも足は止まらない。

 榛名蛍が、呼んだから。

 それだけで、江口桜次郎にはもう十分だった。


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