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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: アコンプリスの人


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第六章 被害者は、善人ではなかった

 相沢遼介は、榛名家の真実を正義のためだけに追っていたわけではない。

 事件翌日の午後、そのことがはっきりした。

◆

 警視庁の小会議室。

 蛍の前には真壁彰が座り、その隣に二階堂壮也がいる。

 二階堂は捜査員としてではない。

 十三年前の一家殺害放火事件と大学の死亡事件が結びつき、報道対応が必要になる可能性が高まったため、広報側の連絡担当として同席していた。

 江口は本来そこにいる人間ではなかったが、蛍が希望し、真壁が「話せる範囲だけ」という条件で認めた。

 最後に入ってきた白衣の男を見て、江口は少し姿勢を正した。

 白い髪。赤い目。ひどく白い肌。

「九条雅紀です。京東大学法医学教室」

 九条はそれだけ名乗り、資料を開いた。

 二十七歳。真壁とは幼なじみらしいが、仕事中の二人は互いを苗字で呼んだ。

「相沢さんの身体所見から言えることだけ話します」

 九条の声は平坦だった。

「強心配糖体による致死性不整脈と矛盾しない。首の右側に微小な穿刺痕がある。口腔、食道、胃内容からは、致死量を経口摂取した所見は今のところ出ていない」

 蛍の指が動く。

「飲んだんじゃない?」

「そこまでは言える。だからといって注射と確定はしない」

 九条は資料から目を上げた。

「所見はある。理由はまだない」

「現場の葉は?」

 江口が訊く。

「キョウチクトウ。だが葉の成分比と、相沢さんから検出されたものは一致しない。現場の葉だけで説明するのは無理がある」

「別の毒?」

「同系統の成分を濃縮した標準試料の可能性を調べている」

 九条はそこで線を引いた。

「ここから先は捜査の話だ」

 真壁が引き取る。

「研究室の保管庫から、榛名律さんの研究を再現するために保存されていた標準試料の一部がなくなっています。アクセスできたのは、柿沼准教授、相沢さん、研究補助者数名。蛍さんも申請すれば触れます」

「最悪ですね」

 江口が言った。

「先生、それ昨日も言いました」

「今日も最悪なので」

 蛍の口元がほんの少し動いた。

◆

 真壁は次の資料を置いた。

 相沢のメール下書き。

 宛先は柿沼怜司。

『あなたが榛名律氏の研究データを不正に持ち出し、その後の論文と特許に利用した証拠を保有しています』

 続く文面。

『教授選への立候補を辞退しなければ公開します』

「告発じゃなくて脅迫じゃないですか」

 江口が言う。

「法的評価は別です」

 真壁は短く返した。

「相沢さんは柿沼准教授の研究室で助教ポストを希望していた。柿沼准教授が教授選から外れれば、人事が動く可能性はあった」

 蛍は紙を見たまま言った。

「僕の記憶も、その材料だった」

 誰も否定できなかった。

 被害者は被害者だ。

 殺されていい人間ではない。

 だが、殺された瞬間に、それまで他人へしたことまで消えるわけではない。

 二階堂が初めて口を開いた。

「この事件、外へ出ると簡単な物語になります。『未解決事件の生存者が、父親の研究を使って同僚を殺した』。見出しだけなら十秒で作れる」

 蛍の顔が強張る。

「だから、事実を出す順番を間違えない。君を守るために嘘を作るんじゃない。事実が揃う前に、責任だけ君へ残る言い方をさせない」

 それが二階堂の仕事だった。

◆

「メッセージの件です」

 真壁が言った。

 午前零時三十四分。

 相沢のスマートウォッチの心拍記録が途絶える。

 零時三十七分。

 相沢の研究室パソコンに、外部端末からリモート接続。

 蛍宛ての文章が作られる。

 零時四十分。

 温室の自動灌水。

 零時五十八分。

 メッセージ送信。

「相沢さん本人が予約設定した形跡はありません」

 真壁が言う。

「死者は文章を書いていない」

 江口は画面の一文を見た。

『榛名くん。片翼の標本を見つけた。温室へ来てほしい』

「過去のメッセージ、呼び方だけ確認できますか」

 真壁が理由を訊く。

「相沢さんは蛍くんを『榛名』と呼んでいた。僕が見たメッセージだけ違う」

 真壁は少し考え、個人情報を伏せた数例を示した。

『榛名、明日の培養室当番代われる?』

『榛名、柿沼先生にデータ出した?』

『榛名、あの火事のこと本当に覚えてない?』

 全部、『榛名』。

 二階堂が紙を見た。

「言葉は指紋じゃない。でも、わざわざ普段と違う敬称にする理由はある」

「柿沼先生は、僕をいつも『榛名くん』と呼びます」

 蛍が言った。

 真壁はすぐに返した。

「それだけでは証拠になりません」

「わかってます」

 江口が答える。

 決めない。

 最後まで。

◆

 大学の入退室記録も奇妙だった。

 零時二十二分、柿沼の職員証が研究棟から退出。

 零時三十二分、相沢のカードで温室へ入室。

 零時四十分、自動灌水。

 一時九分、蛍が自分のカードで入室。

「退出記録があるなら柿沼先生は外では?」

 蛍が訊く。

 真壁は首を振った。

「カードが外へ出た記録です。本人の身体が出た証明ではない」

「出口は?」

「温室の正面扉は入室だけ記録。退出は内側のバーで開く」

 江口は嫌な顔をした。

「穴がありますね」

「だから記録だけで人を決めない」

 真壁は言った。

◆

 会議の後、廊下の自販機前で柿沼と会った。

「榛名くん」

 やはり『くん』を付ける。

「警察はいつまで君を拘束するつもりなんだ」

「拘束されてません」

「そうか。なら研究室へ戻れる?」

「今日は帰ります」

「その方がいい。相沢くんは、少しやりすぎた」

 柿沼は江口へ薄く笑った。

「榛名くんの過去を掘り返して、あんな片翼の標本まで作って」

 江口の頭の中で、音が止まった。

 標本を相沢が作った事実は、まだ公表されていない。

 研究室全体にも知らせていないと、真壁はさっき言った。

「柿沼先生」

「はい?」

「相沢さんが作ったって、どこで知りました?」

 一瞬。

 柿沼の視線が止まった。

「研究室で噂になっています」

「そうですか」

 江口はそれ以上追わなかった。

 真壁なら追う。

 九条なら所見を増やす。

 二階堂なら言葉がどこから漏れたかを見る。

 江口が見るべきなのは、人だった。

 柿沼は、答える前に一度だけ蛍を見た。

 その視線を、江口は覚えておいた。


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