第六章 京東大学温室殺人
警察車両の赤色灯は、雨に濡れた温室のガラスを断続的に染めていた。
赤。
黒。
赤。
黒。
そのたびに、夜の植物たちの影が揺れた。
京東大学の植物温室は、理学部棟のさらに奥、学生が普段あまり立ち入らない区域にあった。昼間なら、古びた研究施設に見えるだけだ。だが夜になると違う。ガラス壁の内側に密集した葉が黒く浮かび、外から見ると、巨大な水槽の中で何かが息をしているように見える。
江口桜次郎は、その温室の外で立っていた。
時刻は午前二時を過ぎている。
雨は弱くなっていたが、止む気配はなかった。細かい雨粒が髪や肩に積もり、じわじわと体温を奪っていく。
江口は濡れた前髪をかき上げた。
目の前では、警察官たちが慌ただしく動いている。
規制線が張られ、鑑識らしき人間がケースを持って温室へ入っていく。大学の警備員が何度も頭を下げ、若い制服警官に何か説明していた。
江口はその一連の動きを、少し離れた場所から見ていた。
自分がここにいる理由を、何度考えても説明できない。
警察官ではない。
大学関係者でもない。
事件関係者ですらない。
ただ、榛名蛍から連絡が来た。
それだけだった。
それだけで、江口は来てしまった。
四年前の雨の夜もそうだった。
十六歳の蛍が、自分のアパートの前に立っていた夜。
あの時も、江口は正しい理由を探した。教師として。大人として。元担任として。だが結局、最後に残ったのは単純な感情だった。
放っておけなかった。
今も同じだ。
「江口先生」
背後から声がした。
振り返ると、榛名蛍が立っていた。
白いシャツの袖口には、まだ血の跡が残っている。雨で少し滲んで、赤黒い影になっていた。
「事情聴取、終わったんですか」
「一度目は」
「一度目?」
「たぶん、また呼ばれます」
蛍は淡々と言った。
その顔色は、いつもよりさらに白い。
目元には疲労がある。だが、怯えはなかった。
そのことが江口には気になった。
人が死んだ現場にいて、第一発見者になって、警察に話を聞かれている。
普通ならもっと動揺する。
だが蛍は静かだった。
静かすぎる。
「榛名くん」
「はい」
「君、こういう時に落ち着きすぎなんですよ」
蛍は少しだけ目を伏せた。
「落ち着いてるわけじゃありません」
「じゃあ?」
「固まってるだけです」
江口は何も言えなかった。
蛍は雨を見ていた。
「昔からです。怖い時ほど、動けなくなる」
その言葉で、江口は十三歳の蛍を思い出した。
保健室のベッド。
ずれたシャツ。
背中に広がる、蝶の片羽のような火傷痕。
あの時も、蛍は泣かなかった。
傷を見られても、声を荒げなかった。
ただ静かに言った。
――片方しかないんです。だから飛べません。
江口は小さく息を吐いた。
「被害者の名前は?」
「相沢遼介さん」
「研究室の人?」
「はい。博士課程の院生です」
「年齢は」
「二十八」
「君とは?」
「同じ研究室です」
「仲は?」
蛍は少し黙った。
その沈黙だけで、良くはなかったのだとわかる。
「悪かったんですか」
「特別悪かったわけではありません」
「じゃあ良かった?」
「それも違います」
「便利な答えですね」
「先生に似ました」
「僕のせいにしないでください」
蛍は少しだけ口元を緩めた。
それは笑顔と呼ぶには弱いものだったが、江口には十分だった。
この子がまだ、完全には閉じていない証拠だと思えた。
「相沢さんは、僕のことを調べていました」
蛍が言った。
江口は顔を上げる。
「君のこと?」
「正確には、十三年前の事件のことです」
雨音が、少し大きく聞こえた。
「榛名家一家惨殺事件」
蛍はその言葉を、他人事のように言った。
江口は眉をひそめる。
「なぜ、研究室の院生がそんなことを」
「わかりません」
「本人から聞いたんじゃないんですか」
「聞きました。でも答えませんでした」
蛍は視線を温室へ向けた。
「今日の夕方、口論しました」
江口の胸に、嫌な予感が走った。
「警察にも言いました?」
「言いました」
「内容は」
「相沢さんが、僕に言いました」
蛍の声は変わらない。
だが、その目だけが少し暗くなった。
「“君は本当に何も覚えていないのか”と」
◆
温室の中は、まだ鑑識作業が続いていた。
外からは内部がよく見えない。ガラスは雨と湿気で曇り、時折、人影だけがぼんやり映る。
江口は、蛍から聞いた話を頭の中で整理していた。
被害者、相沢遼介。
京東大学理学部の植物系研究室に所属する博士課程の院生。
専門は植物毒性と環境ストレス。
死体は温室奥の熱帯植物区画で発見された。
第一発見者は榛名蛍。
現場には、片羽だけの蝶の標本。
そして、毒性植物の葉。
さらに、温室の自動灌水装置が事件前後に作動していた。
床は濡れていた。
だが、遺体の白衣の背中には不自然に乾いた部分があった。
首元には、小さな赤い点。
虫刺されにも、注射痕にも見える、ひとつだけの点。
そして、温室の入口近くには、水で滲んだ来訪者用カード。
そこに残っていた文字。
――水原。
嫌な情報ばかりが積み上がっていく。
「毒性植物って、何ですか」
江口が訊くと、蛍は少し考えた。
「現場に落ちていた葉なら、たぶんキョウチクトウです」
「キョウチクトウ」
「街路樹にもあります。毒があります」
「それで人が死ぬんですか」
「量と摂取方法によります」
蛍は淡々と答える。
こういう時の蛍は、大学生というより研究者の顔になる。
「ただ、葉が落ちていたからといって、それが死因とは限りません」
「警察には?」
「話しました」
「疑われませんでした?」
「疑われたと思います」
「でしょうね」
江口は額に手を当てた。
「だって君、植物研究室所属で、毒草に詳しくて、被害者と口論してて、第一発見者で、しかも現場に君の過去の事件を連想させるものがあるんでしょう」
「はい」
「最悪じゃないですか」
「はい」
「はいじゃないんですよ」
江口は思わず声を強めた。
近くにいた警察官がちらりとこちらを見たため、慌てて声を落とす。
「君は、どうして僕を呼んだんです」
蛍はすぐには答えなかった。
雨に濡れた前髪が、目元にかかっている。
その顔は、二十歳になった今でも、どこか少年のままだった。
「先生は」
蛍は言った。
「僕を信じるとは言わないでしょう」
江口は黙る。
「言わないですね」
「だから呼びました」
「……普通、逆じゃないですか」
「信じるって言われると、嘘っぽいので」
「ひねくれてますね」
「先生の元教え子なので」
「僕の責任にしないでください」
蛍は少しだけ笑った。
しかし、その笑みはすぐ消えた。
「先生は、僕が間違っていたら止めるでしょう」
「止めます」
「僕が嘘をついていたら、怒るでしょう」
「怒ります」
「でも、最初から“君は犯人じゃない”とは言わない」
「言いません」
「だから、呼びました」
江口はため息をついた。
嬉しくもあり、面倒でもあった。
この関係を、何と呼べばいいのか今でもわからない。
元教師と元教え子。
年の離れた友人。
互いの黒歴史を少し知っている相手。
どれも正しいが、どれも足りない。
「わかりました」
江口は言った。
「じゃあ聞きます」
「はい」
「君は、相沢さんを殺しましたか」
蛍は江口を見た。
その目に、驚きはなかった。
むしろ、その問いを待っていたように見えた。
「殺してません」
「嘘では?」
「嘘ではありません」
「証明できますか」
「できません」
「アリバイは」
「ありません」
「最悪ですね」
「さっきも聞きました」
「何度でも言います」
江口は腕を組んだ。
蛍は少し視線を落とした。
「でも、殺してません」
「なら、それを前提に考えます」
蛍が顔を上げる。
「信じるんですか」
「前提にするだけです」
「先生らしいですね」
「便利でしょう」
「はい」
蛍は、今度こそ少しだけ安心した顔をした。
◆
午前二時半を過ぎた頃、一人の男が温室から出てきた。
背が高く、痩せた男だった。三十代後半くらいに見える。紺色のコートを羽織り、雨の中でも姿勢が崩れない。
眼鏡の奥の目は細く、表情は読みづらい。
その男は蛍を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「榛名くん」
蛍がわずかに身体を固くした。
江口はその反応を見逃さなかった。
「教授ですか」
小声で訊くと、蛍は頷いた。
「准教授です。柿沼先生」
柿沼怜司。
京東大学理学部植物生態学研究室の准教授。
江口は名前を覚えた。
柿沼は二人の前で足を止めた。
「警察への説明は終わったのかい」
「一応は」
蛍が答える。
柿沼は江口を見た。
「こちらは?」
「江口先生です」
「先生?」
「中学時代の担任です」
柿沼は一瞬だけ眉を動かした。
「この時間に、元担任を呼んだのか」
「はい」
「君らしいと言うべきか、君らしくないと言うべきか」
その言い方に、江口は少し引っかかった。
相手を知っているようで、距離を置いている。
研究室の指導教員としては自然かもしれないが、どこか冷たい。
柿沼は江口へ軽く頭を下げた。
「柿沼です。榛名くんがご迷惑をおかけしました」
「迷惑というか、巻き込まれました」
江口が言うと、蛍が小さく咳払いした。
柿沼は薄く笑った。
「正直な方ですね」
「教師なので」
「教師の方は、むしろ正直でない印象がありますが」
「それは否定しづらいです」
柿沼は、少しだけ江口を見る目を変えた。
「榛名くん」
柿沼は再び蛍に向き直った。
「今日はもう帰りなさい」
「でも」
「警察には私から説明する。君がここに残っても、できることはない」
「相沢さんの研究データは」
「警察が押収するだろう」
「温室の管理記録は」
「それも提出する」
柿沼の返答は早い。
事務的で、隙がない。
蛍は黙った。
柿沼は少し声を低くする。
「榛名くん。君は今、冷静に見えて冷静ではない」
「……はい」
「十三年前のことと結びつけて考えるのは危険だ」
江口は思わず柿沼を見た。
この男は知っている。
蛍の過去を。
少なくとも、十三年前の事件を知っている。
研究室の指導教員なら当然かもしれない。
だが、それにしては言い方が近すぎた。
「柿沼先生」
蛍が口を開いた。
「相沢さんは、僕の事件を調べていました」
「そのようだね」
「知っていたんですか」
「少し前から、彼が余計なことをしているのは知っていた」
蛍の目がわずかに揺れた。
「なぜ止めなかったんですか」
「研究室内の人間関係に、どこまで介入すべきかは難しい」
「僕に言ってくれてもよかった」
「言えば、君はもっと気にしただろう」
「今より?」
蛍の声が少し硬くなった。
江口は二人の間に流れる空気の変化を感じた。
これは単なる指導教員と学生の会話ではない。
もっと深い、別の何かがある。
柿沼は小さく息を吐いた。
「榛名くん、今日は帰りなさい」
その言葉は穏やかだったが、命令に近かった。
蛍は黙る。
江口はそこで口を挟んだ。
「僕が送ります」
蛍がこちらを見る。
柿沼も、江口を見た。
「あなたが?」
「はい。呼ばれたので」
「元担任とはいえ、そこまでされる義務はないでしょう」
「義務で来てたら、途中で帰ってます」
柿沼は数秒、江口を見つめた。
やがて、薄く笑った。
「なるほど。榛名くんが呼んだ理由が少しわかりました」
「僕にはまだわかりませんけどね」
「わからないまま動ける人間は、案外少ない」
柿沼はそう言い残し、温室の方へ戻っていった。
その背中を見ながら、江口は訊いた。
「今の人、どこまで知ってるんです」
「たぶん、僕が話した以上のことを」
「なぜ」
「柿沼先生は、僕の父の研究室にいた人です」
江口は振り返った。
「君のお父さんの?」
「はい」
蛍は静かに言った。
「十三年前、父は京東大学の植物研究者でした」
◆
その情報は、江口にとって初耳ではなかった。
四年前の雨のファミレスで、蛍は確かに言っていた。
父は植物の研究者だった。
京東大学にいた。
研究ノートは、火事でほとんど燃えた。
水原という名前の企業が関わっていたかもしれない。
江口はその夜のココアの湯気を思い出した。
蛍の濡れた前髪。
部屋へ入れなかった高校生。
水原バイオテック。
忘れていたわけではない。
ただ、日常の奥に沈んでいた。
それが今、雨に濡れて浮かび上がってくる。
「水原って名前に、心当たりありますか」
江口が訊くと、蛍は少し顔を上げた。
「どうして」
「温室の入口に落ちていた来訪者カードに、そう書いてありました」
蛍の顔色が、さらに白くなった。
「水原」
「知ってるんですね」
「四年前、先生に話しました」
「覚えています」
蛍は目を伏せた。
「父の研究に関わっていた企業の名前です。水原バイオテック。今は社名が変わっているかもしれません」
「今日、誰かが来ていたんですか」
「警備員は、夕方に女性を見たと言っていました」
「研究室の人ではない?」
「少なくとも、僕は知りません」
江口は温室を見る。
赤色灯に染まるガラスの奥で、鑑識の白い手袋が動いている。
片羽の蝶。
毒性植物。
首元の赤い点。
自動灌水装置。
湿気で浮いた線。
水原という名前。
偶然にしては、要素が揃いすぎている。
「榛名くん」
「はい」
「相沢さんは、君の事件だけじゃなく、お父さんの研究も調べていたんじゃないですか」
蛍は答えなかった。
答えないことで、江口は理解した。
蛍も、同じことを考えている。
「相沢さんは、僕に言いました」
蛍がぽつりと言った。
「“君が思い出さないと、また誰かが死ぬ”と」
江口は息を止めた。
「それ、警察に言いました?」
「言いました」
「反応は?」
「刑事さんは、メモしていました」
「それだけ?」
「それだけです」
江口は頭を抱えたくなった。
相沢は何かに近づいていた。
そして殺された。
それを蛍の過去になぞらえるように、片羽の蝶が置かれていた。
だが、もし犯人が本当に蛍を陥れたいなら、なぜそんな複雑なものを置くのか。
単純に毒草を置くだけでいい。
口論の事実だけでいい。
第一発見者にするだけでいい。
片羽の蝶は、蛍を疑わせるためだけの道具ではない。
誰かに何かを思い出させるための道具だ。
江口はそう感じた。
「先生」
蛍が言った。
「僕、怖いです」
その言葉は、あまりにも小さかった。
江口は蛍を見る。
蛍は温室のガラスを見ていた。
「相沢さんが死んだことも怖い。でも、それより」
蛍は喉を鳴らした。
「自分が何を忘れているのかが怖いです」
江口は何も言えなかった。
七歳の記憶。
煙。
火。
家族の死。
片羽の蝶。
水原という名前。
忘れているのではない。
忘れなければ、生きられなかったのかもしれない。
「榛名くん」
「はい」
「無理に思い出さなくていいです」
蛍は江口を見た。
「でも、必要なら」
「必要でも、壊れながら思い出す必要はありません」
江口は少し強い声で言った。
「思い出すなら、壊れない範囲で。誰かが急かしてきても、従わなくていい」
「先生らしくないですね」
「そうですか」
「少し怒ってます」
「怒ってますよ」
「誰に?」
「相沢さんにも、犯人にも、君を急かす過去にも」
蛍は少し目を細めた。
「先生は、人が死ぬと先に怒る」
「悪い癖です」
「嫌いじゃないです」
雨が降り続いている。
温室のガラスを、細かい粒が叩く。
その音は、まるで誰かが内側から薄い文字を書いているようだった。
◆
その後、蛍はもう一度事情聴取に呼ばれた。
江口は少し離れたベンチで待った。
濡れたコートが重い。
眠気はあるはずなのに、頭は妙に冴えていた。
スマートフォンが震えた。
画面を見ると、二階堂壮也からのメッセージだった。
高校時代の同級生。
今は警視庁にいる。
江口は、事件に巻き込まれるたび、結局この男に頼ってしまう。
『今どこ?』
江口は短く返す。
『京東大学。温室で殺人。榛名蛍が第一発見者』
既読がつくのが早かった。
『最悪だね』
江口は思わず苦笑した。
同じことを自分も言った。
続けて、二階堂からメッセージが来る。
『被害者の名前は?』
『相沢遼介。京東大の院生』
『確認する。榛名くんは?』
『疑われてると思う』
『だろうね』
その後、少し間が空いた。
雨音だけが続く。
やがて、もう一通届いた。
『現場に来訪者カードか何か落ちてなかった?』
江口の手が止まった。
『なぜ知ってる』
『大学側の出入り記録に、夕方、外部企業の女性が入ってる。名前は水原佳乃』
江口は画面を見つめた。
水原佳乃。
水原。
四年前のファミレスで、蛍が口にした名前。
温室の入口で、雨水に滲んでいた名前。
それが、今、具体的な人間の名前になった。
『水原バイオテック関係?』
江口が送ると、二階堂の返事は少し遅れた。
『旧社名が水原バイオテック。現在はミズハラ・ライフサイエンス。植物由来成分の創薬研究で大きくなった会社』
江口は唇を噛んだ。
『榛名忠と関係は?』
『調べる。だけどたぶん、ある』
また一通。
『江口、榛名くんから目を離さないで』
江口は温室の方を見た。
蛍は警察官と話している。
白い顔。
濡れた髪。
血の残った袖口。
まるで、あの十三歳の少年がそのまま大人の身体だけを得たようだった。
『わかってる』
江口はそう返した。
◆
蛍が戻ってきたのは、午前三時を回った頃だった。
顔色は悪い。
だが倒れそうではない。
「帰れますか」
江口が訊くと、蛍は小さく頷いた。
「たぶん」
「君のたぶんは信用できません」
「先生のたぶんもです」
「お互い様ですね」
江口はタクシーアプリを開こうとした。
その時、蛍が言った。
「先生」
「はい」
「僕、また生き残りました」
江口は手を止めた。
その言葉は、雨の中に落ちた。
静かに。
だが、重く。
「相沢さんは死んだのに」
蛍は温室を見ていた。
「僕はまた、死体のそばに立っていました」
江口は胸の奥が熱くなるのを感じた。
怒りだった。
悲しみではない。
やはり、先に怒りが来た。
「榛名くん」
「はい」
「それは君の罪ではありません」
「そう言われると思いました」
「言いますよ。何度でも」
「先生は、信じるとは言わないのに、そこは言うんですね」
「そこは事実です」
蛍は少しだけ江口を見た。
「事実?」
「相沢さんを殺したのが君でないなら、君が生き残ったことは罪ではありません」
「もし、僕が何かを忘れているせいで相沢さんが死んだなら?」
「それも、君の罪ではありません」
「どうして言い切れるんですか」
「忘れないと生きられなかった子どもに、忘れた責任を負わせる大人は最低だからです」
蛍は黙った。
雨が、二人の間を細かく落ちていく。
やがて蛍は、ほんの少しだけ笑った。
「先生、やっぱり怒ってます」
「怒ってます」
「誰に?」
「今は、まだわかりません」
江口は温室を見た。
「でも、そのうちわかります」
◆
タクシーが来るまでの数分間、二人は軒下で雨を避けていた。
温室の入口では、鑑識の一人が透明な袋に標本ケースを入れている。
片羽の蝶。
銀色の縁。
右上の小さな傷。
内側に浮かんだ、湿気の線。
江口は目を凝らした。
その線は、もうほとんど消えかかっていた。
乾けば消える。
濡れれば戻る。
紙と同じだ。
いや、紙だけではない。
記憶も、そうなのかもしれない。
乾いた日常の中では消えている。
けれど、雨が降ると、過去が浮かぶ。
消したはずの筆圧のように。
焼けたはずの記録のように。
その時、温室の中から若い刑事の声が聞こえた。
「首元の赤い点、写真撮れてますか。虫刺されにしては不自然です」
江口は反射的にそちらを見た。
刑事は鑑識に向かって続ける。
「針孔かもしれません。灌水後に流れた可能性もあるので、周辺の水も採取してください」
蛍の肩がわずかに動いた。
江口はそれを見た。
針孔。
灌水後に流れた可能性。
水。
毒。
首元の一点。
キョウチクトウの葉は、見せるための小道具かもしれない。
そんな考えが、江口の頭をよぎった。
もちろん、この時点では何もわからない。
だが、ひとつだけ確かだった。
犯人は、植物毒を知っている。
温室の仕組みを知っている。
灌水装置が何を洗い流し、何を残すかを知っている。
そして、片羽の蝶が榛名蛍に何を思い出させるかも知っている。
江口は、ぞっとした。
これは偶発的な殺人ではない。
誰かが、蛍の過去を利用している。
十三年前に燃えたものを、もう一度燃やそうとしている。
◆
タクシーが到着した。
江口は蛍を後部座席に乗せ、自分も隣に座った。
行き先を告げると、車はゆっくり大学を出た。
窓の外で、温室の光が遠ざかっていく。
蛍は無言だった。
江口も、しばらく何も言わなかった。
車内には雨音と、ワイパーの規則的な音だけがあった。
「先生」
蛍が言った。
「はい」
「水原佳乃という人を、僕は知っているんでしょうか」
江口はすぐには答えなかった。
「わかりません」
「先生なのに?」
「先生でも、わからないことはあります」
「懐かしいですね」
「君が言わせたんでしょう」
蛍は少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐ消える。
「でも、名前を聞いた時、嫌な感じがしました」
「記憶ですか」
「わかりません」
蛍は窓の外を見た。
「声かもしれません」
「声?」
「昔、火事の夜に」
そこで言葉が止まった。
江口は息を詰める。
蛍は目を閉じた。
「誰かが言った気がします」
「何を」
蛍はしばらく黙っていた。
ワイパーが雨を払う。
一度。
二度。
三度。
やがて、蛍は小さく言った。
「余計なものを持って行くな」
江口の背筋が冷えた。
「誰の声ですか」
「わかりません」
「女性?」
蛍は目を開けた。
「たぶん」
水原佳乃。
女性。
水原バイオテック。
榛名忠の研究。
片羽の蝶。
余計なものを持って行くな。
江口は拳を握った。
雨の夜のファミレスで、蛍は言っていた。
父の研究ノートは、火事でほとんど燃えたと叔母から聞いた。
ほとんど。
全部ではない。
では、何が残ったのか。
誰がそれを持って行こうとしたのか。
誰が蛍から奪おうとしたのか。
「榛名くん」
「はい」
「今日はもう考えなくていいです」
「でも」
「明日考えましょう」
「先生も?」
「僕も」
蛍は少し黙った。
「なら、少しだけ眠ります」
「そうしてください」
蛍は窓にもたれた。
タクシーの中は暖かい。
雨音が遠くなる。
やがて、蛍の呼吸がわずかに深くなった。
眠ったのか、眠ったふりなのかはわからない。
江口は窓の外を見た。
雨に濡れた街灯が、線のように流れていく。
水を吸った記憶が、戻り始めている。
そう思った。
そして、それはたぶん、蛍にとって救いであると同時に、刃でもある。
◆
蛍の住むマンションに着いた時、空はまだ暗かった。
江口はエントランスまで付き添った。
蛍は立ち止まり、振り返る。
「先生」
「はい」
「黒歴史、まだ聞いてません」
「今それ言います?」
「二十歳になったので」
「最悪のタイミングですね」
「先生が約束しました」
「しましたけど」
蛍は少しだけ笑った。
「じゃあ、事件が終わったら聞きます」
江口はため息をついた。
「終わったら、ですね」
「はい」
「それまで、勝手に一人で抱え込まないでください」
「努力します」
「努力じゃ困ります」
「先生も、無理しないでください」
「努力します」
「努力じゃ困ります」
江口は苦笑した。
蛍は、その顔を少し見つめた後、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「寝てください」
「先生も」
「はい」
蛍がエレベーターへ向かう。
その背中を見送りながら、江口は思った。
四年前の雨の朝。
ファミレスを出た時と同じだ。
自分はまた、蛍を部屋へ入れず、しかし帰るまで付き添っている。
踏み込まない。
けれど、見捨てない。
それが正しいのか、今でもわからない。
だが、今の江口にできるのは、それだけだった。
◆
外へ出ると、雨はまだ降っていた。
江口はスマートフォンを取り出した。
二階堂から新しいメッセージが届いていた。
『水原佳乃、現在はミズハラ・ライフサイエンスの顧問。十三年前、榛名律の研究プロジェクトに関与していた可能性あり』
続けて、もう一通。
『相沢のパソコンから、榛名律の研究データに関するファイル名が見つかった。中身は削除済み。復元中』
江口は画面を見つめた。
さらに、三通目。
『ファイル名は「Lepidoptera_OneWing」』
英語は得意ではない。
だが意味はわかった。
鱗翅目。
蝶。
片羽。
片翼の蝶。
江口は目を閉じた。
十三年前に燃えたはずのものが、まだ燃え残っている。
そして誰かが、それを今も隠そうとしている。
雨が、スマートフォンの画面に落ちた。
文字が少し滲む。
江口は袖で画面を拭った。
消えた文字は、濡れると戻る。
燃えた過去は、水を吸うと形を取り戻す。
その時、江口はようやく理解した。
これは、蛍だけの事件ではない。
榛名忠の研究。
榛名灯里の標本。
榛名蛍の記憶。
相沢遼介の死。
水原佳乃の影。
すべてが、片羽の蝶の下でつながっている。
逃げたいと思った。
正直、今すぐ全部投げ出したい。
だが、それでも足は止まらない。
榛名蛍が、呼んだから。
それだけで、江口桜次郎にはもう十分だった。




