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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: 二条理|アコンプリス


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6/10

第六章 京東大学温室殺人

 警察車両の赤色灯は、雨に濡れた温室のガラスを断続的に染めていた。

 赤。

 黒。

 赤。

 黒。

 そのたびに、夜の植物たちの影が揺れた。

 京東大学の植物温室は、理学部棟のさらに奥、学生が普段あまり立ち入らない区域にあった。昼間なら、古びた研究施設に見えるだけだ。だが夜になると違う。ガラス壁の内側に密集した葉が黒く浮かび、外から見ると、巨大な水槽の中で何かが息をしているように見える。

 江口桜次郎は、その温室の外で立っていた。

 時刻は午前二時を過ぎている。

 雨は弱くなっていたが、止む気配はなかった。細かい雨粒が髪や肩に積もり、じわじわと体温を奪っていく。

 江口は濡れた前髪をかき上げた。

 目の前では、警察官たちが慌ただしく動いている。

 規制線が張られ、鑑識らしき人間がケースを持って温室へ入っていく。大学の警備員が何度も頭を下げ、若い制服警官に何か説明していた。

 江口はその一連の動きを、少し離れた場所から見ていた。

 自分がここにいる理由を、何度考えても説明できない。

 警察官ではない。

 大学関係者でもない。

 事件関係者ですらない。

 ただ、榛名蛍から連絡が来た。

 それだけだった。

 それだけで、江口は来てしまった。

 四年前の雨の夜もそうだった。

 十六歳の蛍が、自分のアパートの前に立っていた夜。

 あの時も、江口は正しい理由を探した。教師として。大人として。元担任として。だが結局、最後に残ったのは単純な感情だった。

 放っておけなかった。

 今も同じだ。

「江口先生」

 背後から声がした。

 振り返ると、榛名蛍が立っていた。

 白いシャツの袖口には、まだ血の跡が残っている。雨で少し滲んで、赤黒い影になっていた。

「事情聴取、終わったんですか」

「一度目は」

「一度目?」

「たぶん、また呼ばれます」

 蛍は淡々と言った。

 その顔色は、いつもよりさらに白い。

 目元には疲労がある。だが、怯えはなかった。

 そのことが江口には気になった。

 人が死んだ現場にいて、第一発見者になって、警察に話を聞かれている。

 普通ならもっと動揺する。

 だが蛍は静かだった。

 静かすぎる。

「榛名くん」

「はい」

「君、こういう時に落ち着きすぎなんですよ」

 蛍は少しだけ目を伏せた。

「落ち着いてるわけじゃありません」

「じゃあ?」

「固まってるだけです」

 江口は何も言えなかった。

 蛍は雨を見ていた。

「昔からです。怖い時ほど、動けなくなる」

 その言葉で、江口は十三歳の蛍を思い出した。

 保健室のベッド。

 ずれたシャツ。

 背中に広がる、蝶の片羽のような火傷痕。

 あの時も、蛍は泣かなかった。

 傷を見られても、声を荒げなかった。

 ただ静かに言った。

 ――片方しかないんです。だから飛べません。

 江口は小さく息を吐いた。

「被害者の名前は?」

「相沢遼介さん」

「研究室の人?」

「はい。博士課程の院生です」

「年齢は」

「二十八」

「君とは?」

「同じ研究室です」

「仲は?」

 蛍は少し黙った。

 その沈黙だけで、良くはなかったのだとわかる。

「悪かったんですか」

「特別悪かったわけではありません」

「じゃあ良かった?」

「それも違います」

「便利な答えですね」

「先生に似ました」

「僕のせいにしないでください」

 蛍は少しだけ口元を緩めた。

 それは笑顔と呼ぶには弱いものだったが、江口には十分だった。

 この子がまだ、完全には閉じていない証拠だと思えた。

「相沢さんは、僕のことを調べていました」

 蛍が言った。

 江口は顔を上げる。

「君のこと?」

「正確には、十三年前の事件のことです」

 雨音が、少し大きく聞こえた。

「榛名家一家惨殺事件」

 蛍はその言葉を、他人事のように言った。

 江口は眉をひそめる。

「なぜ、研究室の院生がそんなことを」

「わかりません」

「本人から聞いたんじゃないんですか」

「聞きました。でも答えませんでした」

 蛍は視線を温室へ向けた。

「今日の夕方、口論しました」

 江口の胸に、嫌な予感が走った。

「警察にも言いました?」

「言いました」

「内容は」

「相沢さんが、僕に言いました」

 蛍の声は変わらない。

 だが、その目だけが少し暗くなった。

「“君は本当に何も覚えていないのか”と」

     ◆

 温室の中は、まだ鑑識作業が続いていた。

 外からは内部がよく見えない。ガラスは雨と湿気で曇り、時折、人影だけがぼんやり映る。

 江口は、蛍から聞いた話を頭の中で整理していた。

 被害者、相沢遼介。

 京東大学理学部の植物系研究室に所属する博士課程の院生。

 専門は植物毒性と環境ストレス。

 死体は温室奥の熱帯植物区画で発見された。

 第一発見者は榛名蛍。

 現場には、片羽だけの蝶の標本。

 そして、毒性植物の葉。

 さらに、温室の自動灌水装置が事件前後に作動していた。

 床は濡れていた。

 だが、遺体の白衣の背中には不自然に乾いた部分があった。

 首元には、小さな赤い点。

 虫刺されにも、注射痕にも見える、ひとつだけの点。

 そして、温室の入口近くには、水で滲んだ来訪者用カード。

 そこに残っていた文字。

 ――水原。

 嫌な情報ばかりが積み上がっていく。

「毒性植物って、何ですか」

 江口が訊くと、蛍は少し考えた。

「現場に落ちていた葉なら、たぶんキョウチクトウです」

「キョウチクトウ」

「街路樹にもあります。毒があります」

「それで人が死ぬんですか」

「量と摂取方法によります」

 蛍は淡々と答える。

 こういう時の蛍は、大学生というより研究者の顔になる。

「ただ、葉が落ちていたからといって、それが死因とは限りません」

「警察には?」

「話しました」

「疑われませんでした?」

「疑われたと思います」

「でしょうね」

 江口は額に手を当てた。

「だって君、植物研究室所属で、毒草に詳しくて、被害者と口論してて、第一発見者で、しかも現場に君の過去の事件を連想させるものがあるんでしょう」

「はい」

「最悪じゃないですか」

「はい」

「はいじゃないんですよ」

 江口は思わず声を強めた。

 近くにいた警察官がちらりとこちらを見たため、慌てて声を落とす。

「君は、どうして僕を呼んだんです」

 蛍はすぐには答えなかった。

 雨に濡れた前髪が、目元にかかっている。

 その顔は、二十歳になった今でも、どこか少年のままだった。

「先生は」

 蛍は言った。

「僕を信じるとは言わないでしょう」

 江口は黙る。

「言わないですね」

「だから呼びました」

「……普通、逆じゃないですか」

「信じるって言われると、嘘っぽいので」

「ひねくれてますね」

「先生の元教え子なので」

「僕の責任にしないでください」

 蛍は少しだけ笑った。

 しかし、その笑みはすぐ消えた。

「先生は、僕が間違っていたら止めるでしょう」

「止めます」

「僕が嘘をついていたら、怒るでしょう」

「怒ります」

「でも、最初から“君は犯人じゃない”とは言わない」

「言いません」

「だから、呼びました」

 江口はため息をついた。

 嬉しくもあり、面倒でもあった。

 この関係を、何と呼べばいいのか今でもわからない。

 元教師と元教え子。

 年の離れた友人。

 互いの黒歴史を少し知っている相手。

 どれも正しいが、どれも足りない。

「わかりました」

 江口は言った。

「じゃあ聞きます」

「はい」

「君は、相沢さんを殺しましたか」

 蛍は江口を見た。

 その目に、驚きはなかった。

 むしろ、その問いを待っていたように見えた。

「殺してません」

「嘘では?」

「嘘ではありません」

「証明できますか」

「できません」

「アリバイは」

「ありません」

「最悪ですね」

「さっきも聞きました」

「何度でも言います」

 江口は腕を組んだ。

 蛍は少し視線を落とした。

「でも、殺してません」

「なら、それを前提に考えます」

 蛍が顔を上げる。

「信じるんですか」

「前提にするだけです」

「先生らしいですね」

「便利でしょう」

「はい」

 蛍は、今度こそ少しだけ安心した顔をした。

     ◆

 午前二時半を過ぎた頃、一人の男が温室から出てきた。

 背が高く、痩せた男だった。三十代後半くらいに見える。紺色のコートを羽織り、雨の中でも姿勢が崩れない。

 眼鏡の奥の目は細く、表情は読みづらい。

 その男は蛍を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。

「榛名くん」

 蛍がわずかに身体を固くした。

 江口はその反応を見逃さなかった。

「教授ですか」

 小声で訊くと、蛍は頷いた。

「准教授です。柿沼先生」

 柿沼怜司。

 京東大学理学部植物生態学研究室の准教授。

 江口は名前を覚えた。

 柿沼は二人の前で足を止めた。

「警察への説明は終わったのかい」

「一応は」

 蛍が答える。

 柿沼は江口を見た。

「こちらは?」

「江口先生です」

「先生?」

「中学時代の担任です」

 柿沼は一瞬だけ眉を動かした。

「この時間に、元担任を呼んだのか」

「はい」

「君らしいと言うべきか、君らしくないと言うべきか」

 その言い方に、江口は少し引っかかった。

 相手を知っているようで、距離を置いている。

 研究室の指導教員としては自然かもしれないが、どこか冷たい。

 柿沼は江口へ軽く頭を下げた。

「柿沼です。榛名くんがご迷惑をおかけしました」

「迷惑というか、巻き込まれました」

 江口が言うと、蛍が小さく咳払いした。

 柿沼は薄く笑った。

「正直な方ですね」

「教師なので」

「教師の方は、むしろ正直でない印象がありますが」

「それは否定しづらいです」

 柿沼は、少しだけ江口を見る目を変えた。

「榛名くん」

 柿沼は再び蛍に向き直った。

「今日はもう帰りなさい」

「でも」

「警察には私から説明する。君がここに残っても、できることはない」

「相沢さんの研究データは」

「警察が押収するだろう」

「温室の管理記録は」

「それも提出する」

 柿沼の返答は早い。

 事務的で、隙がない。

 蛍は黙った。

 柿沼は少し声を低くする。

「榛名くん。君は今、冷静に見えて冷静ではない」

「……はい」

「十三年前のことと結びつけて考えるのは危険だ」

 江口は思わず柿沼を見た。

 この男は知っている。

 蛍の過去を。

 少なくとも、十三年前の事件を知っている。

 研究室の指導教員なら当然かもしれない。

 だが、それにしては言い方が近すぎた。

「柿沼先生」

 蛍が口を開いた。

「相沢さんは、僕の事件を調べていました」

「そのようだね」

「知っていたんですか」

「少し前から、彼が余計なことをしているのは知っていた」

 蛍の目がわずかに揺れた。

「なぜ止めなかったんですか」

「研究室内の人間関係に、どこまで介入すべきかは難しい」

「僕に言ってくれてもよかった」

「言えば、君はもっと気にしただろう」

「今より?」

 蛍の声が少し硬くなった。

 江口は二人の間に流れる空気の変化を感じた。

 これは単なる指導教員と学生の会話ではない。

 もっと深い、別の何かがある。

 柿沼は小さく息を吐いた。

「榛名くん、今日は帰りなさい」

 その言葉は穏やかだったが、命令に近かった。

 蛍は黙る。

 江口はそこで口を挟んだ。

「僕が送ります」

 蛍がこちらを見る。

 柿沼も、江口を見た。

「あなたが?」

「はい。呼ばれたので」

「元担任とはいえ、そこまでされる義務はないでしょう」

「義務で来てたら、途中で帰ってます」

 柿沼は数秒、江口を見つめた。

 やがて、薄く笑った。

「なるほど。榛名くんが呼んだ理由が少しわかりました」

「僕にはまだわかりませんけどね」

「わからないまま動ける人間は、案外少ない」

 柿沼はそう言い残し、温室の方へ戻っていった。

 その背中を見ながら、江口は訊いた。

「今の人、どこまで知ってるんです」

「たぶん、僕が話した以上のことを」

「なぜ」

「柿沼先生は、僕の父の研究室にいた人です」

 江口は振り返った。

「君のお父さんの?」

「はい」

 蛍は静かに言った。

「十三年前、父は京東大学の植物研究者でした」

     ◆

 その情報は、江口にとって初耳ではなかった。

 四年前の雨のファミレスで、蛍は確かに言っていた。

 父は植物の研究者だった。

 京東大学にいた。

 研究ノートは、火事でほとんど燃えた。

 水原という名前の企業が関わっていたかもしれない。

 江口はその夜のココアの湯気を思い出した。

 蛍の濡れた前髪。

 部屋へ入れなかった高校生。

 水原バイオテック。

 忘れていたわけではない。

 ただ、日常の奥に沈んでいた。

 それが今、雨に濡れて浮かび上がってくる。

「水原って名前に、心当たりありますか」

 江口が訊くと、蛍は少し顔を上げた。

「どうして」

「温室の入口に落ちていた来訪者カードに、そう書いてありました」

 蛍の顔色が、さらに白くなった。

「水原」

「知ってるんですね」

「四年前、先生に話しました」

「覚えています」

 蛍は目を伏せた。

「父の研究に関わっていた企業の名前です。水原バイオテック。今は社名が変わっているかもしれません」

「今日、誰かが来ていたんですか」

「警備員は、夕方に女性を見たと言っていました」

「研究室の人ではない?」

「少なくとも、僕は知りません」

 江口は温室を見る。

 赤色灯に染まるガラスの奥で、鑑識の白い手袋が動いている。

 片羽の蝶。

 毒性植物。

 首元の赤い点。

 自動灌水装置。

 湿気で浮いた線。

 水原という名前。

 偶然にしては、要素が揃いすぎている。

「榛名くん」

「はい」

「相沢さんは、君の事件だけじゃなく、お父さんの研究も調べていたんじゃないですか」

 蛍は答えなかった。

 答えないことで、江口は理解した。

 蛍も、同じことを考えている。

「相沢さんは、僕に言いました」

 蛍がぽつりと言った。

「“君が思い出さないと、また誰かが死ぬ”と」

 江口は息を止めた。

「それ、警察に言いました?」

「言いました」

「反応は?」

「刑事さんは、メモしていました」

「それだけ?」

「それだけです」

 江口は頭を抱えたくなった。

 相沢は何かに近づいていた。

 そして殺された。

 それを蛍の過去になぞらえるように、片羽の蝶が置かれていた。

 だが、もし犯人が本当に蛍を陥れたいなら、なぜそんな複雑なものを置くのか。

 単純に毒草を置くだけでいい。

 口論の事実だけでいい。

 第一発見者にするだけでいい。

 片羽の蝶は、蛍を疑わせるためだけの道具ではない。

 誰かに何かを思い出させるための道具だ。

 江口はそう感じた。

「先生」

 蛍が言った。

「僕、怖いです」

 その言葉は、あまりにも小さかった。

 江口は蛍を見る。

 蛍は温室のガラスを見ていた。

「相沢さんが死んだことも怖い。でも、それより」

 蛍は喉を鳴らした。

「自分が何を忘れているのかが怖いです」

 江口は何も言えなかった。

 七歳の記憶。

 煙。

 火。

 家族の死。

 片羽の蝶。

 水原という名前。

 忘れているのではない。

 忘れなければ、生きられなかったのかもしれない。

「榛名くん」

「はい」

「無理に思い出さなくていいです」

 蛍は江口を見た。

「でも、必要なら」

「必要でも、壊れながら思い出す必要はありません」

 江口は少し強い声で言った。

「思い出すなら、壊れない範囲で。誰かが急かしてきても、従わなくていい」

「先生らしくないですね」

「そうですか」

「少し怒ってます」

「怒ってますよ」

「誰に?」

「相沢さんにも、犯人にも、君を急かす過去にも」

 蛍は少し目を細めた。

「先生は、人が死ぬと先に怒る」

「悪い癖です」

「嫌いじゃないです」

 雨が降り続いている。

 温室のガラスを、細かい粒が叩く。

 その音は、まるで誰かが内側から薄い文字を書いているようだった。

     ◆

 その後、蛍はもう一度事情聴取に呼ばれた。

 江口は少し離れたベンチで待った。

 濡れたコートが重い。

 眠気はあるはずなのに、頭は妙に冴えていた。

 スマートフォンが震えた。

 画面を見ると、二階堂壮也からのメッセージだった。

 高校時代の同級生。

 今は警視庁にいる。

 江口は、事件に巻き込まれるたび、結局この男に頼ってしまう。

『今どこ?』

 江口は短く返す。

『京東大学。温室で殺人。榛名蛍が第一発見者』

 既読がつくのが早かった。

『最悪だね』

 江口は思わず苦笑した。

 同じことを自分も言った。

 続けて、二階堂からメッセージが来る。

『被害者の名前は?』

『相沢遼介。京東大の院生』

『確認する。榛名くんは?』

『疑われてると思う』

『だろうね』

 その後、少し間が空いた。

 雨音だけが続く。

 やがて、もう一通届いた。

『現場に来訪者カードか何か落ちてなかった?』

 江口の手が止まった。

『なぜ知ってる』

『大学側の出入り記録に、夕方、外部企業の女性が入ってる。名前は水原佳乃』

 江口は画面を見つめた。

 水原佳乃。

 水原。

 四年前のファミレスで、蛍が口にした名前。

 温室の入口で、雨水に滲んでいた名前。

 それが、今、具体的な人間の名前になった。

『水原バイオテック関係?』

 江口が送ると、二階堂の返事は少し遅れた。

『旧社名が水原バイオテック。現在はミズハラ・ライフサイエンス。植物由来成分の創薬研究で大きくなった会社』

 江口は唇を噛んだ。

『榛名忠と関係は?』

『調べる。だけどたぶん、ある』

 また一通。

『江口、榛名くんから目を離さないで』

 江口は温室の方を見た。

 蛍は警察官と話している。

 白い顔。

 濡れた髪。

 血の残った袖口。

 まるで、あの十三歳の少年がそのまま大人の身体だけを得たようだった。

『わかってる』

 江口はそう返した。

     ◆

 蛍が戻ってきたのは、午前三時を回った頃だった。

 顔色は悪い。

 だが倒れそうではない。

「帰れますか」

 江口が訊くと、蛍は小さく頷いた。

「たぶん」

「君のたぶんは信用できません」

「先生のたぶんもです」

「お互い様ですね」

 江口はタクシーアプリを開こうとした。

 その時、蛍が言った。

「先生」

「はい」

「僕、また生き残りました」

 江口は手を止めた。

 その言葉は、雨の中に落ちた。

 静かに。

 だが、重く。

「相沢さんは死んだのに」

 蛍は温室を見ていた。

「僕はまた、死体のそばに立っていました」

 江口は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 怒りだった。

 悲しみではない。

 やはり、先に怒りが来た。

「榛名くん」

「はい」

「それは君の罪ではありません」

「そう言われると思いました」

「言いますよ。何度でも」

「先生は、信じるとは言わないのに、そこは言うんですね」

「そこは事実です」

 蛍は少しだけ江口を見た。

「事実?」

「相沢さんを殺したのが君でないなら、君が生き残ったことは罪ではありません」

「もし、僕が何かを忘れているせいで相沢さんが死んだなら?」

「それも、君の罪ではありません」

「どうして言い切れるんですか」

「忘れないと生きられなかった子どもに、忘れた責任を負わせる大人は最低だからです」

 蛍は黙った。

 雨が、二人の間を細かく落ちていく。

 やがて蛍は、ほんの少しだけ笑った。

「先生、やっぱり怒ってます」

「怒ってます」

「誰に?」

「今は、まだわかりません」

 江口は温室を見た。

「でも、そのうちわかります」

     ◆

 タクシーが来るまでの数分間、二人は軒下で雨を避けていた。

 温室の入口では、鑑識の一人が透明な袋に標本ケースを入れている。

 片羽の蝶。

 銀色の縁。

 右上の小さな傷。

 内側に浮かんだ、湿気の線。

 江口は目を凝らした。

 その線は、もうほとんど消えかかっていた。

 乾けば消える。

 濡れれば戻る。

 紙と同じだ。

 いや、紙だけではない。

 記憶も、そうなのかもしれない。

 乾いた日常の中では消えている。

 けれど、雨が降ると、過去が浮かぶ。

 消したはずの筆圧のように。

 焼けたはずの記録のように。

 その時、温室の中から若い刑事の声が聞こえた。

「首元の赤い点、写真撮れてますか。虫刺されにしては不自然です」

 江口は反射的にそちらを見た。

 刑事は鑑識に向かって続ける。

「針孔かもしれません。灌水後に流れた可能性もあるので、周辺の水も採取してください」

 蛍の肩がわずかに動いた。

 江口はそれを見た。

 針孔。

 灌水後に流れた可能性。

 水。

 毒。

 首元の一点。

 キョウチクトウの葉は、見せるための小道具かもしれない。

 そんな考えが、江口の頭をよぎった。

 もちろん、この時点では何もわからない。

 だが、ひとつだけ確かだった。

 犯人は、植物毒を知っている。

 温室の仕組みを知っている。

 灌水装置が何を洗い流し、何を残すかを知っている。

 そして、片羽の蝶が榛名蛍に何を思い出させるかも知っている。

 江口は、ぞっとした。

 これは偶発的な殺人ではない。

 誰かが、蛍の過去を利用している。

 十三年前に燃えたものを、もう一度燃やそうとしている。

     ◆

 タクシーが到着した。

 江口は蛍を後部座席に乗せ、自分も隣に座った。

 行き先を告げると、車はゆっくり大学を出た。

 窓の外で、温室の光が遠ざかっていく。

 蛍は無言だった。

 江口も、しばらく何も言わなかった。

 車内には雨音と、ワイパーの規則的な音だけがあった。

「先生」

 蛍が言った。

「はい」

「水原佳乃という人を、僕は知っているんでしょうか」

 江口はすぐには答えなかった。

「わかりません」

「先生なのに?」

「先生でも、わからないことはあります」

「懐かしいですね」

「君が言わせたんでしょう」

 蛍は少しだけ笑った。

 だが、その笑みはすぐ消える。

「でも、名前を聞いた時、嫌な感じがしました」

「記憶ですか」

「わかりません」

 蛍は窓の外を見た。

「声かもしれません」

「声?」

「昔、火事の夜に」

 そこで言葉が止まった。

 江口は息を詰める。

 蛍は目を閉じた。

「誰かが言った気がします」

「何を」

 蛍はしばらく黙っていた。

 ワイパーが雨を払う。

 一度。

 二度。

 三度。

 やがて、蛍は小さく言った。

「余計なものを持って行くな」

 江口の背筋が冷えた。

「誰の声ですか」

「わかりません」

「女性?」

 蛍は目を開けた。

「たぶん」

 水原佳乃。

 女性。

 水原バイオテック。

 榛名忠の研究。

 片羽の蝶。

 余計なものを持って行くな。

 江口は拳を握った。

 雨の夜のファミレスで、蛍は言っていた。

 父の研究ノートは、火事でほとんど燃えたと叔母から聞いた。

 ほとんど。

 全部ではない。

 では、何が残ったのか。

 誰がそれを持って行こうとしたのか。

 誰が蛍から奪おうとしたのか。

「榛名くん」

「はい」

「今日はもう考えなくていいです」

「でも」

「明日考えましょう」

「先生も?」

「僕も」

 蛍は少し黙った。

「なら、少しだけ眠ります」

「そうしてください」

 蛍は窓にもたれた。

 タクシーの中は暖かい。

 雨音が遠くなる。

 やがて、蛍の呼吸がわずかに深くなった。

 眠ったのか、眠ったふりなのかはわからない。

 江口は窓の外を見た。

 雨に濡れた街灯が、線のように流れていく。

 水を吸った記憶が、戻り始めている。

 そう思った。

 そして、それはたぶん、蛍にとって救いであると同時に、刃でもある。

     ◆

 蛍の住むマンションに着いた時、空はまだ暗かった。

 江口はエントランスまで付き添った。

 蛍は立ち止まり、振り返る。

「先生」

「はい」

「黒歴史、まだ聞いてません」

「今それ言います?」

「二十歳になったので」

「最悪のタイミングですね」

「先生が約束しました」

「しましたけど」

 蛍は少しだけ笑った。

「じゃあ、事件が終わったら聞きます」

 江口はため息をついた。

「終わったら、ですね」

「はい」

「それまで、勝手に一人で抱え込まないでください」

「努力します」

「努力じゃ困ります」

「先生も、無理しないでください」

「努力します」

「努力じゃ困ります」

 江口は苦笑した。

 蛍は、その顔を少し見つめた後、静かに頭を下げた。

「ありがとうございました」

「寝てください」

「先生も」

「はい」

 蛍がエレベーターへ向かう。

 その背中を見送りながら、江口は思った。

 四年前の雨の朝。

 ファミレスを出た時と同じだ。

 自分はまた、蛍を部屋へ入れず、しかし帰るまで付き添っている。

 踏み込まない。

 けれど、見捨てない。

 それが正しいのか、今でもわからない。

 だが、今の江口にできるのは、それだけだった。

     ◆

 外へ出ると、雨はまだ降っていた。

 江口はスマートフォンを取り出した。

 二階堂から新しいメッセージが届いていた。

『水原佳乃、現在はミズハラ・ライフサイエンスの顧問。十三年前、榛名律の研究プロジェクトに関与していた可能性あり』

 続けて、もう一通。

『相沢のパソコンから、榛名律の研究データに関するファイル名が見つかった。中身は削除済み。復元中』

 江口は画面を見つめた。

 さらに、三通目。

『ファイル名は「Lepidoptera_OneWing」』

 英語は得意ではない。

 だが意味はわかった。

 鱗翅目。

 蝶。

 片羽。

 片翼の蝶。

 江口は目を閉じた。

 十三年前に燃えたはずのものが、まだ燃え残っている。

 そして誰かが、それを今も隠そうとしている。

 雨が、スマートフォンの画面に落ちた。

 文字が少し滲む。

 江口は袖で画面を拭った。

 消えた文字は、濡れると戻る。

 燃えた過去は、水を吸うと形を取り戻す。

 その時、江口はようやく理解した。

 これは、蛍だけの事件ではない。

 榛名忠の研究。

 榛名灯里の標本。

 榛名蛍の記憶。

 相沢遼介の死。

 水原佳乃の影。

 すべてが、片羽の蝶の下でつながっている。

 逃げたいと思った。

 正直、今すぐ全部投げ出したい。

 だが、それでも足は止まらない。

 榛名蛍が、呼んだから。

 それだけで、江口桜次郎にはもう十分だった。


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