第五章 雨のアパート
あれは、榛名が高校二年の十一月のことだった。
その年の秋は、雨が多かった。
江口桜次郎は、教師になって四年目を迎えていた。
二十五歳。
新任だった頃に比べれば、少しは教師らしくなったと思う。
生徒の名前を間違えなくなった。授業中に沈黙しても慌てなくなった。保護者面談で必要以上に緊張しなくなった。職員室で「コピー機が詰まりました」と叫ばなくなった。
ただし、コピー機が詰まらなくなったわけではない。
叫ばずに、黙って分解できるようになっただけだ。
だが、本質的な部分はあまり変わっていない。
相変わらず、自分が教師に向いているのかはわからなかった。
それでも続けている。
気づけば、そういう仕事になっていた。
夜十時過ぎ。
江口は狭いワンルームの机で、定期テストの採点をしていた。
コンビニのコーヒーは冷めている。赤ペンのインクが切れかけている。テレビは点けっぱなしだが、内容は頭に入っていない。
外では雨が降っていた。
細かい雨だった。
窓ガラスに絶え間なく粒がぶつかり、街灯の光を滲ませている。
江口は赤ペンを止め、肩を回した。
「……腰痛い」
二十五歳で言う台詞ではない。
だが教師という仕事は、思ったより身体を使う。
立ちっぱなし。
歩きっぱなし。
声を張りっぱなし。
採点中の答案には、『徳政令』を『特盛令』と書いた生徒がいた。
江口は思わず笑う。
「牛丼か」
その時だった。
インターホンが鳴った。
夜十時半。
こんな時間に誰だろうと思う。
宅配にしては遅い。同僚なら連絡を入れる。生徒が来る時間でもない。
江口は立ち上がった。
「はい」
インターホン越しに声をかける。
返事はなかった。
だが、微かな呼吸音だけが聞こえた。
江口は眉をひそめる。
「……誰ですか」
数秒後。
『先生』
小さな声。
江口は、一瞬でわかった。
榛名蛍だった。
◆
ドアを開けた瞬間、江口は言葉を失った。
蛍は、ずぶ濡れだった。
黒いパーカー。
細いジーンズ。
濡れた前髪が頬に張り付いている。
呼吸が少し荒い。
けれど、それ以上に目が静かだった。
静かすぎた。
「……榛名くん」
江口は思わず周囲を見た。
夜のアパート廊下には誰もいない。
蛍は立ったまま言った。
「こんばんは」
「こんばんはじゃないです」
江口は即答した。
「何してるんですか、こんな時間に」
「来ました」
「見ればわかります」
蛍は少しだけ目を細めた。
笑っているようにも見える。
だが顔色は悪い。
「どうしたんです」
「家を出ました」
江口の心臓が嫌な音を立てた。
「……は?」
「叔母と喧嘩しました」
「喧嘩?」
「はい」
「で、ここに来た?」
「はい」
蛍は淡々としていた。
その落ち着きが逆に怖い。
普通の高校生なら、もっと怒っているか、泣いているか、取り乱している。
だが蛍は静かだった。
静かに壊れている時の顔だった。
「榛名くん」
「はい」
「とりあえず、中に――」
そこまで言って、江口は止まった。
頭の中で、警報みたいなものが鳴る。
高校生。
元教え子。
未成年。
夜。
男の一人暮らし。
全部が最悪だった。
江口はドアノブを握ったまま固まる。
蛍は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
試されているわけではない。
助けを求めているわけでもない。
ただ、来てしまっただけ。
それがわかるから、余計に苦しい。
「……寒いでしょう」
江口はようやく言った。
「少し」
「傘は?」
「途中で壊れました」
「でしょうね」
パーカーから水が落ちている。
このまま立たせておくわけにはいかない。
だが、部屋へ入れるのもまずい。
江口は数秒、考えた。
その時間が、やけに長かった。
やがて、江口は部屋の奥からタオルを持ってくる。
ドアは半分だけ開けたまま。
「これ使ってください」
蛍はタオルを受け取った。
「先生」
「はい」
「入れないんですね」
責める声ではなかった。
確認するような声だった。
江口は喉を鳴らす。
「……ごめんなさい」
蛍は少しだけ目を伏せた。
江口は続ける。
「君が嫌とかじゃないです。そういう問題じゃなくて」
「わかってます」
「高校生でしょう、君」
「十六です」
「知ってます」
「未成年です」
「知ってます」
「元教え子です」
「知ってますって」
蛍は静かに頷いた。
「先生、ちゃんとしてますね」
その言葉が、なぜか痛かった。
ちゃんとしている。
本当にそうだろうか。
江口自身にはわからない。
ただ、間違えたくなかった。
蛍を助けるつもりで、別の傷を作るのが怖かった。
「とにかく」
江口は言った。
「ここには泊められません」
「はい」
「でも、このまま帰すのも無理です」
蛍は黙っている。
雨音だけが響く。
「近くのファミレス行きます」
江口は決めた。
「朝までなら付き合います」
◆
深夜のファミレスは、妙に明るい。
窓ガラスを雨が叩いている。
店内には、夜勤明けらしい作業服の男と、大学生のグループ、それから一人で参考書を広げている女子高生がいた。
江口と蛍は、一番奥のボックス席に座った。
蛍はホットココアを注文した。
江口はコーヒー。
店員が去った後、沈黙が落ちる。
蛍はタオルで髪を拭いていた。
「……で」
江口が口を開く。
「何があったんです」
蛍は少し考えるように視線を落とした。
「叔母が、大学進学の話をしました」
「大学?」
「はい」
「まだ高校二年でしょう」
「叔母は早いので」
蛍らしい返しだった。
「で、何で喧嘩に」
「京東大学に行きたいと言ったら、反対されました」
江口は少し驚いた。
京東大学。
国内でもかなりレベルの高い大学だ。
「成績的には行けそうなんですか」
「たぶん」
「すごいですね」
「先生の授業のおかげです」
「社会だけで受かる大学じゃありません」
蛍は少し笑った。
だが、その笑みはすぐ消えた。
「叔母は、家から出るなと言いました」
「心配なんでしょう」
「そうだと思います」
蛍はココアを見ていた。
「でも、僕は出たい」
江口は何も言わなかった。
「家にいると、息が詰まる時があります」
蛍の声は静かだった。
「叔母は悪い人じゃありません。ちゃんと食事も作るし、病院にも連れていくし、学校にも連絡してくれる」
「……はい」
「でも、ずっと見られてる感じがするんです」
江口は浅野の言葉を思い出す。
管理している感じがする。
「どこへ行くのか。誰と会うのか。何を考えてるのか。全部、把握されてる」
蛍はココアを一口飲んだ。
「先生」
「はい」
「僕、生き残った人間って、飼われやすいと思います」
江口は眉をひそめた。
「飼われる?」
「壊れないように、大事にされるので」
その言葉が、妙に胸に残った。
蛍は続ける。
「もちろん、悪意じゃないです。でも、大事にされすぎると、自分で歩けなくなります」
江口はコーヒーを飲む。
苦かった。
「……叔母さんには感謝してるんですよね」
「してます」
「でも苦しい」
「はい」
「それ、かなり普通のことだと思います」
蛍が顔を上げた。
「普通?」
「十六歳なんて、だいたい家族と揉めます」
「先生も?」
「高校の頃は、父親とほとんど口きいてませんでした」
「意外です」
「教師になった時、“本当にそんな仕事で食っていけるのか”って言われました」
「で、どうしたんです」
「家出しました」
蛍が少し目を見開く。
「先生が?」
「三日で帰りました」
「早いですね」
「財布に三千円しか入ってなかったので」
蛍は笑った。
今度は、少し長く。
江口はその顔を見て、少し安心する。
だが同時に、別の不安もあった。
このまま朝まで一緒にいて、本当にいいのか。
教師と生徒。
元担任と元教え子。
境界線はどこにあるのか。
江口にはまだわからない。
◆
午前一時。
ファミレスの客は減っていた。
蛍は窓の外を見ている。
雨はまだ止まない。
「先生」
「はい」
「僕、大学へ行ったら、植物をやりたいです」
「植物?」
「はい」
「意外ですね」
「そうですか?」
「もっと文学とか歴史かと」
蛍は少し考えた。
「植物って、静かなので」
「静か?」
「喋らないし、勝手に期待しない」
江口は苦笑した。
「だいぶ疲れてますね」
「そうかもしれません」
「でも、植物も意外と面倒ですよ」
「先生、育てたことあるんですか」
「サボテンを枯らしました」
「逆に難しいですね」
また笑う。
その笑い方が、以前より柔らかくなっている気がした。
「それに」
蛍はココアのカップを指でなぞった。
「父が、植物の研究をしていたので」
江口は少しだけ顔を上げた。
蛍の父親の話を、蛍自身の口から聞くのは珍しかった。
「お父さんが?」
「はい。京東大学にいました」
「……そうなんですか」
「先生、知らなかったんですね」
「知りませんよ。君、言わなかったでしょう」
「言いませんでした」
「では知りません」
蛍は小さく頷いた。
「父は、植物の毒と環境ストレスの研究をしていたそうです」
「毒?」
「植物が自分を守るために作る成分です。動物を遠ざけたり、虫に食べられないようにしたり」
「中学生向けに説明してくれてます?」
「先生向けです」
「失礼ですね」
「わかりやすかったでしょう」
「悔しいけど、はい」
蛍はまた少し笑った。
だが、次の瞬間には表情を消した。
「父の研究ノートは、火事でほとんど燃えたと聞いています」
「ほとんど?」
「叔母は、そう言いました」
「全部じゃなくて?」
蛍はカップを見下ろす。
「わかりません」
江口はそれ以上訊かなかった。
だが、その“ほとんど”という言葉は、どこかに引っかかった。
燃えたもの。
残らなかったもの。
紙。
水。
湿気で戻る線。
何かが、ほんの少しだけ繋がりかけていた。
もちろんこの時の江口は、それが何につながるのかなど知らなかった。
「父の研究には、企業も関わっていたそうです」
蛍がぽつりと言った。
「企業?」
「詳しくは知りません。叔母は、その話になると嫌な顔をします」
「名前は?」
蛍は首を傾げた。
「たしか、水原、という名前が入っていました」
「水原?」
「水原バイオテック。たぶん、そんな名前です」
江口はその言葉を繰り返しそうになって、やめた。
水原バイオテック。
深夜のファミレスの明るすぎる照明の下では、それはただの企業名にすぎなかった。
だが四年後。
雨の温室で、江口は床に落ちた来訪者用カードの滲んだ文字を見ることになる。
――水原。
この夜に聞いた名前が、濡れた紙の文字みたいに、記憶の奥から浮かび上がることになる。
◆
「先生」
「はい」
「僕、成人したら、先生と対等になれますか」
江口はコーヒーカップを持ったまま止まった。
予想していなかった問いだった。
「……何ですか急に」
「気になったので」
「何で」
「先生、ずっと先生だから」
蛍は真っ直ぐこちらを見ていた。
「僕が二十歳になっても、先生は先生ですか」
江口は答えに困る。
教師と生徒。
その関係は卒業で終わるのか。
年齢で変わるのか。
江口自身、考えたことがなかった。
「……対等って何ですか」
「わかりません」
「わからないんですか」
「でも、今は違う気がするので」
江口は苦笑した。
十六歳らしいような、らしくないような会話だ。
「まあ」
江口は少し考えてから言った。
「成人したら、少しくらいは対等かもしれません」
「少し」
「完全に対等は無理でしょう。君、たぶん一生“先生”って呼ぶので」
「それは呼びます」
「でしょうね」
蛍は少し黙った。
「じゃあ、成人したら何か変わりますか」
江口はコーヒーを飲み干した。
「……僕の黒歴史を聞く権利くらいはあげます」
蛍が瞬きをする。
「黒歴史」
「はい」
「ありますか」
「ありますよ。人並みに」
「聞きたいです」
「まだ早いです」
「二十歳になったら?」
「考えます」
蛍は少し笑った。
「約束ですね」
「そんな大層なものじゃありません」
「でも、先生、今ちゃんと覚えました」
その言い方に、江口は少しだけ嫌な予感を覚えた。
榛名蛍は、妙なことを覚えている。
人が忘れた頃に、静かに持ち出してくる。
そういうところがある。
◆
午前三時。
雨はようやく弱くなっていた。
江口はスマートフォンを見た。
「……そろそろ帰りますか」
蛍は窓の外を見た。
「帰りたくないです」
正直だった。
江口はため息をつく。
「でしょうね」
「先生」
「はい」
「僕、変ですか」
「どの部分です」
「全部」
江口は少し考えた。
「変な人間は、わざわざ自分を変か訊きません」
「じゃあ普通ですか」
「それも違います」
蛍は笑った。
「曖昧ですね」
「教師なので」
「便利な言葉ですね」
「最近気づきました」
沈黙。
蛍は窓ガラスについた雨粒を見ていた。
「先生」
「はい」
「僕、たぶん一人で生きるの下手です」
江口は何も言わなかった。
「でも、人と一緒にいるのも下手です」
蛍の声は静かだった。
「だから時々、どこにいればいいかわからなくなります」
江口は、その言葉を胸の中で繰り返した。
どこにいればいいかわからない。
たぶん蛍は、ずっとそうなのだ。
事件の後から。
家族を失ってから。
学校へ行けなくなってから。
周囲に“かわいそうな子”として見られるようになってから。
ずっと。
「榛名くん」
「はい」
「今は、ここにいます」
蛍が顔を上げる。
「ファミレスですけど」
「……はい」
「だから、とりあえず今日はそれで十分です」
蛍は少し黙った。
それから、小さく頷いた。
◆
朝五時過ぎ。
外が少し明るくなってきた。
雨は止んでいる。
江口は会計を済ませ、店を出た。
空気は冷たかった。
蛍は空を見上げた。
「朝ですね」
「そうですね」
「眠いです」
「でしょうね」
駅前の道を歩く。
通勤前の街は静かだった。
「家、帰れそうですか」
江口が訊くと、蛍は少し考えた。
「たぶん」
「叔母さん、心配してますよ」
「怒ってると思います」
「それはそうでしょう」
蛍は少し笑った。
江口は駅前で立ち止まる。
「ここからタクシー拾って帰ってください」
「先生」
「はい」
「ありがとうございました」
江口は頷く。
「もう家出はしないでください」
「努力します」
「努力じゃ困ります」
「先生」
「何です」
「昨日、部屋に入れなかったの、正しかったと思います」
江口は一瞬、言葉を失った。
「……そうですか」
「はい」
蛍は静かに言った。
「だから、先生を信用できます」
その言葉は、朝の冷たい空気の中で妙にまっすぐだった。
江口は返事ができなかった。
教師として正しかったのか。
人として正しかったのか。
今でもわからない。
ただ、蛍がそう言った。
それだけだった。
「先生」
「はい」
「二十歳になったら、黒歴史、聞きに行きます」
江口は思わず笑った。
「忘れてください」
「無理です」
「でしょうね」
蛍はタクシーへ向かう。
その背中を見送りながら、江口はふと思った。
この夜を、自分はたぶん忘れない。
雨の匂い。
深夜のファミレス。
ココアの湯気。
そして、部屋へ入れなかった高校生。
それは教師として正しい夜だったのかもしれない。
でも同時に、ひどく不器用な夜だった。
◆
四年後。
京東大学の温室で。
片羽の蝶を見た蛍は、真っ先に江口へ連絡した。
それはたぶん、あの夜があったからだった。
泊めなかった。
だから信用した。
その関係を、江口はまだうまく説明できない。
ただ一つだけわかる。
あの雨の夜、二人は少しだけ対等に近づいた。
教師と生徒ではなく。
傷を抱えた人間同士として。
そしてもう一つ。
あの夜、蛍が口にした“父の研究”という言葉も、江口の記憶の奥に残った。
植物。
毒。
燃えた研究ノート。
京東大学。
水原バイオテック。
それらは七年後、雨の温室で、片羽の蝶の標本ケースとともに再び江口の前へ戻ってくる。
濡れた紙に消えた筆圧が浮かぶように。
燃えたはずの過去が、水を吸って、もう一度形を取り戻すように。




