第四章 江口先生の授業だけ
体育祭が終わると、学校は急に静かになる。
あれほど廊下を満たしていた応援練習の声も、校庭に響いていた笛の音も、翌週には嘘のように消えていた。
代わりに戻ってくるのは、いつもの学校だった。
朝のチャイム。
提出物を忘れた生徒の言い訳。
廊下を走る足音。
黒板消しの粉。
給食の匂い。
放課後の部活動の声。
江口桜次郎は、その日常に少し慣れ始めていた。
新任教師として赴任して二か月。
相変わらず忘れ物は多い。職員室のコピー機には嫌われている。学年主任の須藤には毎日のように小言を言われている。生徒に「先生、目の下のクマすごいですよ」と心配され、「これは教師の標準装備です」と返して本気で引かれたこともある。
それでも、四月に比べればましだった。
生徒の名前も覚えた。
誰が授業中に寝るかもわかってきた。誰が「わかりません」と言う時、本当にわかっていないのか、考えるのが面倒なだけなのかも少しずつ見分けられるようになった。
そして、榛名蛍が教室へ来る日も、なんとなくわかるようになっていた。
月曜日の朝は来ない。
雨の日は来ることがある。
体育がある日はほとんど来ない。
社会科が三時間目にある日は、二時間目の途中に現れる。
理由は知らない。
だが、蛍は江口の授業にだけは出る。
それはもう、偶然とは言えなかった。
◆
その日の社会科は、復習で鎌倉時代の終わりを扱う予定だった。
元寇。
御家人の困窮。
鎌倉幕府の衰退。
中学生にとっては退屈な単元かもしれない。
江口は職員室でプリントを確認していた。
余白に、ひとつだけ問いを入れてある。
――生き残った人間は、勝った人間なのか。
書いた時、自分でも少し踏み込みすぎたと思った。
歴史の授業としては、少し抽象的すぎる。受験には出ない。テストにも使えない。
だが、消せなかった。
榛名蛍が何を書くのか、知りたいと思ってしまった。
それは教師として正しい関心なのか。
それとも、ただの好奇心なのか。
江口にはまだ、その区別がつかなかった。
「江口先生」
隣から声をかけられた。
浅野だった。
「今日、二組の社会?」
「はい」
「榛名くん、来てるみたいよ」
江口は顔を上げた。
「来てますか」
「さっき廊下で見た。相変わらず幽霊みたいに歩いてたけど」
「本人に言わないでくださいね」
「言わないわよ。失礼ね」
浅野は笑った。
「でも、最近少し表情が変わった気がする」
「そうですか?」
「うん。前は、学校に来るたびに“ここにいてはいけない”って顔をしてた」
江口は黙る。
「今は、少しだけ“いてもいいかもしれない”って顔になった」
浅野は何気なく言ったのだろう。
だが江口には、その言葉が妙に重く響いた。
いてもいいかもしれない。
十三歳の子どもが、そう思うまでにどれほどの時間が必要だったのか。
江口には想像できなかった。
「先生、無理してない?」
浅野が言った。
「僕ですか」
「榛名くんのこと、抱え込みすぎてないかなって」
「抱え込めるほど、立派じゃないですよ」
「そういう人ほど抱え込むの」
「怖いこと言わないでください」
江口は苦笑した。
浅野は湯呑みを持ち直し、少しだけ声を落とす。
「でも、江口先生の授業にだけ出るっていうのは、あの子にとって大きいことだと思う」
「僕の授業が面白いからですかね」
「そういう冗談で逃げるところ、悪くないけど」
「逃げてます?」
「逃げてる」
即答された。
江口は言葉に詰まった。
浅野は笑ったが、その目は少し真面目だった。
「でも、逃げながらでも残ってくれる大人って、子どもには案外ありがたいのかもね」
江口は返事をしなかった。
返事をすれば、何かを認めてしまいそうだった。
◆
三時間目。
二年二組の教室に入ると、蛍は窓際の一番後ろの席にいた。
白い顔。
細い指。
開かれた教科書。
視線は窓の外に向いている。
江口は出席簿を開いた。
「榛名」
「はい」
静かな返事。
その瞬間、隣の男子生徒が小さく蛍を見た。
蛍は気づいていないふりをしていた。
いや、気づいている。
気づいた上で、反応しないことに慣れている。
「今日の授業は、鎌倉幕府の終わりの復習です」
江口は黒板に文字を書いた。
チョークの音が教室に響く。
鎌倉幕府の滅亡。
書いた後、江口は振り返った。
「幕府が滅びた理由、覚えている人」
手は挙がらない。
いつものことだった。
「じゃあ、佐伯」
「え、俺ですか」
「君です」
「えーっと……源頼朝が死んだから?」
「それはだいぶ前ですね」
教室に笑いが起きた。
江口も笑った。
「まあ、間違いではありません。源頼朝が作った武士の政権が、いろいろあって終わるわけです」
「いろいろって何ですか」
女子生徒が訊いた。
「それを今からやります」
江口はプリントを配った。
最後列まで回った時、蛍の机にも置く。
蛍はプリントの余白を見た。
そして、わずかに眉を動かした。
問いに気づいたのだ。
――生き残った人間は、勝った人間なのか。
江口は何も言わなかった。
授業を進める。
元寇で恩賞を与えられなかった御家人。
借金に苦しむ武士。
徳政令。
幕府への不満。
教室の半分は眠そうだった。
それでも江口は続けた。
「歴史の教科書には、勝者の名前が多く残ります。戦に勝った人、政権を作った人、土地を手に入れた人」
黒板に、勝者、と書く。
「でも、実際には、勝ったか負けたかわからない人間もたくさんいます」
生徒たちが少し顔を上げる。
「たとえば、戦から帰ってきた人」
江口は続けた。
「その人は生き残っています。だから勝者に見えるかもしれない。でも、家族を失っていたら? 家を失っていたら? 自分だけ帰ってきたことを、一生責め続けることになったら?」
教室が静かになった。
言ってから、江口は少し後悔した。
蛍の方は見ない。
見てはいけない。
これは授業だ。
榛名蛍一人に向けた言葉ではない。
そう自分に言い聞かせる。
「生き残った人間は、必ずしも勝者ではありません」
江口は黒板に書いた。
生存=勝利?
「でも、負けたとも限らない」
チョークを置いた。
「ここ、今日の宿題にします」
「えー」
教室中から不満の声が上がった。
「生き残った人間は、勝った人間なのか。五行以上で書いてください」
「先生、社会じゃなくて道徳じゃん」
「社会です。歴史は人間がやったことなので」
「テストに出ますか」
「出ません」
「じゃあやらなくていいですか」
「提出点にします」
また不満の声が上がる。
その中で、蛍だけが黙ってプリントを見ていた。
◆
授業後、蛍はすぐには教室を出なかった。
他の生徒たちが給食の準備で騒ぎ始める中、席に座ったままプリントの余白を見ている。
江口は黒板を消していた。
蛍が立ち上がったのは、教室の中がほとんど空になった頃だった。
「先生」
小さな声。
江口は振り返る。
「はい」
「今日の宿題」
「何ですか。難しすぎました?」
「難しいです」
「正直ですね」
「答えがないので」
「答えがない問題もあります」
「学校なのに?」
「学校だからです」
蛍は少し考えるように黙った。
そして言った。
「じゃあ、生き残っただけの人は、何をすればいいんですか」
江口は、言葉を失った。
その問いは、授業の延長ではなかった。
榛名蛍自身の問いだった。
七歳で家族を失い、背中に片羽の火傷痕を残し、叔父叔母の家で暮らし、昼間の学校に来られず、それでも江口の授業にだけ顔を出す十三歳の少年が、真正面から投げてきた問いだった。
生き残っただけの人は、何をすればいいのか。
江口は答えられなかった。
教師として何か言うべきだった。
立派なことを言うべきだった。
生きているだけで意味がある、とか。
これから幸せになればいい、とか。
亡くなった人の分まで生きればいい、とか。
そういう言葉はいくつも思いついた。
だが、どれも使えなかった。
あまりにも軽い。
蛍の前に置いた瞬間、全部割れてしまいそうだった。
「……わかりません」
江口は正直に言った。
蛍が瞬きをする。
「先生なのに?」
「先生でも、わからないことはあります」
「いいんですか、それで」
「よくはないです」
江口は黒板消しを置いた。
「でも、わかったふりをするよりはましかなと」
蛍は江口を見ていた。
その目は責めていなかった。
ただ、じっと観察している。
「じゃあ、先生も考えてください」
「何を」
「生き残っただけの人が、何をすればいいのか」
蛍はプリントを折りたたんだ。
「僕も考えます」
そう言って、教室を出て行った。
江口はしばらく、その場に立っていた。
給食当番の生徒が廊下から顔を出す。
「先生、筆箱忘れてます」
「あ、すみません」
江口は慌てて筆箱を受け取った。
だが頭の中では、蛍の声が残っていた。
生き残っただけの人は、何をすればいいのか。
そんなことを、十三歳の子どもに考えさせてはいけない。
江口はそう思った。
同時に、もう考えてしまっているのだとも思った。
蛍はずっと、その問いの中で生きている。
◆
次の日の放課後、江口は提出された宿題プリントを職員室で読んでいた。
大半の生徒は、予想通り適当だった。
『生き残った人は勝った人だと思います。なぜなら死んでないからです』
単純だが、ある意味正しい。
『戦争では生きて帰ることが大事なので勝ちだと思う』
これも正しい。
『でも家族が死んでたら悲しいので勝ちじゃない』
少し踏み込んでいる。
『生き残った人がその後に何をしたかで決まると思う』
江口は赤ペンで丸をつけた。
そして、最後に蛍のプリントが出てきた。
蛍の字は小さい。
整っているが、どこか余白を恐れているような字だった。
江口は読み始めた。
『生き残った人間は、勝った人間ではないと思います。勝ったと言われると、死んだ人が負けたみたいになるからです。でも、負けた人間でもないと思います。負けたと言われると、生きていることが間違いみたいになるからです。だから、生き残った人間は、勝っても負けてもいない場所に置かれるのだと思います。そこはたぶん、とても静かです。周りの人は、そこに名前をつけたがります。かわいそう、強い、奇跡、被害者、生存者。でも本人は、そのどれでもない時があります。僕はまだ、そこからどう歩けばいいのかわかりません』
江口は赤ペンを持ったまま固まった。
職員室のざわめきが遠くなる。
この文章に、どんな評価をつければいいのか。
丸か。
二重丸か。
花丸か。
どれも違う。
これは宿題の答えではない。
蛍の現在地だった。
江口は赤ペンを置いた。
しばらく考えてから、余白に短く書いた。
『先生も考えます』
それ以上は書けなかった。
その時、机の端で湯呑みが倒れた。
「あ」
江口は慌てて手を伸ばす。
中身はほとんど入っていなかったが、数滴の茶がプリントの端に落ちた。
蛍のプリントではなかった。
別の生徒のものだった。
それでも江口は焦った。
湿った紙の繊維がふくらみ、うっすらと裏写りした文字が浮く。
江口はそれを見て、妙なことを思った。
紙は濡れると、隠れていたものを浮かび上がらせる。
普段は見えない筆圧の跡。
消したはずの線。
裏に書かれた文字。
残らなかったものが、水を吸うと戻ってくる。
江口は、その小さな現象をなぜか覚えていた。
理由はわからない。
ただ、数年後。
雨の夜の温室で、片羽の蝶を閉じ込めた標本ケースの内側に薄い文字が浮いた時、江口はこの時の濡れたプリントを思い出すことになる。
◆
翌日、蛍は学校へ来なかった。
その次の日も来なかった。
江口は、返却できないプリントを机の引き出しに入れた。
三日目の夜。
江口はまた学校近くの住宅街で蛍を見かけた。
街灯の下。
蛍はしゃがみ込んでいた。
前と同じように、地面を見ている。
江口は少し迷ってから声をかけた。
「また蛾ですか」
蛍は振り返らなかった。
「今日は蝶です」
「夜に?」
「死んでます」
江口は近づいた。
アスファルトの上に、小さな蝶が落ちていた。
羽は片方が破れている。
街灯の光を受けて、白っぽく見えた。
「触らない方がいいですよ」
「触りません」
蛍は立ち上がった。
今日は制服ではなかった。
黒いパーカーに、細いジーンズ。
夜の中に溶け込むような格好だった。
「先生、帰りですか」
「はい。君は散歩?」
「たぶん」
「たぶん?」
「家にいるより、外の方が楽なので」
江口は何も言わなかった。
蛍の“家”は、叔父叔母の家だ。
丁寧な叔母。
管理されている生活。
そのことを思い出す。
「プリント、返せてません」
江口が言うと、蛍は少しこちらを見た。
「僕の?」
「はい」
「点数、悪かったですか」
「点数つけてません」
「どうして」
「つけるものじゃない気がしたので」
蛍は少し黙った。
「先生、そういうところ、教師っぽくないですね」
「最近よく言われます」
「でも、嫌いじゃないです」
江口は苦笑した。
「それも前に聞きました」
「何回でも言います」
「照れますね」
「先生は、照れると雑になりますね」
「観察しないでください」
蛍はほんの少し笑った。
江口はその顔を見て、なぜか安心する。
夜の街灯の下でしか笑えない子ども。
そう思った瞬間、胸が少し痛んだ。
「榛名くん」
「はい」
「昼間、学校に来るのはしんどいですか」
「しんどいです」
即答だった。
「人が多いので」
「音?」
「音も。光も。匂いも」
蛍は足元の蝶を見た。
「それから、視線」
江口は頷いた。
「みんな、見ないふりをするのが上手いです」
「……そうですね」
「でも、見ないふりをしている人って、見ている人よりわかりやすいです」
十三歳の言葉としては、やはり重すぎる。
だが江口は、もうそれを口には出さなかった。
「先生」
「はい」
「僕、授業にだけ出てもいいですか」
「授業?」
「先生の社会だけ」
江口は驚いた。
「なぜ僕の授業だけなんです」
蛍は少し考えた。
「先生は、答えられない時に答えないので」
「それ、褒めてます?」
「はい」
「教師としては微妙ですね」
「人間としては、少し信用できます」
江口は返す言葉に困った。
蛍は続ける。
「みんな、僕に答えをくれます。元気になりなさいとか、無理しなくていいとか、前を向きなさいとか、生きていてよかったとか」
蛍は街灯を見上げた。
「でも、僕がほしいのは答えじゃない時があります」
「じゃあ、何がほしいんですか」
「問いです」
江口は蛍を見る。
「考えてもいい問いがほしいです」
蛍の声は静かだった。
「事件のことを考えると、周りは止めます。家族のことを話すと、みんな困ります。生き残ったことを考えると、かわいそうな顔をされます」
蛍は江口に視線を戻した。
「でも、先生の授業の問いなら、考えても怒られない気がします」
江口は何も言えなかった。
自分の授業が、蛍にとってそんな場所になっているとは思わなかった。
ただの社会科。
テストに出る年号。
政権の名前。
戦の流れ。
文化の特徴。
その中に、蛍は自分が考えてもいい余白を見つけていた。
江口は、少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
「わかりました」
江口は言った。
「じゃあ、来られる時だけ来てください」
「来ない日が多くても?」
「その分のプリントは残します」
「席も?」
「席も」
「先生が異動したら?」
「まだ赴任二か月なので、異動の心配は早いです」
「でも、いつかいなくなります」
蛍の声は淡々としていた。
江口はその言葉の奥にあるものを感じた。
この子は、いなくなることを前提に人を見る。
家族を失ったからか。
大人に期待しないようにしているからか。
江口にはわからない。
「いつかは、そうですね」
江口は正直に言った。
「でも、少なくとも今はいます」
蛍は江口を見た。
長い沈黙の後、小さく頷いた。
「それなら、今は来ます」
◆
翌週から、蛍は社会科の授業にだけ出るようになった。
ほかの授業には出ない日も、社会の時間になると教室の後ろの扉から静かに入ってくる。
生徒たちは最初こそ驚いたが、次第に慣れた。
榛名は社会だけ来る。
それが二年二組の中で、いつのまにか普通になった。
江口は、蛍用のプリントを毎回一枚余分に用意した。
欠席していても、机の中に入れておく。
来た日は渡す。
来ない日は残す。
それだけだ。
蛍はプリントの余白に、時々短い言葉を書いた。
――勝った人の記録には、負けた人の声は入らないのか。
――文化は、残したい人がいるから残るのか。
――燃えたものは歴史になれないのか。
江口はそれに短く返事を書いた。
――入らないことが多い。だから別の資料を探す。
――残したくない人が消すこともある。
――燃えたこと自体が記録になる場合もある。
それは授業というより、交換日記に近かった。
教師として適切なのかはわからない。
だが、蛍は少しずつ教室にいる時間を増やした。
それが答えだと、江口は勝手に思うことにした。
◆
六月の半ば。
期末テストの範囲表を配った日、蛍は授業後に江口のところへ来た。
「先生」
「はい」
「テスト、受けた方がいいですか」
「受けられるなら」
「受けなかったら?」
「成績がつけづらくなります」
「困りますか」
「僕が?」
「はい」
「少し」
蛍は考え込んだ。
「じゃあ受けます」
「僕が困るから?」
「はい」
「もっと自分のために受けてください」
「自分のためって、難しいです」
江口は返事に詰まる。
蛍は時々、こういうことを言う。
何気ない顔で、刃物みたいな言葉を置いていく。
「榛名くん」
「はい」
「難しくても、自分のために何かする練習はした方がいいです」
「先生もしてますか」
「……たまに」
「少ないですね」
「教師を追い詰めないでください」
蛍は少し笑った。
その顔を見て、江口は思う。
最初の頃より、笑うようになった。
ほんの少し。
本当に、よく見ていないとわからない程度に。
それでも変化だった。
「先生」
「はい」
「僕、社会だけなら少し好きです」
「それは嬉しいですね」
「歴史は嫌いです」
「え、今の流れで?」
「人が死にすぎるので」
江口は言葉を失う。
蛍は続けた。
「でも、死んだ人のことを、なかったことにしないところは好きです」
その言葉に、江口は何も言えなかった。
蛍は軽く頭を下げ、教室を出て行く。
その背中を見送りながら、江口はふと思った。
自分はこの子を救っているのではない。
そんな大層なことはできない。
ただ、少しだけ場所を作っている。
考えてもいい場所。
黙っていてもいい場所。
来ても来なくても、席がなくならない場所。
それだけだ。
それだけで、十分なのかはわからない。
だが今は、それしかできなかった。
◆
期末テスト当日、蛍は来た。
朝からではない。
二時間目の社会科のテストだけ受けに来た。
教室に入った瞬間、何人かが振り返った。
だがすぐに視線を戻す。
以前なら、もっとざわついていただろう。
江口はその変化に気づき、少しだけ胸が温かくなった。
テスト開始のチャイムが鳴る。
蛍は鉛筆を持ち、問題用紙を見下ろした。
五十分間、ほとんど手を止めなかった。
テスト後、答案を集める時、蛍は江口に小さく言った。
「先生」
「はい」
「自分のために受けました」
江口は少し驚き、それから頷いた。
「よくできました」
「子ども扱いですか」
「中学生なので」
「そうでした」
蛍はそう言って、少し笑った。
江口は、その笑顔を見た瞬間、なぜか泣きそうになった。
もちろん泣かなかった。
新任教師がテスト回収中に泣くのは、さすがにおかしい。
だがその日、江口は初めて思った。
教師になってよかったのかもしれない、と。
ほんの少しだけ。
◆
採点した答案の中で、蛍の点数は八十二点だった。
悪くない。
むしろ、授業にほとんど出ていないことを考えればかなり良い。
江口は答案の隅に丸をつけながら、最後の記述問題を読んだ。
問題はこうだった。
『歴史を学ぶ意味について、あなたの考えを書きなさい』
蛍の答えは短かった。
『いなくなった人を、いなかったことにしないため』
江口は赤ペンを止めた。
それ以上、何も書けなかった。
丸だけをつけた。
そして答案を閉じた。
窓の外では、梅雨の雨が降っていた。
細かい雨だった。
アスファルトに落ちても跳ね返らず、ただ静かに染み込んでいくような雨。
江口はその雨を見ながら、七年後のことなど何も知らなかった。
二十歳になった蛍が、京東大学の温室で再び“片羽の蝶”を見ることも。
夜中の一時に、自分へ連絡してくることも。
そして、蛍がこう言うことも。
――先生。僕、また生き残りました。
この時の江口は、何も知らなかった。
ただ、十三歳の少年が初めて自分のためにテストを受けたことを、少し嬉しく思っていただけだった。




