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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第三章 蝶の片羽

 榛名蛍が学校へ来るようになってから、二年二組の空気は少し変わった。

 大きく変わったわけではない。

 相変わらず男子は休み時間になると教室の後ろで騒ぎ、女子は机を寄せて小さな輪を作る。授業中に眠る生徒は眠るし、宿題を忘れる生徒は忘れる。江口桜次郎が社会科の小テストを配れば、教室のあちこちから不満の声が上がった。

 ただ、窓際の一番後ろの席だけが、以前とは違っていた。

 そこに榛名蛍が座っている。

 それだけのことだった。

 けれど、誰もいなかった空席に一人の生徒がいるという事実は、思っていたよりも大きかった。

 蛍は毎日来るわけではない。

 一週間に一度。多くて二度。

 それも、一時間目から最後までいる日はほとんどなかった。二時間目にふらりと現れて、給食の前に帰ることもある。午後だけ来ることもあった。

 だが、来た日は必ず江口の社会科の授業に出た。

 それがなぜなのか、江口にはわからない。

 本人に訊いたことはない。

 訊いてしまえば、来なくなるような気がした。

 蛍は目立たなかった。

 手を挙げない。

 私語もしない。

 教師の冗談に大きく笑うこともない。

 だが、授業は聞いていた。

 教科書の端に、小さな字で何かを書き込んでいるのを、江口は何度か見た。

 板書を写しているわけではない。江口の言葉を、そのままではなく、自分の中で組み替えているようだった。

 歴史の授業で、江口が「記録に残っているものだけが歴史じゃない」と話した時、蛍はノートの端に何かを書いた。

 授業後、プリントを回収する時にちらりと見えた。

 ――残らなかったものは、なかったことになるのか。

 十三歳の生徒が書く言葉ではない。

 江口はそう思ったが、見なかったことにした。

 蛍は、見られたくないものを持ちすぎている。

 江口はまだ、そのどこに触れていいのかわからなかった。

 ただ、一つだけわかったことがある。

 蛍は、消えることを怖がっていた。

 いなくなることではない。

 最初からいなかったものとして扱われることを、怖がっている。

     ◆

 五月の終わりに、体育祭の練習が始まった。

 学校という場所は、行事の前になると急に熱を帯びる。

 廊下にはクラス旗用の布が広げられ、昼休みには応援練習の声が響く。普段は無気力な生徒まで、なぜか綱引きの並び順に真剣になる。

 江口はそういう空気が嫌いではなかった。

 ただ、蛍には合わないだろうと思っていた。

 案の定、体育祭練習が始まってから、蛍は来なくなった。

 月曜日も来ない。

 火曜日も来ない。

 水曜日の朝、江口は出席簿を見ながら、小さく息を吐いた。

「気になります?」

 隣の席の国語教師、浅野が言った。

 三十代前半の女性教師で、二年二組の副担任でもある。

「まあ、少し」

「榛名くん?」

「はい」

 浅野は湯呑みを持ったまま、少し困ったように笑った。

「体育祭の時期は難しいかもね。人も多いし、音も大きいし」

「そうですよね」

「去年もほとんど出てないはず」

 江口は出席簿を閉じた。

「こういう時って、連絡した方がいいんですか」

「担任なら、家庭には連絡するかな。ただ、榛名くんの場合は叔母さんが窓口だから」

「叔母さん」

「うん。榛名くんを引き取ってる人。すごく丁寧な方よ」

 浅野は一瞬だけ言葉を切った。

「丁寧すぎるくらい」

 その言い方が少し引っかかった。

「どういう意味ですか」

「別に悪い意味じゃないの。ただ、榛名くんのことを全部管理している感じがする」

「管理」

「食事、通院、登校時間、会う人。何でもきちんと把握してる」

 浅野は声を落とした。

「あの事件があったから、仕方ないんだけどね」

 江口は頷くしかなかった。

 事件。

 その二文字が出るたび、職員室の空気は少し固くなる。

 誰も具体的には言わない。

 父母と姉が殺された。

 家は焼けた。

 幼い蛍だけが生き残った。

 そこまでは皆が知っている。

 だが、それ以上を知ろうとすることは、悪趣味なことのように扱われていた。

 江口も同じだった。

 知りたいわけではない。

 だが、知らないままで本当に蛍に関われるのかという疑問もあった。

 配慮する。

 普通に接する。

 無理をさせない。

 どれも正しい。

 正しいが、薄い。

 江口は、そういう正しさが時々嫌になった。

     ◆

 その日の放課後、二年二組の男子生徒二人が廊下で揉めた。

 理由はくだらなかった。

 体育祭のリレーの順番だ。

 足の速い生徒を最後にするか、最初にするか。そんなことで口論になり、一人がもう一人を押した。押された方が廊下の壁にぶつかり、肘をすりむいた。

 江口はその対応に追われた。

 保健室に連れて行き、事情を聞き、学年主任へ報告し、相手の生徒を呼んで謝らせた。

 すべてが終わった時には、空が赤くなっていた。

 江口は職員室へ戻る途中、保健室の前を通った。

 ドアが少し開いている。

 中から保健医の声がした。

「だから、無理しなくていいのよ」

 江口は足を止めた。

 続いて、小さな声。

「平気です」

 聞き覚えがあった。

 榛名蛍だ。

 江口はノックしようとして、やめた。

 盗み聞きはよくない。

 そう思いながらも、その場を離れられなかった。

「平気じゃないでしょう。顔色が悪いわ」

「いつもです」

「そういう返しをする元気はあるのね」

 保健医の声には苦笑が混じっている。

 蛍は答えなかった。

「着替え、ここに置いておくから。濡れたシャツのままだと風邪を引くわよ」

「……ありがとうございます」

 濡れたシャツ。

 江口は眉をひそめた。

 外は雨ではない。

 では、なぜ濡れているのか。

 体育祭練習で水でもかぶったのか。

 それとも、具合が悪くなって汗をかいたのか。

 江口がそんなことを考えていると、廊下の向こうから浅野が歩いてきた。

「あれ、江口先生」

 小声だったが、保健室の中には聞こえたらしい。

 カーテンの向こうで物音がした。

 江口は観念して、ドアを軽く叩いた。

「失礼します」

 中に入ると、保健医の松原が振り返った。

「あら、江口先生。さっきの子はもう大丈夫?」

「はい。肘の擦り傷だけでした」

「それならよかった」

 松原は机の上で何か書いていた。

 ベッドの方を見ると、カーテンが半分だけ閉じている。

 その隙間から、蛍の横顔が見えた。

 白い顔。

 少し濡れた髪。

 体操着の上着を肩にかけている。

「榛名くん」

 江口が声をかけると、蛍は一瞬こちらを見た。

「先生」

「学校、来てたんですね」

「来てました」

「気づきませんでした」

「気づかれないように来たので」

 またよくわからないことを言う。

 松原が苦笑した。

「体育館の裏で座り込んでたの。浅野先生が見つけて連れてきたのよ」

「座り込んでた?」

「人が多かったので」

 蛍は淡々と言った。

「少し休んでました」

 江口は蛍の顔色を見る。

 確かに白い。

 だが苦しそうというより、どこか遠くを見ているような顔だった。

「帰れそうですか」

「帰れます」

「それ、君の“平気です”と同じくらい信用できないんですけど」

 蛍は少しだけ口元を動かした。

「先生、だんだん僕の扱いに慣れてきましたね」

「慣れたくありません」

「それは残念です」

 その軽口に、江口はわずかに安心した。

 だが次の瞬間、カーテンが大きく揺れた。

 蛍が体操着の上着を取ろうとして、肩から布が落ちたのだ。

 白いシャツの襟元が少しずれる。

 そして、江口は見てしまった。

 左の肩甲骨から背中にかけて。

 肌の上に、赤黒い痕が広がっていた。

 火傷の痕だ。

 ただの傷ではない。

 皮膚が引きつれ、歪み、ところどころ色が違っている。古い火傷特有の、痛みが乾いたような痕。

 それは、片方の羽のように見えた。

 蝶の片羽。

 江口は息を止めた。

 見てはいけないものを見たと思った。

 だが目を逸らすには遅すぎた。

 蛍も、江口が見たことに気づいた。

 保健室の中の空気が、静かに変わる。

「江口先生」

 松原が低い声で言った。

 江口は我に返る。

「あ、すみません」

 何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。

 蛍はゆっくりシャツを直した。

 その動作は落ち着いていた。

 落ち着きすぎていて、逆に痛々しかった。

「別にいいです」

 蛍が言った。

「もう見られてるので」

「……いや」

 江口は言葉に詰まる。

 慰める言葉も、驚きをごまかす言葉も、何も出てこない。

 蛍は江口を見た。

 黒い目だった。

「片方しかないんです」

「え?」

「羽」

 蛍は自分の背中を指した。

「だから飛べません」

 松原が眉を寄せた。

「榛名くん」

「大丈夫です」

 蛍はそう言った。

 そして、江口に向き直る。

「先生、何か言いますか」

 試されている。

 江口はそう感じた。

 かわいそうに。

 大丈夫?

 痛かったね。

 そんな言葉が頭をよぎる。

 だが、どれも違う。

 どれも薄い。

 どれも、この十三歳の少年に届く前に腐る気がした。

 江口はしばらく黙った。

 黙って、鞄の中を探った。

 社会科のプリントが数枚入っている。

 今日の授業で使う予定だったが、体育祭練習と急遽入れ替えになって潰れたものだ。

 江口はそれを取り出し、蛍に差し出した。

「授業、受けるならこれ使ってください」

 蛍はプリントを見た。

 江口は続ける。

「受けないなら、紙飛行機にでもしてください」

 沈黙。

 松原が、呆れたようにこちらを見た。

 さすがにまずかったかもしれない。

 江口がそう思った時、蛍の肩がわずかに揺れた。

 笑っていた。

 声は出ていない。

 でも確かに、笑っていた。

「先生」

「はい」

「紙飛行機は、飛ぶんですか」

「折り方次第です」

「片羽でも?」

 江口は少し考えた。

「片羽だと、たぶん旋回します」

「落ちるんじゃなくて?」

「折り方が上手ければ」

 蛍はプリントを受け取った。

 白い指が、紙の端を押さえる。

「じゃあ、練習します」

「授業を?」

「紙飛行機を」

「そっちですか」

「授業は、たぶん後で読みます」

 蛍はプリントを二つ折りにした。

 その手つきは不器用だった。

 綺麗な指なのに、紙を折るのは下手だった。

 江口はなぜか、そのことに少し安心した。

 この子にも、できないことがある。

 すべてを諦めたような顔をしていても、紙飛行機ひとつうまく折れない。

 それは、とても普通のことに見えた。

     ◆

 蛍を見送った後、江口は保健室に残った。

 松原は薬品棚を整理しながら言った。

「驚いたでしょう」

「……はい」

「見たのは初めて?」

「はい」

 江口は正直に答えた。

 松原は手を止めた。

「あれは、事件の時の火傷」

「やっぱり」

「本人はあまり見せたがらない。でも、隠しきれるものでもない」

 江口は黙っていた。

 松原は続ける。

「本人より、周りが動揺するのよ」

「……そうですね」

「だから榛名くんは、人前で着替えない。体育にも出ない。プールなんて絶対無理」

 江口は蛍の背中を思い出す。

 片羽のような火傷。

 あれを背負って、十三歳の少年が学校へ来ている。

 それだけで、十分すぎるほど重い。

「江口先生」

「はい」

「あなた、今の対応、変だったわ」

「すみません」

「でも、悪くなかった」

 江口は松原を見る。

 松原は少し笑った。

「普通、あの傷を見たら、みんな優しくなりすぎるの。声の出し方まで変わる」

「……僕も、そうなりかけました」

「ならなかったでしょう」

「何を言えばいいかわからなかっただけです」

「それでいいこともあるのよ」

 松原は窓の外を見た。

 校庭では、まだ体育祭の練習をしている生徒がいる。

 夕暮れの中、声が遠く響いていた。

「あの子はね、かわいそうがられることに疲れてる」

 松原の声は静かだった。

「でも、放っておかれることにも慣れてない」

 江口はその言葉を胸の中で繰り返した。

 かわいそうがられることに疲れている。

 放っておかれることにも慣れていない。

 矛盾している。

 だが、蛍という生徒には妙に合っていた。

「難しいですね」

 江口が言うと、松原は笑った。

「子どもはだいたい難しいわよ」

「教師向いてない気がしてきました」

「今さら?」

「赴任一か月で気づきました」

「早いわね」

 江口は苦笑した。

 だが胸の奥は、あまり軽くなっていなかった。

 あの傷を見てしまった。

 それは単なる偶然だった。

 けれど、見た以上、知らなかった頃には戻れない。

     ◆

 その夜、江口はアパートで社会科のプリントを作っていた。

 狭いワンルーム。

 ローテーブルの上には、採点途中の小テストと、コンビニ弁当の空き容器が置かれている。

 生活感というより、生活に失敗している部屋だった。

 江口は赤ペンを持ったまま、手を止めた。

 榛名蛍。

 片羽。

 紙飛行機。

 背中の火傷。

 それらが頭の中でぐるぐる回っている。

 江口はスマートフォンで、ニュース記事を検索しようとした。

 十三年前の一家惨殺事件。

 榛名家。

 放火。

 検索窓に文字を打ち込み、途中で消した。

 教師が生徒の過去を勝手に調べる。

 それが悪いことなのかどうか、江口にはわからない。

 だが、少なくとも今の自分は、好奇心で指を動かしていた。

 それが嫌だった。

 江口はスマートフォンを伏せた。

 知らなければならないことと、知りたいだけのことは違う。

 たぶん。

 まだ、その区別もつかない。

 江口はプリントに向き直った。

 次の授業は、室町時代の文化。

 庭園、能、茶の湯。

 中学生には退屈かもしれない。

 江口は余白に、小さく問いを書いた。

 ――形が残るものだけが、文化なのか。

 書いた瞬間、蛍のノートを思い出した。

 残らなかったものは、なかったことになるのか。

 江口は赤ペンを置いた。

 自分は、蛍に影響されている。

 まだ出会って一か月も経っていないのに。

 妙な生徒だと思った。

 同時に、危うい生徒だとも思った。

 あの子は、周囲の人間に何かを考えさせる。

 考えさせて、勝手に距離を取らせる。

 そうして自分を一人にしてしまう。

 江口はため息をついた。

「面倒くさいなあ」

 独り言だった。

 だが、その声には少し笑いが混じっていた。

     ◆

 翌日、蛍は学校へ来なかった。

 その翌日も来なかった。

 三日目の昼休み、江口は職員室で蛍の叔母に電話をした。

 緊張した。

 相手はすぐに出た。

『はい、榛名です』

 落ち着いた女性の声だった。

「京東区立第三中学校の江口と申します。蛍くんの担任をしております」

『ああ、江口先生。いつもお世話になっております』

 丁寧すぎるほど丁寧な声。

 浅野の言っていたことを思い出す。

 管理している感じがする。

「ここ数日お休みが続いていたので、ご様子を伺おうと思いまして」

『ご心配をおかけして申し訳ございません。少し体調を崩しておりまして』

「そうですか。無理はなさらないでください」

『ありがとうございます。蛍にも伝えておきます』

 会話はそこで終わるはずだった。

 だが、江口は少し迷った後、言った。

「もし本人が授業のプリントを必要としているようでしたら、郵送でも、取りに来ていただく形でも」

『必要ありません』

 即答だった。

 江口は少し驚いた。

『あの子には、まず休むことが必要です。学校のことは、回復してからで構いません』

「……そうですね」

『先生も、どうかあまりお気になさらないでください』

 優しい声だった。

 だが、そこには線が引かれていた。

 ここから先へ入らないでください、という線。

 江口は受話器を置いた後、しばらく動けなかった。

 叔母の言うことは正しい。

 休むことが必要。

 学校は後でいい。

 何も間違っていない。

 だが、なぜか引っかかった。

 蛍は本当にプリントを必要としていないのか。

 それを叔母が決めていいのか。

 自分が口を出すことではないのかもしれない。

 教師になって一か月の新任が、家庭のことに踏み込むべきではない。

 江口はそう思った。

 思ったが、納得はできなかった。

     ◆

 その日の夕方、江口は保健室へ行った。

 松原は血圧計を片づけていた。

「先生、顔が面倒くさいこと考えてる顔」

「そんな顔あります?」

「あるわよ。新任教師がよくする顔」

 江口は苦笑した。

「榛名くんの叔母さんに電話しました」

「そう」

「丁寧な方ですね」

「でしょう」

「でも、少し怖かったです」

 松原は手を止めた。

「なぜ?」

「言ってることは全部正しいのに、本人の声が聞こえない感じがしました」

 松原はすぐには答えなかった。

 窓の外を見る。

 校庭には、放課後練習の生徒たちがいる。

 夕日が長い影を作っていた。

「江口先生」

「はい」

「正しさって、時々、人を閉じ込めるの」

 江口は黙る。

「でも、それを外から壊そうとする人も、だいたい正しさを持ってくる」

「僕は何もしない方がいいですか」

「そうは言ってない」

 松原は江口を見る。

「榛名くんが学校へ来た時、先生はプリントを渡してあげればいい」

「プリント?」

「授業の」

「それだけでいいんですか」

「それだけ、じゃないわ」

 松原は机の上にあった紙を一枚、江口に差し出した。

 それは昨日、蛍が置いていった紙飛行機だった。

 社会科のプリントで折られている。

 片羽が少し歪んでいた。

「これ、保健室に置いていったの」

 江口は紙飛行機を受け取った。

 下手な折り方だった。

 だが、裏側に小さな字が書かれていた。

 ――旋回しました。

 江口は思わず笑った。

「飛んだんですね」

「少なくとも、落ちなかったみたいね」

 松原も笑った。

 その時、江口は決めた。

 大きなことはできない。

 事件の傷を癒すこともできない。

 家庭に踏み込むこともできない。

 だが、来た時に渡すプリントくらいは作れる。

 受けても受けなくてもいい授業を、用意しておくことくらいはできる。

 それが教師の仕事かどうかは知らない。

 少なくとも、今の江口にできることはそれだけだった。

     ◆

 一週間後、蛍は登校した。

 体育祭の予行日だった。

 校庭にはテントが張られ、教師たちは朝から怒鳴り声を上げていた。

 蛍は三時間目の途中、教室へ来た。

 誰もいない二年二組。

 体育祭予行のため、生徒は全員校庭に出ていた。

 江口は教室に忘れ物を取りに来て、そこで蛍を見つけた。

 蛍は自分の席に座っていた。

 窓の外を見ている。

「榛名くん」

 声をかけると、蛍は振り向いた。

「先生」

「何してるんですか」

「登校です」

「校庭に行かないんですか」

「人が多いので」

「ですよね」

 江口は教卓の上に置いてあったファイルを取った。

 そして、鞄から数枚のプリントを出す。

「これ、前回と前々回の授業分です」

 蛍は少し驚いた顔をした。

「僕、休んでました」

「知ってます」

「出席扱いにはなりませんよ」

「それも知ってます」

「じゃあ、どうして」

 江口はプリントを蛍の机に置いた。

「来たからです」

 蛍はプリントを見た。

 その表情は読みづらい。

「来た日に渡すって決めたので」

「先生が?」

「はい」

「勝手に?」

「勝手に」

「迷惑かもしれないとは?」

「思いました」

「それでも?」

「それでもです」

 蛍はしばらく黙った。

 それから、プリントの一枚を手に取った。

「……先生」

「はい」

「紙飛行機用ですか」

「授業用です」

「でも飛ばしてもいい?」

「授業を受けた後なら」

「条件つきなんですね」

「教師なので」

 蛍は少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、江口は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

 だが次の瞬間、蛍は言った。

「先生」

「はい」

「昨日、叔母から聞きました。先生が電話したって」

「ああ、はい」

「僕のこと、面倒ですか」

 江口は即答できなかった。

 蛍は窓の外を見たまま続ける。

「みんな、僕に優しくします。優しくして、疲れて、最後は来なくてもいいって言います」

 江口は黙る。

「来なくてもいい。無理しなくていい。休んでいい。それは全部正しいです」

 蛍の声は静かだった。

「でも、そう言われるたびに、僕の席は少しずつなくなります」

 江口は、窓際の一番後ろの席を見た。

 名札に書かれた『榛名』の文字。

 空席だった場所。

 そこに、今は蛍が座っている。

「先生は、僕の席を残しますか」

 その問いは、十三歳の生徒が教師に向けるには重すぎた。

 だが江口は、今度は逃げなかった。

「残します」

 蛍がこちらを見る。

「僕のクラスですから」

「先生、新任なのに?」

「新任でも担任です」

「頼りないのに?」

「それは否定しません」

「不器用なのに?」

「しつこいですね」

 蛍は少し笑った。

 けれど、その目は笑っていなかった。

「先生」

「はい」

「僕、たぶん普通じゃないです」

「知ってます」

「否定しないんですね」

「普通じゃない生徒なんて、たくさんいますよ」

「僕は、事件の子です」

 その言葉が教室に落ちた。

 校庭から、笛の音が聞こえる。

 遠くで生徒たちが笑っている。

 江口は、その日差しの中にいる音を聞きながら、窓際の蛍を見た。

「榛名くん」

「はい」

「君が“事件の子”なのは、たぶん本当です」

 蛍の目がわずかに揺れた。

「でも、それだけじゃないでしょう」

 江口は続けた。

「君は紙飛行機が下手です」

 蛍が瞬きをする。

「夜更かしします」

「……はい」

「教師の未熟さを初対面で指摘します」

「しましたね」

「授業中、ノートの端に変なことを書きます」

「見たんですか」

「見えました」

「先生、よくないです」

「すみません」

 江口は小さく笑った。

「だから、事件の子だけではないです」

 蛍は黙った。

 長い沈黙だった。

 その間、校庭では応援練習の声が響いている。

 やがて蛍は、プリントを丁寧に鞄へしまった。

「先生」

「はい」

「今日、社会の授業ありますか」

「体育祭予行なのでありません」

「残念です」

「珍しい中学生ですね」

「先生の授業、少し変なので」

「褒めてます?」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「観察です」

 江口は苦笑した。

 榛名蛍は本当に変な生徒だ。

 危うくて、静かで、妙に大人びている。

 でも今、少しだけ中学生に見えた。

 それで十分だと思った。

     ◆

 その日の帰り、江口は職員室でプリントを整理していた。

 浅野が横から覗き込む。

「榛名くん、来てたんですね」

「はい。教室にいました」

「校庭は無理だった?」

「みたいです」

「でも来たなら大きいわ」

 浅野は微笑んだ。

「江口先生、何かした?」

「プリント渡しただけです」

「それがよかったんじゃない?」

「そうですかね」

「そういうものよ。学校って、結局プリントの山でできてるから」

 江口は笑った。

 確かにそうかもしれない。

 学校は言葉よりも、時々、紙の方が強い。

 来なかった日の分も、君の分はある。

 その事実を、紙は黙って示してくれる。

 その夜、江口はアパートへ帰り、ローテーブルに向かった。

 翌週の授業プリントを作る。

 室町文化。

 余白には、問いを一つ入れた。

 ――残らなかったものは、本当になかったことになるのか。

 少し迷って、消さなかった。

 蛍なら、何かを書くかもしれない。

 書かないかもしれない。

 どちらでもよかった。

 ただ、その余白を残しておきたかった。

     ◆

 数日後。

 江口の机の上に、一枚の紙飛行機が置かれていた。

 社会科のプリントで折られている。

 片羽が少し歪んでいた。

 裏返すと、小さな字があった。

 ――片羽でも、曲がりながらなら飛べました。

 江口はしばらく、その紙飛行機を見つめていた。

 そして、引き出しの中へしまった。

 捨てる気にはならなかった。

 たぶん、この先も。

 その紙飛行機は、ただの紙ではなかった。

 榛名蛍が初めて、江口に渡した返事だった。

 さらに数日後、江口は社会科準備室で、その紙飛行機をもう一度取り出した。

 理由はない。

 ただ、捨てられないものを確認したくなる夜がある。

 紙飛行機の片羽は、相変わらず少し歪んでいた。

 江口は何気なく、湯呑みから立つ湯気の上にそれをかざした。

 湿気を含んだ紙が、わずかに柔らかくなる。

 その時、江口は「あれ」と声を漏らした。

 紙の余白に、薄い線が浮いた。

 インクではない。

 鉛筆でもない。

 水分を含んだ時だけ、紙の繊維の凹みが陰になって見える。蛍が強く筆圧をかけて書き、消しゴムで消した跡だった。

 そこには、かすかにこう読めた。

 ――残らなかったものは、湿ると戻る。

 江口はしばらく、その文字を見ていた。

 意味はわからなかった。

 ただ、奇妙に胸に残った。

 残らなかったもの。

 湿ると戻るもの。

 片羽でも、曲がりながらなら飛べるもの。

 七年後。

 雨の夜の温室で、江口はこの紙飛行機のことを思い出すことになる。

 片羽の蝶を閉じ込めた標本ケース。

 湿気で内側に浮かんだ、薄い線。

 濡れた床に残された、乾いた違和感。

 首元に一つだけあった、虫刺されのような赤い点。

 そして、榛名蛍が震えた声で言った一言。

 ――また始まったんだと思いました。

 だがこの時の江口は、まだ何も知らなかった。

 ただ、紙飛行機を乾いた机の上に置き直し、明日の授業プリントを作り始めただけだった。

 来るかどうかわからない生徒の分まで。

 それでも、席を残すと決めた以上、紙だけは用意しておく。

 教師にできることは、たぶんそれくらいしかない。

 それくらいしかないからこそ、江口はその夜も、眠い目をこすりながらプリンターの電源を入れた。


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