第三章 蝶の片羽
榛名蛍が学校へ来るようになってから、二年二組の空気は少し変わった。
大きく変わったわけではない。
相変わらず男子は休み時間になると教室の後ろで騒ぎ、女子は机を寄せて小さな輪を作る。授業中に眠る生徒は眠るし、宿題を忘れる生徒は忘れる。江口桜次郎が社会科の小テストを配れば、教室のあちこちから不満の声が上がった。
ただ、窓際の一番後ろの席だけが、以前とは違っていた。
そこに榛名蛍が座っている。
それだけのことだった。
けれど、誰もいなかった空席に一人の生徒がいるという事実は、思っていたよりも大きかった。
蛍は毎日来るわけではない。
一週間に一度。多くて二度。
それも、一時間目から最後までいる日はほとんどなかった。二時間目にふらりと現れて、給食の前に帰ることもある。午後だけ来ることもあった。
だが、来た日は必ず江口の社会科の授業に出た。
それがなぜなのか、江口にはわからない。
本人に訊いたことはない。
訊いてしまえば、来なくなるような気がした。
蛍は目立たなかった。
手を挙げない。
私語もしない。
教師の冗談に大きく笑うこともない。
だが、授業は聞いていた。
教科書の端に、小さな字で何かを書き込んでいるのを、江口は何度か見た。
板書を写しているわけではない。江口の言葉を、そのままではなく、自分の中で組み替えているようだった。
歴史の授業で、江口が「記録に残っているものだけが歴史じゃない」と話した時、蛍はノートの端に何かを書いた。
授業後、プリントを回収する時にちらりと見えた。
――残らなかったものは、なかったことになるのか。
十三歳の生徒が書く言葉ではない。
江口はそう思ったが、見なかったことにした。
蛍は、見られたくないものを持ちすぎている。
江口はまだ、そのどこに触れていいのかわからなかった。
ただ、一つだけわかったことがある。
蛍は、消えることを怖がっていた。
いなくなることではない。
最初からいなかったものとして扱われることを、怖がっている。
◆
五月の終わりに、体育祭の練習が始まった。
学校という場所は、行事の前になると急に熱を帯びる。
廊下にはクラス旗用の布が広げられ、昼休みには応援練習の声が響く。普段は無気力な生徒まで、なぜか綱引きの並び順に真剣になる。
江口はそういう空気が嫌いではなかった。
ただ、蛍には合わないだろうと思っていた。
案の定、体育祭練習が始まってから、蛍は来なくなった。
月曜日も来ない。
火曜日も来ない。
水曜日の朝、江口は出席簿を見ながら、小さく息を吐いた。
「気になります?」
隣の席の国語教師、浅野が言った。
三十代前半の女性教師で、二年二組の副担任でもある。
「まあ、少し」
「榛名くん?」
「はい」
浅野は湯呑みを持ったまま、少し困ったように笑った。
「体育祭の時期は難しいかもね。人も多いし、音も大きいし」
「そうですよね」
「去年もほとんど出てないはず」
江口は出席簿を閉じた。
「こういう時って、連絡した方がいいんですか」
「担任なら、家庭には連絡するかな。ただ、榛名くんの場合は叔母さんが窓口だから」
「叔母さん」
「うん。榛名くんを引き取ってる人。すごく丁寧な方よ」
浅野は一瞬だけ言葉を切った。
「丁寧すぎるくらい」
その言い方が少し引っかかった。
「どういう意味ですか」
「別に悪い意味じゃないの。ただ、榛名くんのことを全部管理している感じがする」
「管理」
「食事、通院、登校時間、会う人。何でもきちんと把握してる」
浅野は声を落とした。
「あの事件があったから、仕方ないんだけどね」
江口は頷くしかなかった。
事件。
その二文字が出るたび、職員室の空気は少し固くなる。
誰も具体的には言わない。
父母と姉が殺された。
家は焼けた。
幼い蛍だけが生き残った。
そこまでは皆が知っている。
だが、それ以上を知ろうとすることは、悪趣味なことのように扱われていた。
江口も同じだった。
知りたいわけではない。
だが、知らないままで本当に蛍に関われるのかという疑問もあった。
配慮する。
普通に接する。
無理をさせない。
どれも正しい。
正しいが、薄い。
江口は、そういう正しさが時々嫌になった。
◆
その日の放課後、二年二組の男子生徒二人が廊下で揉めた。
理由はくだらなかった。
体育祭のリレーの順番だ。
足の速い生徒を最後にするか、最初にするか。そんなことで口論になり、一人がもう一人を押した。押された方が廊下の壁にぶつかり、肘をすりむいた。
江口はその対応に追われた。
保健室に連れて行き、事情を聞き、学年主任へ報告し、相手の生徒を呼んで謝らせた。
すべてが終わった時には、空が赤くなっていた。
江口は職員室へ戻る途中、保健室の前を通った。
ドアが少し開いている。
中から保健医の声がした。
「だから、無理しなくていいのよ」
江口は足を止めた。
続いて、小さな声。
「平気です」
聞き覚えがあった。
榛名蛍だ。
江口はノックしようとして、やめた。
盗み聞きはよくない。
そう思いながらも、その場を離れられなかった。
「平気じゃないでしょう。顔色が悪いわ」
「いつもです」
「そういう返しをする元気はあるのね」
保健医の声には苦笑が混じっている。
蛍は答えなかった。
「着替え、ここに置いておくから。濡れたシャツのままだと風邪を引くわよ」
「……ありがとうございます」
濡れたシャツ。
江口は眉をひそめた。
外は雨ではない。
では、なぜ濡れているのか。
体育祭練習で水でもかぶったのか。
それとも、具合が悪くなって汗をかいたのか。
江口がそんなことを考えていると、廊下の向こうから浅野が歩いてきた。
「あれ、江口先生」
小声だったが、保健室の中には聞こえたらしい。
カーテンの向こうで物音がした。
江口は観念して、ドアを軽く叩いた。
「失礼します」
中に入ると、保健医の松原が振り返った。
「あら、江口先生。さっきの子はもう大丈夫?」
「はい。肘の擦り傷だけでした」
「それならよかった」
松原は机の上で何か書いていた。
ベッドの方を見ると、カーテンが半分だけ閉じている。
その隙間から、蛍の横顔が見えた。
白い顔。
少し濡れた髪。
体操着の上着を肩にかけている。
「榛名くん」
江口が声をかけると、蛍は一瞬こちらを見た。
「先生」
「学校、来てたんですね」
「来てました」
「気づきませんでした」
「気づかれないように来たので」
またよくわからないことを言う。
松原が苦笑した。
「体育館の裏で座り込んでたの。浅野先生が見つけて連れてきたのよ」
「座り込んでた?」
「人が多かったので」
蛍は淡々と言った。
「少し休んでました」
江口は蛍の顔色を見る。
確かに白い。
だが苦しそうというより、どこか遠くを見ているような顔だった。
「帰れそうですか」
「帰れます」
「それ、君の“平気です”と同じくらい信用できないんですけど」
蛍は少しだけ口元を動かした。
「先生、だんだん僕の扱いに慣れてきましたね」
「慣れたくありません」
「それは残念です」
その軽口に、江口はわずかに安心した。
だが次の瞬間、カーテンが大きく揺れた。
蛍が体操着の上着を取ろうとして、肩から布が落ちたのだ。
白いシャツの襟元が少しずれる。
そして、江口は見てしまった。
左の肩甲骨から背中にかけて。
肌の上に、赤黒い痕が広がっていた。
火傷の痕だ。
ただの傷ではない。
皮膚が引きつれ、歪み、ところどころ色が違っている。古い火傷特有の、痛みが乾いたような痕。
それは、片方の羽のように見えた。
蝶の片羽。
江口は息を止めた。
見てはいけないものを見たと思った。
だが目を逸らすには遅すぎた。
蛍も、江口が見たことに気づいた。
保健室の中の空気が、静かに変わる。
「江口先生」
松原が低い声で言った。
江口は我に返る。
「あ、すみません」
何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。
蛍はゆっくりシャツを直した。
その動作は落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、逆に痛々しかった。
「別にいいです」
蛍が言った。
「もう見られてるので」
「……いや」
江口は言葉に詰まる。
慰める言葉も、驚きをごまかす言葉も、何も出てこない。
蛍は江口を見た。
黒い目だった。
「片方しかないんです」
「え?」
「羽」
蛍は自分の背中を指した。
「だから飛べません」
松原が眉を寄せた。
「榛名くん」
「大丈夫です」
蛍はそう言った。
そして、江口に向き直る。
「先生、何か言いますか」
試されている。
江口はそう感じた。
かわいそうに。
大丈夫?
痛かったね。
そんな言葉が頭をよぎる。
だが、どれも違う。
どれも薄い。
どれも、この十三歳の少年に届く前に腐る気がした。
江口はしばらく黙った。
黙って、鞄の中を探った。
社会科のプリントが数枚入っている。
今日の授業で使う予定だったが、体育祭練習と急遽入れ替えになって潰れたものだ。
江口はそれを取り出し、蛍に差し出した。
「授業、受けるならこれ使ってください」
蛍はプリントを見た。
江口は続ける。
「受けないなら、紙飛行機にでもしてください」
沈黙。
松原が、呆れたようにこちらを見た。
さすがにまずかったかもしれない。
江口がそう思った時、蛍の肩がわずかに揺れた。
笑っていた。
声は出ていない。
でも確かに、笑っていた。
「先生」
「はい」
「紙飛行機は、飛ぶんですか」
「折り方次第です」
「片羽でも?」
江口は少し考えた。
「片羽だと、たぶん旋回します」
「落ちるんじゃなくて?」
「折り方が上手ければ」
蛍はプリントを受け取った。
白い指が、紙の端を押さえる。
「じゃあ、練習します」
「授業を?」
「紙飛行機を」
「そっちですか」
「授業は、たぶん後で読みます」
蛍はプリントを二つ折りにした。
その手つきは不器用だった。
綺麗な指なのに、紙を折るのは下手だった。
江口はなぜか、そのことに少し安心した。
この子にも、できないことがある。
すべてを諦めたような顔をしていても、紙飛行機ひとつうまく折れない。
それは、とても普通のことに見えた。
◆
蛍を見送った後、江口は保健室に残った。
松原は薬品棚を整理しながら言った。
「驚いたでしょう」
「……はい」
「見たのは初めて?」
「はい」
江口は正直に答えた。
松原は手を止めた。
「あれは、事件の時の火傷」
「やっぱり」
「本人はあまり見せたがらない。でも、隠しきれるものでもない」
江口は黙っていた。
松原は続ける。
「本人より、周りが動揺するのよ」
「……そうですね」
「だから榛名くんは、人前で着替えない。体育にも出ない。プールなんて絶対無理」
江口は蛍の背中を思い出す。
片羽のような火傷。
あれを背負って、十三歳の少年が学校へ来ている。
それだけで、十分すぎるほど重い。
「江口先生」
「はい」
「あなた、今の対応、変だったわ」
「すみません」
「でも、悪くなかった」
江口は松原を見る。
松原は少し笑った。
「普通、あの傷を見たら、みんな優しくなりすぎるの。声の出し方まで変わる」
「……僕も、そうなりかけました」
「ならなかったでしょう」
「何を言えばいいかわからなかっただけです」
「それでいいこともあるのよ」
松原は窓の外を見た。
校庭では、まだ体育祭の練習をしている生徒がいる。
夕暮れの中、声が遠く響いていた。
「あの子はね、かわいそうがられることに疲れてる」
松原の声は静かだった。
「でも、放っておかれることにも慣れてない」
江口はその言葉を胸の中で繰り返した。
かわいそうがられることに疲れている。
放っておかれることにも慣れていない。
矛盾している。
だが、蛍という生徒には妙に合っていた。
「難しいですね」
江口が言うと、松原は笑った。
「子どもはだいたい難しいわよ」
「教師向いてない気がしてきました」
「今さら?」
「赴任一か月で気づきました」
「早いわね」
江口は苦笑した。
だが胸の奥は、あまり軽くなっていなかった。
あの傷を見てしまった。
それは単なる偶然だった。
けれど、見た以上、知らなかった頃には戻れない。
◆
その夜、江口はアパートで社会科のプリントを作っていた。
狭いワンルーム。
ローテーブルの上には、採点途中の小テストと、コンビニ弁当の空き容器が置かれている。
生活感というより、生活に失敗している部屋だった。
江口は赤ペンを持ったまま、手を止めた。
榛名蛍。
片羽。
紙飛行機。
背中の火傷。
それらが頭の中でぐるぐる回っている。
江口はスマートフォンで、ニュース記事を検索しようとした。
十三年前の一家惨殺事件。
榛名家。
放火。
検索窓に文字を打ち込み、途中で消した。
教師が生徒の過去を勝手に調べる。
それが悪いことなのかどうか、江口にはわからない。
だが、少なくとも今の自分は、好奇心で指を動かしていた。
それが嫌だった。
江口はスマートフォンを伏せた。
知らなければならないことと、知りたいだけのことは違う。
たぶん。
まだ、その区別もつかない。
江口はプリントに向き直った。
次の授業は、室町時代の文化。
庭園、能、茶の湯。
中学生には退屈かもしれない。
江口は余白に、小さく問いを書いた。
――形が残るものだけが、文化なのか。
書いた瞬間、蛍のノートを思い出した。
残らなかったものは、なかったことになるのか。
江口は赤ペンを置いた。
自分は、蛍に影響されている。
まだ出会って一か月も経っていないのに。
妙な生徒だと思った。
同時に、危うい生徒だとも思った。
あの子は、周囲の人間に何かを考えさせる。
考えさせて、勝手に距離を取らせる。
そうして自分を一人にしてしまう。
江口はため息をついた。
「面倒くさいなあ」
独り言だった。
だが、その声には少し笑いが混じっていた。
◆
翌日、蛍は学校へ来なかった。
その翌日も来なかった。
三日目の昼休み、江口は職員室で蛍の叔母に電話をした。
緊張した。
相手はすぐに出た。
『はい、榛名です』
落ち着いた女性の声だった。
「京東区立第三中学校の江口と申します。蛍くんの担任をしております」
『ああ、江口先生。いつもお世話になっております』
丁寧すぎるほど丁寧な声。
浅野の言っていたことを思い出す。
管理している感じがする。
「ここ数日お休みが続いていたので、ご様子を伺おうと思いまして」
『ご心配をおかけして申し訳ございません。少し体調を崩しておりまして』
「そうですか。無理はなさらないでください」
『ありがとうございます。蛍にも伝えておきます』
会話はそこで終わるはずだった。
だが、江口は少し迷った後、言った。
「もし本人が授業のプリントを必要としているようでしたら、郵送でも、取りに来ていただく形でも」
『必要ありません』
即答だった。
江口は少し驚いた。
『あの子には、まず休むことが必要です。学校のことは、回復してからで構いません』
「……そうですね」
『先生も、どうかあまりお気になさらないでください』
優しい声だった。
だが、そこには線が引かれていた。
ここから先へ入らないでください、という線。
江口は受話器を置いた後、しばらく動けなかった。
叔母の言うことは正しい。
休むことが必要。
学校は後でいい。
何も間違っていない。
だが、なぜか引っかかった。
蛍は本当にプリントを必要としていないのか。
それを叔母が決めていいのか。
自分が口を出すことではないのかもしれない。
教師になって一か月の新任が、家庭のことに踏み込むべきではない。
江口はそう思った。
思ったが、納得はできなかった。
◆
その日の夕方、江口は保健室へ行った。
松原は血圧計を片づけていた。
「先生、顔が面倒くさいこと考えてる顔」
「そんな顔あります?」
「あるわよ。新任教師がよくする顔」
江口は苦笑した。
「榛名くんの叔母さんに電話しました」
「そう」
「丁寧な方ですね」
「でしょう」
「でも、少し怖かったです」
松原は手を止めた。
「なぜ?」
「言ってることは全部正しいのに、本人の声が聞こえない感じがしました」
松原はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
校庭には、放課後練習の生徒たちがいる。
夕日が長い影を作っていた。
「江口先生」
「はい」
「正しさって、時々、人を閉じ込めるの」
江口は黙る。
「でも、それを外から壊そうとする人も、だいたい正しさを持ってくる」
「僕は何もしない方がいいですか」
「そうは言ってない」
松原は江口を見る。
「榛名くんが学校へ来た時、先生はプリントを渡してあげればいい」
「プリント?」
「授業の」
「それだけでいいんですか」
「それだけ、じゃないわ」
松原は机の上にあった紙を一枚、江口に差し出した。
それは昨日、蛍が置いていった紙飛行機だった。
社会科のプリントで折られている。
片羽が少し歪んでいた。
「これ、保健室に置いていったの」
江口は紙飛行機を受け取った。
下手な折り方だった。
だが、裏側に小さな字が書かれていた。
――旋回しました。
江口は思わず笑った。
「飛んだんですね」
「少なくとも、落ちなかったみたいね」
松原も笑った。
その時、江口は決めた。
大きなことはできない。
事件の傷を癒すこともできない。
家庭に踏み込むこともできない。
だが、来た時に渡すプリントくらいは作れる。
受けても受けなくてもいい授業を、用意しておくことくらいはできる。
それが教師の仕事かどうかは知らない。
少なくとも、今の江口にできることはそれだけだった。
◆
一週間後、蛍は登校した。
体育祭の予行日だった。
校庭にはテントが張られ、教師たちは朝から怒鳴り声を上げていた。
蛍は三時間目の途中、教室へ来た。
誰もいない二年二組。
体育祭予行のため、生徒は全員校庭に出ていた。
江口は教室に忘れ物を取りに来て、そこで蛍を見つけた。
蛍は自分の席に座っていた。
窓の外を見ている。
「榛名くん」
声をかけると、蛍は振り向いた。
「先生」
「何してるんですか」
「登校です」
「校庭に行かないんですか」
「人が多いので」
「ですよね」
江口は教卓の上に置いてあったファイルを取った。
そして、鞄から数枚のプリントを出す。
「これ、前回と前々回の授業分です」
蛍は少し驚いた顔をした。
「僕、休んでました」
「知ってます」
「出席扱いにはなりませんよ」
「それも知ってます」
「じゃあ、どうして」
江口はプリントを蛍の机に置いた。
「来たからです」
蛍はプリントを見た。
その表情は読みづらい。
「来た日に渡すって決めたので」
「先生が?」
「はい」
「勝手に?」
「勝手に」
「迷惑かもしれないとは?」
「思いました」
「それでも?」
「それでもです」
蛍はしばらく黙った。
それから、プリントの一枚を手に取った。
「……先生」
「はい」
「紙飛行機用ですか」
「授業用です」
「でも飛ばしてもいい?」
「授業を受けた後なら」
「条件つきなんですね」
「教師なので」
蛍は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、江口は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
だが次の瞬間、蛍は言った。
「先生」
「はい」
「昨日、叔母から聞きました。先生が電話したって」
「ああ、はい」
「僕のこと、面倒ですか」
江口は即答できなかった。
蛍は窓の外を見たまま続ける。
「みんな、僕に優しくします。優しくして、疲れて、最後は来なくてもいいって言います」
江口は黙る。
「来なくてもいい。無理しなくていい。休んでいい。それは全部正しいです」
蛍の声は静かだった。
「でも、そう言われるたびに、僕の席は少しずつなくなります」
江口は、窓際の一番後ろの席を見た。
名札に書かれた『榛名』の文字。
空席だった場所。
そこに、今は蛍が座っている。
「先生は、僕の席を残しますか」
その問いは、十三歳の生徒が教師に向けるには重すぎた。
だが江口は、今度は逃げなかった。
「残します」
蛍がこちらを見る。
「僕のクラスですから」
「先生、新任なのに?」
「新任でも担任です」
「頼りないのに?」
「それは否定しません」
「不器用なのに?」
「しつこいですね」
蛍は少し笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
「先生」
「はい」
「僕、たぶん普通じゃないです」
「知ってます」
「否定しないんですね」
「普通じゃない生徒なんて、たくさんいますよ」
「僕は、事件の子です」
その言葉が教室に落ちた。
校庭から、笛の音が聞こえる。
遠くで生徒たちが笑っている。
江口は、その日差しの中にいる音を聞きながら、窓際の蛍を見た。
「榛名くん」
「はい」
「君が“事件の子”なのは、たぶん本当です」
蛍の目がわずかに揺れた。
「でも、それだけじゃないでしょう」
江口は続けた。
「君は紙飛行機が下手です」
蛍が瞬きをする。
「夜更かしします」
「……はい」
「教師の未熟さを初対面で指摘します」
「しましたね」
「授業中、ノートの端に変なことを書きます」
「見たんですか」
「見えました」
「先生、よくないです」
「すみません」
江口は小さく笑った。
「だから、事件の子だけではないです」
蛍は黙った。
長い沈黙だった。
その間、校庭では応援練習の声が響いている。
やがて蛍は、プリントを丁寧に鞄へしまった。
「先生」
「はい」
「今日、社会の授業ありますか」
「体育祭予行なのでありません」
「残念です」
「珍しい中学生ですね」
「先生の授業、少し変なので」
「褒めてます?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「観察です」
江口は苦笑した。
榛名蛍は本当に変な生徒だ。
危うくて、静かで、妙に大人びている。
でも今、少しだけ中学生に見えた。
それで十分だと思った。
◆
その日の帰り、江口は職員室でプリントを整理していた。
浅野が横から覗き込む。
「榛名くん、来てたんですね」
「はい。教室にいました」
「校庭は無理だった?」
「みたいです」
「でも来たなら大きいわ」
浅野は微笑んだ。
「江口先生、何かした?」
「プリント渡しただけです」
「それがよかったんじゃない?」
「そうですかね」
「そういうものよ。学校って、結局プリントの山でできてるから」
江口は笑った。
確かにそうかもしれない。
学校は言葉よりも、時々、紙の方が強い。
来なかった日の分も、君の分はある。
その事実を、紙は黙って示してくれる。
その夜、江口はアパートへ帰り、ローテーブルに向かった。
翌週の授業プリントを作る。
室町文化。
余白には、問いを一つ入れた。
――残らなかったものは、本当になかったことになるのか。
少し迷って、消さなかった。
蛍なら、何かを書くかもしれない。
書かないかもしれない。
どちらでもよかった。
ただ、その余白を残しておきたかった。
◆
数日後。
江口の机の上に、一枚の紙飛行機が置かれていた。
社会科のプリントで折られている。
片羽が少し歪んでいた。
裏返すと、小さな字があった。
――片羽でも、曲がりながらなら飛べました。
江口はしばらく、その紙飛行機を見つめていた。
そして、引き出しの中へしまった。
捨てる気にはならなかった。
たぶん、この先も。
その紙飛行機は、ただの紙ではなかった。
榛名蛍が初めて、江口に渡した返事だった。
さらに数日後、江口は社会科準備室で、その紙飛行機をもう一度取り出した。
理由はない。
ただ、捨てられないものを確認したくなる夜がある。
紙飛行機の片羽は、相変わらず少し歪んでいた。
江口は何気なく、湯呑みから立つ湯気の上にそれをかざした。
湿気を含んだ紙が、わずかに柔らかくなる。
その時、江口は「あれ」と声を漏らした。
紙の余白に、薄い線が浮いた。
インクではない。
鉛筆でもない。
水分を含んだ時だけ、紙の繊維の凹みが陰になって見える。蛍が強く筆圧をかけて書き、消しゴムで消した跡だった。
そこには、かすかにこう読めた。
――残らなかったものは、湿ると戻る。
江口はしばらく、その文字を見ていた。
意味はわからなかった。
ただ、奇妙に胸に残った。
残らなかったもの。
湿ると戻るもの。
片羽でも、曲がりながらなら飛べるもの。
七年後。
雨の夜の温室で、江口はこの紙飛行機のことを思い出すことになる。
片羽の蝶を閉じ込めた標本ケース。
湿気で内側に浮かんだ、薄い線。
濡れた床に残された、乾いた違和感。
首元に一つだけあった、虫刺されのような赤い点。
そして、榛名蛍が震えた声で言った一言。
――また始まったんだと思いました。
だがこの時の江口は、まだ何も知らなかった。
ただ、紙飛行機を乾いた机の上に置き直し、明日の授業プリントを作り始めただけだった。
来るかどうかわからない生徒の分まで。
それでも、席を残すと決めた以上、紙だけは用意しておく。
教師にできることは、たぶんそれくらいしかない。
それくらいしかないからこそ、江口はその夜も、眠い目をこすりながらプリンターの電源を入れた。




