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片翼の蝶 ―江口桜次郎と消えない教え子―  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 新任教師と、欠席だらけの生徒

 四月の職員室は、独特の匂いがする。

 新品の教科書。印刷したばかりのプリント。段ボール。コーヒー。蛍光ペンのインク。少し湿ったカーテン。

 そこへ、人間の緊張が混ざる。

 京東区立第三中学校に赴任して三日目の朝、江口桜次郎は、自分の机の位置をまだ覚えきれていなかった。

「江口先生ー、朝会の資料コピー終わりました?」

 声をかけられ、江口は反射的に立ち上がる。

「あ、はい、今――」

 途中で、自分がまだコピーを取っていなかったことを思い出した。

 しまった、と思った時には遅い。

 学年主任の須藤が、眼鏡越しにこちらを見ていた。

「まだ?」

「……今からです」

「急いでねー」

 怒ってはいない。

 だが、その“怒ってはいない”感じが、新任教師にはいちばん怖い。

 江口は慌てて資料を抱え、コピー機へ向かった。

 途中、同じ社会科教師の女性に笑われる。

「大丈夫ですか、新任先生」

「大丈夫じゃないです」

「ですよね」

 笑いながら言われた。

 江口は苦笑するしかない。

 二十二歳。

 大学を出たばかり。

 教師になりたかったのかと訊かれると、正直よくわからない。

 子どもが好きだったわけではない。

 熱血教師に憧れていたわけでもない。

 ただ、なんとなく教職課程を取って、なんとなく採用試験を受けて、気づいたらここにいた。

 今のところ、自分が教師に向いているとは思えない。

 生徒との距離感がわからない。

 職員室の空気も読めない。

 会話のタイミングも掴めない。

 大学時代の友人には、

『お前、教師とか絶対向いてない』

 と笑われた。

 江口自身もそう思っていた。

 だが現実には、ネクタイを締め、教壇に立っている。

 人生というのは時々、意味のわからない方向へ進む。

 コピー機は古かった。

 紙詰まりを起こすたびに、内部の熱い金属部分から紙を引き抜かなければならない。江口は朝から三度も紙詰まりを起こした。最後の一枚を取り出した時、指先に黒いトナーがついた。

 汚れた指をハンカチで拭きながら、江口はふと思った。

 紙というのは面倒だ。

 増える。

 汚れる。

 破れる。

 なくなる。

 けれど、学校は紙でできている。

 出席簿も、プリントも、連絡帳も、保健室の記録も、進路調査も、反省文も。

 誰かがそこにいたという証拠は、たいてい紙に残る。

 そして残らなかったものは、最初からなかったみたいに扱われる。

 江口は、その時まだ知らなかった。

 自分がこの先、ひとりの生徒のために、欠席した日の分まで紙を残し続けることになるとは。

 コピーを終え、職員室へ戻ろうとした時だった。

「江口先生」

 呼び止められる。

 振り返ると、学年主任の須藤が立っていた。

 五十代半ばの男性教師だ。

「二年二組の件、聞いてる?」

「二組ですか?」

「榛名蛍くん」

 その名前を聞いた瞬間、須藤の声のトーンが少しだけ変わった。

 江口はまだクラス名簿を完全には覚えていない。

 だが、“榛名蛍”という名前には見覚えがあった。

 ニュースで。

「……ああ」

 思わず声が漏れた。

 須藤は頷く。

「そう。“あの事件”の子」

 江口は曖昧に頷いた。

 七年前。

 一家惨殺放火事件。

 父母と姉が殺害され、自宅は全焼。

 唯一生き残ったのが、当時七歳だった榛名蛍。

 事件は連日ニュースで報じられた。

 江口も中学生だった頃、何度も映像を見た記憶がある。

 燃えた家。

 規制線。

 泣きながら頭を下げる近隣住民。

 そして、“生き残った少年”。

「今は叔父夫婦のところにいる」

 須藤が言った。

「ただ、登校が安定しなくてね」

「不登校ですか」

「まあ、簡単に言えば」

 須藤は少し言葉を選んだ。

「昼間の外出が難しいらしい。人混みも苦手だって」

 江口は何と言えばいいかわからなかった。

「だから、配慮してあげて」

 その言葉に、江口は少しだけ眉を寄せた。

 “配慮”。

 便利な言葉だ。

 だが、便利すぎて中身が曖昧になる。

 どう接するのが正解なのか。

 優しくするべきなのか。

 普通に扱うべきなのか。

 踏み込むべきなのか、触れないべきなのか。

 須藤は続けた。

「無理に来させなくていい。でも、来た時にはちゃんと見てあげて」

「……はい」

「あと、事件の話はしないように」

「それはもちろん」

「生徒同士でも話題になることがあるから、気をつけてね」

 江口は再び頷いた。

 だがその時点で、既に少し気疲れしていた。

 正直に言えば、荷が重い。

 普通の新任教師ですらいっぱいいっぱいなのに、そんな生徒を受け持つのかと思う。

 須藤はそんな江口の顔を見て、少し笑った。

「まあ、気負わなくていいよ」

「……はあ」

「たぶん、君みたいなタイプの方が合う」

「そうですか?」

「変に熱血じゃないから」

 それは褒められているのかどうかわからなかった。

     ◆

 二年二組の教室は、窓際だけが妙に明るかった。

 四月の日差しが差し込んでいる。

 昼休み、生徒たちは騒がしかった。

 男子はカードゲームをし、女子は机を寄せて話している。

 その真ん中を通りながら、江口は教壇へ向かった。

「提出物まだの人、今日中に――」

 そこで、ふと気づく。

 一番後ろ、窓際の席。

 誰も座っていない。

 名札には『榛名』と書かれていた。

 そこだけ、空気が違う。

 教室の中に、小さな空白があるみたいだった。

 女子生徒が気づいて言う。

「あ、先生、榛名くん今日も来てないですよ」

「そうなんですか」

「ずっとですよ」

 別の男子が口を挟む。

「俺、一回しか見たことない」

「え、来たことあるの?」

「去年ちょっとだけ」

 生徒たちの声には悪意はない。

 ただ、“珍しい存在”として扱っている。

 江口は軽く頷いた。

「そういう話は本人の前でしないようにね」

 すると、一瞬だけ教室が静かになった。

 言い方が教師っぽかったかもしれない、と江口は思う。

 自分でも驚く。

 案外、教師というのは、形から入るものなのかもしれない。

 教卓の上に置かれた提出物の山を揃えながら、江口はもう一度、窓際の空席を見た。

 椅子の脚に、薄く埃が溜まっている。

 使われていない机。

 置かれない教科書。

 開かれないノート。

 誰かがいないということは、思ったよりはっきり形になるのだと思った。

     ◆

 その日の帰り道だった。

 江口はコンビニ袋を提げ、住宅街を歩いていた。

 一人暮らし用の狭いアパートは、学校から徒歩十五分ほどの場所にある。

 四月とはいえ、夜風はまだ冷たい。

 街灯の下を通り過ぎた時、ふと、人影が見えた。

 小柄な少年だった。

 しゃがみ込んでいる。

 江口は最初、具合でも悪いのかと思った。

 だが近づくと、違うことに気づく。

 少年は地面を見ていた。

 正確には、アスファルトの上に落ちた何かを。

 江口は足を止める。

 濡れた蛾だった。

 羽が片方破れている。

 雨水に貼り付いて、もう飛べそうにない。

「……何してるんですか」

 声をかけると、少年がゆっくり顔を上げた。

 江口は一瞬、言葉を失う。

 綺麗な顔だった。

 いや、“綺麗”という言い方は変かもしれない。

 まだ子どもなのに、妙に完成されている。

 色が白い。

 目元が静かだ。

 表情が薄い。

 けれど、そこだけ切り取ると、大人みたいに見える。

 少年は江口を見上げた。

「……先生」

「え?」

「社会の先生ですよね」

 江口は瞬きをした。

「ああ、はい」

「新任の」

「そうですけど」

 少年は視線を戻した。

「榛名蛍です」

 江口は少し遅れて理解する。

 ――ああ。

 この子か。

 名簿の空席。

 教室の後ろの、誰も座っていない席。

 一家惨殺事件の生存者。

「……こんばんは」

 江口は妙な挨拶をした。

 蛍は頷く。

 沈黙。

 気まずい。

 教師として何か言うべきなのか。

 だが、“何か”がわからない。

「帰り道?」

 江口はとりあえず訊いた。

「散歩です」

「夜に?」

「夜の方が歩きやすいので」

 さらりと言われた。

 江口は返答に困る。

 蛍は地面を見たままだ。

 街灯の光が、横顔を白く照らしている。

「……蛾、好きなんですか」

「別に」

「じゃあ何で」

 蛍は少し考えるように沈黙した。

 そして言った。

「蛍って、明るいところだと見えないんです」

「……は?」

「暗い場所じゃないと、光ってるかわからない」

 江口は意味がわからなかった。

 だが蛍は真面目だった。

「人間も同じかもしれません」

 十三歳の中学生がする話ではない。

 江口は戸惑った。

 何を返せばいい。

 励ますべきか。

 笑うべきか。

 黙るべきか。

 結局、江口は、

「夜更かしすると体に悪いですよ」

 と言った。

 蛍がこちらを見る。

 数秒後。

 ほんの少しだけ、口元が動いた。

 笑ったのかもしれない。

 だが、それはあまりにも小さかった。

「先生」

「はい」

「それ、教師っぽいですね」

「教師ですから」

「まだ慣れてなさそうなのに」

 図星だった。

 江口は苦笑する。

「慣れてません。三日目ですし」

「三日で教師になれるんですね」

「なれてませんって」

 蛍はまた少し笑った。

 今度はさっきよりわかりやすい。

 江口は、その顔を見て少し安心した。

 ――ちゃんと中学生なんだな。

 ニュースの中の被害者じゃなく。

 “かわいそうな子”でもなく。

 目の前にいる、生きてる人間なんだと思った。

「榛名くん」

「はい」

「学校、来られそうですか」

 訊いた瞬間、失敗したと思った。

 だが蛍は怒らなかった。

「わかりません」

「……そっか」

「先生は、来てほしいですか」

 江口は言葉に詰まる。

 正解がわからない。

 だが、黙るのも違う気がした。

「まあ」

 江口は頭を掻いた。

「来たら、ちょっと嬉しいかもしれません」

「どうしてですか」

「担任ですし」

「それだけ?」

「それ以上あると逆に怖いでしょう」

 蛍は数秒、江口を見ていた。

 その視線が妙に静かで、江口は落ち着かなくなる。

 やがて蛍は立ち上がった。

「先生」

「はい」

「たぶん、普通に接した方が楽ですよ」

「え?」

「みんな、僕に気を遣うので」

 その言い方があまりにも自然で、江口は何も言えなかった。

 十三歳の子どもがする顔じゃない、と思う。

 人に気を遣われることに慣れすぎた顔だ。

「……善処します」

 ようやくそう答えると、蛍は少しだけ目を細めた。

「先生、不器用ですね」

「初対面の中学生に言われました?」

「はい」

「傷つくなあ」

「でも、嫌いじゃないです」

 その言葉に、江口は少し驚いた。

 蛍はもう歩き出している。

 街灯の下を抜け、暗い道へ消えていく。

 江口はその背中を見送った。

 細い。

 頼りない。

 けれど妙に目を離せない。

 江口はふと思う。

 あの子はたぶん、ずっと一人で夜を歩いてきたのだ。

 十三歳には長すぎる夜を。

     ◆

 翌週。

 榛名蛍は学校へ来た。

 二年二組の教室が、一瞬だけ静かになった。

 生徒たちは露骨に見ないようにしながら、気配だけ窺っている。

 蛍は窓際の一番後ろの席へ座った。

 白い指で教科書を開く。

 それだけの動作なのに、妙に目立った。

 江口は教壇からその姿を見る。

 普通に接する。

 それが難しい。

 周囲が気を遣えば遣うほど、“普通”は壊れていく。

 江口は出席簿を開いた。

「榛名」

「はい」

 静かな返事。

 教室の空気がわずかに揺れる。

 江口は頷いた。

「出席ですね」

「はい」

「すみません、見ればわかりますね……」

 蛍が少しだけ笑った。

 クラスの女子が驚いた顔をする。

 たぶん初めて見たのだろう。

 榛名蛍が笑うところを。

 江口はそこで、ようやく気づいた。

 ――ああ。

 この子、最初から全部拒絶してるわけじゃないんだ。

 ただ、“どう近づかれるか”をずっと見てる。

 それだけなのかもしれない。

 授業の終わり、江口は何気なく出席簿の榛名の欄に丸をつけた。

 ただの丸だ。

 けれど、その小さな印が紙の上に残るのを見て、江口は少しだけ息を吐いた。

 誰かがここにいたという証拠は、案外、こういう形でしか残らない。

 そして、残すかどうかを決めるのは、いつも大人の側なのだ。


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