第八章 片翼の蝶
朝の大学は、前日までと違って見えた。
京東大学の理学部棟は、いつもなら白衣の学生や研究者が行き交い、どこか無機質な活気に満ちている。だがその日は、廊下の空気が重かった。
人が死んだ研究棟。
そういう場所には、音が残る。
誰も大声を出さない。
足音が少しだけ遅くなる。
廊下ですれ違う学生たちは、互いに目を合わせず、しかし何かを確認するように相手の顔を見る。
榛名蛍は、その空気の中を静かに歩いていた。
江口桜次郎は少し後ろを歩いた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「信用できない方の大丈夫ですね」
「はい」
「自覚があるなら、言い換えてください」
蛍は少し考えた。
「足は動いています」
「それは大丈夫とは言いません」
「先生、要求が増えましたね」
「君のせいです」
蛍はわずかに笑った。
それだけで江口は少し息がしやすくなる。
二十歳の青年になっても、蛍は笑い方が小さい。
十三歳の頃から変わらない。
だが今日は、その笑みの奥に覚悟があった。
昨夜、二階堂から届いたメッセージ。
『相沢のパソコンから、榛名忠の研究データに関するファイル名が見つかった。中身は削除済み。復元中』
そしてファイル名。
『Lepidoptera_OneWing』
鱗翅目。
片羽。
片翼の蝶。
それが意味するものは、まだわからない。
だが、相沢遼介が十三年前の事件に近づいていたことだけは確かだった。
江口と蛍は、柿沼怜司の研究室へ向かった。
四階の廊下は静かだった。
蛍がドアの前で一度立ち止まる。
「榛名くん」
「はい」
「僕が聞きます」
「どうしてですか」
「君が聞くと、苦しいでしょう」
「でも、僕の話です」
「だから、苦しい」
蛍は江口を見た。
その目は静かだった。
「先生」
「はい」
「僕、今日は逃げません」
江口は言葉を失う。
それから、小さく頷いた。
「わかりました」
蛍がノックする。
中から返事があった。
「どうぞ」
柿沼怜司は、机の前に座っていた。
昨日と同じように、研究室は整っていた。机の上には資料が積まれ、パソコンの画面には植物の画像が映っている。
人が死んでも、研究室は整っている。
そのことが江口には少し不気味だった。
「榛名くん」
柿沼は蛍を見た。
「今日は来ない方がいいと言ったはずだ」
「聞きたいことがあります」
「警察に任せなさい」
「警察は、僕の記憶までは任せられません」
柿沼の表情がわずかに変わる。
蛍は一歩前へ出た。
「父の研究データについて教えてください」
研究室の空気が止まった。
江口は黙っていた。
ここから先は、蛍自身が踏み込む領域だ。
柿沼は眼鏡を外し、机に置いた。
「誰から聞いた」
「相沢さんのパソコンに、父の研究データに関するファイル名がありました」
「……警察から?」
「違います」
蛍は答えなかった。
柿沼は江口を見る。
江口は視線を逸らさなかった。
「相沢は、余計なことをした」
「余計なこと?」
蛍の声が少し硬くなる。
「人が一人死んでいます」
「だから言っている」
柿沼の声も低くなった。
「彼は、死ぬかもしれない場所に自分から踏み込んだ」
「誰が殺したんですか」
「私ではない」
「まだ聞いていません」
蛍の返しは静かだった。
だが鋭い。
柿沼は少しだけ口元を歪めた。
「君は、忠さんに似てきたな」
「父を知っているんですか」
「知っている。優秀で、頑固で、自分が正しいと思ったことを曲げない人だった」
「その父は、なぜ殺されたんですか」
柿沼は答えなかった。
沈黙。
窓の外では曇り空が広がっていた。
「柿沼先生」
江口が口を開いた。
「榛名忠さんの研究は、何だったんですか」
柿沼はしばらく黙っていた。
やがて、立ち上がり、本棚から一冊のファイルを取り出した。
古いファイルだった。
表紙には、薄れたラベルが貼られている。
『閉鎖環境下における植物毒性成分の変性について』
柿沼はそれを机の上に置いた。
「忠さんは、植物由来の毒性成分が環境条件によってどう変化するかを研究していた」
「毒の研究?」
「薬にも毒にもなる。そういう領域だ」
柿沼はページをめくる。
「特定の植物を閉鎖環境で育てると、通常とは異なる成分比を示すことがある。律さんはそれを発見した。湿度、温度、光量、栄養状態。それらを変えることで、毒性成分の強さが変わる」
江口は温室を思い出した。
閉鎖環境。
湿度。
温度。
自動灌水装置。
床を濡らした水。
標本ケースの内側に浮かぶ線。
事件現場の条件が、ただの雰囲気ではなく、何かの再現に見えてきた。
「それは、危険な研究だったんですか」
蛍が訊いた。
「扱い方によっては」
「だから企業が欲しがった」
柿沼は蛍を見る。
「君は賢い」
「褒めないでください」
蛍の声は冷たかった。
「父は、その研究を止めようとしたんですか」
「止めようとしたというより、公開範囲を制限しようとした。悪用される可能性を懸念していた」
「大学と企業は?」
「共同研究契約があった。成果の権利をめぐって揉めた」
「その後、父は殺された」
「そうだ」
「母も姉も」
「……そうだ」
柿沼の声は初めてかすれた。
蛍は両手を握りしめていた。
江口はその手の白さを見ていた。
「片羽の蝶は何ですか」
蛍が訊いた。
「相沢さんのパソコンにあったファイル名です。姉の標本でもある。父の研究データとも関係している。どういう意味ですか」
柿沼は目を閉じた。
「灯里さんは、忠さんの研究データを標本箱に隠した」
蛍の呼吸が止まった。
江口も思わず身を乗り出す。
「なぜ、そんなことを」
「忠さんがそうさせたのか、灯里さんが自分で気づいたのかはわからない。ただ、事件後に研究データの一部が消えていた」
「消えた?」
「大学側にも、企業側にも、警察にも見つからなかった」
柿沼は古い写真を取り出した。
焼け焦げた標本箱。
その中に、片羽の蝶の影。
「相沢は考えた。消えたデータは、標本箱のどこかに隠されていたのではないかと」
「標本箱は燃えたんじゃないんですか」
「全部ではない」
柿沼は言った。
「焼け残った一部があった。そして、それは事件後、榛名家の親族に返却された可能性がある」
蛍の顔から血の気が引いた。
「叔母さん」
江口が呟いた。
柿沼は否定しなかった。
「美佐枝さんは、知っていたんですか」
蛍の声は震えていた。
「どこまで知っていたかはわからない」
「でも、隠していた」
「おそらく」
「誰から」
「君から。警察から。そして、当時の関係者から」
蛍は数秒、何も言わなかった。
やがて、低く言った。
「守るため?」
「そうかもしれない」
「何を」
柿沼は答えない。
蛍は顔を上げた。
「僕ですか。父の研究ですか。自分ですか。それとも、犯人ですか」
その問いに、柿沼は沈黙した。
◆
柿沼の研究室を出た後、蛍は廊下の壁にもたれた。
顔色が悪い。
江口は近づく。
「榛名くん」
「平気です」
「それは禁止です」
「……気持ち悪いです」
「よく言えました」
「褒めるところですか」
「今は褒めるところです」
江口は自動販売機で水を買い、蛍に渡した。
蛍は小さく礼を言って飲む。
「先生」
「はい」
「俺、姉に何を渡されたんでしょう」
「標本箱か、その一部」
「その中に、父の研究データが入っていた」
「可能性はあります」
「姉は知っていたんでしょうか」
「わかりません」
「知っていたから、俺に隠せと言った?」
蛍の声がかすれた。
「俺は、守れなかった」
「まだ決めない」
江口は強めに言った。
蛍が顔を上げる。
「まだ何も決まっていません」
「でも」
「でもじゃない」
江口は蛍を見る。
「君は七歳でした」
「関係ありません」
「あります」
「姉は十二歳でした」
「あります」
江口の声が強くなる。
「七歳と十二歳の子どもが、大人の欲と犯罪の責任を背負う必要はありません」
蛍は黙った。
唇がわずかに震えている。
「先生は、いつもそう言いますね」
「何度でも言います」
「俺がそう思えなくても?」
「思えるまで言います」
蛍は水のペットボトルを握ったまま、目を伏せた。
その時、江口のスマートフォンが震えた。
二階堂からだった。
『相沢の削除ファイル、一部復元。今すぐ来られる?』
江口は画面を蛍に見せた。
蛍は息を整え、小さく頷く。
「行きます」
「無理なら」
「行きます」
その目に、もう迷いはなかった。
◆
二階堂は、大学近くの貸し会議室を押さえていた。
警察関係者ではない江口と蛍を庁舎内へ呼ぶわけにはいかない。
だから、非公式の場所を選んだのだろう。
部屋には、二階堂の他に真壁彰がいた。
黒髪で、背が高い。
刑事らしい刑事、という印象を受ける男だった。
江口は何度か顔を合わせたことがある。
真壁は蛍を見ると、軽く頭を下げた。
「警視庁の真壁です」
「榛名です」
「疲れているところすみません」
蛍は首を振った。
二階堂がノートパソコンを開く。
「復元できたのはファイル名と断片だけ。中身の大部分は削除されていた。ただ、いくつか読める部分がある」
画面に、文字列が表示された。
『Lepidoptera_OneWing』
『Haruna_Ritsu』
『Oleander_modified glycoside』
『Humidity trigger』
『A. specimen box』
『Misae_H?』
蛍の目が止まった。
「Misae」
江口も同じ場所を見ていた。
美佐枝。
蛍の叔母の名前。
二階堂は続ける。
「相沢は、榛名忠の研究データと、榛名美佐枝さんを結びつける何かを見つけていた可能性がある」
「叔母が犯人なんですか」
蛍が訊いた。
二階堂はすぐには答えなかった。
「まだ断定はできない。ただ、十三年前の証拠品、あるいは返却品の中に、研究データの一部があった。それを美佐枝さんが保管していた可能性は高い」
「なぜ警察に出さなかったんですか」
真壁が静かに言った。
「出せなかったのかもしれません」
「なぜ」
「出せば、蛍くんが狙われると考えた」
二階堂が補足する。
「研究データには価値があった。企業側、大学側、当時の関係者。欲しがる人間はいたはずだ」
「でも、隠していたせいで相沢さんが死んだ」
蛍の声は低かった。
江口は蛍を見る。
蛍は画面を見つめていた。
怒っている。
珍しく、はっきり怒っていた。
「相沢さんは、俺に言いました」
蛍が口を開いた。
「“片羽の蝶は、お前のものじゃない”と」
二階堂が頷く。
「その意味は、たぶん二重だね」
「二重?」
「一つは、片羽の蝶が君の記憶ではなく、灯里さんの標本だったという意味」
蛍は黙る。
「もう一つは、片羽の蝶に隠されたもの――研究データが、君のものではないという意味」
「誰のものですか」
「相沢は、おそらくそう考えた。研究データは榛名忠のものでも、君のものでもない。社会に公開されるべきもの、あるいは自分が発見者として扱えるものだと」
江口は眉をひそめた。
「相沢さんは、それで誰かを脅した?」
「可能性はある」
二階堂は言った。
「研究データの存在を知り、関係者に接触した。美佐枝さんにも接触したかもしれない。柿沼にも。あるいは、当時の企業関係者にも」
真壁が口を開く。
「相沢は亡くなる前日、榛名美佐枝さんに電話をかけています」
蛍が顔を上げた。
「叔母に?」
「通話履歴があります。通話時間は七分三十二秒」
「内容は」
「まだ確認中です」
蛍は唇を噛んだ。
「叔母さんは、嘘をついた」
江口はすぐに否定できなかった。
美佐枝は相沢を知らないような言い方をしていた。
だが、通話していた。
それは明確な嘘だ。
二階堂が続ける。
「そして事件当日、相沢は温室へ向かう前に、誰かと会っている」
「誰ですか」
「防犯カメラに映っていた。顔は傘で見えない。ただ、女性の可能性が高い」
蛍の肩がわずかに揺れた。
「叔母さん?」
「まだわからない」
「でも」
「榛名くん」
二階堂の声が少し強くなる。
「今ここで決めつけない方がいい」
蛍は黙った。
江口はその横顔を見ていた。
この子は今、叔母を疑っている。
自分を育てた人。
守ってくれた人。
閉じ込めた人。
その全てが同時に崩れようとしている。
◆
夕方、榛名美佐枝から蛍へ電話があった。
蛍は画面を見て、数秒固まった。
江口が訊く。
「出ますか」
「出ます」
蛍は通話ボタンを押した。
スピーカーにはしない。
だが、近くにいた江口には、美佐枝の声がかすかに聞こえた。
『蛍、今どこにいるの』
「大学の近く」
『一人?』
「先生といます」
沈黙。
『江口先生?』
「うん」
『……そう』
美佐枝の声はいつもより低かった。
『蛍、今夜、家に来なさい』
「何のために」
『話があります』
「電話じゃだめ?」
『だめ』
蛍は江口を見た。
江口は首を横に振りかけた。
だが、蛍は目を逸らさなかった。
「行く」
『一人で来て』
「それは無理」
『蛍』
「先生も来る」
また沈黙。
美佐枝の呼吸だけが聞こえる。
『……わかったわ』
通話が切れた。
江口はため息をついた。
「一人で行かない判断は偉いです」
「先生なら褒めると思いました」
「褒めます」
「でも止める?」
「止めたいです」
「行きます」
「でしょうね」
江口は二階堂へ連絡した。
二階堂はすぐに言った。
『真壁も近くに置く。絶対に二人だけで会わないで』
「わかった」
『江口』
「何」
『感情で動きすぎないように』
「努力する」
『お前の努力は信用してない』
「ひどいな」
『榛名くんを守りたいなら、まず江口が冷静でいて』
二階堂の声は静かだった。
江口は短く答える。
「わかった」
◆
夜の榛名家は、以前より暗く見えた。
玄関の明かりだけがついている。
美佐枝は、二人を客間ではなく、奥の和室へ通した。
そこには仏壇があった。
榛名忠。
榛名紗和。
榛名灯里。
三つの位牌。
蛍は入口で立ち止まった。
江口は、その横顔を見た。
蛍は震えていなかった。
だが、呼吸が浅い。
「蛍」
美佐枝が言った。
「あなたに渡さなければならないものがあります」
彼女は押し入れから、小さな木箱を出した。
古く、端が焦げている。
蛍の顔が白くなる。
「それ」
「事件後、返却されたものよ」
美佐枝の声は震えていた。
「あなたには見せないつもりだった」
「どうして」
「守りたかったから」
「何から」
「全部から」
美佐枝は木箱を畳の上に置いた。
「火事の後、これだけが残っていたの。灯里ちゃんの標本箱の一部」
蛍は動けなかった。
江口がそっと言う。
「開けますか」
蛍は頷いた。
美佐枝が蓋を開ける。
中には、焼け焦げた標本の台紙が入っていた。
片羽だけ残った蝶。
その下に、小さな金属板のようなものが貼り付けられている。
「これは?」
江口が訊く。
「マイクロSDカードよ」
美佐枝は言った。
「忠兄さんの研究データが入っていた」
蛍の唇が動いた。
「叔母さん、知ってたの」
「知らなかった。最初は」
「最初は?」
「事件の数年後、カードの存在に気づいたの。復元を頼んだら、中身が研究データだとわかった」
「なぜ警察に出さなかったの」
蛍の声は震えていた。
美佐枝は顔を伏せた。
「怖かった」
「何が」
「あの事件は、研究データのせいで起きたのかもしれないと思ったから」
「だから隠した?」
「あなたを守るためだった」
「俺を?」
「そうよ!」
美佐枝の声が初めて大きくなった。
「あなたは生き残ったのよ。忠兄さんも、紗和さんも、灯里ちゃんも死んで、あなただけが残った。これ以上、何を奪われればよかったの?」
蛍は黙っていた。
江口も黙る。
「データを出せば、また誰かが来ると思った。あなたを利用しようとする人が。忠兄さんの研究を欲しがる人が。だから隠した」
「相沢さんには?」
蛍が訊いた。
「電話しましたね」
美佐枝は唇を噛んだ。
「彼は、これの存在に気づいていた」
「見せたんですか」
「見せていない。でも、彼はしつこかった。データを渡せと言った」
「脅された?」
「あなたに本当のことを話すと言われた」
「だから殺したんですか」
美佐枝の顔が強張った。
「違う」
「じゃあ、誰が」
「知らない」
「嘘」
蛍の声は低かった。
「叔母さんは、いつもそうです。俺に知らなくていいと言う時、何かを隠してる」
美佐枝は泣きそうな顔をした。
「本当に知らないの。私は相沢さんに会っていない」
「防犯カメラに女性が映っていた」
「それは私じゃない」
「信じろって?」
「蛍」
「俺は、叔母さんを信じてきた」
蛍の声が初めて大きくなった。
江口は息を止める。
「感謝してた。苦しくても、感謝しなきゃいけないと思ってた。叔母さんがいなかったら、俺は生きていけなかったから」
「蛍……」
「でも、叔母さんは俺から奪ってた」
「奪ってなんか」
「知る権利を」
蛍の目には涙が浮かんでいた。
だが、落ちなかった。
「姉が俺に託したものを、叔母さんは隠した」
美佐枝は泣いていた。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
「蛍」
「謝られたら、俺が許さないといけなくなる」
その言葉に、美佐枝は何も言えなくなった。
江口は、胸の奥が痛くなった。
蛍は、ずっとこういう子だった。
他人の感情の置き場を先に考えてしまう。
自分が傷ついている時でさえ、相手がどう困るかを見てしまう。
だからこそ、嘘をついたのかもしれない。
大人が望む形に合わせて。
何も覚えていない。
犯人は見ていない。
ただ生き残っただけ。
そう言えば、周囲の大人は安心した。
◆
その時だった。
江口のスマートフォンが震えた。
二階堂から。
画面には短いメッセージ。
『女性の身元判明。美佐枝さんではない。柿沼の共同研究相手、企業側の元担当者。現在名は水原佳乃』
続けてもう一通。
『十三年前、榛名忠の研究データの権利を巡って揉めていた人物』
江口は画面を見たまま、血の気が引くのを感じた。
美佐枝は犯人ではない。
隠していた。
嘘をついた。
蛍を閉じ込めた。
だが、相沢を殺した人物ではない。
「先生?」
蛍が江口を見る。
江口はスマートフォンを見せた。
蛍の目が細くなる。
「水原佳乃……」
美佐枝が震えた声を出した。
「その人、知っています」
「誰ですか」
江口が訊く。
「忠兄さんの研究を欲しがっていた会社の人です。事件後にも、一度だけ連絡が来ました」
「いつ」
「蛍が中学生の頃」
蛍の顔が変わる。
「何のために」
「あなたが何か持っていないか確認したかったのだと思う」
「それを俺に言わなかった」
「言えるわけないでしょう」
美佐枝は泣きながら言った。
「あなたはやっと学校へ行けるようになって、江口先生の授業だけでも出るようになっていた。そんな時に、またあの事件の話なんて」
蛍は黙った。
江口はその言葉に、胸を突かれた。
美佐枝は確かに蛍を閉じ込めた。
だが同時に、守ってもいた。
正しさと間違いが、簡単に分けられない。
「水原佳乃が、十三年前の犯人なんですか」
蛍が訊いた。
江口は首を振った。
「まだわからない」
「でも、相沢さんを殺した可能性は高い」
「高いです」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
全員が動きを止めた。
こんな時間に。
美佐枝が立ち上がろうとする。
江口は手で制した。
「待ってください」
スマートフォンを見る。
二階堂から新たなメッセージ。
『水原、現在所在不明。そちらに向かっている可能性あり。絶対に出ないで』
チャイムがもう一度鳴った。
蛍が木箱を抱えた。
その目はもう揺れていなかった。
「先生」
「はい」
「これを、今度こそ守ります」
「一人で守らない」
江口は低く言った。
「今度は、一人で守らせません」
玄関の向こうで、女の声がした。
「榛名さん。水原です。少しお話できますか」
美佐枝が口元を押さえる。
蛍は木箱を強く抱えた。
その背中には、服の下に片羽の火傷痕がある。
七歳の夜、彼が本当に何をしたのか。
まだ全てはわからない。
だが一つだけ確かだった。
片翼の蝶は、蛍の罪ではない。
灯里が残した証拠だった。
父が隠した研究だった。
そして、十三年前の大人たちの罪が、ようやく羽を広げようとしていた。
江口は蛍の前に立った。
かつて、雨の夜に部屋へ入れなかった少年。
その少年が今、過去の中心に立っている。
今度は、ドアの内側に入れないわけにはいかなかった。
江口は小さく息を吐き、スマートフォンを握る。
玄関の向こうで、女がもう一度言った。
「蛍くんも、そこにいるんでしょう?」
蛍の肩が震えた。
だが、逃げなかった。
「先生」
「はい」
「俺、思い出しました」
江口は振り返る。
蛍の顔は白かった。
それでも、目だけはまっすぐだった。
「あの夜、煙の向こうにいた人」
玄関の向こうの女の声が止まった。
蛍は、はっきりと言った。
「女の人でした」
江口は息を呑む。
十三年前の嘘が、今、崩れた。
チャイムが三度目を鳴らす。
そしてその音は、告解の鐘のように、家の中へ響いた。




