第8話「間に合った」
フィリアに花畑へ案内してもらってから、数日が過ぎた。
あの日以来、俺はフィリアと一度も顔を合わせていない。毎日の食事は届けてくれていた。けれど、気づけば扉の前に置かれているばかりで、直接言葉を交わす機会はなかった。
ただ、気配だけは確かに感じていた。
朝は俺が起きる前に置いていってしまうが、昼はいつも小屋の庭で魔法の練習をしている。フィリアは俺が練習を切り上げるまで、食事のトレイを抱えたまま木陰に身を潜めているのだ。
本人は隠れているつもりなのだろうが、いかんせん分かりやすすぎる。
向けられる視線が気になり、ひどく気まずかった。
仲直りがしたい。
けれど、どう切り出せばいいのか分からない。俺が、記憶を取り戻すために地上へ降りたいと願う限り、フィリアを傷つけずに済む言葉なんて見つかりそうになかった。いっそ、何も言わずにこのまま村を出て行った方がいいのだろうか。
「おーい、兄ちゃん! メシ、ここに置いとくぜ!」
翌朝、扉の向こうから聞き慣れない野太い声が響いた。
飛び起きて外へ出ると、そこには以前見かけた大柄な男が立っていた。あの痩せた元冒険者の隣にいた人物だ。
「いやあ、嬢ちゃんの親御さんが風邪をこじらせちまったらしくてな。嬢ちゃんが薬草を摘みに行くってんで、俺が代わりにメシ番を任されたわけだ」
「……あ、そうだったんだ」
「兄ちゃん、顔に『心配でたまらない』ってデカデカと書いてあるぜ」
「うぐっ」
図星を突かれて思わず言葉に詰まる。
「まあ、心配すんな。親御さんの病気はちゃんと薬草を煎じれば治る類のもんだし、場所は森の奥だが魔除けのお守りを持ってりゃ何の問題もねえよ。明日にはまた嬢ちゃんが笑顔でメシを持ってくるさ」
「そっか……よかった」
「それはそうとして」
男は腕を組んだ。
「ちゃんと腹割って話し合った方がいいぜ。二人の間に何があったのかは知らねえが、よくねえ空気が流れてるのは傍から見てても丸わかりだ。嬢ちゃん、ここ数日ずっと元気がなかったしな。……先の長いお前さんたちに言うのも野暮だが、人生いつ何が起こるか分かんねえんだ。せめて悔いだけは残すなよ」
胸の奥を強く突かれた気がした。
「……そうだよね、ありがとう。ちゃんとフィリアと話してみるよ」
俺が真っ直ぐ向き直って答えると、男は満足そうに口端を吊り上げて頷いた。
「嬢ちゃんはあっちだぜ」
そういうと、村の傍の森の方向を指した。
「兄ちゃんには必要ないかもしれないが、俺のを貸すよ。これも持ってきな」
それを見て、俺は驚いた。
小さな盾の形をした木彫りのお守り、魔除けのお守りを手渡してくれた。
「こんな大事なもの、受け取れないよ」
「今日は村から出ねえから平気さ」
「そうはいっても……」
「ま、ずっと持ってかれちゃ困るから、全部片付いたら返してくれ。じゃあな!」
感謝の言葉を述べる暇もなく、男は背中を向けたままひらひらと手を振り大股で去っていった。
「ありがとう!」
男の背中に声をかける。
そうだ、このままでいいはずがない。
あの日の恩を忘れたのか。あの日拾ってもらえなかったら、今頃どうなっていたか分からない。俺は助けられたんだ。まだ何も返せていない。
――行こう。
◇
森に入る。
歩きづらい獣道を進む。森の奥だと言っていた。細かい場所は分からないが指された方向にまっすぐ進むしかない。
奥へ進むにつれ、周囲の空気が不気味なほど静まり返っていくのを感じた。
鳥の羽ばたきも、小動物が草を揺らす音も一切しない。これまで森のあちこちから注がれていた魔物たちの気配が、完全に消え失せていた。ざわざわと風に揺れる木々の擦れる音だけが、耳障りに響く。
胸騒ぎがする。
嫌な予感に急き立てられ、無意識のうちに体内の魔力の循環速度を引き上げていた。
さらに奥へと踏み込んだ瞬間、視界の隅に転がっていたあるものに気を取られた。
心臓が跳ね上がる。編み込まれた小さな籠。周囲に散らばる摘みたての薬草。そして、ぬかるんだ土に残された小さな足跡。
『――先生、助けて』
風に乗って、消え入りそうな微かな悲鳴が届いた。
五感は魔力で強化されていた。その耳が、声を確かに捉えていた。思考より先に身体が弾け飛んでいた。ただひたすらに、声がする方角へと木々を縫って疾走する。
木漏れ日が指す小さな広場。
フィリアを見つけた。
地面にへたり込むフィリアを見下ろすように、前に人が立っていた。
その手に持った『何か』を、頭上から振り下ろそうとしている。
その光景を見た瞬間、思考が消えた。
ただ、地面を大きく踏み抜いていた。
「メア、くん」
一足で間合いを詰め、フィリアとその人の間に入る。
振り下ろされたその『何か』を右手で真っ向から受け止める。肉が裂ける感覚と共に飛び散った赤い飛沫が頬を打った。
前を見る。
人だった。二本の角が生えていた。肌の色が薄く赤みがかっていた。
魔族。そんな呼び名が思い浮かんだ。
魔族の端正な顔つきに似合わず、その瞳からは知性を感じなかった。
人の形をしているはずなのに、まるで魔物のようだった。きっと正気ではない。
底知れない危険信号が全身を駆け巡る。
手のひらに食い込んでくる『何か』の重みを感じながら、右足にありったけの魔力を込めて魔族の鳩尾を蹴り上げた。
重い衝撃音が響き、吹き飛ばされた魔族の身体が背後の大木に叩きつけられる。
すぐさま振り返り、フィリアの無事を確かめる。
大きな怪我はないように見える。意識もはっきりしている。転んだときに擦りむいたのか、膝が少し赤くなっていた。
「良かった」
「メアくん、手が……!」
自分の手を見下ろすと、手のひらが骨の近くまで深く切り裂かれていた。
魔族に目をやる。その右手に握られていたものは、剣だった。剣を素手で受け止めてしまったらしい。幸い、じんじんと熱くなってはいるが、痛みは感じない。興奮が痛みを消しているのだろう。
大丈夫、俺の治癒力ならすぐに治る。
そう自分に言い聞かせて魔族に向き直した。
魔族はのっそりと起き上がった。
蹴り飛ばした時、しっかりとした感触があった。木に叩きつけた。普通の人間ならしばらくは起き上がってこれないはずだった。それなのに軽々と起き上がっている。
ダメージを負っている気配は微塵もない。
森で戦った一角狼とは強度の次元が違っていた。あの時蹴り飛ばした狼はかなり動きが鈍っていた。
あれから俺自身も魔法と身体強化を磨いて強くなっているはずなのに、目の前の敵には掠り傷ひとつ、つけることができていない。
「……大丈夫。大丈夫だから」
震えるフィリアを背中に庇いながら、自分自身に言い聞かせるように言葉を絞り出す。大丈夫だ。きっと勝てる。
ふと視線を落とすと、自分の指先が小刻みに震えていた。
怖い。死にたくない。
あの一角狼とは比べ物にならない化け物。
夢の中で胸を貫かれたあの時と同じように、一歩間違えれば自分の命を簡単に消し飛ばされてしまうという、明確な死の恐怖が這い上がってくる。
けれど、それ以上に。
『――俺は先生じゃない』
あの夕暮れの花畑で、自分が突き放してしまった時のフィリアの絶望に濡れた瞳が、目の前で怯える少女の表情と重なった。
何一つ変わっていなかった。
命を奪おうとする目の前の魔族のように、彼女を傷つけていたのは俺自身も同じだった。
申し訳なさと、自分の身勝手さに対するどうしようもない罪悪感が、胸の奥を激しく締め付ける。
足が竦むほど怖い。逃げ出したい。
けれど、あの日拾ってくれたフィリアを、俺を名前で呼んでくれたこの子を、今ここで見捨てるわけにはいかない。
立ちふさがる魔族へと意識を研ぎ澄ませた。
戦わないと。




