第7話「空島」
「ひィッ!?」
中年の痩せた男が、俺を見るなり怯えた声を上げた。
あろうことか、そのまま腰を抜かして地面にぺたりと座り込んでしまう。逆にこっちが驚いてしまうほどだ。
フィリアに『とっておきの場所』に案内してもらっている最中だ。
その場所は村を抜けた先にあるらしい。今は村を横断中だった。
村人でない俺の姿が珍しいのか、ちらちらと村人からの視線を感じていたが、ここまで露骨な反応をされたのは初めてだった。
視線に悪意はなかった……と思うので安心していたが、まさかそっちのベクトルだったとは。
見た目だけで言えば俺に怯える要素なんてないはずだった。
性別のつかみづらい中性的な少年だ。それでも怯えるなら、初日の血濡れの服を着た姿を見られてしまっていたのだろう。怪しまれて村を追い出されるのは少し困る。まだ魔力の制御を練習する余地があるし、急いで村を出ても当てはなかった。
さすがに痩せた男の態度が失礼だと思ったのか、はたまた俺が機嫌を損ねて騒ぎを起こすのを嫌ったのか。
隣にいた気のよさそうな大柄な男が、困ったように笑いながら話しかけてきた。
「がはは、悪いな。ほら、あんたにビビっちまったんだよ。悪気はねえんだ、許してやってくれないか?」
「それは大丈夫だけど……やっぱりあんな恰好じゃ怪しかったかな」
「あんな格好? ……こいつは昔、冒険者でよ。それなりに修羅場をくぐってきた分、兄ちゃんみたいなのに敏感なんだよ。……おい、いつまで寝てんだ。ほら、行くぞ! じゃ、悪かったな。嬢ちゃんも、またな」
痩せた男の腕を引いて立ち上がらせた後、連れて行った。
「……なんだったんだろう」
「あの人はちょっと怖がりなところがあって……たまに村に冒険者の方が来た時もああなんです」
「冒険者?」
「はい! ギルドに所属して、魔物の討伐やダンジョン攻略で生活している人たちですね」
冒険者。記憶にはないはずなのにその響きは妙にしっくりと腑に落ちた。
もし記憶が戻ってこの身に危険がないと分かれば、冒険者として各地を転々とするのも悪くないかもしれない。
「さ、日が暮れちゃいますよ。早く早く!」
隣を歩いていたフィリアがタタッと俺の前に立つ。彼女の笑顔を見ていると自然と口角が上がってしまった。
◇
「ほら、見えてきましたよ!」
「……すごい。一面、花だらけだ」
思わず感嘆の声が漏れた。
村を出て三十分ほど歩くと、目的の場所に到達した。
緩やかな丘一面に、名前も知らない色とりどりの花が咲き乱れていた。傾きかけた夕日が花弁を染めている。吹き抜ける風が心地よかった。甘い花の香りが風に乗って届く。
「先生と一緒によく来た、私の一番のお気に入りの場所なんです」
フィリアが少し寂しそうな顔をした。
「……先生がいなくなって寂しい?」
「寂しかったです。でも、今はメアくんがいますよね?」
「ん……そうだね」
少し照れ臭かった。それと同時に、罪悪感を覚える。
ずっとここにいるわけにはいかない。きっと大事なことを忘れている。胸の痛みが消えない。思い出さないといけないんだ。村はいずれ発つ。
丘の先の景色はどうなっているんだろう。そう思い、丘に向けて歩き出す。
「あ、気を付けてくださいね!」
フィリアが声をかける。
大丈夫、さすがに足を滑らせて丘から落ちるなんて真似はしない。
花を踏まないよう気をつけながら坂の上へと歩き出した。
坂を上るにつれて、妙に空が近く感じられることに気づいた。これまでは森の木々に視界を遮られ、村にいる間も小屋に籠もって魔法の資料を読んだり魔法の練習をしたりで、空の広がりを意識して見上げることがなかった。
坂の頂上へ足を踏み入れた瞬間、不意に地面がぷつりと切れた。
反射的に足が止まる。丘の先にあるはずの広大な大地は、どこにも存在しなかった。断崖絶壁だった。足元の切り立った崖の先には、見渡す限りの果てしない空と、遥か眼下に広がる真っ白な雲海だけが広がっていた。
吹き上げてくる冷たい突風が、肌を打って現実を突きつけてくる。
村も、あの森も。すべて初めから、遥かな空の上に浮かぶ孤島の上にあったのだ。
「綺麗な眺めですよね」
「え……ああ」
綺麗だ。それはそうなのだが。
どうやって地上に戻るんだ? そもそも地上は存在しているのか?
記憶の手掛かりは、はたしてこの空島の上にあるのか?
そうだ、『先生』は消えたんだ。
それから戻ってこないと言っていた。もしかして、『先生』は地上に向かったんじゃないのか?
「先生もよく、ここで景色を眺めていました。メアくんと同じ目を、していました」
フィリアは悲し気に笑っていた。
吹き抜ける風が二人を分かつ。
「ねえフィリア。ここからは、どうやって地上に降りるの?」
「どうして。どうして知りたがるんですか」
「俺は、記憶を取り戻したい」
空気が凍った。心臓がうるさく鳴り始めた。
「遅かれ早かれ、地上に降りないといけない」
「どうして、先生と同じことを言うの?」
フィリアの声が震え、堰を切ったように感情が溢れ出した。
「先生も……ずっと、地上に降りないとって言ってた。私は、フィリアはここにいるのに。どうして皆、私を置いていこうとするの……っ?」
フィリアの瞳は、深い絶望に濡れていた。
その思いが胸の奥を貫く。ここで優しい嘘をついて宥めることは簡単だ。
けれど、そんな不誠実な真似はできなかった。
「――俺は『先生』じゃない。フィリアになにも、してあげられないよ。ごめん」
フィリアはハッとした顔をした。
その目から涙があふれ出す。
「フィリア――」
思わず涙を拭おうと右手を伸ばす。
けれど、フィリアは怯えたように一歩後ろへ身を引いた。
明確な拒絶だった。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆い、弾かれたように背を向けた。
フィリアはそのまま走り去っていく。
伸ばしかけた俺の手は冷たい風を掴むだけで、引き止めることはできなかった。
茜色に染まる丘の上に、俺はたった一人で立ち尽くしていた。
吹き上げる冷たい風だけが、夕闇に沈みゆく花畑を無情に揺らし続けていた。




