第5話「名前」
「ここがあなたに住んでもらう小屋です! ちょっと狭いですけど、先生が使ってた小屋なんですよ」
日が暮れるころ、俺は村の端にある小屋に案内されていた。
一部屋だけの、人ひとり暮らす分には十分なサイズだ。
村へはスムーズに入れた。
フィリアが村長の元に案内してくれ、少しの間滞在したいと伝えると二つ返事で了承してくれたのだ。警戒心のかけらもなかった。
これも『先生』のおかげなのだろうか。
顔や肌は血まみれではなくなったけど、服はまだ血で汚れていた。かなり怪しいはずだった。
フィリアが言うには先生も同じようにボロボロだったらしいが、その姿と俺が重なったのだろうか。
「……あのっ」
フィリアがおずおずとした様子で口を開く。
「ん、どうしたの?」
「えっと……『あなた』ってすごく呼びづらくて……。何か呼んでほしいお名前とかありますか?」
「あ、そっか。そうだなあ……」
言われてみれば当然の疑問だ。
「……ダメだ。全然思いつかないや」
顎に手を当てた。
考えてはみたが、記憶のない頭をいくらひねったところでピンとくる名前なんて何一つ思い浮かばなかった。
困り果てて苦笑いすると、フィリアが待ってましたと言わんばかりにパッと顔を輝かせた。
「あの、もしよければ……私がお名前、付けてもいいですか?」
「えっ、フィリアが?」
「はい! あなたに、すっごくぴったりのお名前があるんです!」
そう言うと、フィリアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめてにっこりと微笑んだ。
「『メア』。私が大好きなおとぎ話の英雄の名前です」
「メア……」
「世界で一番やさしくて、傷だらけでも絶対に誰も見捨てない……私の大好きな英雄なんです。ね、ぴったりですよね?」
満面の笑み。
その熱量に少し気圧される。けれど、その瞳は俺じゃないどこか遠くを見つめているようでいて、不思議な哀愁を帯びていた。
「メア、か。響きはすごく好きなんだけど、ちょっと大層な名前じゃないかな?」
「そんなことないですよ。一目見たときからピンときました。『これしかない!』って」
それに、とフィリアが一歩身を乗り出して言葉を続ける。
「このおとぎ話、先生が教えてくれたんです。先生の故郷のお話だって。いっぱい教えてくれたんですけど、私はこのお話が一番好きで!」
「へえ……どんな話なの?」
「メアが、世界中の困った人を助けながら旅をするんです。ちょっとありきたりですけど、私はメアが大好きで! メアはね、最初から強かったわけじゃないんです。とっても繊細で、いつも悩みながら、それでも人を助けずにはいられないんです。『お人好しすぎる』って周りからは怒られてばかりなんですけど、誰かが泣いていると絶対に放っておけなくて、ボロボロになりながらでも、傷だらけの手で最後まで大切な人を守り抜くんです。どんなに強い敵が来ても、絶対に背中を向けない。先生がね、『世界で一番かっこいい、私の英雄なんだよ』って、教えてくれたんですよ!」
どこか、懐かしい感じがした。
胸の奥がチクリと痛む。
「そっか……やっぱり俺には荷が重すぎるかもね」
「そんなことないって言ってるじゃないですか。『メア』くん、よろしくお願いします!」
俺が苦笑いするとフィリアは元気よくそう言った。
メアという名前にするのは、もう決定事項らしい。
そんなに大切な物語の、主人公の名前を俺なんかに勝手につけていいんだろうか。信用しすぎ、という以前に、フィリアは距離が近すぎるような気がしていた。
「じゃあ、私はお家に帰りますね。服はこれに着替えてください。また明日、会いに来ますから!」
そう言って着替えの服を手渡すとフィリアは去っていった。
小屋の扉を閉める。
中は綺麗にされていた。先生がいなくなったのは一年前だとフィリアが道すがら教えてくれたが、その間ずっと掃除をしてくれていたのだろう。
布の服に着替えを終えると、机に置かれた紙の束が目に入る。
何かの記号の羅列が書かれてある。いや、これは文字か。読めない。ただ、何やら小難しそうなことが書かれていることは分かる。文字がびっしりで、図解なんかも要所でされていた。人の身体が書かれていて、管のようなものが全身に引かれている。まるで研究論文のようだった。
先生が使っていた小屋、とフィリアが言っていた。
これは先生が書いたものなのか? 明日、フィリアに読んでもらおう。
そこでふと気づいた。
会話は通じるのに、なぜ文字だけが読めない?
この世界の言語はすべて理解できるようになっているものだと思っていた。
まるで元々読み書きの知識だけが身についていなかったかのように理解できない。
フィリアと初めて会話したときは、無意識にこの世界の言葉を話していたし理解もできていたはずなのに。
読み書きできないというのは致命的だ。
これからも文字を読む機会はあるだろう。習得していて損はないと思う。もしフィリアに読み書きができたら教えてもらおう。
そこでハッとした。
この論文を読んでもらえるかどうかも、フィリアが文字を読めるかどうか、ってことになるのか。もし読めなかったら、村の読める人を紹介してもらうしかない。
ベッドに腰を下ろす。
今日は色々なことがあった。森に降り立ってサバイバルを強いられ、運よく村への滞在を許された。先生のおかげか村人からも好意的に受け入れられている。ますます『先生』という人物の謎が深まるばかりだ。
瓶に入れられた植物の胞子のようなものが部屋をぼんやりと照らしている。
心地よい明るさで、眠るのには支障なかった。疲れが一気に押し寄せ、急速に眠気が満ちてくる。
「メア、か……」
横になり、目を閉じた。
◇
――赤かった。
視界一面を、燃えるような夕暮れの朱色が染め上げている。
どこかの部屋のようだ。四角い机が並び、窓の外から生温い風がカーテンを揺らしている。
目の前に、誰かが立っていた。
黒髪の、静かな雰囲気をした少年。
『■■、■■■■■■、■■■■■?』
『ん、良いと思うよ。どうして■■なの?』
『■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■!』
掲げた一冊のノートが視界に入る。
『良いけど、安直すぎない?』
『■■■、■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■、■■■■■■■■■■■! ……■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』
『あ、そこはこじつけなんだ』
少年は、喉の奥で小さく「ふっ」と息をこぼして笑った。
『じゃ、『私たちの』じゃないのも同じ?』
『■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■』
『ふうん? ま、いいんじゃない? ちょっと恥ずかしいけどね。さすが、相変わらず博識だな』
少年がこちらを見て、ちょっとだけ納得いかないように、困ったように眉を下げながら、口端を上げた。
その様子に胸が苦しくなった。
◇
目が覚める。
寝汗が冷えて気持ち悪い。胸の奥に痛切な苦しさが残っていた。どれだけ眠っていただろうか。外はすっかり明るくなっている。
夢を見た。
日本の教室の光景だろうか。記憶にはない。なにも覚えてないのだからあるはずがない。また例のフラッシュバックと同じだろう。
あの少年は誰だ? 何か大事なものが抜け落ちているような喪失感を覚える。
身体を起こした。
こうして過ごすうちに少しずつ記憶が呼び起こされている。だけど、このまま過ごしていれば記憶を取り戻せる、なんて楽観的にはなれなかった。
あの翡翠の目をした青年に殺された記憶を見た以上、そう悠長にしているわけにはいかない。殺される確率が少しでもあるのであれば備えないといけなかった。
この身体の使い方をもっと身に付けないといけない。
フィリアは魔法があると言っていた。
もしかして、俺の身体能力を向上させたのは"魔力"のおかげなんじゃないか?
そうだったとしたら、俺にはすでに魔力を扱う感覚が身についているはずだ。魔法も、もう使えるんじゃないか。
『魔力』を身体の中心に知覚する。
そのまま腕に流した。腕から指先に。指先から外部に。
外に出た魔力は――そうだな、水にしよう。
水をイメージする。
……上手くいかない。イメージが雑なのかもしれない。魔力が水という事象へ変わる明確なプロセスが必要だ。ただ漠然と水を思い浮かべるだけでは形にならないのだろう。
指先から出た魔力を空気中に広げ、それを一点に集める。
常温の流動体。無色透明な液体の塊を強く意識する。
――魔力が変化した。
体長の半分ほどの水の球が生成された。魔法を行使することに成功したのだ。
……ちょっと待て、消し方が分からない。
このままだと小屋が濡れる。
魔力は操作できても、水は操作できるのか? 消すには魔力に戻して離散させるイメージでもすればいいのか? それとも体内に戻す?
分からない。
これ、手元から離れたりしないよな?
このままゆっくり外にでて、落とせるか?
それしかない。何も分からない状態で消そうとしても失敗するという確信があった。
よし、外に――
「メアくん、おはよう――きゃ!」
「わっ!?」
ばしゃ、と水の塊が床に落ちた。一面びしょ濡れだ。
朝食を手に抱えたフィリアが扉を開け、驚いた声を上げた。トレイの上の食器がガシャンと音を鳴らす。その音とフィリアの声に驚いた俺は、集中が切れて水球を手放してしまったのだ。
どうやら集中していたために手元に魔法を維持できていたらしい。
フィリアは朝食のトレイを手に持っていることすら忘れた様子で、目を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。
「すごい、すごい! 誰にも教えてもらってないんですよね!? 初級の水魔法って、普通は小さな水滴を出すだけでも何日もかかるのに……こんなにおっきな水を一晩で出しちゃうなんて!」
「……紙は無事だね。良かった」
家の中でやるべきじゃなかった。大いに反省だ。
床にできた水たまりを前に、フィリアが両手を腰に当てた。
「ふふん、雑巾がけなら私の得意分野です! これからもじゃんじゃん水浸しにしてくださいね!」
「……いや、もうしないからね?」




