第4話「少女」
水辺にたどり着いた。
かなり歩いた。ひたすら逃走したときの痕跡を辿っていたが、かなりの距離を走り抜けていたらしい。
歩く途中に身体の調子を確認していた。
脳裏によぎった光景。
燃える屋敷と血。命を燃やす火。
そこから連想して得た力のコントロール。
力の制御は完全に身についていた。
身体の中心から溢れる力を元として、火を身体中に燃え広がらせる。心臓の鼓動をイメージしたときとは異なり、常に全身が安定して強化されていた。
この力を使わずとも、素の状態で凄まじい能力だったが、身体強化を使っている時は明らかに規格外となっている。
水辺を縄張りにしていた魔物は倒した。
一刻も早く顔の確認がしたかった。戦闘中に見た光景のように、顔を見れば断片的にでも何か記憶が戻るかもしれない。
あの翡翠の目の青年に殺されないためにも、少しでも手掛かりが欲しかった。
記憶を失う前、俺は何をしていたのか。どうしてあの男に憎悪を向けられていたのか。それさえ分かれば対処ができるかもしれない。戦うにしろ逃げるにしろ、知らないことには始まらなかった。
これだけの戦闘をしたのに喉は一切乾いていない。
もしかすると、この身体は喉が渇かないのかもしれない。これだけ異様な出生であればそれもおかしくはないだろう、と妙に納得してしまった自分がいた。
湧水に近寄る。
川岸に身を乗り出し、顔を映す。
目に映ったのは――血に塗れた、美少女と見間違うほどの端正な美少年だった。
顔つきは幼い。知識にある一般的な日本人とも違う、どこか不思議な、違和感のある容姿だった。
頭痛はない。
何も思い出すことはなかった。期待は外れた。
起き上がる。
もうここにいる必要はない。戦う力は手に入れた。魔物に遭遇してもあの一角狼程度なら問題ないと思う。
まずはこのあたりを探索しつつ、記憶の手掛かりを探そう。
魔物を殺すのにも慣れないといけない。
毎回、こんなに考え込んでいたら先に進まない。
いつ危険が訪れるかは分からないのだ。
身体能力を上げる力についても、もっと深く制御できそうだった。
この先、あの青年のように誰かに狙われる可能性も考えないといけない。
どこかを拠点にして能力に磨きをかけたかった。抵抗せずに死んでやるものか。
突然、近くに足音が聴こえた。
また魔物か? 身体が強張った。
反射的に足音の方向に向き直し、すぐに動けるように構える。力はすでに身体中に行き渡っている。
茂みの奥から現れたのは少女だった。
柔らかな亜麻色の髪を揺らし、籠を抱えた少女がそこに立っていた。
歳は十三、四ほどだろう。背も低く幼い。
「……せん、せい……?」
少女は信じられないものを見たかのように目を丸くしていた。
その唇が震えながら言葉を紡ぐ。
直後、少女の視線は俺の顔から腕の血痕へと移り、怖がるように小さく息を呑んだ。
少女は意識を取り戻すように首を振ると、転びそうな足取りでこちらに駆け寄ってくる。
その様子を見て、俺は反射的に後ずさった。
異世界人だ。何をしてくるか分からない。
目に見えるものがすべて敵に見えた。
だからと言って、戦いを選ぶほどの勇気もない。逃げるしかない。
「ち、ちがっ……き、傷が! 手当しないと!!」
「え……?」
そう言われ、思わず毒気を抜かれた。
騙すというにはあまりにも少女が純真に見えた。本気で心配しているのが目に見えて分かった。
切羽詰まった少女の様子に、肩の力が抜ける。
少女は俺の警戒など意に介さず、躊躇いもなく俺の左腕を小さな両手で包み込んだ。
だが、まじまじと見つめた後、ぽかんと口を開ける。
「こんなに血が……あれ? 傷口はどこ……?」
「あ、いや……もう塞がったみたいで。痛くはないから、大丈夫だよ」
「えっ……でも、こんなに真っ赤で……」
信じられないものを見るような瞳で、少女は俺の腕と顔を交互に見つめた。
当然の反応だ。常識で考えれば、これだけの血痕が鮮明に残っていて、もう完治したなんて思わないだろう。
もしかしたら化け物だと思われて逃げられるかもしれない。
「あ、お顔……! お顔も拭かないと!」
身を引こうとした時、少女は慌てて自分のポケットを探り始めた。
取り出されたのは、真っ白で、ほんのり日向の匂いがする布のハンカチだった。
少女はそれを水辺に浸して固く絞ると、つま先立ちになり、恐れもせずに俺の額や頬に当ててきた。
「冷たっ……」
「動いちゃダメです。……ほら、目に入っちゃいますから」
息がかかるほどの至近距離で、少女が真剣な表情で血痕を拭い取っていく。
差し出されたハンカチが、みるみるうちに赤黒く染まっていくのが見えた。
さっきの一角狼の、生暖かい血の感触が脳裏にフラッシュバックする。
「うっ……」
胃の奥から込み上げる吐き気に、思わず口元を押さえて顔を背けた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……ごめん、大丈夫。ちょっと気分が悪いだけ。それより、ハンカチが……」
「そんなの、後で洗えば平気です! ……どうしてこんな森の奥に? 何があったんですか?」
心配そうに覗き込んでくる少女のまっすぐな瞳に、嘘をつく気にはなれなかった。
「……気づいたら、この森にいたんだ。自分が誰なのかも、どこから来たのかも思い出せなくて。そこで狼みたいな魔物に襲われて……必死で倒したんだけど」
少女は息を呑み、絶句した。
「記憶がないんですか? お名前も……?」
「うん。名前も、何もかも分からない」
俺が力なく笑うと、少女は悲しそうに眉を下げ、ぎゅっと胸の前で手を握り合わせた。
それから一拍、何かを決心したように顔を上げる。
「私、フィリアって言います。この森を抜けた先にある村に住んでるんです」
「フィリア……」
「はい! あの、もし行くあてがないなら……私の村に来ませんか? 服もボロボロですし、この森で夜を明かすのは絶対に危険です!」
「……でも、俺みたいな素性の分からないやつを連れて行ったら、村の人たちに迷惑がかかるんじゃ……」
「困ったときはお互い様です! それに――」
フィリアは言葉を切り、小さく息を吸い込んだ。
その瞳には、どこか遠くを見ているような、初対面の俺に向けるには違和感があるほどの熱が灯っていた。
「あなたはとっても優しい目をしているから。きっと大丈夫、です!」
◇
木々の間から差し込む光を浴びながら、並んで森を歩く。
先ほどまでの息詰まるような緊張感が嘘のように、森の中は静まり返っていた。
「……ねえ、フィリア」
「はい、なんですか?」
少し前を歩いていたフィリアが、くるりと軽やかに振り返る。
「どうして、素性も分からない俺を助けてくれたの? ……あんな血まみれの格好、普通なら怖がるはずなのに」
「それは――」
フィリアは一瞬だけ言葉を切り、柔らかく目を細めた。
「私には先生がいたんです」
「先生?」
「はい! 私に魔法や、森のこと……色んなことを教えてくれた大切なお姉ちゃんです」
自慢するように胸を張るフィリア。
けれど、その声はふっと微かにトーンを落とした。
「先生ともね、この森で出会ったんです。身体中傷だらけで、ボロボロで……今のあなたとまったく同じでした。それからずっと村で一緒に暮らして。とっても優しくて、何でも知っていて……まるで本当の家族みたいだったんです。今はもう、遠くへ行っちゃいましたけど」
少し寂しげに眉を下げ、先生を想うように遠くを見た。
その様子からフィリアの喪失感が透けて見えるようだった。
「今日、水場であなたを見つけたとき……運命だと思いました。あの日と同じだって。お姉ちゃんも、初めて会ったとき、今のあなたと同じ……とても辛そうな目をしていたから」
そう言ったフィリアの指先が、服の袖を握りしめていた。
まるで、もうここにはいない『先生』の温もりを思い出すように。
「……そっか」
そんなにひどい顔をしていたのか、と顔に手を当てると、触り慣れない顔の輪郭があった。
「触っても分かりませんよ! ほら、前見て歩かないと転びますよ?」
そんな俺の様子がおかしかったのか、フィリアはクスクスと笑っていた。
「こんな状態の俺を助けてくれるなんて、フィリアは優しいんだね」
「えへへ、そんなことないですよ」
照れたように笑うフィリアの表情は木漏れ日を浴びて、キラキラと輝いていた。
今はその厚意に甘えるしかないが、いつか必ず恩を返そうと心に決めた。
ふと遠くの茂みが音を立てた。
身体を強張らせ、反射的に腰を落とす。先ほどの一角狼ならこの距離でも一気に間合いを詰めてくるはずだ。
だが、魔物がこちらへ飛び出してくる気配は一切なかった。
フィリアは特に気にする様子もなく、手を後ろに組み、鼻歌でも歌いそうな足取りで前を進んでいる。
「……フィリア、怖くないの? ここに来るまで、魔物に襲われたりしなかった?」
「あ、言ってなかったですね」
フィリアは足を止め、首元からぶら下げていた木彫りのチャームを誇らしげに見せてくれた。小さな盾の形を模している。
「これ、魔物除けの魔法が込められたお守りなんです」
「なるほど……魔法、か」
魔法。
その可能性は頭から抜けていた。
確かに異世界ならあり得るのか。もしかして俺にも魔法が使えるのか?
「もしかして、魔法のことも覚えてないですか?」
「お恥ずかしながら……全然分からなくて」
覗き込んでくるフィリアに、俺はばつの悪さを感じて小さく頷いた。
「あ、ごめんなさい! 責めたわけじゃないんです!」
慌てて両手を振るフィリアに、思わず苦笑が漏れる。
「魔法っていうのはですね、生物の体の中や空間にある魔力を、色んな事象に変換すること……です! 先生の受け売りですけどね」
フィリアが立ち止まり、右手のひらを上に向けてすっと前に差し出した。
スッと空気が澄み渡るような感覚の直後、パッと、手のひらの上に拳ほどの小さな火の玉が灯った。
揺らめく橙色の光が、フィリアの横顔と周囲の木陰を柔らかく照らし出す。
「わ……」
「基本は身体の魔力を四大属性――火、水、風、土に変えるんです。このお守りみたいなのはちょっと特別ですけどね」
フィリアが指を握ると、火の玉は煙も残さず空気の中に消え去った。
「すごいな……俺にも使えるようになるかな?」
「はい! 絶対にできますよ! ――あ、村に着いたら、小屋で詳しく教えますね!」
フィリアは前のめりになって、爛漫な笑顔で瞳を輝かせた。
そのまま木立を抜けると、ふいに頭上が大きく開けた。
一面に広がる青々とした草原。吹き抜ける風が心地よく肌を撫でた。
森の重苦しい空気から解放され、張り詰めていた肩の力がようやく完全に抜けた。
「ふふ、少し落ち着きましたか? ほら、私たちの村はあそこですよ!」
フィリアが指差した先。
穏やかな木漏れ日の下、細い煙がのどかに立ち上る小さな集落が見えていた。




