第3話「戦闘」
この身体の治癒能力はまともではなかった。
数十秒、考えている間に足はほぼ治っていた。
また魔物が襲ってきても逃げ切ることができるだろう。
だが、水源を確保するために必要なのはあの一角狼を排除する力だった。
まずは自分の身体に何が起きているのかを正確に把握しなければならない。
まずは逃走時に使った脚力の確認だ。
軽く飛び跳ねる。
高さは数十センチ程度。
常識的な範疇だ。
大きく飛ぶ。
地面を強く蹴り上げる。
高い――が、まだ人間の限界値である一メートル弱だった。
おかしい。
さっき逃げたときは、こんなものの比じゃないくらい飛んでいた。
一メートル弱でも、人類最高峰だとは思う。
だが、先ほどは滑空するような跳躍だったはずだ。
腕力を試すことにした。
大木の前に立ち、軽く小突く。
痛い。
木はびくともしない。
本気で殴ってみる――と振りかぶったところで、自制心が働いた。
これで怪我したらどうするんだ。
手が使えなくなったら今度こそ終わりだ。
また回復するかも分からない。
どうやら、俺の力には何かカラクリがあるらしい。
これを解明するまであの水源は確保できない。
思い出せ。
あの時、何を考えていた?
ただひたすらに速く走ることだけを考えていた。
それ以外は考えていない。
雑念は無かった。
思考の問題か?
余計なことを考えすぎているのかもしれない。
高く飛ぶ。
それだけを考える。
足に力を込めて跳ねた。
しかし、結果は変わらなかった。
また一メートル程度。
思考の問題ではなかったらしい。
あの時のことは、必死だったのであまり覚えていない。
ただ、あったのは血液が体中を駆け巡るような感覚。
全身が活性化するような、そんな感覚だった。
ただの直感だが、この感覚が、桁外れの力を引き出していたのだと思う。
どうすればこの感覚を呼び起こせる?
地面に座り込む。
血がめぐる感覚。
何かが体内を巡る感覚。
掴めない。
そこで、ふと気づいた。
足をひねった直後、その箇所が妙に暖かくなった。
何かの力が通って活性化しているような、そんな感覚だった。
この暖かさを全身に移すことができれば、あるいは。
足首に流れていた暖かさを思い出す。
それを全身に移動するよう、順に力を込める。
失敗だ。
特に身体に変化はなかった。
ただ無駄に力んだだけだった。
むしろ、逆なのかもしれない。
力を抜く。
暖かさだけに集中する。
イメージする。
暖かさがゆっくりと足を伝って、ふくらはぎにたどり着く。
ふくらはぎからポンプのように勢いよく心臓へ。
心臓の鼓動に合わせて、全身にめぐる。
ビンゴだった。
全身が鼓動の周期で暖かくなった。
今なら。
周期に合わせて跳躍。
飛んだ。
三メートルは飛んだんじゃないか。
高所の木の枝が顔の隣にある。
これで正解だったんだ。
この暖かさの感覚が大事らしい。
喜んだのは束の間。
落下が始まった。
大丈夫。
着地も問題ないはず。
そう思っていた。
もしかしてタイミングが合わないんじゃないか。
身体が強くなっているのは鼓動の周期に合わせてだった。
着地に、鼓動のタイミングが合わない。
身体が強化されていない状態で落ちる。
「ぐがッ!! ……ああ……」
地面に激突した。
受け身も取れていない。
痛い。
骨が折れたか?
分からない。
激痛だけが全身を貫いていた。
足と腰が暖かくなる。
恐らく、今この瞬間に回復しているのだ。
これは周期に関係ない、免疫のようなものらしい。
痛みの中で、思考が回る。
そもそも、考えが間違っていたのか?
この力を血液と捉えるのが良くないのかもしれない。
この力は血液じゃない。
すでに身体に満ちている何か巡らせるのだ。
血液じゃないなら心臓に依存しない。
俺が「巡れ」と意識すれば巡るはずだ。
自分の中で、かちりとピースがはまった気がした。
じゃあ、この力は身体のどこで湧いているんだ?
どこを起点に力を巡らせばいい?
いや、それこそが間違いなのかもしれない。
その起点すら、自分で決めるのだ。
腰の違和感が無くなっていた。
痛みがないか確認しながら、ゆっくりと身体を起こす。
飛ぶのは危ない。
今度確かめるときは走ろう。
胸の中心から力が湧き出るイメージをする。
血液ではなく、身体に満ちる力を胸の奥で知覚する。
心臓辺りが暖かく感じた。
成功だった。
その力は身体中に――は渡らない。全身に通すイメージが良くないのか?
目を閉じる。
記憶がない。
イメージに使える記憶が。
力が身体中に広がる様子は全くなかった。
大の字になった。
難しい。
知覚はできるようになった。
だけどそれを使えない。
このままだと、再び魔物に遭遇したときに戦えない。
その時。
近くの茂みが揺れた。
低く濁った唸り声が響く。
追ってきていたのだ。
獲物として完全に捕捉されていた。
思わず飛び起きた。
茂みから姿を現したのは二頭の一角狼だった。
目が合った。
狼は咆哮を上げる。
まずい。
逃げないと。
足に力を発現させる。
身体に巡らせずとも、さっき跳躍した要領で右足を一度でも振りぬけば逃げられる。
狼は今度は見定めなんてしない。
こちらに駆けてくる。
このままだと殺される。
力の操作に失敗したら死ぬ。
焦りで足に力が籠められない。
焦るな、落ち着け、確実に――
目の前に牙が見えた。
咄嗟に左腕を前に突き出した。
肉を裂く激痛。
腕が噛み砕かれ、押し倒されそうになる。
すんでのところで、右足に力が発現し踏み止まった。
「キャウッ!」
思考は介さなかった。
耐えた右足で狼を蹴り飛ばす。
吹き飛ぶ狼。
木にたたきつけられていた。
ぶつかった木から、数えきれないほどの葉が落ちる。
殺した?
背筋が凍った。
たたきつけられた狼は頭を振りながら起き上がる。
殺してなかった。――今、俺は安心したのか?
生き物の命をこの手で奪いたくない。
そんな生ぬるい思考に戦慄する。
こいつは俺を殺そうとしたんだ。
殺さないと殺される。
そう考えても気持ちの悪い感覚は消えない。
今は考えてちゃ駄目だ。
死にたくない。
もう一匹の狼は様子を見ていた。
横目で地面を見ると木の枝が転がっていた。
咄嗟に拾った後に、こんな木の枝で戦えるはずないと感じた。
だが、手放したくなかった。
足には、狼を蹴った生々しい感覚がまだ残っていた。
次に襲い掛かってきた狼は、必ず殺す。
嚙み締めた歯の奥から息が漏れる。
心臓がどくどくとうるさい。
頭が痛い。
腕は痛くないが、その様子は見れない。
見たら戦えなくなる。
血が滲んではいるが、まだ十分に動くということだけを把握していればいい。
高揚していた。
最初の邂逅とは違う。
恐怖なんて微塵もない。
後は殺すだけ。
身体は熱いが、ただただ冷静だった。
さっきは咄嗟に腕を出せたからよかった。
一匹様子見をしていたからよかった。
次はそうなるとは限らない。
同時に来られたら防ぎようがない。
蹴った狼は動きが鈍っているとはいえ、二匹で来られたらひとたまりもない。
やはり、力を身体全体に行きわたらせるしかない。
だけど、あと一歩足りないのだ。
発現させた力を、巡らせることができない。
何か、あと一歩。
心臓のイメージで力を周期的に操作することはできた。
イメージすること自体は間違っていない。
悪いのはそのイメージの内容だ。
記憶に頼らなくてもいい。
心臓は記憶じゃなく知識からのイメージだった。
同じように、何か広がるものをイメージすればいい。
ふと思いついたのは、火だった。
頭が痛い。
こめかみを太い針で抉られるような激痛に、思わず目を閉じる。
◇
脳裏にこびりついた光景。
燃える屋敷。
熱い。
目の前が赤く染まる。
止まらない鮮血。
――嫌だ、消えないで。
伸ばした手は届かない。
燃えていた。
炎が、ただ命を焼き尽くしていた。
火が燃え広がる。
すべてを焼きつくす。
きっと、その火は消えない。
命を断ち切るまで。
◇
激しい頭痛が残る中、目を開く。
世界のすべてが信じられないほどゆっくり見えた。
二匹の狼が同時に空中へと跳びあがっていた。
最初に来るのは左の狼だ。
傷ついた腕を嚙みちぎろうと近づいてくる。
木の枝を構え、目の前に狼が来た瞬間に突き刺す。
左手で枝の端を支え押し込んだ。
肩から腕を噛みちぎろうとするその憎らしい口の奥に、枝を突き立てた。
まるで骨なんて最初からなかったかのように、するりと枝がめり込む。
すぐに足元の狼に視線を移す。
枝を手放し、右手を手刀の形へと固める。
思考の余地はなかった。
気づいたときには腕を振り抜いていた。
狼の首が宙を舞う。
生暖かい液体が顔中に飛び散った。
身体中の力が抜ける。
頭痛は消えていた。
腕を見る。
腕の傷はすでに治っていた。
生ぬるい汗が気持ち悪い。
身体は冷え切っていた。
考え始める前に、凄惨な光景が目に入る。
咄嗟だった。
こんな殺し方はするつもりじゃなかった。
気持ち悪い。
腹部がじんじんと熱い。
魔物に感情はあるのか?
二匹で行動していた。
生き物を殺したんだ。
死に際、痛みを感じたか?
どうしようもなく思考がまとまらない。
胃の底から熱いものが込み上げてきた。
その場に膝をつき、口を開ける。
吐き出されたのは胃液すら混ざらない、ただの透明な唾液だけだった。
それでも吐き気は一向に収まらない。
殺さないと殺されていた。
先に命を奪いに来たのはあちらだ。
仕方なかった。
簡単には割り切れない。
それでも慣れるしかない。
俺は死にたくない。
夢で見た青年だってそうだ。
俺を殺そうとするなら殺さないといけない。
そうするためにも、記憶を取り戻して力をつけないといけないんだ。
顔を拭い立ち上がる。
今はとにかく、この場をすぐにでも離れたかった。
水源の方向へ歩き始める。足取りは重い。
背後に転がる狼の首の断面は、黒く燻り、静かに燃えていた。




