第2話「魔物」
宙に浮いた扉から、意を決して地面へと飛び降りた。
数メートルの高さにも関わらず、身体への衝撃はごくわずかだった。
羽毛のように軽やかな身体で、足は吸いつくように地面を捉えていた。膝への負担も感じない。この身体への疑念がますます深まる。主観では人間の身体なのだが、あの生まれ方からしてどこか人ならざる部分があったとしてもおかしくはない。
身体をぺたぺたと触ってみる。特に異常はなかった。
一度、自分の顔を確かめたいと思った。
水面に映る顔を見れば自分が何者かを知れるかもしれない。何か思い出すことがあるかもしれない。そんな一縷の望みがあった。
水源を探そう。
飲み水の確保も必要だ。今は不思議なほど喉の渇きがないが、いずれにしても水分は必要だろう。上流であればきれいな水が流れているはずだ。上を目指そう。
先ほど、獣の咆哮が鳴り響いていた。
何かしらの生物がいるのは間違いない。ここは異世界だ。魔物が潜んでいる可能性だってある。
――あるいは、あの夢で俺を刺し殺した男のような人間が、近くを彷徨っているかもしれない。
見つかったらただでは済まない。
無暗に音を立てないよう、慎重に行動する必要があった。
扉は消えていた。
後戻りする気はさらさらなかったが、物理的にも、もう戻れそうにない。大丈夫、覚悟はすでに決まっていた。あとは進むだけだ。
やみくもに探索するのもよくないだろう。
一旦はこの周辺を探索することにする。後ろにあった巨木を目印にした。方向を確認しながらゆっくりと歩みを進める。
そうして五十メートルほど進んだあたり。
微かにちょろちょろと水の流れる音が聴こえた。運がいい。少し先に水源がありそうだった。
さらに歩くと小さな湧き水が見えた。
歩きづらい地形の中で慎重に歩みを進めたせいか、かなり長い道のりに感じた。しかし、身体は全く疲れた様子はなかった。
水辺を前にして、ようやく自分の顔を確かめられると気持ちが昂ってしまった。
早足で駆け寄ろうとした瞬間、嫌な音がその場に響いた。獣の唸り声だ。水源の方向だった。
後姿が見えた。狼だった。
あまり大きくはない。大型犬くらいのサイズ感。
ここで失敗に気づく。
早足の気配で狼を刺激していたらしい。
狼は辺りを気にしていた。周囲を見渡している。
そのとき、ちらりと見えてしまった。狼の額から角が生えていた。魔物だった。やはりこの世界は、魔物が棲む世界だったのだ。
パキッと音が鳴る。
何かが音を鳴らした。一瞬、驚きで震える。足元を見る。後ずさった自分の足で枝を踏み抜いていた。
まずい。
そう思ったときにはもう遅かった。一角の狼はこちらを捉えていた。目が合う。
こういう時、どうすればいいんだった?
目をそらさない? 背中を見せない? ゆっくりと下がる? 分からない。
これは熊に対してだったか? 頭が回らない。
狼は今、何を考えている? 俺が脅威かどうか、品定めをしている?
無限のように思える静寂。
頭は真っ白だ。身体も硬直して上手く動かない。それでもゆっくりと後ろに下がり続ける。
その時。
後ろの茂みから音がした。振り返る。振り返ってしまった。二匹目がいた。
咄嗟に、俺は走り出していた。
それが合図だった。後ろから駆け出す音が聴こえる。狙われている。
ひたすら走る。
何も考えず、ただがむしゃらに走った。次第に足が宙に浮く時間が長くなった。跳躍していたのだ。地面すれすれで、大きく、滑空するように加速していた。
俺は興奮していた。
風が背中を押しているようだった。景色の方が後ろに跳ねているようだった。
しかし、そんな時間はあっという間だった。
意識し始めると同時にコントロールが効かなくなったのだ。
前を見る。
大木があった。次に足がつくタイミング。そこで止まる。止まれなければ木にぶつかる。
空中で足を前に向け、態勢を変える。
止まれ。足を地面に突き刺す。土が激しく巻き上がった。歯を食いしばりながら衝撃に耐えると、次第に減速する。大木の少し前でぴたりと静止した。
後ろを振り返る。
魔物は追ってきていなかった。肩を撫でおろす。
足首がキンと痛む。
くじいてしまったらしい。足に目をやると、少しだけ赤く腫れていた。
安心したのも束の間、嫌なことに気づいた。
必死で逃げ回ったせいで完全に道を見失っていた。目印の巨木がどこにあったのか、まるで見当がつかなかった。
足元には着地時の痕跡が残っていた。
おおよそ人間が付けたものだと思えない。大地が抉れていた。
この痕跡のおかげで水源の向きだけは分かった。
あの水源は魔物のテリトリーだろう。ほかの水源を探すか?
いや、どこにあるかも分からない水源を今から探しに行くのはリスクがある。
魔物を退けるしかない、と思った。
もしかしたら、魔物を退ける力はすでに俺の中にあるかもしれなかった。
まるで風のように走ることができた。
無事に着地もできた。人を越えた力がこの身体にはある。すでに一角狼を上回っている可能性だってある。
あの狼は俺を追っては来れなかったのだ。
一角狼を退け、水源を確保する。
そのためにはまず自分の力を確認する必要がある。
そう思い、くじいた足の調子を確認しようとした。
足の痛みはすでに消え去っていた。
腫れは確認できない。軽く飛び跳ねてみても一切痛まなかった。何の違和感も、痛覚もない。
わずか数十秒の間に、傷が完治していたのだ。




